閑話:とある住人の希望
ほんの少し未来の話かな。
宝石みたいな青いガラスのついたペンダント、おばあちゃんからもらったオルゴール、クローゼットに大事にしまっておいた宝物のワンピース。
両親が居て、祖父母が居て、日当たりの良い家はいつも優しい陽だまりの匂いがした。
お隣のお兄さんにもらったお菓子の包み紙、親友だった女の子と交換したぬいぐるみ。ミーアの大事にしていたものは、全部、全部、戦争に持っていかれてしまった。
ミーアが生まれたのは戦時中のことだったけれど、サンガは立地的にも魔国からは遠い方だったし、立地的にも防衛向きだったこともあって、7歳になる頃まではそれなりに平和だったような記憶がある。
帰る家もあったし、食事もそれほど困窮していたわけではなかった。近所の子どもたちとも遊んだし、時々青空教室で勉強もしていた。誰かが死んだとか何人帰らなかったとか難しい顔をしていたのは大人たちだけで、子供にとっては、戦争なんて遠い世界の話のように思っていたのだ。
実際には、大人たちが必死で子供を守ろうとしてくれていただけだったのに。
7歳の冬、ミーアの人生は塗り替えられた。
その時初めて、サンガの城壁を乗り越えて魔王軍からの攻撃が街に向けられたのだ。北門方向に回り込んだ魔王軍の魔法が、壁を超えて投げ込まれた。その豪炎の魔法に、住宅街が焼き払われ……それで全焼した家の一つが、ミーアの家だ。
自分以外の家族が全員川を泳いだことで、ミーアは叔父に引き取られた。一体なぜこんな事になったのかと、ミーアはどうしようもなく途方にくれた。わからなかった、どうしてあの優しい人たちが死ななくてはならなかったのか。
「ミーア。希望を持つんだよ」
叔父は繰り返し、何度もミーアにそう言った。従姉妹のお姉さんも、あなただけでも無事で良かったと抱きしめてくれたのだけれど、ミーアにはどうしても、どんなふうに解釈しても、自分が生き残ったことが「良かった」だなんて、思えない。
それでも叔父は何度も言った。
「希望を持つんだ。最後に人に力をくれるのは、きっとそれだけだ」
その時は、頷けなかった。理解できなかったから。
でも今ならば少し分かる。あの、虚無のような10年間を過ごす中で、ミーアを諦めない方に引っ張ってくれた力は、確かに希望だったのだと思う。
家族を奪った魔王軍に対抗するため、ミーアは必死で弓の技術を磨いた。これは父が得意だった武器であり、子供でも扱える武器の1つだった。
12歳になる頃には、十分戦力になると判断されて護衛任務につくことが時々あった。それほどまでに人手が足りなかったのだ。
サンガには、食料や物資などを分散して保管していた場所が3箇所ほどあった。ミーアが知っているのはそのうちの1つだけだったけれど、隠しておかなければならないものだったから、全部の場所を知っているのは防衛隊の上の人たちのごく一部だけだったと聞いている。
ミーアが固定メンバーに入っていたのは、その中でも一番安全と言われている隠し砦へ行く輸送隊だ。隊長は4等星のハイデン、魔法使いのレーナに、護衛のナーズと荷物の台車を引く防衛隊のメンバーが2人。これにミーアが加わって6人の、ごく少数の部隊。
砦には食料品の保管と管理をしている老夫婦が住み込みで暮らしていて、彼らは持病を持っていて戦争では戦えないからと、砦の管理人を引き受けてくれていた。隠し砦が万が一見つかったときはこの老夫婦を守って逃がすために、防衛隊のドワーフの兵士が2人付いている。
魔王軍に見つからないように、輸送部隊は暗くなり始めた夕暮れ時にサンガを出て、夜のうちに砦にたどり着き、真っ暗な中で荷物を台車に積み込んでから砦に一泊して、翌日の早朝の内に帰る。いつもと同じようにそのルーティンをこなそうとしたその日こそが、戦争が終わった日だった。
魔王の呪いについて、最初はみんな半信半疑だった。そんな馬鹿なと、ミーアも思っていた。
でも、本当だった。思い切って一歩踏み出した兵士の1人が、砦の外で右へ左へとぐるぐる歩き周り、すぐそこで見えているはずの砦の門にさえ戻れること無く森へ消えた時、砦に残っていた9人は心から絶望したものだ。どうすればいいのか、どう動くのが正解なのか。
話し合いは長く続いた。
「自分たちはすでに老い先短い身だし、持病もある。今更外へは行けない」
と老夫婦は苦く笑った。
「私は砦を守る。それが任務だったのだから。それに、魔王軍が消えたとしても、魔物がいなくなったわけではない」
と、ドワーフの女性兵士は老夫婦の隣でそう言った。
「自分たちは体力に自信があるし、なんとかサンガを目指してみる。もしたどり着けたなら、この砦のことを皆に伝えられる」
と、輸送隊の荷物持ちとして付いてきた兵士2人は請け負った。
「自分には責任がある。ここに残る人を生かすための努力をしたい」
とハイデンは言って、レーナもナーズもそれに従うと言った。
「私は……、私は動けないよ」
ミーアは、混乱する中で、ただそれだけを言うのが精一杯だった。まだ子供のミーアに、自分の意思で決断をするようなことが出来るはずがなかった。震えながらそれだけを口にしたミーアに、ナーズは痛ましいものを見るような眼差しを向けて、ハイデンは唇を噛む。こんなことになるならば連れてこなければ良かったと、そんな表情だったのだろう。
「……ミーアは、私が守る」
そんな中で、そう言ってくれたのがレーナだった。ミーアより10歳以上年上の大人のお姉さんだったレーナが、しっかりとミーアを抱きしめて、誓うように繰り返してくれた。
「私が守る。必ず、一緒にサンガに帰ろう」
祈るような言葉だと思った。ミーアは、彼女のその言葉を、信じたかった。
地獄のような10年のことを、ミーアはあまり覚えていない。
思い出したくなくておぼろげになっているだけかもしれないけれど、過ぎてしまえばそんなに経っていたのかという感じでもあった。空腹を抱えて眠り続けた日もあれば、空を横切る鳥を弓で仕留めた日もあった。庭の土は農業向きではなかったけれど、それでもなんとか穀物を実らせることは出来ないかと必死で全員で工夫した。実りがあれば、どう保存するかを全員で考えながら、力を合わせて生きていく。
老夫婦は、3年目で立て続けに亡くなった。
「あんたらには悪いが、一人ぼっちで死ぬことにならなくて、俺は嬉しいよ」
そんなことを言って死んでいった男性の顔は穏やかで、どこか、悲しげで。ナーズとハイデンが掘った穴に埋めて、簡素な墓を立てるのが精一杯だったけれど、あの表情を忘れることができない。ミーアをサンガまで抱えてきてくれた犬獣人のトラベラーに、どうかあの夫婦の墓をサンガに移してほしいとお願いしたのも、彼らがさみしくないようにと思ったからだ。
トラベラーは快くそれを引き受けてくれて、翌日には早速彼らの遺骨を運んできてくれた。サンガの兵士たちが、ミーアの代わりに老夫婦の身内を探して必ず弔うと約束してくれたことで、肩の荷が降りたような気がする。
5年目からはナルが来てくれたお陰で、果実や木の実などが食べられるようになったけれど、砦の過酷な状況には終わりが見えなかった。服は、隠してあった物資の中から見つけ出したし、水はレーナの水魔法で作れたから、水しか飲めないような日があってもなんとか生き延びたけれど、辛いものは辛い。
8年目くらいが、多分一番苦しかった。もうここから出られず、ひっそりみんな死ぬんだと思って夜な夜な泣いた。それが過ぎるともう何もかもどうでも良くなって、諦めが心をよぎる。どうせみんな死ぬんだから、いっそここから出て正道を探してみようかと思ったりもした。
でも、ミーアには出来なかった。
「ミーア。希望を持つんだよ」
叔父の言葉が、この頃になると何度も、頭に浮かんでは消えた。
一緒に帰ろうと言ってくれたレーナを置いて、1人で外に出るなんて出来ない。それに……希望と言えるものなのかわからないけれど、ミーアにはどうしても、もう一度会いたい人がいた。
好きな人、というべきなのか、今も迷っている。
初恋の人、というにはまだ、それが過去になったわけではないし。
でもただの好きな人に、ミーアの生死のような重たいものを委ねてしまって良いものだろうか。わからない、でも、この絶望を乗り越えてでも、もう一度会いたいと思う人がいて、その人が戦争を生き残ってサンガにまだ暮らしていることを、ミーアはただただ祈っていた。もう一度会えるというのなら、そのためだけに、ミーアは石にかじりついてでも生き残りたかった。
隣の家のお兄さんだ。
ミーアの3つ年上で、不器用で優しかった。同じくらいの年齢の女の子たちは、足が速いとか明るくて話しやすいとか強いとか、そういうことで別の誰かにきゃーきゃー言っていたけど、ミーアは、足が早くなくても特に明るくなくても強くなくても、お兄さんが良い。
青が好きだと言うと、「ああ、似合うな」と笑ってくれた。擦り傷を作っていると絆創膏を貼ってくれたし、叔父に引き取られて落ち込んでいた時には何も言わずに頭を撫でてくれた。焼け落ちたミーアの家の瓦礫の山の中から、壊れて歪んだ青いガラスのペンダントを拾ってきてくれた。
「あんまり泣くなよぉ、いつか直してやるからさ」
お兄さんがそう言ってくれたから、ミーアはそのペンダントの残骸を宝物のようにしまっておいた。中央にはまっていた綺麗な青いガラスは割れてしまったけれど、お兄さんがミーアのために頑張って探してきてくれたことに、悲しいことばかりで凍てつきそうだった心が温められたような気がしたのだ。
お兄さんは、いつもミーアより年下の弟と一緒で、弟が遠くで転べば「何やってんだよ」とか言いながらすぐ駆け寄ったし、弟がガキ大将に泣かされれば、弱いくせに「家の弟に謝れ!」と怒鳴り込んでいった。力の強いガキ大将にも正論を説いて口で言い負かしてしまう頭の良さがかっこよかった。いつも難しい顔をしていたし、あんまり笑ってくれなかったけれど、ミーアの元気が無い時はいつも最初に気づいてくれた。
「お前具合悪いなら寝てろよぉ、ほら、送ってってやるから」
と家まで送っていってくれたことも、1度や2度ではない。
ミーアは、希望というものがあるのだとしたら、それはお兄さんのことに他ならないと思う。だって、希望というのはまばゆいものだ。ミーアにとって一番まぶしく温かいのは、いつだってお兄さんだった。
10年。
10年もあれば、あの不器用で優しい人には、もうすでに恋人がいるだろうか。
叔父一家が大喜びで迎えに来てくれた時、従姉妹のお姉さんにそっと耳打ちして尋ねたのは、お兄さんがまだ生きているかということの確認だった。もちろん、と肯定された時、どれだけ嬉しかったかわからない。
でも、10年だ。
叔父たちは身内だから、ミーアのことを覚えていてくれた。再会を喜んで、お祝いをしなきゃとはしゃいで、最後には泣きながら抱きしめてくれた。でも、お兄さんはどうだろう。もう、忘れてしまったかもしれない。
12歳のころの自分から、自分はちゃんと成長出来ているのだろうか。今の自分は、22歳にふさわしい中身なのだろうか。お兄さんは、今のミーアを見て、ほんの少しでも素敵な女性だって思ってくれるだろうか。
叔父たちはミーアに、元気になったら好きなことをしなさい、と言った。
好きなものを食べて好きなことをして、好きなものを買って。今までそういうことを何も出来なかったのだから、心に栄養を与えると良い、と。きれいな服を着たり、美味しいものを食べたり、そういうことを。
好きなこと、と言われて、真っ先に浮かんだのはお兄さんだ。
お兄さんに会いたい。覚えてないかもしれないけど、それでも会いたい。ただいまを言いたい。
相変わらずちょっとやる気がなくて、眠そうなんだろうか。誰か、あの人の優しいところを理解してくれる人がいるのだろうか。もしかして、ミーアのことを覚えていてくれないだろうか。
どきどきしながら青いワンピースを選んで、従姉妹のお姉さんに初めてお化粧をしてもらった。ちょっぴりいつもより綺麗な自分が、鏡の中で緊張の面持ちをしている。
「ミーアちゃんは美人になったから、レストくんはわからないかもねえ」
なんて、お姉さんは言う。そうだろうか。でも、わからなくても、美人だと思ってくれたら嬉しいな。
お兄さんのお店を教えてもらって、夜だけ開いていると聞いたから、お客さんを装って会ってくると家族に告げて外に出た。風が涼しく頬をなでて、空は満点の星空で、道路には街灯が灯っていて、そんな当たり前の風景がミーアにはとても感動的に思える。一歩一歩進むたびに、心臓がどきどきと音を立てた。
時間をかけてその店の前に立った時には、家を出てから30分も経っていた。普段なら歩いて10分くらいの距離なのに、流石に緊張しすぎかもしれない。大きく深呼吸して、思い切って扉を開ける。
「いらっしゃい」
落ち着いた声色が、ミーアの耳に飛び込んできた。
お兄さんだ。
お兄さんがいる。
「あ……」
どうしよう。言いたいことが色々あって、なんて言うか一生懸命考えてきたのに。お兄さんが全然変わってないから、真っ白になってしまった。
少し眠そうで、ちょっとやる気が無さそうで。だらりと椅子に座っている初恋の人を、ミーアは見つめる。なにか言わなくてはと焦るほど、言葉が出てこなくて思わず手を握りしめた。そうしているとカウンターに座っていたお兄さんは、ふと顔をあげてこっちを見て、目が合った。
ああ、どうしよう。
今の格好、変じゃないかな。風に吹かれて、せっかくのヘアセットが崩れてないかな。青いワンピース、私は好きだけど、お兄さんの好みはどうなんだろう。それに、それに……。
「ああ」
お兄さんの声がする。
どうしよう。夢じゃない。もう一度会えた。
泣きそうになってうつむいたミーアに、カウンターからお兄さんが立ち上がる音が届いた。あ、どうしよう。急に泣き出すお客さんなんて、迷惑なことこの上ない。泣き止まなきゃ、と思うのに、涙が次から次へと溢れて止まりそうにない。
10年。
ねえ、お兄さんの10年は、どんな10年だったの。
ミーアはぐるぐるする思考をなだめるように、大きく息を吐く。涙は止まらない。でも、それでも。必死で涙を拭っているミーアの視界に、手が差し出されたのはその時だった。
「ほら」
お兄さんが言う。
差し出されたのは、青いガラスの付いたペンダントだった。
「……あ」
宝物にしていたものとは少し違うけど、きれいな青色の。思わず涙を拭うことさえ忘れて顔を上げると、お兄さんは呆れたような表情で小さく息を吐く。
「完全に同じには出来なかったけどなぁ。直しといたぞ」
お兄さんの手が、ミーアの手をとって、ペンダントを握らせる。ひんやりとした金属の感触よりも暖かな指先が触れたことに、心が震えた。
「お、にい、さん、」
「おぉ。流石に10年も待たされるとは思わなかったぞ。でもよかったなぁ、ミーア。ようやく戻ってこれて」
「わ、私、」
「うん」
どうしよう。何を、言おうと思っていたんだったか。
全部忘れてしまったけど、でも。
レストお兄さんが、不思議そうに瞬きをする。きれいな、青色の瞳。
「私、青色が、好きで」
「うん? あぁ、そのガラスきれいな色だろ、同じ色頑張って探したんだ」
「あなたの色だからだよ」
「ふぇ」
青が好きだ。好きな人の目の色だから。好きな人が似合うと言ってくれたから。
青が好きだ。空の色だから。見上げればあなたを思い出せたから。
自分でも驚いたけど、そのことに、今ようやく気がついた。ずっと好きだと思っていた青色。初恋の人の目の色。10年経っても、やっぱり、青が一番好きだ。
驚いたように見開かれたお兄さんの瞳に、今、ミーアはどんなふうに映っているんだろうか。本当は美人だって思ってほしかったけど、でも、覚えていてくれたんだったらもういいや。ぼろぼろに泣きながら、それでも、ミーアは笑った。
「ただいま、レストお兄さん」
ただいま、ミーアの好きな人。
変わらずあなたが優しくて、本当に嬉しい。
あなたがいたから10年を超えてきた。
希望はあなたとともにあったよ。




