償いの戦功
悔しさに涙が溢れた。
憎しみに身が震えた。
我慢はもはや限界だった。
考える余地もなく剣を抜いた。
人を斬った手応えが伝わってきた。
血が跳ね飛んで頬に掛かった。
はっと我に返る。
目の前に崩れ折れる人影。
咄嗟に受け止めて、抜き身の剣を投げ出した。
傷を確かめれば明らかな深手。
だが、心の奥底に後悔はなかった。
激しく憎んだ者を斬った。
そのことに、凌統は満足しているようだった。
償いの戦功
呂蒙からその話を聞いた時、甘寧はただ鼻先にふうんと音を乗せただけだった。
今は乱世なのだ。
人の命は極めて軽く、喧嘩も行き過ぎれば容易に殺し合いになる。
特に驚くに値しないと、甘寧は軽く言い捨てた。
だが、ふと気が変わったという風情で身を起こす。
「んで? あのガキは処断されるのか?」
「いや。仲謀様は公績の立てた戦功と引き替えに、罪を不問にすると仰ってる」
「ならいいじゃねぇか」
再び興味は失せたとばかりに、甘寧はごろりと寝ころんだ。
それを見下ろし呂蒙が言った。
「おまえに話したかったのは、事件そのものじゃないんだ」
ちらりと見やった甘寧に頷いて、呂蒙が言う。
「このことで、公績をかまうなよ」
「かまったりしねぇよ、あほらしい。
俺はあのガキがどうなろうと、知ったことじゃねぇからな」
「ならいいが。公績が突っかかってきても、今回の事件に関しては何も言うなよ」
念を押す呂蒙に、不審を感じたらしい甘寧が再び身を起こした。
眉根を寄せて呂蒙を見やり、小さく首を傾げて口を開く。
「なんで言っちゃいけねぇんだ?」
「言う気なのか?」
「そうじゃねぇけど、わざわざ口止めされると気になるじゃねぇか」
「陳勤殿は、公績の父上を莫迦にしたような言を吐かれたらしい」
「ふう~ん。ほんとにあいつは親父っ子だな」
「父上を尊敬していたんだ」
「はいはい、分かったよ。言わなきゃいいんだろ? 言わなきゃ」
「本当に、そうしてくれよ?」
「信用ねぇなぁ、子明」
「いや、信用はしているが………」
「してるが?」
「軽はずみなところがあるから心配しているんだ」
「おんなじこった」
笑いながら甘寧は三度寝ころんだ。
元々、呂蒙が来る前には午睡を貪っているところだったのだ。
それを起こされ、わざわざ遠征先で起きた事件の話を聞かされたのだ。
どうでもいいと甘寧は目を閉じた。
凌統に仇と憎まれて、二、三年が過ぎたろうか。
その間に、真剣で挑まれたことはほんの一二度だが、
それに破れたからとて、凌統が仇討ちを諦めたという様子はない。
今、陳勤という上官を一人斬ったからといって、甘寧への仇討ちを諦めるとか、
仇を打つことを恐れるとか、そうした殊勝なことになるわけでもないだろう。
仇は仇、愚弄した者は愚弄した者。
凌統の中では、両者はまるで別のものだろう。
上官を殺したところで、仇持つ身の憂さ晴らしにもなるまいと、甘寧は皮肉に笑って呟いた。
「いつかは俺も、陳勤とやらのように叩っ殺される日が来るんかねぇ」
「そうなっては困るから、俺が骨を折っているんじゃないか…」
凌統と甘寧の言い争いは、半ば日常と化しているが、
それが喧嘩に発展しそうになれば、間に入るのはいつも呂蒙だ。
仇と狙われて常に心穏やかでいられるはずもなく、
甘寧はそのことに関しては呂蒙に感謝していた。
だが、凌統の周囲で厄介事が起きるたびに、釘を差しに来られるのは面倒だった。
今度の事件などは端的なもので、甘寧には一切関係がない。
にもかかわらず、こうして忠告を受けねばならないのは面倒なのだ。
ため息を吐いて立ち上がる呂蒙の気配を感じながら、
甘寧は目を閉じたまま手を上げて軽く振った。
「邪魔をしたな」
常の声色に戻った呂蒙がそう言葉を残して立ち去ってゆく。
その気配を送り出し、甘寧は閉じた瞼に日差しを感じたまま微睡み始める。
元々、どこででも寝られる体質だ。
そこが草むらの中であっても、例え瞼に日差しを思いっきり感じ取れても、
甘寧の眠りを妨げるには至らない。
眠りに落ちるその間際に、足を踏みつけられたりしなければ…の話だが。
「痛てぇな、馬鹿野郎! どこのどいつだ!!」
甘寧の安眠を妨げる新たな存在。
がばりと跳ね起きた甘寧が、目を剥いて怒鳴りつけた。
その怒鳴り声に驚いたのか、それとも足を踏んだその瞬間に既に驚いていたものか、
目をまんまるに見開いて、甘寧を見やっていたのは凌統だった。
その目が真っ赤であることに、甘寧は直ぐに気づいた。
だが、素知らぬ顔で舌打ちした。
「なんだ、おめぇかよ」
面倒くさげに呟いて、ごろりとまたも寝転がる。
さっさと行けと、甘寧は思った。
泣き顔を見ているのはいやだった。
父の仇と初めて白刃を手に躍りかかってきた凌統を、いやが上にも思い出す。
その時、あっさりと甘寧に破れた凌統は、唇を切れるほどに噛みしめて泣いたのだ。
仇を討てない己の不甲斐なさに歯ぎしりして、ぼろぼろと涙を流して俯いていた。
なんでこいつは、直ぐに泣きやがるんだろう…。
甘寧はふとそんな疑問を呈した。
凌統が去る気配は一向にない。
それもまた訝しく、甘寧は閉じた瞼を開いて寝ころんだまま凌統を見た。
果たして、凌統は泣いていた。
あの時と同じように唇を噛んで、声も漏らさず涙だけを流している。
「おいおい、なんだよ…」
心底面倒臭いと言わぬばかりに、甘寧は起きあがり様に言った。
それを見もせず、凌統が口を開く。
だが、言葉になる前に嗚咽が漏れる。
甘寧はため息を漏らした。
老若男女の別なく、甘寧は泣いている人間が苦手だった。
どう慰めてよいものか分からない。
どう声を掛ければいいものかも分からない。
そのくせ、何かしなくてはならないようで、居心地が悪いのだ。
仕方なく、思いつくままに口を開く。
「おい、どうして欲しいんだよ。
慰めて欲しいのか? それとも、挑発して欲しいのか?」
ぽたぽたと地面に落ちる凌統の涙を見ながら、答えを待つ。
「………」
ぽつりと、凌統が何か言った。
「なに? 聞こえねぇ」
「……思う…か?」
「はっ? なんだって?」
思わず身を乗り出して、凌統に耳を翳すようにすれば、
ようやくとぎれとぎれに聞こえてくる。
「おまえも…、父上の不注意だって…、そう、思うか?」
父と聞き、甘寧は眉を顰めた。
凌統の父を討ったことに後悔も慚愧の気持ちもないが、愉快であるはずもない。
出会ったところが戦場でなければ、肝胆相照らす仲にもなれたかも知れないと、
凌操の人柄を人伝に聞いた甘寧は思ったりもしたものだ。
当然ながら、凌操個人に恨みもなければ憎しみも湧かない。
だが、だからといって甘寧が凌統を好むとは限らない。
現状、甘寧には凌統が何を言っているのかすら分からない。
返事のしようもないのだ。
仕方なく黙っていると、いきなり凌統は勢いよく甘寧の襟髪を掴んだ。
声を荒げて激しく問う。
「討たれて当たり前だったと思うか!?
蛮勇を持って猪突猛進した愚かな将など、討たれて当たり前と思うか!?」
そういうことかと、甘寧は得心した。
陳勤は、おそらくは凌操のことを猪武者と貶めて、若い凌統をからかったのだろう。
昂奮に涙を忘れて襟首を掴む凌統をそのままに、甘寧は飄々と口を開く。
「討ったのは、当たり前だったと思うぜ。
あの時、おまえの親父さんを討たなきゃ、黄祖の軍勢は壊滅的な打撃を負ったろう。
そんだけ、親父さんは勇猛だった。
単なる蛮勇なら、俺はわざわざ、値千金の弓を放ったりしねぇよ」
さも当たり前といわんばかりの口調であった。
凌統の手が力を失い、するりと甘寧の衿を流れて落ちた。
そのまま地面に両手をついて、凌統は項垂れる。
震える肩が、また泣き出したことを物語っていたが、甘寧はそれ以上は言わずに黙っていた。
すると、ややあって凌統が蚊の鳴くような声で言った。
「ありがとう……」
それを聞いた刹那、甘寧の胸はじくりと痛んだ。
後悔する気はさらさらないが、それでも凌操を討ったことに、初めて良心の痛みを感じた。
凌統にとっては何よりも大事な存在であった者を、奪ってしまった苦しみを感じた。
そして同時に、強い憤りが立ち上ってくるのを甘寧は感じた。
それは、凌統を追い討つように傷つけた陳勤への怒りのようでもあったし、
最初に凌統を苦しめた、自分自身への怒りでもあるようだった。
おわり
史実にも三国志演義にも、陳勤を殺害した事件について甘寧と凌統が話したという記述はありません。
完全に作者の創作です。