漣②
一樹
松本との食事が終わり、時間は21時過ぎた。妙な焦りを感じ、急いでタクシーを呼び、家に帰った。
家に帰るだけなのに、何故焦っているだろう?美雪に対して負い目を感じてしまったからだろうか。
その負い目の根源は?
自分への質問に、目を逸らした。
家に着く頃は22時前だった。ドアを開いて、明かりが着いていないとこに少々違和感を感じた。この時間は寝るはずがないし、普段は居間で本を読んだり編み物したりするが、今日は居間にいないらしい。部屋にいたとしても、何も居間の明かりを消すことはないと思った。
部屋中を見回し、ベランダの手摺りに寄り掛かっている彼女の背中を発見した。街の光がここまで届いたようで、彼女の姿が暗闇の中で微かに浮かび上がった。夜風に靡く彼女の髪とワンピースの裾はふわふわした感じで、注意しなければどこかへ飛んでしまうような気がした。
今にも夜闇に消えてしまいそうな背中姿は、どことなく儚げな雰囲気を醸し出している。そういうところは静流さんにそっくりだ。ここ数年は以前より大分明るくなったのが僕の勘違いで、今見せた背中姿こそ彼女のたった一つの真実ではなかと疑いたくなる。
不安が込み上げてきたが、僕は立ち止まったまま彼女を見詰めていた。いつからだろう、彼女に近付くことに躊躇いを持ち始めた。僕らはもう子供じゃない。心のうちの全てをさらけ出せなくて、一定の距離を置いて、そのことに目を逸らしながら共に過ごしてきた。
彼女をずっと側に置いていきたい。それは贅沢な願望であり、明してはいけないことだった。
立ち止まって三分くらい、気持ちの整理が付き、笑顔の下に隠して彼女の元へ行った。
「明かりつけずに夜景か?ムード出るね」
「あなたを待っているの」
軽く言ったその一言で、ちくっと心を刺した。
「寂しかった?」
何とか持ち直して、冗談を言う風に軽くからかった。
「そうね。世界に捨てられたみたい」
美雪は自嘲するように言った。それは本心か冗談か判別できなかった。
「大げさだな」
「冗談よ」
彼女は遠く眺めならが軽く笑った。表情の変化が乏しいから本当の気持ちは読めなかった。
「何で呼ばれたの?」
「また男を振ったらしい。落ち込んで見えたから、誰かに聞いてほしかったんだろう」
「あなたもお人好しね。聞く義務ないのに」
「聞きたくなくても相手は勝手に話すさ」
「あの女、あなたに気があるかもしれない」
「それはどうかな。婚約者になる予定だが、お互いの生活の邪魔にならないと約束した。彼女にしてみれば、僕みたいな冴えない男は願い下げだろう」
「じゃあ、もし彼女があなたとセックスしたいって言い出したら、あなたはどうする?」
美雪はこっちに視線を向き、真剣な眼差しで僕の顔を覗き込んだ。
「しないに決まっている」
「へー、据え膳食わないんだ。じゃあ、どんな女ならしてくれる?」
「……」
その質問は答えなかった。そこまで踏み込んでくるとは考えもしなかった。性的なことはなるべく彼女に結び付けないようにしてきた。そうしないととても一緒に暮らしてはいられない。
「例えば…」
僕の反応を楽しんでいるように、彼女は意地悪な笑みを浮かべて更に覗き込んできた。
「村上とかは?」
妙に絡んできた彼女の質問に困ってしまい、村上とは誰だか一瞬分からなかった。遅れて気付いた。中庭でいつも彼女と昼ご飯を共にしていたクラスメイトのことだ。
「それはない」
「一瞬迷った」
「誰だか思い付かないだけだ」
お芝居がまだ続くように、僕の顔をずっと見て、しばらくしたら彼女はようやく吹き出した。
「それならいいよ」
それから二人は無言で夜景を眺めていた。夜風が涼しくて、火照りを冷ますのにはちょうどよかった。美雪が飽きた様子で、しばらくしたら先に部屋に戻った。
その夜、奇妙な夢を見た。
真っ白な世界で、水色のワンピースを着ていた女性が僕に優しく微笑みかけた。懐かしい顔ではあるが、彼女は美雪なのか、それとも静流さんなのかはよく分からなかった。
その人の姿が霧のように忽然と消えた。そこで夢から覚めた。回りは真っ黒で、まだ夜中だそうだ。夢の内容は妙にはっきり覚えて、戸惑いが脳裏に張り付いて、ぼうとしていた頭から離れなかった。渇きを覚え、半ば自動的に厨房へ向かった。
水を飲んで少しすっきりした。今度は眠気がどこかへすっ飛んだようで、寝室に戻る気がなくなった。ソファーに座り、適当に背もたれに寄り掛かった。暗闇の中でやることもないし、記憶の冊子をめくって、靄のかかった子供時代のことを思い出した。あの時は視野が狭くて、身の回りの出来事に気を取られて、深く考えなかった。今になって振り返ってみれば、あちこちに違和感を感じて、そこから導く結論は怖くて正視したくなかった。確固たる証拠はなし、昔住んでいた屋敷も消し炭になった。それでもあの家が異常であったことは確かだ。
美雪との噂の中で、こういうのがあったーー僕と美雪は腹違いの兄妹である、と。
根拠のない噂であるが、案外正鵠を射るかもしれない。美雪だけがうちに残る理由が分からなかったが、井野家の血を引き継いたなら納得できる。DNA血縁鑑定を受ければ一発で分かるが、あの父親が許してくれるとは思わなかった。何より怖いのだ。その事実を受け止める勇気はなかった。血縁のないままの方が、都合がよかった。
それでも、一度疑い出した物はそう簡単に忘れることはなかった。日に日に増してその疑問がどんどん大きくなって、意識し過ぎて美雪と一定の距離を置くようになった。
父の元にいる限り、その真相は分からないままだろう。自分はあとどれぐらい父の操り人形を演じればいいだろう?二十年?三十年?父が用意してくれたレールしか走れない自分の人生は、果たして自分の意志で進む先を決められる日がやってくるだろうか?
父から逃げたいと思ったことも当然ある。そうすれば今まで人生の中で手に入れた物を失い、一度も困ったことのない生活の事を考えないといけない。その程度であれば、覚悟はできている。しかし美雪はどうだろう。彼女は僕と一緒に逃げてくれるだろうか?逃げる先の生活の保障なんてないし、いつ父に見付けられるかもしれないし、そんな不安を一生抱えて生きることは果たして幸せになれるだろうか?
漠然とした不安と現実味のない妄想を抱えて、何一つ彼女に言えなかった。僕ただの弱虫だ。彼女に拒絶されることは怖い。沢山辛い思いをして、ようやく手に入れた一時の平和な日常だ。ぬるま湯のように居心地がいい日常を、壊したくなかった。
全て口実だ。自分は勇気がないだけだ。
自嘲するように、乾いた声で自分を笑った。
その時、背後から温もりを感じた。美雪はソファーの後ろから寄ってきて、背中を越して両腕で優しい抱いてくれた。
「よせ」
不意打ちのスキンシップが僕を驚かせた。今の自分に冷静な対応はできなくて、それでも必死に我慢した。
「心配しないで。もうすぐ終わるから」
美雪は僕の耳元で囁いた。
「どういう意味?」
「それは内緒」
そう言って、彼女は僕の頬に啄むようにキスして、その場から離れた。
一人取り残された僕は呆然と座ったまま、色んな考えが頭を過ぎった。まだ夢の中にいるじゃないのか、と疑いたくなるのだ。




