プロローグ
よく晴れていた四月の昼下がりだった。僕はソファーに座ったまま、ぼうっとベランダから差し込んで来た日差しを見ていた。昼前に仕事が一件落着だったから、それからは何する気がなく、こうして見るともなしに陽溜りを見詰めている。
手持ち無沙汰になっていると、膨大な思考の波が押し寄せてくる。そして頭の中で海の音がする。波のように色んな物が勢い良く押し寄せて、そっと引いていく。両手を合わせて掬い上げようとも、手のひらからすり抜けていくだけだった。僕は何も掴めずに、ただただその波に身を任せるしかなかった。
やることがない時は、いつもそうだった。僕は苦手だったけど、どうしようもなかった。普段はなるべく自分に余暇を与えないようにしていた。しかし、どうしても手が空いてしまう時がある。
こうして部屋の中から四角いに切り取られた日差しを見ていると、膝元が寂しくなって、白のことを思い出してしまった。
一年前にどこかに行ってしまった猫のことだった。
そいつは何年前から飼ってきて、全身に真っ白な毛皮に覆われているから白と名付けた。猫は大抵難しい性格をしているそうだが、そいつは人懐っこくて、すごく可愛がっていた。
白はよくあの四角い陽溜りの一角を陣取って、日向ぼっこしていた。こっちが名前を呼ぶと、そっと首を上げて、二三秒僕と睨めっこして、おもむろに身を起こし、僕の膝に飛び上がってきて、それからくるりと丸くなって、気持ちよさそうにまた目を瞑った。
長い間、そいつと二人きりで過ごしてきた。そしてある日、突然いなくなった。去年のことだった。ちょうど春の終わる頃だった。僕は基本的に放任主義だったから、そいつが何日間姿を消し、また戻ってくるのが度々あった。でも、戻ってくれなかった。僕は近所を探した、何日も。やがて溜め息を吐いて諦めた。諦めるしかなかった。
本当に、頭から誰かさんに似っている。人懐っこさも、去る時の潔さも、呆れるぐらい似っている。そのせいか、いつもより落ち込んで、しばらく仕事もできなくなった。
飼うべきじゃなかった。いずれこんな日が来るのが分かっているのに。
それからペットは一切飼わないと決めた。晴れて一人暮らしに戻っている訳だ。
チャイムが鳴って、思考が一時中断となった。正直助かった。そのまま思考に溺れていると、底の見えない海の中から無数の手が伸びてきて、僕は為すすべもなくただ引き込まれていくような気がした。
「ごめんくださいーー」
尾が少し伸びた呼び声だった。
ふと気が付いた、午後には予定がある。
いつもお世話になっていた青森さんが電話で言っていた仕事の引き継ぎの件だ。先日電話で上擦った声で挨拶して、後日お伺いしますと伝えてきたその人の名前は、確か――
蒼木青子。
「どちら様ですか」
「あのう、先日ご挨拶させていただいた蒼木です。鬼束先生のお宅でいらしゃいますか」
インターホン越しでも彼女の緊張が分かる。
「蒼木さんですね。どうぞ、お入りください」
僕はドアを開け、彼女を家に入れた。
彼女は紺色のスーツを着ていて、髪型は少し茶色めいたショートボブだった。しゃっきりしたイメージを持たせたいだろうが、表情から仕草まで硬かった。
彼女は入ってから何も言わなっかた。ただ俯いて、肩に余計な力を入れていた。これはかなり緊張しているだろう。
僕は黙って彼女を居間に通し、どうぞお掛けくださいと言って、飲み物は何にすると聞いた。
「緑茶とコーヒーしかないですけど」
「コーヒーでお願いします」
「インスタントなんだけど、いいですか」
「はい、構いません」
まだ緊張している。彼女は畏まって言った。
僕は居間の隣にいる厨房でコーヒーを淹れ、また戻ってきた。
「意外?」
カップを彼女の前に置きながら、僕は穏やかの声で聞いた。
「えっ?」
彼女はふと頭を上げて、ピンと来ないような目で返事した。
「思っていたのと違うでしょう。もっとお洒落な感じで、少なくともインスタントなんかじゃなくって」
「いえぇ、私もいつもインスタントですから」
慌てて否定する。彼女はばつが悪そうな笑顔でフォローするところから見ると、いくらかは当てただろう。
僕は向かいのソファーに座って、一口コーヒーを啜ってからまた彼女に話かける。
「青森さんの様子はいかがですか」
「あ、はい。元気にしてます。この間も散歩がてら差し入れもってきて、皆と色々話していました。先生の話も、沢山聞かせました」
彼女の顔から自然に笑みが浮かんだ。始めて見せる本当の笑顔だ。
「そうですか。あと何ヶ月で出産するって聞いたんですけど、可愛い子が産まれるに違いないでしょう」
「ええ、きっとそうでしょう」
「彼女から僕の悪口が聞かれなかったんですか?気になりますね」
「いえ、先生は大変素敵な方だと仰言いましたよ」
慌てて否定する彼女はからかい甲斐がありそうだ。
「へい、てっきり悪く言われたと思いました。まあ、それはともかく。蒼木さん、そんなに固くならなくてもいいですよ。さっきから堅苦しい敬語を使って、大変でしょう。肩の力を抜いて、気楽にしましょう」
「はい。すみません」
ずばり言われて、彼女は照れくさそうに俯いた。
「今日は仕事しにきたんでしょう。そろそろそっちの話をしましょうか」
「あ、はい」
僕は用意してあった原稿を彼女に渡し、後生大事にそれを受けて、静かにチェックし始めた彼女をずっと観察していた。
彼女は若い。引き締まった肌につやつやした顔、淡い化粧で自然の美しさを引き立てている。真面目そうに原稿を読んでいる。さっきまで緊張していた彼女が読み始めた途端落ち着いた。こんなふとした仕草で人柄が分かる。そして僕は彼女に対して少し好感を抱いた。
かなり時間をかけて、彼女は読み終わった。一息ついて、彼女は楽しそうに言った。
「とても素晴らしい物語です。さすが鬼束先生」
「大げさですよ。いつも通りだけです」
「いええ、先生の作品はいつも素晴らしいです。何度読み直しても面白いです」
何やら熱の込めた話し方で、少し驚いた。それから彼女はスイッチが入ったように、僕の作品や自分のことについて色々話を聞かせてくれた。僕はただ静かに聞いていた。
話が一段落ついて、僕は本来言いたかったことを切り出す。
「実は次の作品はもう決めました」
「そうですか?どんなお話ですか」
彼女期待に満ちた眼差しで僕を見ている。
「さあ、どんな話でしょう」
どんな話であるか、自分でもうまく言葉で伝える自信がない。今までの物語ははっきりとした輪郭があり、僕のやることはただその輪郭をなぞって形作るだけだった。だからどんな話なのかは大体分かる。しかし今回は違った。輪郭も方向性も見えない。僕は外から物語を見ることができなくなったからだ。
「ああ、いいんです。話さなくていいんです。ネタバレされちゃうのも嫌ですから」
彼女は笑顔で取り繕った。
「まあ、でも、タイトルは決まっています」
「伺ってもよろしいですか」
「橋の彼方」
「橋の彼方」
と彼女は小さい声で復唱した。
「これを最後の作品にしようと思います」
「えっ?」
彼女はいままで一番驚いた顔で僕を見ている。
僕はこれ以上話す気はなれなくて、ただ笑顔で彼女に返事した。