☆誰も知らない物語④
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ある日、彼女はソファーにかけ、CDプレーヤーから流れる音楽を聞いていた。男のコレクションから適当に選んだ物だから、年代も曲目も分からなかった。双子を孕んでいるからだろうか、彼女の腹は通常よりやや膨らんでいた。家事は家政婦に任せっきり、絵画も当分止めた。そのせいで暇を持て余し、こうして知らない曲を聴いたり、子育てについて勉強したり、時々男の蔵書から一冊小説を借りて読書したりしていた。
早く生まれてこないかな、と彼女は思った。出産予定日はまだ一ヶ月先である。焦る気持ちを抑えながら、ただ平穏に暮らしていた。
机に置いてあった携帯が急に鳴き出して、ゆったりした空気にノイズをもたらした。呼び出し人は男であるようだ。彼女は一旦音楽を止めて、電話に出た。
「私、あの人の妻なんですが、話があります。会って話せますか?」
思いも寄らない相手からの電話だった。口調は丁寧かつ穏やかだったが、有無言わさず気迫があって、ぶれない芯を持つ人なんだろう。
二秒程沈黙の後、訝しむ自分をなんとか落ち着かせ、女は返事した。
「時間と場所は?」
「明日午後二時30分、場所はあなたのマンションの近くのカフェ、そこで会いましょう」
「分かった」
その後通話はすぐ切れた。
戸惑い気持ちがいっぱいだった。あの人は妻のことについてあまり話さなかった。彼の愛人になって数年間、奥さんからの接触は今ので初めてだった。多分以前から知っていたんだろう。今まで接してこないのが自分の存在に気にしていなかったと思ったが、今更何の用だろう?
答えは本人に会って、直接聞くしかいない。
次の日、予定より10分早く約束のカフェに着いた。カフェの正面口の看板は「本日貸切」と掲げていた。入り口に若い男のウェーターが立っていた。女の名前を伺った後、中へ案内した。
まるで今から秘密の商談が始まるみたい、と彼女は思った。店の中は伽藍堂のように静まり返っていた。人の多い場所が苦手な彼女にとって、この状況は悪くなかった。いつも半数以上の席が埋まっていたカフェが、今は一人きり、雑音のない空気は彼女に落ち着きをもたらした。
相手はまだ来ていないらしい。指定の席もなかったということは、自由に選んでいいことだろう。一番奥の席に行った。そこはカウンターや窓から一番離れた位置だった。そういう場所は安心する。
奥さんは約束の時間寸分違わず登場した。短く切った髪とスカートスーツ、歩くペースはやや早く、背筋はしゃんと伸びて、立ち振舞いから気品を感じた。向かいの座に座り、見定めるような目でこちらを見て、それから挨拶した。
「初めまして。あの人の妻です。初美といいます」
女は軽くお辞儀して、自分も名乗った。
「あなたのことは最初から把握していますから、無駄な話は結構です。今日は責めにきたわけではなく、あなたに相談があってきたんです」
「相談って何?」
「お腹の子をうちに譲ってほしいです。藤原家の後継として、私が責任を持って育ててあげます」
「あたな、正気で言ってるの?」
「もちろんですとも。子を譲って頂ければ、悪いようはしません。今の生活を続けてもいいし、欲しい物があればこちらが手配します」
信じられないことを平気な顔で言う初美はなんだか不気味で、彼女は顔を顰めた。
「私の子は私の全てよ。誰かに渡す気はないわ。母親から子を奪うような行為はどれだけ残酷なことなのか、考えたことある?」
「共感できませんね。私は子供を産めない体ですから、仕方なく彼に愛人を作らせました。愛人の子を我が家の後継として育てるつもりでした。しかしあの男は情けなくて、あなたがまだ未成年だという理由で何年も待たされました。ようやくあなたが妊娠したと知って、あの人にあなたを説得するように言い渡しました。しかし、臆病風に吹かれる彼はあなたに真相を告げる勇気がなくて、仕方なく私から説明することになりました」
おぞましい話だった。人の尊厳を踏み躙り、ただ子を成すための道具のようにしか思えないその考えはどこまでも冷徹で残酷だった。仮に我が子をその家に預けても、人としてでく、大きな何かを動かす道具として育てられていくでしょう。
「私が嫌と言ったら?」
「それはあまりお薦めできませんね。あの人は私のおかげで今の地位に着いたんですから、私に逆らえません。この話を拒絶したらあなたをそのマンションから追い出して、また別の愛人を作らせましょう。もちろんあなたへの援助も断ちますわ。そんな馬鹿なことはしませんよね。大人しく子供をこちらに預けることは、あなたにとっても、その子達にとってもベストチョイスですよ」
「馬鹿はあなたの方でしょ。子供を奪われて幸せに暮らせる母親はどこにいる?愛の知らない家で育つ子が幸せになるわけないでしょう。あなたの言うベストチョイスというのがあくまで物質的な物しかない。そういう物で幸せになれるわけがないでしょ。私の子絶対に誰かに渡しはしないわ」
相手の目付きは鋭く冷たいものになった。女の愚かさに呆れたように冷笑した。
「身寄りもないあなたはどうやってその子達を育てます?帰る家がなく、真面な仕事も出来ずに、どうやってその子達を幸せにする気?」
「何があろうと、私は私の子を守る」
初美は目の前の女を凝視した。母は強しという言葉を如実に表現しているように、この女の意志は揺るがないでしょう。仕事に明け暮れ、子供が産めない自分には体感できない感覚であった。この女はもうダメだ。見限ることしかない。今度は話の通じる子を見繕いましょう。
「この話を拒絶すると言うなら、あのマンションから出ていただきます。今日中に荷物をまとめて頂戴。明日そこはあなたの居場所じゃなくなりますから」
冷たい一言を最後に、初美は颯爽と出ていった。
マンションに戻り、しばらく男から電話が来た。
「申し訳ない」
謝りの一言を聞いて電話を切った。奥さんの言う通り、彼は彼女に逆らえないだろう。彼は保身のために、自分と子供を見捨てた。その現実だけ受け止めて、彼への恨みや怒りは不思議となかった。
ここ数年間、彼女は夢のような日々を送ってきた。それは全て彼のおかげだ。行き詰った彼女を助け、夢を叶えてくれた。そのことに感謝している。自分の知らない思惑があっても、掛け替えのない宝物を手に入れた。それは十分だった。自分は多く望めない人間であることは重々承知している。だから彼から離れても、今までの暮らしが続かなくても、ある程度は覚悟してきた。
彼女は見納めのように部屋を見回した。最初に来た頃より、随分と生活の気配が濃くなった。部屋の配置も大分変わって、あちこち自分の痕跡が残っていた。自分が去ればそれらも段々薄くなってゆくでしょう。
持ち出したい物は特になく、自分の描いた絵や着替え以外何も持っていかないつもりだった。寝室に買っておいたベビーベッドはそのままに置いておくことにした。生まれてくる子供のために用意した物は全部そのまま残す。それは彼への当て付けであり、細やかな報復でもあった。
男からメッセージが届いた。
「君の口座に200万を振り込んだ。せめての補償として受け取ってください。今私のできることはそれしかなかった。これからは大変だろうけど、どうか気張ってください。何もしてやれなくて、ごめんなさい」
そのメッセージを読んだ直後削除した。それから引っ越すためにばたばたしていた。
新しい住居は何もない部屋で、色々買い物が必要だった。大家は50代の夫婦二人で、管理人としてアパートの一階に住んでいた。腹ぼての彼女を見て、買い物とか物運びとか熱心に手伝ってくれた。
古いアパートの一室は今まで住んでいたマンションよりずっと狭くて、壁や天井に薄いシミが散在していた。柔らかいソファーはなく、低いテーブルに座布団一枚、ベッドはなく、寝る時は押入れに入っていた布団を取り出して床に敷く。いきなり窮屈な暮らしてになって、久しぶりに遠く昔のことを思い出した。
しかし、落ち込む余裕などなかった。子供を産むのに何かとお金がかかるからだ。男の慰謝料だけですぐ尽きが見えてくるだろう。生まれてくる子供のためにも、仕事を見付けないといけなかった。
色々探して、やがてイラストの仕事をもらえた。給料は決して高くないが、身篭っている彼女にできる数少ない仕事であるのは確かだ。
出産予定日が迫ってきて、陣痛の回数も増えてきた。大家の奥さんが心配で、時々様子を見にきてくれた。子供が生まれる日、彼女は痛みで起きる気力すらなく、大家の奥さんが救急車を呼んで病院に運ばれた。
子供は無事に生まれた。可愛い双子で、二人とも男の子だった。赤ちゃんを抱えて、彼女は言いようのない幸せに浸かっていた。幸せ過ぎて、涙が溢れ出た。
その子達の名前は決めていた。光と晶、それは彼らの名前だった。




