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橋の彼方  作者: 千里空
霧の向こう側
27/74

ホワイトクリスマス

一樹

十二月、街はクリスマスの雰囲気が段々色濃くなってきた。遠くからのクリスマスソングを聞くと、あちこち飾り付けられていた街やいつにもまして賑やかな人出のイメージが自然と思い浮かんできた。

影が斜め後ろへ長く伸びて、僕らは人気のない帰り道を歩いていた。気力が衰えていく老人のように、冬の太陽は放課後の時点で既にたそがれ始めていた。

空を見上げて、三分一の空はオレンジ色に染まっていて、もう片方は薄ぼんやりとした青だった。こんな空を見ていると、理由もなく憂いになった。

無言で歩いていた僕達は公園を通り過ぎた。そこいら幸せそうな光景に目が引き付けられた。

キャッチボールをやっている中学生っぽい人もいれば、縄跳びしている低学年の子もいた。子供達のすぐ側には母親達が群れとなって、子供達に暖かい目線を送りながら仲睦まじそうにお喋りしていた。

影一つない子供達の顔を見ていると、無性に羨ましく思った。年は大して離れていないのに、なぜ僕達の生活はこうも違うんだろう。

人は生まれつき平等じゃない。だから人は溝を埋めるために平等を求めるのだろう。人は自分の持っていない物を欲したがる。他の人も僕のことを羨ましいと思っていることだって有り得る。平等というのは自分や他人を欺く嘆かわしい物でしかいのだ。

誰でも自ら選んで生まれたわけじゃないから、生まれについて考えるだけ無駄なのだ。

光は似ったようなことを言っていた。他人を羨ましく思っていても、自分の生まれに文句を付けても何もならないだろう。

なら仕方ない、と押し付けられた、好きでもないことを受け入れ、人生をそれに捧げるとでも言うの?

嫌だ。絶対に嫌だ。

運命にどう抗うか、ずっと考えていた。でも、現実離れした物しか浮かんでこないから、結局どうしようもなかった。

今になって、光達との思い出は僕にとって一生の宝物だと切実に思うようになった。その思い出は真っ暗な夜空の中でたった一つ輝いている星のように、こんな真っ黒な道を歩んでいる僕にとっては唯一の救いとでも言えるだろう。失ってからはじめて大事な物だと気付いたが、その頃はもう手遅れだった。だから僕は思い出に縋る(すがる)ことしかできなかった。

美雪の笑顔を取り戻すどころか、彼女との距離が段々離れていってしまった。その上、ハードなスケジュールは重い石のようにのしかかって、息が苦しかった。もう何もかも投げ出したいと何度も思った。

最近はしきりにあの幸福な時間を思い出していた。あどけない笑顔をしていた美雪、一緒に遊んでくれた晶と光、優しく抱いてくれた静流さん、思い出す度に懐かしい気持ちが湧いてくる。それと同時に、切なくなった。

幸せな思い出というのは甘い毒とでも言えるだろう。思い出に浸って、幸せを感じるほど、失ったという現実が心を痛めるのだ。



時々思う、祝日というのは、人が何の変哲もない平凡な日常から逃げ出したくて作り上げた物だ、と。そういった「特別」な日を通して、人は機械的に繰り返してきた日常から一時的に逃げ出し、息抜きする。それでやっと人は人としていられるのだ。

大抵の人は祝日だから喜ぶだろう。なのにちっとも喜びを感じない僕は多分、どこか欠けているのだろう、人間として。

あの日、色んな意味で「特別」な日だった。

クリスマスイヴ、街では色とりどりの光が溢れていた。並木に飾ってあったキレイなイルミネーション、商店の前に置いてあったクリスマスツリー、クリスマス着を着て客引きをしていたバイトの人、手を繋いでくっついていた恋人達、片手でケーキを持ってもう片手は子供と手を繋いでいた大人、楽しそうに駄弁っている高校生達……いつもの倍以上の人出で街が賑わっていた。どいつもこいつもいかにもクリスマスらしい顔をしていた。

車の窓ガラス越しに見たその光景はまるで異世界のようだった。あるいは、そこにいる世界が普通の世界で、僕を閉じ込めているこの空間こそが異世界なのかもしれない。

世間ではクリスマスに家族と一緒に過ごすのが普通だそうだ。並外れの我が家も一応、世間と同調しているように見えた。そう、僕は今両親と一緒にとある会場に赴く途中だった。

静けさに満ちた車内にたまに街の雑音が潜り込んできた。運転手さんは黙々と運転していて、隣り席の父は度々腕時計を見てイラついていたように見えた。僕の隣りの母は無表情で流れていく外の景色を眺めていた。

車内の空気はまるで紛争区域のようにぴりぴりしていて、下手すると紛争を起こしかねないようだった。

家族連れでどこかの財閥が催すクリスマスパーティーに出るのは井野家では珍しいことではなかった。とは言うものの、今回パーティーに出るのはあくまで僕と両親だった。祖母は面倒がって何年前から出席されず、美雪はそもそも論外だ。

家に残されていた美雪はきっと寂しいだろう。祖母もいるけど、彼女は美雪を空気のように扱っているから、きっと今頃、美雪は一人ぼっちで部屋に閉じこもっているだろう。

でも今僕達が向かう先はろくでもない人達の集まりだから、彼女がこっちの世界に触れなくて済むなら越したことはない気もする。

パーティーに出るのはトップクラスを気取るエリート達、企業家や政治家ばかりだった。クリスマスパーティーとは言え、クリスマスの雰囲気はどこにもいなかった。そこにあるのは歪な、偽りの笑顔や上辺だけの会話だった。街で見た物とはまったく違う世界だった。

渋滞のせいで会場についた時は数分遅れた。会場に入った後、父はすぐに誰かに話しかけて、知らずうちに見えなくなった。

母は父とは違って適当に挨拶しにくる人達に相槌を打っていた。なんだか居心地が悪くて、僕はそっと母の元から離れて、会場の中でうろうろしていた。

僕みたいに親に連れられた子供も結構いるようだった。僕より年下の子もいれば高校生くらいの子もいた。同い年の子が(たむろ)して自分の親はいかに偉い人であるかを自慢げに語り合っていたガキどももいれば、母親の裾を掴んで恐る恐ると後ろに隠れていた子もいた。

会場を見回し、大人達はまるでぎこちない笑顔の仮面をつけていた化け物の群れのように、いつ襲われるのもおかしくない気がして、怖くてならなかったので、そこから逃げ出したい一心で早足で歩き、逃げ場を探していた。

息を潜めて、そうすると気付かれないように、人気のない会場の隅に行った。少々人の群れから離れたところで、僕はほっとして、一息ついた。

見るともなしに会話をしている人達や会場のイルミネーションを眺めながら、今頃美雪は何をしているんだろう、とぼんやりと考えていた。

今にして思えば彼女と一緒にクリスマスを過ごしたことは一度もなかった。こういうろくでもないパーティーに連れられた前にも、ろくなクリスマスを過ごした覚えはなかった。

うちにとっては、クリスマスイブに家族団欒で晩ご飯を食べるなんて想像すらできなかった。

それでも、心のどこかはそういうシチュエーションに憧れを抱いていた。クリスマスイブに、家族揃って、言葉を交わし、幸せそうに笑う。そういう構図に憧れを抱いていた。でも、井野家にいる限り、そんなことは叶うはずがない。

幸せを手に入れたい。でも、どうしたら呪いの輪から抜け出せるかはまったく見当がつかなかった。

やるせない気持ちでいっぱいになった。いっそうクリスマスがこの世から消えちゃえばいいとさえ思った。

ちょうどその時、一人の女の子が近寄ってきた。

長いカールヘアーで水色のドレスの彼女は見た感じ、僕と大して年の差はないようだった。 

「あなたもあの人達が嫌でここに来ましたの?」

壁に凭れて退屈そうに会場を眺めながら彼女は知り合いのように話しかけてきた。

「うん」

「名前は?」

「井野一樹」

「井野?ああ、あの井野ですか」

女の子の視線の先は何人かに囲まれて、ワイングラスを持って、時折ワインをすすりながら会話をしていた父だった。

僕はこっくりと頷いた。

「松本真由美です」

松本。どこかで聞いた覚えがある。確か結構有名な財閥で父とは関わりがあるそうだった。

「毎年こんなくだらないパーティーに来るのはほんっっとうにうんざりしますわ。なんでこんな金臭い社交活動に私達のような子供が付き合わなければなりませんの?」

愚痴を零しながら共感を求めた目で彼女は僕を見ていた。

「さぁ」

僕は素っ気なく返事をした。

彼女と仲良く話するつもりはなかった。僕にして見れば、彼女は父と同じ、そっち側に住んでいる人間なのだ。それだけで嫌で仕方がなかった。

「あなた、冷たいですね。こっちが話しかけているのに、もっと紳士的な態度を取ってくれませんか?」

松本の不満の矛先が僕に向かった。

「お前は誰であろうか、僕はお前の愚痴を聞く義務はない。喋りたければ喋ればいい。しかし僕に共感を求めるな」

松本は顔をしかめた。

「ほんっとうに無礼ですね。井野家の人間は礼儀作法も知らないんですか?」

「そうだよ。礼儀正しいやつはあちらに沢山いるよ。お前、あっちに戻った方がいいね」

「言われなくそうしますわ。あなたの側にいたら腐ってしまいそうで怖いですわ」

怒りぽっくてそう言って、彼女は行った。

そして、パーティーが終わるまで僕はすることもなくそこに立ったきりだった。



家に帰る途中、雪が降り始めた。ほとんど重さのない雪が暗闇の中からそっと現れ、窓ガラスに触れた直後に溶けて水玉と化していた。そのおかげで外の景色はぼやけてきた。

ホワイトクリスマスという単語が頭の中で過ぎった。

夜は更けており、外を歩く人はまばらになったし、走っていた車も来る時とは比べ物にならないほど少なかった。静かになった街に雪はそっと舞い降りていた。静寂に包まれた街は一層寂しくなったような気がした。

美雪や祖母はもう寝ただろう、と僕は見るともなしに雪を見ながらぼんやりとそう思った。

本当につまらないクリスマスイブだった。初めての経験じゃないが、僕はどうしても慣れなかった。あそこにいた大人達もこんなクリスマスイブは面白いと思っていないだろう。しかし、面白さ目掛けてそこへ行くのではなく、大人はそういった社交活動で何らかのメリットを得るためにそこへ行っただろう。

父とは途中で別れた。こんな夜でも、父は僕達の住んでいる屋敷に戻るのではなく、都心にいたマンションに帰るのだ。

家についた時、辺りは静寂に包まれていた。この辺りは元々住居が少ないし、雪夜のど真ん中であらゆる音は雪に吸収されたようにどこまでも静まり返っていた。

なぜか胸騒ぎがした。

玄関から屋敷を窺い、おかしなことに、母屋ではまだ灯りがついていた。もうこんな時間だから、眠りについていなかったとしても自分の部屋にいるはずだ。

もちろん、誰かが僕達の帰りを待っているのも考えられるが、その可能性は限りなくゼロに近い。

戸惑いながら僕は居間に行った。そこで思いも寄らない物を見た。

祖母は床に倒れていた。左手を心臓の辺りに当てて、右手を前に伸ばしていた祖母は何かを求めていたように思えた。苦しい顔のまま横たわっていた祖母は電池切れのおもちゃのように、びくともしなかった。

どうやら心臓病が発作したようだ。気の毒に、もう手遅れのようだった。

後で入ってきた母はその光景を見て一瞬硬直したが、我に返って慌てて部屋の隅にいる電話の元へ駆けつけて、近くの病院に連絡した。事情を一通り説明した後、母は父に電話をかけた。

母が電話をしている間、僕はこっそりと居間を出て、美雪のところへ行った。

彼女の部屋から淡い光が廊下に漏れてきた。軽くノックして、部屋に入った。美雪は机の前に本を読んでいだ。

「どうしたの?」と幾分戸惑っていたような口調で彼女は聞いた。どうやら祖母が倒れたことに気付いてなかったようだ。

「婆さんが心臓病で亡くなった」

「そう」

興味なさそうに美雪は答えた。彼女の顔から何も読み取れなかった。

「何か音聞こえなかった?」

「ええ。誰かが歩いていた音はあった気がした。特に気にしていなかったけど」

「そうか」

驚きの欠片もない彼女にバツが悪そうで何も言えなかった。本当は何かを確かめたくてここにきたわけじゃない。ただ彼女の反応を見たいのだ。心の片隅で、ざまあみろという気持ちがあった。もし彼女も同じ考えだったら、僕は罪悪感から救われるかもしれないと思い込んでいた。

でも無表情の彼女に本当のことを尋ねることはできなかった。挙句、無言で見つめ合うことになった。

彼女の目から何かを読み取りたいが、読み取れなくて、無意味に時間を過ごしていた。

「一樹、もう私に構わないで」

「えっ?なんで急に?」

突拍子もない言葉についていけなかった。

「急じゃないよ。ずっと考えていたんだ。ただ言うタイミングを逸らし続けただけ」

「なんでだよ?僕達は家族じゃないか?気に障ったことでもしたのか?なら僕に言えよ。二度としないから……」

「そういうんじゃない!」

美雪は珍しく音量を上げた。

「気付いたんでしょ?あの人達は私達が仲良くしているところを見たくないんだ。お互い寄り添っても傷付くだけだよ。だから今のうちに手放した方がいい」

違う、そうじゃないんだ、と叫びたかったが、言葉が喉に詰まって声を出せなかった。

「授業の方は大変だったんでしょ?その方に集中したほうがいいよ。私はもうあの頃とは違ったから、心配しなくていい」

「僕は……」

僕はただ君の心からの笑顔を見たくて、失った物を取り戻そうと生きてきた。そのために、どんなことがあっても大変だなんて思ったことはない。でも全てが思い通りに運んで行くどころか、逆方向に転んでいった。

何を言っても美雪の考えを変えそうにないと思い、切なくなって言葉に詰まった。

「私とあなたは他人なんだ。昔も、今も、そしてこれからも。そのつもりでいてください」

気のせいか、素っ気なくそう言っていた彼女はどこか悲しさを隠し持っているように感じた。

仮初な兄妹じゃなくても、僕らは幼馴染だよ。同じ屋根の下に暮らし、ずっと寄り添ってきたから、他人なんかじゃないよ。他人になりたくないんだ。

人影のない氷の世界に追放されたように、ただただやりきれなくて絶望な心境だった。

悲しむ暇さえ与えてくれなかったように、母がやってきた。

「一樹、ここで何をしていますの?今からお婆さんを病院に送りますから、あなたも来なさい」

少し怒ったように母は言った。それと同時に、負の感情の絡み合った眼差しでちらっと美雪を一瞥し、僕の手を取って強引に連れ出していった。

……

あの日から僕達は他人のようになった。

世界はいつでも変化を起こしているのに、人はどうして今日と大して変わらない明日がいつも通りやってくるのを信じているんだろう。それはきっと、僕達は今までずっとそうしてきたからだろう。でも本当のこと、明日のことは誰も知らないのだ。

今までの日常が急に一変され、なんも心の準備のない僕はただ霧の中で彷徨うしかなかった。

第二章完

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