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閑話:とある住人の怒り

 理解できない、と思う相手がいるとして。

 ではその人が何を思って、何を信じて行動したのか。せめてそれを知りたいと思う。いつか何かを噛み砕けることを願って。


 ヴェダルの父が消えたのは、戦時中真っ只中のことだった。文字通りの、蒸発。何の痕跡も残さずに、ある日ふっといなくなった。いつもどおりの何の変哲もない日だった。ただ、夏の終わりの物悲しい季節だったことだけを、覚えている。

 母と、父と、自分。3人だけでひっそりと住んでいた家に父が戻らなくなって、母と二人で随分心配したものだ。もしかして魔物に見つかって殺されたのではないかとか、魔王軍に殺されたのではないかとか、事故に巻き込まれたのではないか、とか。

 その時ヴェダルはまだ7歳。人並みに父を尊敬していたし、戦いの中で右腕を失って前線から戻された母のことを、誇りに思っていた……のに。


 父が自発的にクルムを出ていったことを知ったのは、それから2週間も経ってからだ。他の街へ父を送っていった馬車が戻ってきて、ちょうどそこに父を探していたヴェダルが通りかかったことから、教えてもらうことができた。

 父は普段通りの格好で、少し大きめのカバンを肩から下げた姿で、ちょっと出かけてくるとでも言うような様子だったという。クルムを出て、ナナミとクルムの中間にあるフェアリーたちの集落で降りたと言われて、無事だったのかとホッとするのが半分、何をしにそんなところまで言ったのかと訝しむのが半分。なんだか嫌な予感がして、それが一体何なのかもわからないまま、母にその事実を告げた。

「そう、あの人、逃げたのね」

 ぽつりと呟かれた母の言葉の意味を、その時は理解できなかった。


 逃げた、というのなら。

 クルムは危険な街だった。ナルバン王国では最前線のジュードの次に激戦区と言われている。街にもともと住んでいた民間人は徐々に他に移り住み、兵士や傭兵たちが次々送り込まれてくる。物々しく重苦しい雰囲気は日に日に増していて、父は何度か移住を母に提案していた。

 母は生まれ育った街を出ることを渋り、今まで住み続けていたのだ。だからきっと、安全な居住地を求めて出ていったのだろう、とヴェダルは考えた。

 実際一家の住んでいた家もボロボロで、かろうじて生活ができるような状態だったし、街も酷いものだった。今にも魔物に蹂躙されてしまいそうなクルムに、父が危機感を抱いていたというのならば理解できる。それでも、一人で出ていくことはなかっただろうに、と思うけれど。

 自分か、少なくとも母に、家を出ると言ってくれれば。複雑な思いはあっただろうけれど、理解を示すことはできたように思う。

 せめて父が、どこか安全で暮らしやすい街を見つけて、自分たちを呼び寄せてくれる日を待つしか無い。でも、それすらも厳しくなっていったのは、秋になったころのことだ。


 腕を失って暮らしに苦労していた母が、傷口から細菌が入り込んだとかで、ひどく体調を崩してしまった。何日も高熱にうなされ、起き上がることすらままならない状態になってしまったのだ。

 普段ならこういう時、甲斐甲斐しく世話を焼くであろう父がいなくて、ヴェダルはまだ子どもで非力だ。自分ひとりでは介護すらできないという現実に打ちひしがれていた時、助けてくれたのがシエラとシエラの母だった。

 それまでも近所に住んでいたことは知っていたけれど、戦時下では交流もままならず、言葉を交わしたことすらなかった。それなのに、一人で母を支えようとする7歳のヴェダルを見るに見かねて、「手伝うよ」と言ってくれた。

 彼女たちとの出会いは、ヴェダルの人生の大切な礎のひとつとなった。獣人族でヒューマンよりも力が強いシエラたちが手伝ってくれたから、なんとか母の看病をすることができたのだ。

 意識のない人間の体というのは、本当に、とにかく重い。

 ぐったりと力なくベッドに横たわる母は、戦士として前線に出ていたことが信じられないくらい、弱弱しく見えた。


 今にも死んでしまいそうな母を前にして、ヴェダルには父のことを考える余裕はなかった。どうにかして母の気を紛らわせてあげたい。

 戦時中のこの状況では、治療するにも医者がいない。回復魔法では怪我しか直せないし、薬師もあてがなかった。腕のある医者や魔法師は、みんな前線へ行ってしまう。他の街へ移動して医者を探す事ができれば一番良かったが、ヴェダルはクルムから出たこともない。何処かから医者を探してくるにも、それが困難なことはよく分かっていた。

 自分にできることはなんだ?

 一番、母が喜ぶことは?


 考えた末に、ヴェダルはシエラの母に習って卵粥を作った。父が残していったレシピを使って、包丁の使い方や火の使い方をすぐ側で教えてもらいながら、ぎこちない手つきで作った粥を差し出した時、母は嬉しそうに笑って、本当に、嬉しそうに笑って、くれて。

 もうすぐ冬になるという、寒い秋の日だった。

 なれない手つきで作った粥は、おいしいと言うには何かが足りなくて、でも別に不味くもない普通の味だったけれど。それでも。

「父さんのほど美味しくないけど」

 と差し出したその卵粥を食べて、母は、静かに泣いたのだ。

「ありがとう、ヴェダル。たった今、私の世界一好きな料理はこれになったよ」

 こぼれた涙を拭いもせずに、母はヴェダルに向かってそう言った。思わず「今までは?」と聞いてしまったヴェダルに、母は答えなかった。……それが、全てだ。


 父は戦う力のない人だったけれど、料理だけは誰よりも上手だった。クルムで炊き出しをする時は必ず声がかかったし、本人も戦争が終わったら店をやりたいと言うほどだったのだ。

 母が美味しいと食べる姿を誰より幸せそうに見ていたのに。

 母が笑うと、自分の事のように喜んでいたのに。

 父が母を愛していたことは疑いようもないのに。

 ……それなのに、なぜ。


 母は、それからまもなく川へ行き、二度と会えない人になった。

 父からの連絡をずっと待っていたけれど、とんと音沙汰はなく。炊き出しを手伝ったり、シエラの母に習って少しずつ料理の基礎を学んだ。ただ、母が自分の料理を好きだと言ってくれた、そのことを忘れたくなかった。

 危うい綱渡りで生き延びて数年、ついにクルムには民間人の退避命令が下る。兵士たちの武器の修繕を仕事にしていたシエラの父も、前線から戻ってきて、彼ら家族がヴェダルを外へ連れ出してくれた。

 クルムを出て、ナナミ、ニム、イチヤへ。そしてシエラの親戚を頼って、サンガへ。


 ずっと。

 ずっと、考えていた。

 なぜ父はあの日、出ていったのか。何から逃げたのか。

 なぜ誰にも何も言わず、一人だけで消えたのか。

 なぜ。


 わからないから知りたかった。理解できなくても噛み砕くことくらいはできるかもしれない。なにか理由があるというのなら、それだけで少しは救われる思いがある。

 父に会いたかった。もう死んでいるかもしれない、いや、きっと死んでいるだろう。でも、母を一人で死なせた父に、死んでいたとしてもぶつけたい怒りがあった。

 なぜ。

 なぜ最後に、残った左手を掴んであげなかったんだ、と。守るために犠牲になった右手を、あれほど泣いて惜しんだくせに。なぜ。


 永遠にも思われた戦争が終わり、サンガで生きていくことを決めたヴェダルは、やがてシエラと結婚して家族になった。料理を作り続けたい気持ちは強く、良い師匠にも巡り会えて、一度崩れた足元がだんだんともう一度固まっていくのを感じていた。

 シエラが自分の料理を食べて「美味しい」と微笑むと、幸せな気持ちになる。そのためにもっと作りたくなる。もっと頑張りたくなる。

 ふと、子供の頃に母の食事を嬉しそうに見つめていた父の姿を思い出して、こういう気持ちだったのか、と理解した。やはりそこに、愛は確かにあった。ならば、なぜ。


 繰り返す疑問が、答えのない問いが、ずっとヴェダルの中で渦巻いている。そんな、ある日のことだった。

 サンガの復興状況を見に来るという名目で、王族が視察にやってきたのだ。ナナミからめったに出てこない殿上人を一目見ようと、サンガは沸き立った。戦後復興の真っ只中、久々の慶事と呼べることだったから、サンガ中が祭りのような浮かれ模様だった。

 そして……王家をもてなす舞台として、選ばれた最も格式高いレストランが、「天上の庭」だ。復興途中にありながらも、高級レストランとして常連客を持つそのレストランは、サンガで一番美味い店と噂されていた。

 大々的に行列を成してサンガに入った王家の馬車を、ギルド前広場で出迎えた領主とレストラン関係者。その、中に。

 知った顔を見つけた。

 見つけて、しまった。

 メインシェフとして王族に紹介される、自分の、父を。


 彼は戦争で妻子を亡くし、天涯孤独になった身の上でーー


 どこか遠くから聞こえてくるそんな紹介の言葉が、ヴェダルの耳を素通りしていく。ただ食い入るように見つめたその男の顔は、王家に紹介されるという名誉にも関わらずどこかつまらなさそうで、笑った顔も嘘くさくて。

 なぜ。

 なぜそんな顔で笑う。

 あんたはもっと、でろっと甘い顔で母をみていたじゃないか。

 母が笑うと、世界で一番うれしいみたいな顔をして、弾むような声で話しかけて。鼻歌を歌いながら、母のためにいつだって甲斐甲斐しく働いていた。

 なぜ。

 なぜ、そんなつまらなさそうに生きている。

 あんたは自ら進んで妻子を捨てたくせに、まさか、そうまでして掴み取った人生を、つまらないものだとでも言うつもりなのか。そんな、そんなの。



 ふざけるなよ。



「シエラ、俺はサンガで一番のシェフになる」

 それを決めたのは、その時だった。

 その時までは、シエラのために作れればいいと思っていた。シエラが喜ぶなら、シエラの喜ぶものを作って生きていきたいと思っていた。でも、だめだ。

 あの男を打ち負かさなければならない。そして、問わねばならない。お前の人生にはどんな意味があったのかと。お前は何から逃げてきたのかと。

 お前が逃げた、その先にある今は。

 お前が捨ててきた、それまでの人生よりも幸福なものだったのか。

 「はい」というのならばなぜそんなつまらなさそうな、人生全てに飽き飽きだという顔をするのか。「いいえ」というのなら、なぜ一人で消えたのか。わからない、理解できない。ヴェダルなら、あの迫りくる戦場のクルムで、シエラを残してどこかへ逃げるくらいなら、シエラと一緒に死ぬほうが良い。恐怖も痛みも、シエラ一人に耐えさせたりしない。

 でもそれはヴェダルの愛の形だ。それなら……お前の愛は何なんだ。


 ひたすらに料理の腕を磨いて、磨いて、磨いて。

 やがて若手ナンバーワンと言われるくらいの地位にまで来た。おあつらえ向きに料理大会の復活が叫ばれ、サンガの街が鮮やかに色づいて行く。大会にはあの男が必ず出てくる、なぜならサンガで一番と言われている店のメインシェフだから。店のプライドをかけて負けられないし、店の宣伝のために圧倒的に勝たなくてはならない。

 だからヴェダルは、勝ちたい。

 勝って問いかけたい事がある。ただそのためだけに、一番をあの男から奪い取りたい。なあ、あんたの愛した妻は、最後まであんたを探していたのに、なぜ戻らなかった。母はヴェダルの作った粥を世界で一番好きだといったが、世界で一番美味いとは言わなかった。

 母の一番は、最後まであんたのものだったのに、それなのに、なぜ。


 理解できない、と思う相手がいるとして。

 ではその人が何を思って、何を信じて行動したのか。せめてそれを知りたいと思う。いつか何かを噛み砕けることを願って。

 なぜ、に返答があるかどうかはわからない。でも知りたい。静かな怒りと向き合って、ヴェダルは大きく息を吐く。

 ヴェダルがその男を父と呼ぶことは二度と無い。男の妻子は死んだらしいので。

 だから唯一人の人間として、彼に問いかけたいことがある。


 なあ、なぜ、あんたは。

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