蒼木青子①
逸る気持ちを抑えながら、蒼木青子は人気のない道を歩いていた。駅を出て、商店街を抜けたところ、町外れの住宅区が目の前に現れた。連なる山々を背景に、一軒家や別荘などが散在していた。
作家の鬼束雪見の住所はその中にあった。初めて担当の相手があの鬼束先生だということは幸運なことであり、プレッシャーがあるのも事実だ。人気作家の原因もあったが、なにより青子は彼の大ファンだった。これから会う人はどんな人だろうと想像して、心を躍らせて気付かないうちに速歩きになった。
入社して半年、まだ編集の仕事をまともにもらえず、やることと言えば雑務ばかり、見習として他の編集の助手の仕事もやってきた。先輩にきっちり伊呂波を叩き込んでもらった。後は実践あるのみ。そろそろ自分も一人前の編集として仕事したいと思った折り、その話は降ってきた。
ある日、編集長に呼び出されて、自分にある作家の担当をする気はないかと聞かれた。青子にとって願ってもない話だったから、考えもせずに引き受けた。その作家の名を聞いた後、彼女は一段とテンションが上がった。なんでも鬼束先生の担当の青森が産休を取ったため、補欠が必要との話だった。自分の大好きな作家の担当をするなんて、彼女にとっては思いも寄らないサプライズだった。
興奮する青子を見て、編集長の表情は些か不安であった。
「君にとって、この仕事の意味は分かるか?」
締まりのない顔を締めて、青子は真剣な口調で答えた。
「はい。編集として、偏りのないように精一杯頑張ります!」
駆け出しの新人に売れっ子作家を担当させる。しかもその作家は自分の大好きな作家でもある。編集としての真価を問われていると青子は直感した。それはまさしく自分への試煉であった。
鬼束雪見という作家はとても神秘的だった。公に顔を出したことがなく、文学賞への応募もしなかった。彼の正体はこの出版社でごく一部しか知らない。宣伝目的としてサイン会を開きたいという出版社側の要求も断られた。会社はそれを逆手に取って、「神秘的な若手作家」として売り出した。
作家は癖が強い人ばかりと聞くが、鬼束雪見の個人情報についてはあまり少ないから、不安はあった。彼がどんな人なのか、元担当の青森さんに教えてもらうことにした。
「多分そんなに心配しなくていいですよ。あの方は気さくで締切をきっちり守っているから、楽な仕事をさせてもらいましたわ」
人の良さそうな笑顔を見せた先輩の言葉に、少し安心した。
しかし、不安の矛先は今度自分の方に向けた。大好きな作家を前にして、自分は果たして平静でいられるだろうか?贔屓の目をせず、その作品を客観的に見ることはできるだろうか。
期待や不安、相反した気持ちを抱えながら、彼と会う日がやってきた。
挨拶は先日電話を通して済ませた。実際に会って話がしたいという旨を伝えて、オッケーをもらった。鬼束先生の自宅で会う約束だったから、ますます緊張した。憧れの作家の家を見学できるなんて、ファン冥利に尽きることであった。
彼はどんな人だろう?青森先輩から色々聞いたが、実際はどうなるかは本人と会うまで決め付けないことにした。彼の住所に近付くほど、期待する気持ちは緊張に変わった。
メモしておいた住所に辿り着き、青子は門の前に立ち止まり、深呼吸した。
目の前あるのは庭付きの一軒家だった。生垣は椿で、庭に紫陽花を植えてあった。玄関までのアプローチは石畳で、その両側に芝生が生えていた。見るからに普通の住宅であった。
ドキドキ騒いた心をなんとか落ち着かせ、チャイムを押した。




