閑話:とある住人の蒼炎
お願いだよ、アヤメちゃん。
その人は、そう言ってぎゅっとアヤメを抱きしめた。今も、そのぬくもりを忘れることができないままでいる。
アヤメが、兄に紹介したい人がいると言われたのは、いつのことだっただろうか。戦争が終わる何年か前の、多分、暑くなってきたころのことだっただろうか。実は結婚を考えているんだ、と照れたように笑った兄のトウヒが幸せそうだったことを、よく覚えている。
「リィサです、初めまして」
にこっと笑った女性の、ほんの少し寂しそうな表情の陰り。それでもトウヒを見上げて優しく微笑んだ眼差しに、アヤメは、確かな愛を見た。
母が父を見るときの眼差しに、よく似ていた。
「リィサ、ちゃん。あの、アヤメですぅ」
「アヤメちゃん、よくトウヒから話を聞いてるよ。すごく良い子だって」
「ひゃあ……!」
「アヤメ、怖くないぞー? リィサはアヤメのお姉さんになるかもしれない人だからな、仲良くしてくれると嬉しい」
「お、おねえ、ちゃん……?」
ちら、と見上げた女性の微笑みはどこまでも優しくて、穏やかで。この人となら仲良くなれるかもしれない、とアヤメは思った。おっとりしている上に人見知りなアヤメの性格だと、気の強い人には気後れしてしまうから、優しげなリィサの印象はとても良かったのだ。
よろしく、と握手をして。
その手がすごく冷たくて、でも、ぎゅっと握ってくれた指が細くてきれいで。この人がお姉さんになるんだ、とアヤメは思った。兄と並んでいる姿がまるでずっと隣にいたかのように、お似合いで。
お似合い、だったのに。
順調にお付き合いをしていたと思っていた2人の雰囲気が、少しギクシャクしてきたのはいつの頃だっただろうか。アヤメのいないところでなにか言い合う事が増えて、それでもお互いに思い合っていることは明らかで、どうしてこんなに喧嘩をするのだろうと不思議で不思議で。
「リィサちゃん、どうして兄ちゃんと喧嘩、するの?」
思い切ってそう尋ねた日、リィサは痛みをこらえるような顔をした。辛そうで、悲しそうで、「ごめんね」と小さく返された言葉は震えていた。
「トウヒはなんにも悪くないよ。私が、どうしても譲れないってだけ。このままトウヒと結婚しても、多分納得できないって、それだけ」
「リィサちゃん、兄ちゃんと、結婚して……くれないの?」
ショックを受けるアヤメに、リィサは困ったように微笑んだ。
「許されるなら、結婚したいと思っているし、トウヒとアヤメちゃんと、あと小さなユズキくんとも、家族になりたいな。……でも、私の事情で少し難しくて……」
今思えばリィサは、かなり詳しいところまで正直に告げてくれていた。アヤメがまだ小さくて理解できなかっただけで、最初から最後まで誠実に向き合おうとしてくれていた。
やらなければいけないことがあったけど、それをどうしてもやりたくなくて、今交渉中だ、と彼女は告げた。だけどその交渉がうまくいっていなくて、ちょっとゴタゴタしている。トウヒはそれを知って、危ないことはしないでほしいと言ってくれている……そんなことをゆっくりとアヤメにもわかるように説明してくれていた。
「リィサちゃん、危ないのは、だめだよぅ……」
なるほど、それならあの温厚なトウヒが硬い表情をするのも納得だ。アヤメもぎゅっとリィサの手を握って、必死に説得しようとした。
「リィサちゃんが、怪我しちゃったら、兄ちゃんも私も悲しい……」
「……ありがとう。でもそういう人たちがいるから、私も頑張りたいって思うんだ」
「でも、でも……!」
幼いアヤメには、とても難しい話だった。
リィサは穏やかな人だけれど、少し頑固なところがあるとトウヒも言っていた。このまま納得できなかったら、お嫁さんに来てくれなくなってしまうかもしれない。トウヒとリィサは並んでいてすごくお似合いで、だから、2人は祝福されて夫婦になるべきだとアヤメは思う。
トウヒがあれだけ真剣に止めているということは、リィサがしている「交渉」というのは、相当危ないことなのかもしれない。もしかして、命に関わるくらいの大事かもしれないのだ。
ただでさえ戦時中で、この里も安全とは言い難い立地にあるし、近所の人が魔物と戦って戻らなかったことだって何度もあった。ただ普通に過ごしているだけでもそれだけのリスクがあるのに、その上、更に危ないことをしようだなんて。
アヤメは喋ることがあまり得意ではないが、それでも必死にリィサを止めようとした。とはいえ、リィサの頑なな心を揺るがすことは、非常に難しいことだった。アヤメよりもずっと説得が上手いはずのトウヒが、どんなに頑張ってもなかなか折り合いがつかないのだから、当然だろう。
それでも、自分がとてもリィサを大事に思っていること。
家族になる日を楽しみにしていること。
こんなご時世だから、助け合って生きていきたいということ。
なにか困っているのなら、少しでも、力になりたいこと。
アヤメが必死でそういったことを伝えうると、リィサは嬉しいのと悲しいのが混ざったような、複雑な表情をした。それから、しゃがんでぎゅっとアヤメを抱きしめる。
「お願いだよ、アヤメちゃん」
祈るような、すがるような。
か細くて、でも、美しい声だった。
「私のこと、嫌いにならないでね。お願いだよ」
今思えば。
リィサにとってどれだけ、勇気のいることだったのだろうか。彼女が魔族だと打ち明けることは、とても分の悪い賭けだったはずだ。
彼女にとって里に暮らすことは、敵に囲まれてバレないように潜んでいるということで。もしも幼いアヤメがうっかり誰かにその事実をバラしてしまったら、里の住人たちに袋叩きにされたかもしれない。アヤメはすでにリィサを知っているけれど、里にいる住人が全員彼女を知っている訳では無い。
相手をよく知らないと、その人を信頼することは難しいだろう。里の人たちは決して短絡的ではないが、それでも、スパイだと決めつけられてしまったらどうなるか。
それでも。
それほどのリスクを背負っても、リィサはアヤメに教えてくれた。
彼女を信じることは、アヤメにとって決して難しいことではなかった。嫌いになるなんて、そんなこと、できるわけない。彼女の震える声を思い出す。抱きしめてくれたぬくもりを。大事な事実を教えてくれたその人に、アヤメが言えた言葉は一つだけだ。
「リィサちゃんのこと、大好き、だよ」
今、思えば。
アヤメとトウヒが大好きだよ大事だよと伝えることは、逆に、彼女に戦う決意を固めさせてしまった要因だったのだろうと、わかる。
彼女は、守ろうとしてしまったのだ。
自分たちを。おそらく、戦うすべを持たない幼いアヤメと、鬼人として戦えないこともないけれども基本は職人でしかないトウヒを。リィサは戦えるから、彼女は「自分が守らなければ」と思ってしまったのだ。だから、だからきっと。
彼女が戦ってしまったのは、アヤメのせいだ。
アヤメの言葉が、きっと後押ししてしまったのだ。
それでも、それでもあの時、他に何を言えただろうか。
手作りの墓標の前に花を備えて、アヤメはじっとそこに刻まれている丁寧な文字を目でなぞった。
最愛の人、リィサ。
思い出すのは、アヤメの持ち物に名前を書いてくれた、兄の姿だ。字が綺麗だと両親に褒められて、照れたように笑っていた兄の思い出。ユズキが生まれた時に、命名の紙にその名前を書いて掲げてくれたのも兄だった。
どんな思いで、これを刻んだのだろう。
「リィサちゃん」
呼びかけても、返事はない。家族になりたいと言ってくれた彼女の言葉に嘘はなかったと信じている。でもきっと、その言葉に込められた別の意図があった。
あの時、兄にもし、戦うためのスキルがあったら。
あの時、アヤメがもし、もう少し大きくて、戦うことができたなら。
そうしたら彼女は、もっと長く一緒にいられたのだろうか。本当の家族に、なれたのだろうか。おねえちゃんと、呼ぶ日が、来たのだろうか。もしも願いが叶うなら、アヤメは、あの日にリィサを守りたかった。彼女に守られるのではなく、守りたかったのだ。
「リィサ、ちゃん……」
川の流れ着く先で、兄と彼女は会えただろうか。会えていますように。そして、どうか、叶うなら、アヤメが行くまで待っていてほしい。守ってくれたのに、まだお礼も言えていない。
でも、会えたら何を言えばいいんだろう。
多分、言葉より先に涙がぼろぼろこぼれ落ちて、止まらなくなってしまいそうだ。
大きく息を吐いて、もらったお守りを取り出す。ナツという明るい少年が、アヤメにくれたものだ。炎鳥のお守りだというそれは、死者の魂を大いなる川へと送ることができると言っていた。そんなすごいことをお守り一つで再現できるとは、あの少年は凄腕だなと思う。
彼女が亡くなって、もうだいぶ時間が経っている。きっと今頃はどこかの岸辺に泳ぎ着いていることだろう。でも、もしも、万が一……魔族はこの世界の生き物ではないから、もしかして道がわからなくて彷徨っているかもしれない。もしまだ兄と会えていないなら、それは、全力で自分たちを守ってくれた彼女に対してあまりにも酷だ。
そっと、そのお守りを墓に向けて差し出す。
「リィサちゃんがもし、迷っていたら……」
どうか、大いなる川よ。
受け入れてほしい、アヤメの家族を。かけがえのないその人を、どうか、魔王に生み出された存在だからと、弾くことがありませんように。
「青炎よ、道を、どうか、示してください……」
囁くようなアヤメの言葉に、お守りが淡く青い光を放つ。そして眼の前の墓へ、青い炎がざっと広がった。揺らめく炎は優しいゆりかごのように墓標を包み込む。
青い炎は慈愛の炎。
亡くなった人の魂を、迷わぬように川へと送るための、道標。
ただただ美しいその炎のゆらぎを見ていると、自然とアヤメの目には涙が浮かんできて、慌ててそれを拭う。この優しい色を、覚えていたい。ちゃんとそれが消えるまで、リィサの魂をきちんと川へ見送りたい。
炎鳥の炎はそういうものだから。この炎が焼くならば、その躯に宿っていた魂は、必ず川へとたどり着くだろう。
ゆらゆらと炎が揺れる。
青い炎はただただ優しく、墓標を包んでいる。
どうか、兄と彼女が無事に会えますように。今度こそ幸せになりますように。彼女が魔族という呪縛から開放され、なんの憂いもなく兄の手を取れますように。今度こそ、今度こそ兄が、彼女を守れますように。ただひたすらに、そんなことを祈る。
お願いだよ、と幼いアヤメを抱きしめた彼女の、祈りを忘れられない。あんなに不安そうに、切実に、嫌いにならないでほしいと告げた彼女の心情を思う。どれほど不安だったのか、どれほど勇気を振り絞ったのか、その不安を自分は、ほんの少しでも拭うことができたのか。
炎が徐々に小さくなり、やがてふわりと消えていく。
アヤメは大きく息を吐いて、しばらくそのまま、懐かしいその人の穏やかな微笑みを思い出していた。
*
その夜、アヤメは夢を見た。
黒い魚の夢だった。
その魚は、まるで泳ぎ方を知らないかのように、水の勢いに流されてあっちへこっちへふらふらと押されてしまう。
先へ行きたい魚の思いとは裏腹に、水はその魚を拒んでいるかのようだった。何度も何度も押し流されて、何度も何度も必死ににじり寄って、それでも一定の場所まで来ると、魚は眼の前に広がる水の流れに阻まれて、どうしても先へ行けない。
アヤメはじっとその魚を見ていた。見ているうちに、頑張れと応援する気持ちが大きくなったけれど、水の中の魚に力を与えることなどアヤメにはできない。
ただ、頑張れ、と心の中で応援する。それしかできないのに、懸命に流れに逆らおうとする魚から目を離せない。
頑張れ、頑張れ。
もう少し、あとほんの少し。その渦を超えたら、そしたら……。
どれくらいの間、その光景を見ていただろう。ふと、黒い魚が青い炎に包まれる。驚いたように必死で体をくねらせ、尾ひれをばたつかせた魚の表面から、黒い表皮が、ボロボロとこぼれ落ちていった。
大きく跳ねた黒い魚から、その時、真っ白な光の玉がぽんと飛び出す。
それはぽちゃりと落ちた水の中を、魚のようにすいすいと泳いでいった。さっきまであれほど魚の邪魔をしていた渦も、強い流れも、すっと消えて水面はすっかり静かだ。
ずっと拒まれていた境界線を超えて、先へ、先へ。光はひたすらに進む。泳いで、泳いで、そうして、大きな川へとたどり着く。
色とりどりの光が、その巨大な川の至る所を泳いでいた。赤、青、黄色、何色も色が合わさったものもあれば、2色がまざりあったものもあるし、透明に近いものもある。
きらきら美しく輝くその川を、白い光が泳いでいく。まるでずっと探していた宝物に走り寄るように、純粋な喜びが伝わってくる。
アヤメが追いかけられたのは、そこまでだった。
その先へは、まだ行く資格がない。
でも多分、アヤメは知っている。
この光のあふれる川の何処かに、あの白い光をずっと待っている存在がいることを。あの黒い魚が必死に泳いで境界線を越えようとしていたのと同じ時間、きっと越えると信じて、アヤメと同じように、ずっと応援していた誰かがいることを。
いつか、アヤメもそこにたどり着くだろう。
たとえ夢から覚めた時、この光景を何一つ覚えていなかったとしても、きっと。




