☆誰も知らない物語③
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心の奥底に、小さな夢を抱えていた。まだ幸せな日々を送っていた頃にそっと撒いた種だった。
その頃の記憶は曖昧で、断片的な物しか思い出せなかった。その頃、寝る前に親は絵本とかイラスト付きの御伽噺をよく読み聞かせてくれた。本に描かれた絵が印象深かった。色鮮やかで、ファンタジーに満ちた絵柄は好きだった。その時から絵画に興味を持つようになった。
小さい頃から彼女は幻想好きだった。目に映る世界の景色を脳内で加工して、御伽噺風のシーンに変えた。しかしそのシーンはあくまで自分の中にしか存在しておらず、彼女はそれらをこの世界に実現して、親への贈り物にしたいと思った。
しかしそれはなかなかうまく行けなかった。頭の中の景色を如実に画紙に描くことは想像よりずっと難しかった。飛び抜けた才能のない彼女は、直感だけでそれを成し得ることができなかった。
それでも彼女は諦めなかった。どうやって想像していた景色を描くか、何度も何度も挑戦して、同じ絵を繰り返して、段々絵がうまくなってきた。それでも満足には程遠い出来だった。そのうち、絵画の授業で先生に褒められたりもした。嬉しい気持ちもあったが、自分を納得させるにはまだまだだった。
その後、突然降りかかってきた不幸は絵画の意味を変えた。あれから絵画は現実逃避の手段となった。絵を描いている時だけ、父が体に残していたあざも、回りから無視される現実も気にしなくなった。その時から彼女にとって絵画は唯一の救いであり、苦しみに満ちた日々の中でたった一つの楽しみであった。
不幸な日々の中で、かつて持っていた夢を、心の奥底に仕舞い込んだ。その頃、「夢」という言葉は却って苦痛しか齎さなかったからだ。
あの家から逃げ出した後、未来について迷うこともあった。あの男と出会ったことで、彼女に新たな道を示してくれた。彼が言い出したことは決して普通ではなかった。けれど彼女に選べる道の中で、果たしてそれよりいい道はあるだろうか。
どうせ一度捨てかけた身だ。見ず知らず、気色の悪い男共に貪られるより、この人の方がましだと思うし、彼の条件を飲めばしばらく自由を喫することができて、夢を追うことも可能になるでしょう。
目の前の男は嫌いじゃなかった。知性的な目をして、柔らかい雰囲気を纏っている。父親より遥かに真面な人間だと思った。
だから少女はその男の提案に承諾した。
それからは、それなりに悪くない日々を送ってきた。
男は週に二回少女の居るマンションへ泊まりに行った。彼は少女と話すのが好きだった。彼女の過去を知り、同情してくれた。時々彼は自分の身の上話を少女に聞かせた。その時彼女はやや好奇な目で自分を見詰め、ただ静かに聞いていた。彼にとってそれは楽しい一時であった。二人は奇妙な関係を築いた。恋愛の要素はなく、単純な肉体やお金の取引でもなかった。強いて言えば友達のような関係だった。
愛人になったとは言え、男は彼女に手を出さなかった。大人になるまで待つ、と彼は言った。
約束したことは案外早く実現してくれた。彼はある学園の理事長を勤めており、その学園に通わせることは造作もなかった。そして過去の名前を捨てて、彼女は新たな身分を手に入れた。生活がそろそろ安定したところで、彼は美大の知り合いに頼んで彼女の家庭教師に付けた。マンションの書斎を改造して、彼女のアトリエにした。
普通の学園生活を送れる上、帰ってくる家に待っているのは父親の暴力じゃなくて絵画の先生が授業してくれる。まるで夢の話だった。
専門的な指導を受けて、少女の絵画技術は一皮剥けたように進歩が早かった。そして段々納得できるような絵を描けるようになった。その頃から少女は絵画に全てを注ぎ込んだ。授業中も絵のことばかり考えていた。授業の合間を縫って沢山デッサンした。身の回りの全てがデッサンの対象になる。机、生徒、中庭の木......家に帰ったら先生の指導の元で出された課題をひたすら描いた。
そして時が流れ、あっという間に高校卒業の日を迎えた。彼女は地元の美大に受かった。その頃、彼女を少女と呼ぶには相応しくなく、立派な女性に育てられ、美しい女になった。
大学に入って間もなく、彼女は妊娠した。約束を違えず、彼女は愛人を勤めてきた。
彼女は自分が母親になることを想像もしなかった。と言うより、想像することが怖かった。彼女の家庭が残した傷痕は一生消えないまま、今でもトラウマである。しかし小腹が膨らむにつれて、自分の中に小さな命が宿っていることを感じて、不安も徐々に消えた。代わりに、かつて感じたことのない慈しみや愛おしさを感じた。
腹の子を思って、女はかつてないほど幸せにいた。それは子供時代に感じた幸せとは違うし、絵画に耽る楽しみともまた違う。彼女の中に宿る命はまるで自分の分身みたい、外界から与えられた快楽や刺激とは絶対的な差があり、比べ物にはなれなかった。自分は常に他者と壁を感じて、愛という物を感じる感覚はとうに失われたと思った。しがし我が子を思うと、溢れ出る慈愛な心が、自分を幸せにした。
だから彼女は生まれてくるであろう子達にありったけの愛を注ぐことにした。




