蒼木青子➃
市立病院の裏に公園があった。その反対側の入り口の近くで数年前に養護施設が出来た。その公園は自然と施設の子供達の遊び場になっていた。園長先生や職員達の引率の元で、子供達は滑り台で遊んだり、砂場でおままごとしたり、元気の持て余した子は鉄棒に挑戦したりしていた。一人だけ物静かな女の子は園長先生の手を握って側に立っていた。子供の遊びにさほど興味ないか、まだ仲間ができいないか、どっちも考えられる。
その光景を、公園のベンチで遠くから見守っていた。隣にいる鬼束雪見先生の顔をちらっと覗き見たが、彼は穏やかな笑顔を浮かべて、子供達を暖かい目で見ていた。
ここまで来ても何も説明されていなかったから青子は戸惑っていた。しかし鬼束先生の笑顔が素敵で思わず見入ってしまったので理由を聞くのを後に回した。
園長先生は女の子と手を繋いで散歩し始めたらしい。ゆっくりと近付いてきて、そう遠くない距離でその女の子はこっちに気が付いたように、鬼束先生に向かって一直線に走ってきた。
「あら?井野先生。いついらしゃったんですか?挨拶してくれればよかったのに」
園長先生は四十代の細身の女性で、職業柄か、優しい笑顔を浮かべながら挨拶してきた。青子と鬼束先生の前まできて、鬼束先生に抱付く女の子を後ろから抱き寄せて彼から引き剥がした。そして優しく声をかけた。
「静夏ちゃん、ちゃんと挨拶しました?」
「こんにちは」
静夏ちゃんは素直に挨拶した。
「いい子だ。飴ちゃんあげるから、こっちおいで」
静夏ちゃんは斜め上を見て園長先生の同意を求めた。
「ほら」
その子は園長先生に離された途端、磁石に引きつけられるようにまたぱたぱた走って鬼束先生に抱き付いた。
鬼束先生は父親のように生暖かい目をして、左手はゆっくりと静夏ちゃんの頭を撫でて、片方の手はポケットを探り、レモン飴を取り出して静夏ちゃんにあげた。
「ありがとう」
静夏ちゃんは礼儀正しくお礼をした後、レモン飴を受け取った。
「ところで、こちらの方は?」
「蒼木青子。今僕の編集を担当しています」
青子は園長先生に軽くお辞儀して、改めて挨拶した。
「あら、そうですか。鬼束先生と呼んだ方がいいかしら?」
「井野のままでいいですよ。出版社にまでは正体隠していませんから」
「そうですね。それにしても若くて美人な編集さんと仕事が出来て、先生も男冥利に尽きますね」
「そんなのないです。私は地味だとよく言われてますし、先生と仕事できて光栄です」
お世辞だと分かっていても青子は照れてしまった。自分は学生の頃からとにかく目立たない人間なので、“美人”という褒め言葉にとても馴染みがなかった。
それから鬼束先生と園長先生は二人で施設や子供達について色々話合っていた。蚊帳の外の青子は彼らの話を黙って聞くしかなかった。鬼束先生は子供達をよく知っている風に、話に出た子供達のことを笑ったり心配したりしていた。
「今日はお別れを言いにきました。もう来られなくなるかもしれません」
鬼束先生の突然の発言に園長先生はびっくりするような表情を見せた。
「なんでまた急に」
「ここに腫瘍が出来ているらしい。もう何年か前の話ですけど、未だに生きてるのが奇跡って言われました。近頃は様子が悪くなって、そろろろかなって」
こめかみを指さして至って平静な口調で彼は言った。
「おじさん、 死んじゃうの?」
静夏は頭を上げて無垢な目でまっすぐ鬼束先生の顔を見詰めていた。
「ちょっと遠いお出かけするだけだよ。いつ帰るかは分からないけど」
優しく宥めたつもりだが、言葉のニュアンスを理解したか、静夏ちゃんは再び彼に抱付いた。そして顔を彼の腰回しに埋めた。
「子供達は悲しむわ」
静夏を見て、園長先生は重い表情を見せた。
「しばらく黙っておきましょう。子供達は成長が早いですから、そのうち僕のことをすっかり忘れてくれるでしょう」
「寂しいことを言わないでください。あなたはこの子達の恩人ですから、そんな薄情なことはしません」
「僕は別にそのつもりで援助したわけじゃないです。忘れられた方が後腐れがなくて結構です。何をともあれ、今後のことはよろしくお願いします」
そう言って、鬼束先生は園長先生に深くお辞儀をした。
「分かりました。精一杯努力しますわ」
それを聞いて、鬼束先生は満足したように微笑んだ。
「あっ」
砂場にいる子供達は何か争っていたようで、喧嘩し始めた。それを偶然見かけた青子は声を発した。つられて二人の視線もそちらに向けた。園長先生は軽く溜息をして起き上がった。
「すみません。ちょっと様子を見に行きます。先に失礼しますわ」
「僕らもそろそろこの辺でお暇します。静夏ちゃん、園長先生と一緒に行って」
名残惜しそうに鬼束先生を一目見て、静夏ちゃんは園長先生の元に行った。去る際にこっちを向いて小さく手を振ってバイバイした。素直な子で本当に可愛かった、と青子は思った。
離れてゆく二人の影を見て、少し寂れた空気になった。
「さっきの話は本当ですか」
「ええ」
「それで最後の作品?」
「そうだよ。僕に残された時間はそう多くないのだ。最後に、自分のための物語を書こうかなって思った」
「先生は今まで別の誰かに物語を書いてきましたか?」
「そうだね。小説家になるのは単なる偶然。最初はお金目当てだけど、僕の作品を好きになって、感銘を受けた読者もあったこと知って、改めて考えた。こんな人間でも、物語を通して誰かを救うことができたんだねって思った。施設への援助もその考えからだ。僕は誰かを救うことで罪滅ししてほしい」
「罪、ですか?それはあれですか、宗教的な意味で」
鬼束先生は軽く頭を振った。
「正真正銘な罪だよ。具体的なことは言えないけどね。とにかく僕がやったことは全て自分のためだよ。感謝されるような立派な人間じゃない。むしろ彼らに感謝すべきだ。僕が生きている間だけ、我侭に付き合ってくれて、罪滅しのチャンスを与えてくれた」
「そんな、先生が何の罪を犯したのは分からないけど、あの子達を救ったのは紛れもない事実です。私も先生の書いた物語に救われました。私から見て、先生はもう十分立派な人間です」
「ありがとう。君の言葉で少し救われた気がしたよ」
肩の荷が下りたように、彼は放心したように笑った。遠い空を見上げて、小さい声で独り言した。
「これでやり残すことはあと一つしかないな」
死を直前にする不安や迷いを感じられない。旅に出る前に興奮して、期待に満ちているように見える。
どうしてこんな表情でいられるのか、青子はとても理解できなかった。




