美雪①
夕飯の食卓は冷たい空気に包まれていた。
いつものことだった。この家の食卓はいつもしんとした静寂だった。誰も自分から喋らず、何か話したところで返す言葉なんて温度のない物ばかりだった。何より雑談は怒られるから、こういう雰囲気に好き嫌いとか関係なく、慣れていた。
食卓に並ぶ面子はいつもの五人。井野の奥さんと大奥さん、一樹、アキラとわたし。お母さんはアトリエ、ヒカリは自室に篭もり、その食事は使用人が運んでいく。一樹の父親は仕事で忙しい人のようで、この屋敷に滅多に顔を見ない。
いつも通り、のはずだった。
井野の奥さんは隠しもせずにずっとわたしを睨んでいた。その冷たい目線で食卓回りの気温は二度下がった。
この目線は見覚えがある。お母さんに向けられた視線だ。汚物を見たような、ねっとりした視線だった。
好かれていないのは知っていたが、子供のわたし達にそのよう直接的な感情表現を控えめにしたのが普通だった。
異常の原因に心当たりがある。
ちょうど夕食前の出来事だった。一樹はわたしのために近所の悪ガキと喧嘩した。玄関口でその汚れた服や少々腫れた顔を見るなり、奥さんの怒鳴り声が屋敷に響いていた。
「一樹は悪くないもん!わたしがいじめらたから助けてくれたもん!」
かつてないほど大きな声で、わたしは井野の奥さんに言った。彼女に対する恐怖感より、わたしのせいで一樹が叱られるのは我慢できなかった。
すると、怒りの矛先ははわたしに向けた。叱りこそなかったが、嫌悪と怒りに混じったその視線はあたかも燃え盛る黒い炎のようで、わたしを射抜いていた。言葉がなくでも、視線で凄むことができるとこは初めて知った。
恐怖に慄き、その場に立ち尽くすしかできなかった。
「彼女ただの被害者だ。それに、僕は悪いことをしたとは思わない。悪いのはいじめっ子だ」
その場から逃がしたのは一樹だった。彼は凛とした態度でそれを言い、わたしの手を取って玄関を後にした。
気まずい雰囲気から逃げ出したくて、わたしはおかずに目もくれず白ご飯かっ込み、速やかに食卓から離れた。一足先に風呂に入ることにした。
その夜、気分を紛らわしたくて私は縁側で涼んでいた。空を見上げ、晴れ渡った夏の夜空は星々に満ちて、左から右へ、下から上へ、わたしは地平線の近くから星を数え始めた。
67に数えた時、一樹がやってきた。
風呂から上がったばっかりの彼が湿気ぽっくて、わたしの隣にかけて、そしてわたしの視線を追って空を見上げた。
「何をしていたの?」
「星を数えていたの」
「数え切れるの?いっぱいあるんだぜ」
わたしは頭を横に振った。
「一度間違っていると、またやり直さなきゃいけないの」
「バカみたい」
一樹は独り言そうに言っていた。
バカみたい。心の中に鸚鵡返して、それは非難の言葉であったが、何故か嫌気がしない。
「さっきのことはあんまり気にしないで」
ふっと優しくなった口調。多分わたしを慰めるつもりだろう。
「別に気にしていないよ」
「でも怖かったんだろ?」
わたしは軽く頷いた。
「あの時、引っ張ってくれて助かった」
「ほって置くわけには行かないんだ。昼もそうだったんだ。君はあの時、泣いてたんだろ?」
背中やほっぺは急に熱くなってきた。
「女の子はデリケートな生き物なの」
「良くないと言っていない。ただ…」
「なあに?」
「男の子はさ、思わず好きな女の子をいじめてやりたいんだ」
「なんで?嫌いだからいじめたいじゃないの?」
一樹は頭を横に振った。
「僕も男の子だから分かるんだ。女の子の泣き顔が愛しくてたまらないんだ。きっとそれを見たくて虐めたんだ」
「変だね」
「素直じゃないアホどもだよ」
「一樹もそういうの、するの?」
期待や不安を抱えて、私は彼を見た。
「僕はあいつらと違うんだ」
一樹もわたしの視線に応えて、互いに見つめ合っていた。
しばらく沈黙は二人の間に降りかかっていた。まるで声を出したら、二人の間の脆い何かが壊れるような気がしてならなかった。私達は秘密を抱えながら、互いの目でそれを覗いている気がした。




