★誰も知らない物語⑤
美雪
人は誰しも狂気の種を心の奥底に隠し持っている。それに気付くか気付くまいかに関わらず、条件さえ揃えばその種はそっと芽生え、あっという間に成長して行く。
その狂気の種に気付くのは、あの変な夢が出てきてからだった。
お母さんが事故に遭った直後、変な夢に取り憑かれた。同じ夢を見ていた気がする。夢の内容は妙にリアルさがあって、長く続いた。今日の夢は昨日の夢の続き、長い映画を細かく切り分けて、切り取った映像を夢の中で順番に再生していくような感じだった。起きた後もはっきりと夢の内容を覚えていて、最初の頃は恐怖でいっぱいだった。
夢の中の私は私じゃなくて、別人の記憶が無理やり頭の中にぶち込まれたように、夜な夜な私じゃない“私”の視点でその人が経験したことを頭から辿っていった。
最初は“私”が誰であるかに気付かず、ただその人の喜びや希望、悲しみと絶望を手に取るように共感してしまった。その頃はお母さん達の事故で精神的なダメージが大きく、加えて妙にリアルな夢に取り憑かれて、私は酷く情緒不安定になった。夢の中の“私”と現実の私との境界線が曖昧になり、どっちが本当の私であるかは分からなくなった。何をやっても上の空という感じで、外界からの刺激についての反応は酷く鈍かった。それでも一樹は私の側にいてくれた。私は一樹のおかげで自分をなくさずにいられたと思う。でも一樹が私に寄り添うほど、彼の家族達は不機嫌になる。彼に迷惑をかけないように、彼に甘いたい気持ちを抑えていた。自分を見失いそうな時だけ、彼に温もりを求めた。
あの夢の話に戻りましょう。
最初の頃、夢の中の“私”はいつも父親に虐待されていた。夢の中で感じた痛みは起きてすぐ忘れたけど、“私”の悲しみと絶望だけはっきりと覚えていた。
長い間その人の人生を夢に通して見てきたが、“私”は誰であるのかは分からなかった。その人が双子を産んで、「光」と「晶」を名付けるまでは。
夢の中の“私”はお母さんだって、流石に驚いた。
でも、それは紛れもなくお母さんの真実であると信じた。お母さんは夢という形で私に何かを教えようとした。その夢は必ず何か意味があると思った。それから、私はお母さんの目を通して井野家に埋もれた真実を知った。
光と晶が生まれた後、“私”は二人の世話で一杯一杯になった。特に光は生まれてから体が弱くて、目を離さなかった。治療に何かとお金がかかるし、仕事はろくにできず、貯金は減る一方だった。もうすぐ尽きが見えてくるので、焦った。大家さんは親切に子供の世話を手伝ってくれそうだから、その好意に甘えた。
色々考えて、自分の描いた絵を売ることにした。今までの創作はあくまで“私”の自己満足に過ぎないから、発表しようと思わなかった。絵画は“私”にとって他人の称賛を勝ち取るための道具ではないし、金になるような考えは端からなかった。それらを売り飛ばすのは心苦しいが、背に腹は代えられなかった。藁にも縋る気持ちで、大事にしていた絵を売ることに決意した。どれぐらいの値段で、いつ売れるかのが気掛かりではあるが、とりあえずそうするための一歩を踏み出した。
子供達を大家に預けて、自分の絵を二枚選んで画廊へ持っていった。到着したのが早かったか、その画廊の中に人気がなく、二人の男が会話している以外他の人は見かけなかった。“私”を見て二人の会話は中断した。店主の男は事前に連絡取ってあるから、挨拶してきた。隣の男は舐め回すような目で“私”を見ていた。
事情を説明した後、店主の男はやや困った顔色で、作り笑いをして、“私”の絵を見てから判断すると言った。“私”は緊張した気持ちで持ってきた絵を彼に渡した。
店主は“私”の絵をまじまじと見詰めていた。隣にいる男も覗き込んで、彼に感想を聞いた。
「悪くないね。技術はしっかりしているし、個性も濃く出ている。多分いい値段で売れる」
それを聞いて、“私”は興奮した。
「これ、いつ売れますか?今お金が必要で、なるべき早く売れたら助かります!」
思わず言った言葉だが、やや遅れて自分の失態に気付いた。顔が赤くなって、「すみません」と小声で謝った。
店主はやや戸惑う表情で、歯切れの悪い返答をくれた。
「それはどうかな……お客さんの好みもあるし、すぐ売れるという保証はないんだ。さっきの評価はあくまで長い目で見ればって話だけど」
「そうですか……」
高く持ち上げられて落とされる気分だった。貯金がなくなる前に売れないと意味がない。そうなったらどうしよう。
「こうしましょう。こちらが常連さんに話してみるよ。君の絵はこちらに預けて、買ってくれそうなお客さんがあったらすぐ連絡するよ」
「ありがとうございます!こちらは私の連絡先です」
電話番号と住所の記した名刺を渡して、その後は契約書にサインして家に帰った。一刻も早くそこから離れたかった。うちに置いてきた子供が心配だったし、なにより店主の隣の男が下心丸出しの目でこちらを見る視線が気持ち悪かった。
画廊を出るところ、不意に振り返ってみたが、二人は“私”の絵を見ながら何か話しているようだった。そんな些細なことを気に留めず、家に帰った。
その日の夜、画廊の店主から電話があった。早速買ってくれそうなお客さんが現れたようで、会って話がしたいとのことだった。そんなに早く売れるのは予想外なので、浮かれていた。深く考えずに承諾した。
次の日、買主と画廊で会う予定だった。画廊の奥にある応接間に案内され、そこで待っていた。驚くことに、買主というのが昨日店主の隣にいた男だった。
男は簡単な自己紹介をした。彼は井野政道と名乗り、市議会議員であるようだ。この画廊の主の兄に当たり、出資者でもあるようだ。
絵の買取りに来たつもりだが、全く別方向の話が振ってきた。
「君のことは調べさせてもらった。かなり詰んでいるだろ?」
「どういう意味ですか?絵の商談じゃなかったんですか?」
「もちろん商談のつもりさ。絵に限らず、君ごと買取りたいんだけどね。お子さんは治療費で困っているんだろ?俺の物になれば、君と子供達の生活は俺が保障しよう」
「つまり愛人になれってこと?断ったらどうなる?」
どうしようもない話に“私”は怒りを感じた。敬語もやめた。
「君に断る権利がないよ。君の過去を調べたと言ったよね。君は父親を殺して、藤原に飼ってもらって罪から逃れた。しかしつい最近になって追い出された。収入のないまま二人の子供を抱えて、さぞ心細いでしょう。そのうち売春でもして子供を養うか?それとも我が身可愛さに子供を施設送りにするか?」
気味の悪い嘲笑いを浮かべてその男は言った。
「それって脅しのつもり?」
「それは見解の違いだね。これはあくまで商談の話。俺の言うことを聞けば君も君の子供も今よりずっといい生活を送れる。今のままじゃ君は自分の子すら守れない。君だって子供に自分の産みの親は犯罪者であることを知られたくだろ?」
“私”はその男をきつく睨んだ。
「あんたは最低な人間だね」
「それは心外だな。君のことを思ってこその提案なんだけどね。まだ時間はあるから、ゆっくりと考えるといいよ。数日後は迎えを遣わすから、くれぐれも逃げないでくれ」
反吐が出るような話だったが、子供のことを考えると折れそうになった。画廊から出ても頭の中はそのことでいっぱいになった。自分の不甲斐なさに怒りとやりきれなさを感じた。自分の子を自分が守れず、結局男に頼るしかなかったことが、どうしようもない気持ちで胸が苦しくなった。あの男の言う通り、彼の脅迫がなくとも、自分は間もなく窮地に陥って行くだろう。そと時は体を売ってでも子供を育てるつもりだった。
悔しいことに、自分はその男に逆らう術がなかった。自分の罪から逃れる日から、“私”は自由などなく、ただ運命に身を任せるしかなかった。
数日後、あの男が手配した新居へ引っ越した。繁華街の近くにある高級マンションで、アトリエも用意してくれた。家政婦を雇い、子供の世話を手伝ってもらった。“私”はそこで絵を描かされた。なんでも賄賂のために使いそうだった。
後からあの人の弟の和彦から聞いた話だったが、美術品が賄賂の道具として使うのは割と常套手段であるらしい。画廊はその仲介役であり、金の取引は画廊を通してやっているようだ。賄賂したい相手に絵画を個人的なプレゼントとして送り、その絵を自分の息がかかった画廊に買ってもらう仕組みになっている。もちろん、保有している絵を売る形で、賄賂を受け取ることだって可能である。絵の質についてそれほど厳しいわけではなく、普通の人の目を誤魔化す程度でいいらしい。
そのために絵を描くなんて、“私”にとって苦しみでしかなかった。誰かに言われて描かせる絵なんて、自由などがなく、ただ描くために描くというのは、不毛の極まれりでしかなかった。だからうまく描けていないことが多かった。それでも描かないといかなかった。それから絵画というのが“私”を縛るような物と化した。魂のない作品を沢山描いて、描けば描くほど絵画への抵抗感が強まった。
子供の世話と絵描き、たまに泊まりにくるあの男の相手をする。それがそこでの生活の全てだった。そして一年半が過ぎ、また身篭った。
こんな偶然もあっただろうか?二度目の妊娠もまた双子であった。しかも二卵性双生児だった。
その子達が生まれる日、血筋など気にも留めず、“私”は慈愛な心で一杯になった。その子達を抱えて、“私”はそっと言葉をかけた。
「美雪、一樹。私の可愛い子。愛しているわ」
ね、なんでそんな驚くような顔をするの?私達は血の繋がる兄妹であることは考えたことなかった?ね、どうして私を避けるの?先程「愛している」という言葉は嘘なの?それとも実の兄妹だというだけで、愛し合うことができなくなるの?愛というのは、そんな陳腐な観念一つで簡単に消えてしまうの?
私はね、最初は戸惑っていた。自分の兄に恋いしているなんて、きっと許されないことだろう。だからあなたを避けていた。けれどあなたは私を諦めなかった。私が必死に自分の気持ちを抑えていたのに、何も知らないあなたはづけづけと私の心に踏み込んで、私を狂わせた。そのうちはどうでもよくなった。実の兄妹がどうしたって言うの?世間の目はどうしたって言うの?私は全然気にしなくなった。あなたさえ私を愛してくれるだけで良かった。
でもこの気持ちを伝えるのが怖かった。拒絶されることだけでなく、狂気に染まり、黒い気持ちを糧に生きてきた醜い私を、あなたに知られるのが怖かった。あなたに失望されたくない。だから私はずっと秘密を抱えたまま、あなたの好きな美雪を演じてきた。
井野家への恨みが当たり前のことで、あなたは気にしていない?
そうはどうかな?私の闇はあなたが思っているより、もっと、もっと深いよ。
話はまだ終わっていないよね。続きましょう。
私達が生まれた後すぐのこと、身篭っていた井野政道の妻が早産のため病院に運ばれた。しかし状況が悪かったか、結局死産になった。その手術を経て彼女は今後子供を産めなくなった。あの女は一応名家の出だから、後継を産めないとばれたら世間的には面白いことになるでしょう。だから奴らはお母さんからあなたを奪った。その女の子として井野家で育てるつもりだった。お母さんは子供が全てだったから、泣いて許しを乞いた。それを聞き入れるはずがなく、一樹は連れ去られた。それでもお母さんはあなたのことを諦めず、しつこくあの男にお願いした。
最終的に折り合いを付けて、あなたの側に居ることを許した。それで私達は井野家の屋敷に移住した。しかしそれには条件があった。お母さんはあの屋敷から離れることを禁止された。つまり幽閉されたわけだ。あなたが井野家で受けた扱いを見て、お母さんは酷く苦しんでいた。自分の子を守れなくて、悲しみに暮れていた。
そんなお母さんを見て、同情したか、恋いしてしまったかは分からないけど、和彦さんはお母さんを助けることにした。井野政道の魔の手から私達を解放するためには、彼が必要だった。彼は違法的な取引に加担していたから、裏帳簿も持っていた。あの人を失脚させるための材料をいくらでも持っていた。ちょうどその時あの人は市長選挙に立候補して、余計な噂を立てないようにお母さん達を井野家から追い出した。私はあの人の血を受け継いたという理由で井野家に残された。お母さんはそれ以上子供を奪われることが我慢できなくて、和彦さんと共にあの男のしてきた悪事を暴露しようと思った。
しかし引っ越すの日に事故に遭って、真相は闇の中に葬れた。ニュースでは事故と報道したが、あれは予め画策された事件だった。どこからの情報は分からないが、和彦さんの裏切りに気付き、裏の世界を生きる命知らずを雇って交通事故を人為的に起こした。メディアに圧力をかけて、そのことについての調査を有耶無耶にした。私は以前からその事故について不審に思っていたから、フミハル社の記者になんとか連絡を取って、その事件について調べてもらった。その記者はなかなか仕事ができる人でね、真実まで辿り着いた。
お母さんの夢は、事故の日を最後に終わった。こんな形で私に真実を教えてくれたお母さんはきっと私に復讐させるためではなく、一樹を助けてほしかったんでしょう。でもは私は井野家の人間を恨まずにはいられなかった。肉親が奪われた恨み、母を殺された恨み、そしてあなたがその家で受けた非道な扱いの恨み、その中にお母さんの気持ちも混ぜていたんだろう。その気持ちに気付いた私は正気でいられなくなった。
私の中にある狂気の種を芽生えさせた切っ掛けは、井野家のババアが亡くなった日だった。それは偶然のことだった。あの日の夜、居間から何か変な物音が聞こえて、私は部屋を出て確認しにいった。ババアはちょうど心臓病の発作で床に突っ伏して苦しみに悶えていた。私の姿を見て、片手を伸ばし、私の足元を掴んだ。かすれた声で「薬」という言葉を繰り返していた。多分いつも飲んでいた薬は部屋の中に置いてきたんだろう。私はそこから一歩も動かず、苦しみに悶えていたあの人をじっと見ていた。ざまあみろと思った。あの人が息を引き取ったまで私は静観していた。息がしていないことを確認した後、私は雨上がりのようなさっぱりした気分だった。積もりに積もっていた恨みが少し解消されたように、晴々しい気持ちだった。その頃から私の心の中に狂気を宿した。あらゆる負の感情を養分として、すくすくと育った。
その日から、井野家の全員に復讐すると決意した。そしてあなたと徹底的に距離を取ることにした。狂気に染まる私はさぞ醜いでしょう。それをあなたに知られたくなくて、距離を取って、他人の振りを貫き通すつもりだった。
そしてあれから、私は復讐を考えながら時を待っていた。二年後、復讐の一歩を踏み出した。そう、あなたも覚えているはずだ。あの火事は事故なんかじゃなくて、私が放火した。あの日は井野の奥さんの風邪薬を睡眠薬にすり替わった。蝋燭を糸で逆吊りにして、中段の所に結び目を付けた。それから屋敷中に油をばらまいて、屋敷を出た。後は蝋燭の火に焼かれて糸が千切れて、蝋燭が自然に落ちて油に火種をもたらすまで待てばいい。割りと簡単な仕掛けだったか、見事に成功した。燃え盛る屋敷は本当に綺麗だった。
もちろん、その火事が人為的に起こした事件であることはすぐばれるでしょう。それはそれで構わなかった。騒ぎになればメディアに取り上げられるでしょうし、私はそれに乗じてあの男の罪をばらす気だった。奥の手も隠してあるから、私は自信があった。しかしその火事は事故扱いされた。国会に入ったばかりのあの人のとって、養女である私が犯罪をした不祥事は彼にとって痛手だっただろう。警察に圧力をかけ、メディアに大金をばらまいて、なんとかやり過ごした。そんな思惑があって、私は見逃されたんでしょう。
その件で私は見事に勝利した。しかしは私は自分が犯した罪に押し潰れそうになって、あなたに救いを求めて、今まで我慢していた気持ちの堰止めが効かなくなった。私はあなたの優しさに逃げた。自分が犯した罪に目を逸らしながら、あなたに甘えていた。それでも私はそのことを忘れなかった。罪に問われなくとも、犯した罪は消えたわけではなく、悪夢と化してあの日のこと再放送するように何度も夢に出てきた。
罪悪感に苛まれ続けても、復讐の気持ちは変わらなかった。復讐なんて虚しい物でしかないと言うかもしれないが、私にとっては意味のあることだよ。そうすることで、私達の間に立ちはだかる物を排除できる。井野家に居る限り、私達は結ばれず、どんどう離れてゆく。あなたを縛る呪いを祓うためにも、私は復讐を続行した。
あの男を失脚させる材料は持っていた。それは和彦おじさんやお母さんが集めた証拠だった。その原本は事故の折回収されたが、念のためのコピーはお母さんが大事にされていた「橋の彼方」の額縁に隠されていた。それに気付かないまま、お母さんの遺品として私の元に届いた。それさえあればあの男を失脚させることが可能だった。しかしまだ完全ではないから、私は慎重に事を進んだ。それに、あの男を失脚させることで私は気が済まなかった。なんとかチャンスを見付けて、殺してやりたいと思った。
でもあの男もある程度私のことを警戒していた。ここへ来てから私をずっと監視していた。彼と顔を合わせる機会もなかったし、復讐できるタイミングはなかなか見付けなかった。
そして、あの松本という女とあなたの婚約を聞いて、私は焦った。あなたはお人好しだから、あの女に散々付き合わされた。不本意であることは承知しているつもりだったか、やはり私は嫉妬してしまった。あなたはそのつもりはないかもしれないけど、私から見ればあの女はあなたに十分気があった。それは我慢できなかった。あなたの心も体も私の物だよ。他の女にやる気はなかった。だから私は奥の手を使った。あの男を今の座から引きずり下ろせば、婚約なんて自然に破棄される。そして私達の間に邪魔者がいなくなって、血の繋がった兄妹であることは永遠に闇の中へ葬り去ることができた。世間からするば、私は井野家の養女、あなたとは血の繋がっていない義理の兄妹でしかない。私達を堂々と結ばれてもいいはずだ。
それがあなたの知りたい、私の真実だったよ。
あなたはどんな私でも受け入れると言ったけど、こんな薄汚い、狂気じみた私を、実の妹を愛してくれるかしら?
ね、答えて、一樹。




