閑話:とある住人の奮闘
ラリーさんのお話です。
ラリーという男の話をしよう。
その、なんてことない人生の、どうってことない日々の中で、譲れないものの話を。
ラリーが生まれたのは、ちょうど開戦の年だった。物心がついた頃にはすでに戦時中で、ラリーは言葉を覚えるよりも先に緊急警報の音を覚えたくらいだ。
父はサンガで一番大きな書店を営んでいた店主で、母はその従業員だったのだという。ラリーが覚えている限りでは、その広々とした店舗に本が並んでいたことはなく、そのスペースを埋め尽くしていたのは、いつだって防衛隊の資材だったけれど。
かつて店内に並んでいたはずの本は、全て地下室に押し込まれていて、ラリーと姉はその中を探検するのが好きだった。地下室は店舗に比べて狭いから、本棚をいれる余裕がなくて、ただ積み上げられているだけの本。ちょっと当たるだけで崩れることもあれば、魔王軍からの攻撃にさらされてめちゃくちゃになることもあった。けれども、ラリーと姉は崩れるたびに本を積み直した。
そうすることは、2人にとって自然なことだったからだ。
「戦争が終わったら、私、本屋を継ぐの」
姉はそう言って積み上がった本の山を見つめた。いつ終わるともわからない戦争だから、もしかして両親が本屋を再開するには時間が足りないかもしれない。だから自分が、と姉は言った。
その言葉に一番喜んだのは父だった。父はいつだって、店舗が本棚でいっぱいになって、誰もが気兼ねなく本を手に取れる日が再びくることを願っていたから。
なんてことはない、一家揃って本が好きだったのだ。ただそれだけだった。母が読み聞かせてくれた絵本の優しさも、心躍る冒険小説も、美しい絵がたっぷり詰まった図鑑も、本はいつだって、ラリーと姉を夢の世界に連れていってくれた。
子供の頃の、秘密基地のような地下室で、温めてきた大切な思い出だった。
やがて戦況が厳しくなっていき、ただがむしゃらに生きるために過ごすような日々がやってくると、美しい思い出は遠く彼方へと追いやられていく。
防衛隊に入って前線で戦っていた父と、そのサポートについていた母が揃って戦死したのは、真夏になる一歩手前の頃だった。どちらかが取り残されるようなことにならなくて良かったのかもしれないが、それでも同時に失うことになるとは思っていなかった。
残された姉は地下室に引きこもるようになっていき、ラリーは毎日食料を求めて街を駆け回った。なんとか確保した食料を持って地下室のドアをたたき、姉と2人で身を寄せ合って食事をする。地下室は埃っぽくて暗くて、蒸し暑くて、全然、快適じゃない。
何度か姉を避難所へ誘っても、姉は首を縦に振らなかった。両親を失ったことで精神を病んで、楽しかった思い出にすがっているのがよく分かったから、だからこそ、ラリーはその手を引いてここから出なければならない。そう思った。
悲しい気持ちはよく分かる。むしろ、わからないわけがない。
でもこのままでは姉まで死んでしまう。
「姉さん、本屋をやるんだろう?」
避難所へ行くメリットをどれだけ説いても姉には響かない。それならば、姉が守りたがっている美しい思い出を使って説得するしかないだろう。
「戦争が終わったら、本屋を継ぐんだろう? こんなところで死んだら、だめだ」
「でも、ラリー。もうお父さんもお母さんもいないの」
「待っててくれるよ」
うつろな目をした姉が、その言葉にようやくラリーを見る。もうずいぶんと視線が合わなかったんだと、その時初めて気付いた。
「待っててくれるよ、2人とも。それなのに、このまま川を泳いでいいの? 本屋、復活させよう。それで、父さんと母さんに報告しよう。きっとあの2人はその報告を待ってるよ」
姉の眼差しが揺れた。その唇が、「でも」と小さく紡ぐ。
「でも、いつ戦争が終わるか、わからないわ」
「それでもいつかは終わるよ。永遠に続くものなんてないんだ」
「ラリーは……、ラリーはどうするの?」
「僕は図書館をやるんだ」
それはもうずっと昔から、ラリーの中で決まっていたことだった。
戦争が終わったら図書館を作って、姉と自分がそこで冒険を楽しんだように、人々に本の迷宮を探索してもらいたい。だって自分はそれが大好きだった。きっと、自分と同じ様に本に夢中になる人間が必ず居る。
「図書館で読んだ本をほしいと思った人が、姉さんの本屋に行けば良いんだ。併設にしてもいいし。もちろんすぐに作るのは無理だろうから、時間をかけてさ」
本好きな一家に生まれて、両親も本が好きで、当然のように自分たちもそうなった。
地下室に保管してある本を防衛隊に提供すれば、きっとこれらは良い薪代わりになってよく燃えただろう。そうなったら喜ぶ人たちはたくさん居る。でも絶対にそうしないと決めていた。
自分たちは、本から離れてなんて生きていけないんだ。だってずっと、寄り添ってきたのだから。
「……できるかしら」
うつろだった眼差しに、ほんのりと光が入る。姉のその視線を正面から受け止めて、ラリーはいつものように、軽やかに答えた。
「できるさ。やるんだよ」
終戦の日は、それから数年後にやってきた。
戦争が終わったと国王が宣言したその瞬間、ラリーは走り出す。
生きることに意識を割かなくても良くなったのだから、次にやるべきことは決まっている。本だ。本を集めるのだ。あの地下室から掘り起こすのだ、どんな状態になっていたとしても。
昔自分たちの家だったところは、今や見る影もなく崩れ果てた残骸になっていて、木材やら石材やら、どかすのは本当に骨が折れた。でも、やってやれないことはない。何日も同じ場所で瓦礫をどかしているラリーを見て、「そんなことをしている場合か」と言った人もいた。でも、「なにかよほど大事なことなんだろう、手伝うよ」と言ってくれた人も、いたのだ。
やがて、思い出の地下室の扉は開かれて、湿った空気と埃っぽい匂いの中から、積み上げられた本が取り出される。それは湿気にたわんで、全く元通りの状態とは言えなかったけれど、それでも、ラリーのところに戻ってきた。砂埃を払い、折れ曲がったもの、真っ二つに割れたもの、どこからか漏れた水に浸って腐ったもの、たくさんの本の中に、確かに、あの日置いてきた温かな思い出があった。
あの日が戻ってきたんだ。
そのことに、ただ、ただ、涙がこぼれた。
やるべきことなら山程あった。一番は、瓦礫撤去と街整備のために捨てられる資材の中から、本を救い出すこと。ラリーと同じように、本が好きで図書館をやりたいという夢に賛同してくれる協力者を集めること。本を置いておける場所の選定と確保。それから、折り曲がったり破れたりした本を、どうにか修復出来る技術を学ぶこと。
同じ志を持つ仲間が何人か集まったときに、ラリーは思い切って正道を通りヨンドへ抜けた。体力にはそれほど自信がなかったけれど、情熱だけはいくらでも湧いて出てきて、出来ないことはないような気持ちだった。
サンガからヨンドへの山道は、険しくて本来なら素人に登りきれるような道ではなかったのだけれど、幸い集団でサンガへ出てきていた学者先生たちの帰りの馬車に乗せてもらうことが出来た。
何日も何日も、険しい山道を馬車が進んでは休んで、また進んで。そうしてたどり着いたヨンドは、サンガより大分マシな状態だったように思えた。その理由は、ヨンドが竜人達の集落のお膝元だったからだ。魔王軍としても、強い敵にわざわざ挑むより先に、もっと攻略しやすい場所を優先して攻めていたということだろう。
復興が着実に進むヨンドで、ラリーは国立図書館の職員に面会を求めた。最初は断られたが、何度も何度も通う内に受付をしていた青年が話を通してくれたのだ。
「ありがとう! 助かるよ」
とお礼を言うと、彼は照れくさそうに笑ってみせた。
「いえいえ。本好きの同志ですからね」
ラリーは語った。サンガに図書館を作りたい。自分が幼い頃大好きだったあの空間を、これから生まれる子どもたちのために再現したいと。
ラリーには足りないものがとても多い。資金もなければ計画もこれから、土地の確保だってまだ先のことになる。だけど情熱があった。強い決意があった。何としてもそれをやり遂げるのだという、勢いがあった。
本来、現実的でないものに力を貸してくれる人は珍しい。それでもヨンド国立図書館の館長だった老人は、ラリーを決してバカにしなかった。そして両親が残してくれた本を修復して、また誰かが読めるようにしたいのだと言った言葉に、大きく頷いて微笑んだ。
「ええ、できますよ、あなたなら」
かさかさに乾いた手でラリーに握手を求め、彼はラリーに<原初の呪文>と呼ばれるものについて教えてくれた。それは夢のような魔術だった。これならば、魔法士ではないラリーにも使える。本を復元するのにきっと役に立つ。もともと魔法系のスキルは一つも持っていなかったラリーには感覚を掴むのはとても難しかったけれど、諦めずに何度も繰り返して、やがてラリーはそれを習得した。
【加熱】を唱えて初めてコップに入れた水が沸騰したときのことを、今も覚えている。何日もかかったけれど、ラリーはできない間一度も弱音は吐かなかったし、できないとも言わなかった。できると信じていた。
できるまでやればいいだけ。できるさ、可能性がゼロでないならば。
一度成功してしまえば、あとはスムーズだった。ラリーは【修復】や【復元】といった呪文を覚え、それを最大限活用することができた。便利な魔法だが、<原初の呪文>は万能ではない。一度【修復】した本は、1週間ほどでまた元の状態に戻ってしまう。ならば、戻る前に本を複製していく必要がある。
ラリーはもともと本を作っていた印刷所に足を運び、壊れたタイプライターを譲ってもらった。紙や表紙用の皮はサンガでも揃えられる。でも、さすがに印刷機までは大きすぎてサンガに持って帰れない。
サンガに戻る日、ラリーは館長に丁寧にお礼を言って、サンガに図書館が出来たらぜひ招待したいと告げた。彼はゆったりと微笑んで、「楽しみにしています」と言ってくれた。
「本の天敵は湿気と火ですからね。餞別にこれを」
館長が別れ際に渡してくれたのは、防火のお札だった。図書館に設置して、本を守るのに役立つものだ。大喜びでお礼を言うラリーに、彼は続けてこう言った。
「あなたが本を作ったら、こちらの図書館にも置きたいですね。ぜひ持ってきてください」
「はい、必ず」
サンガに戻ると、仲間たちはすでに図書館になる建物を手に入れていた。昔はお金持ちの別宅だったところが、目の前に墓地が出来たおかげでかなり値段が下がっていたのだ。
仲間に魔道具師がいたので、ヨンドでもらってきたタイプライターを任せると、彼はあっという間にそれを修理してみせた。何人か習得できそうな人を選んで<原初の呪文>を伝授し、【修復】した本を片っ端からタイプライターで写し取っていく。
洋館にも地下室があったから、そこを本を作るための作業場として整えた。何時間でも洋館にこもって作業していたラリーたちを見かねて、隣の花屋の老婆が夜食を差し入れてくれたこともある。
「あんたらみたいなのを、ムジナというんだろうねえ」
「ムジナ?」
「穴をほってあんたらのように集う動物のことだよ。魔物がはびこる前にはここらへんにもいたんだけどね」
「はっはっは! それはいいですね、それじゃあこれから僕らのことは、ムジナとでも呼んでください」
「言うねえ。全く、そんなことをしている場合じゃないだろうに、生活を安定させるより先に本のことばかりとは」
馬鹿だねえ、と老婆は笑った。彼女の言う「馬鹿」には、どこか温かさが込められていた。
よいとも、本のために全力を尽くすことが馬鹿だと言うのなら、我らはみんな愚者である。それを否定しないし、そうであったとしても困らない。確かにまだまだ戦後間もないサンガで、生活の糧にもならない本を集めて図書館を作るなんてことは、「今やらなくても良いこと」かもしれない。
でもラリーは「今やりたい」のだ。
そのために突っ走ってきたのに、今更止まれない。
「ねえラリー、次の本には大きな猫を出そうよ、今ここに来る間にすれ違ったんだけどすごく可愛かったよ」
「ああ、それはきっとナツさんとこのテトかな。図書館の大恩人になる人だから、契約主さんにも見せ場を作らないと。どんな話にする? 姉さん」
「そうねえ……」
今日もムジナたちは、施設図書館の地下室にうごめく。
古い本を修理するために、大事な本を複製するために、新しい本を作り出すために。そうしてその1冊1冊が、誰かの大事な思い出になることを願って。
「猫さんが宝物を探し当てる、とかどうかしら? それで契約主さんが大金持ちになるの」
「うーん、お金とか財宝とか出しちゃうと、子供が宝探しに出かけちゃいそうで怖いねえ」
「あ、そうか。うーん、それなら……」
考え込む姉の姿に、あのころの絶望はない。彼女の夢はまだこれからだけど、すでに計画は練ってある。できるのだから、やってみせる。あそこのムジナたちはまた馬鹿なことをやって、と世間に呆れられたとしても、自分たちで「やる」と決めたのだから。
今、ラリーの手元には、ヨンド国立図書館の館長からの手紙がある。
「先日は素敵な本を送ってくださり、ありがとうございました」というお礼の手紙。そして流麗な文字が問いかける。「ところで、『ねずみくんのぼうけん』のねずみくんとは、あなたのことですか?」 ……さあ、どうだろう? 何が立ちふさがったとしても、この道を歩むことを諦めはしないけれど。
原動力が「好きなもののために」、という点でなら、自分とねずみくんはイコールだと思って間違いないかもしれない。小さく笑ったラリーの耳に、姉の明るい声が飛び込んできた。
「ねえ! あの猫さんが空を飛ぶとかどうかしら! それでゴーラに飛んでいって、契約主さんと巨大なカニを倒して美味しくたべちゃうの!」
「あ、いいねえ。ナツさんってちょっと、そういうイメージあるなあ」
私、本屋を継ぐの。
そう言って笑った、あの日の姉の姿が、今も眩しくラリーの脳裏に焼き付いている。叶うよ、とあの日の姉に言ってあげたい。叶うよ、必ず、できるから。そう言えるように、姉の本屋が開店するその日まで、ラリーはずっと走り続ける。
そしていつか、誰もが等しく泳いで渡る川に、たどり着いたときには。
たくさんの本をお土産に持っていって、両親に胸を張るのだ。
ほら、店舗が本棚でいっぱいになって、誰もが気兼ねなく本を手に取れる日っていのは、ちゃんと再びやってきただろう? と。




