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橋の彼方  作者: 千里空
深い闇へ
30/74

ピアノと絵とコーヒー

K

カイトがノックしてしばらく、中からドアが開いた。

「珍しいお客さんだね。どういう風の吹き回し?」

男は遅れて現れて、カイトの顔を見るなり、馴れ馴れしく挨拶した。

「いつも通り、新入りを紹介しにきたのさ」

「なるほど」

男は合点がいくように頷き、俺に向かって友好的な笑みを見せた。

「いらっしゃい。さぁ、上がって上がって」

カイトの後ろに続きその家に入った。そうしながら失礼のない程度その男を見定めた。

彼はダークグレーのセイターにカーキ色のズボンを身に纏い、ラフな格好であった。髪の方はキレイに整っており、正装を着てたら映えそうだった。身長は高い方だが、少し猫背のせいもあり、ラフな部屋着で呑気な雰囲気を纏っているのであまり威圧感は感じなかった。歩いていくうちに、そのすらりと長い指に気が付いた。

玄関上がってから通されたのはかなり広い客間のようだった。その広い空間を大体二分することができる。左側はピアノが置いてあって、すぐ隣は外向けに開いている窓で、外で蔓延る霧が見えた。右側はソファーセットが一式、おまけに洒落た安楽椅子が置いてあった。壁中に自作と見える絵が無秩序に掛けており、俺の住所のあれと大分違って、見るからに平凡な絵だった。床は原稿らしき物が散らばっていた。よく見ると楽曲だったり未完成な絵だったり、両者入り混じった物もあった。まるで家主の趣味に合わせて作ったカーペットみたいだ。

それらの原稿をどしようかと考えているうちに、男とカイトはそれを意に介さずに踏んで先に進んだ。

「お前らちょうどいいタイミング来た。コーヒー入れたばっかりだったから、一杯飲むか?」

そう言われると、何か部屋に入った途端いい匂いがしたような気がしなくもない。ソファーの前のテーブルの上にコーヒーポット置いてあったのは遅れて気付いた。

「そりゃあ意外な収穫だね。ピアノを聞くために来たのに」

「ちょうど休憩に入ったばかりだ」

カイトと隣り合わせでソファーにかけ、男は斜向かいの安楽椅子にかけた。

「名前は?」

K(ケイ)

「変わった名前だね」

「そうらしい」

俺はカイトを一瞥したが、彼はただ肩を竦ませて見せた。

「例のように見学しに来たってわけか。物好きなのが相変らずだね」

軽く皮肉のようにカイトに言っていた言葉は何か嫌気がなく、友達の冗談の類のような物を感じた。

「君に言われたくはないよ」

男は自分の入れたコーヒーを一口啜り、得意げな顔を見せた。

「しばらく見ないから、てっきりお前さんはここを出たかと」

「ここから出られるの?」

俺は思わず横槍を入れた。

「当然出られるのさ。時間が使い切れたらね。あの懐中時計の示した時間がゼロ、つまり数字盤の12になったら出られるのさ。なんだ?こいつからは教えてもらえなかったのか?」

「いや、勘違いしただけだ」

どうやら誤解のようだ。それ以外の方法があるとでも思った。残念だった。

「それにしても、俺は当初来た頃より随分と()()()したのに、何でお前さんは相変らずそのままだろう。お前さんの懐中時計壊れているんじゃないか」

「やり残したいことがあったから。それが叶えるまで俺の時間は止まったままだ。きっとこれは神様のお優しい御心だろうさ」

「神様とやらがいてもそうなに優しいやつであるわけがないさ。まぁ、どの道それはお前の問題だ。俺とあまり関係のない話だね」

男は一気に残ったコーヒーを飲み終え、それから安楽椅子から起きた。

「さてと、お前らがわざわざ俺のピアノを聞きに来るからには、無下にはできないね」

男はピアノ前に座り、姿勢を正して、両手をキーボードの上にかざした。

「それでは俺自作の曲、名無しの君へ、ご清聴あれ」

彼の指がキーボードの上で踊り始めた途端、キレイな音が部屋中に響いていた。初めは月の光のように、緩やかに、そして静かに大地に降り注ぐように、次第に段々と風が吹き始め、木の葉を揺らしながら夜に一抹の喧騒をもたらした。やがてその喧騒は段々大きくなり、最後には暴雨の如く激しく鳴り響いた。

奇妙な曲だった。聞いたことない曲だけど、どこか馴染み深さを感じる。目を瞑って聞いていると、まるで今までの人生がその一曲に濃縮したように、時に楽しく、時に悲しい。優しさもあり、酷く怒りを感じたこともある。自分でも把握しきっていない心の中を引き出したような、素敵な一曲であった。

言葉で上手く伝えないことを、音楽を通じて他人と共感する。それがとても不思議なことだった。

一曲終えて、男はまた自分の席に戻ってきた。

「感想はどう?」

「なんかわかんないけど、とてもいい曲だったよ」

「そりゃあどうも。頑張った甲斐があったわ」

「Kはここに来てまだ日が浅いってね、慣れない物沢山あったからさ、まだ何かを探している途中だ」

「んで?俺に助言してほしいと?」

「ここの先輩だろ?」

「まぁ、俺の話でよければね。先に一つ質問していいか?」

「どうぞ」

「ここにいる人々の生態についてどう思う?あっ、生態って言葉は失礼かもしれないけど、気にしないで」

男は少し前のめりして、俺を回答に興味津津のようだ。

「俺から見ると、皆好きなこととか何らかの役目を持つとか、自分の居場所がはっきりしているように思う。何かに打ち込むことができて、羨ましく思うよ」

「羨ましく思う必要はないよ。ここはそういう場所だから、お前の居場所もきっとどこかにあるはずだ。それに、一つ勘違いしていると思う。別に特定の何かに拘る必要はないよ、ここでは。ほら、壁に下手くそな絵が沢山あるんだろ?それ、俺の作品なんだ。ここへ来る人達は大抵ピアノを聞きに来たが、絵なんて評価されたことは一度もなかった。だが俺にとって絵は音楽と同じく大事だよ、下手くそだけど。もちろんコーヒーも好物の一つである。つまり俺が言いたいことは、ここには無数な可能性があり、色々やってみたらいいってこと。ここは食物も睡眠も必要なく、そういった生理的な縛りはなし、生きるための努力なんかも要らない。記憶がない分、過去の繋がりに縛られず、社会や法律や道徳など堅苦しい枠組みも存在しない。ここには真の自由が存在するのだ。外界からのしがらみは一切外され、それでも人は何かを求めずにはいられないのは、きっと自らの心が突き動かしたせいだろう」

「つまるところ、自分の心に聞け、と」

答え合わせのようにカイトを一瞥したが、彼は肩を竦めただけだ。

「あくまで俺個人の見解だ。納得できていないなら戯れ事の一つにすればいい」

「いや、参考になった。ただ正直なところ、自分の心がよくわからないんだ。何をやってもピンと来ないし、そのせいか、常に焦燥感を感じている。自分はピースの欠けたパズルのように、欠片を探せと魂の奥底で叫んでいたような感じだった」

「そうか。ならそれを解決することでお前は居場所を手に入れるね。まぁ、俺には関係のないことだけど。ピアノを聞きたい、あるいはコーヒーを一杯共に飲みたい時ぐらいここへくるといい。もちろん、俺の絵に興味があるって見に来られても構わないよ」

最後の言葉は冗談っぽっくて、三人とも笑った。

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