黒幕
アヌビスは幼い頃の記憶を頼りに神官達の生活する宿舎へと向かっていた。
通常半神や神が立ち入る事のない場所だが、過去に一度だけイシスの目を盗んで忍び込んだ事がある。
いや、忍び込もうとしたホルスを連れ戻しに行ったというのが本当の所だ。
「誰かいるか!」
アヌビスは宿舎の扉の前で中にいる神官達に声を掛ける。
しかし既に夜も深く、皆眠ってしまったのか返事はない。
だが事態は急を要する。
こちらには叩き起こしてでも話を聞かなければならない事情があるのだ。
無理にでもこじ開けてやろうと扉に目線を移すと、その扉が僅かに開いている事に気づいた。
嫌な予感がする。
開け放った扉の前でアヌビスは唖然とした。
中はまさにもぬけの殻。
もはや人の気配すら感じられなかったのである。
「…やられた。」
アヌビスは壁に寄りかかり、頭を抱えた。
「ア…アヌビス様…!」
ふいに声をかけられ振り返ると、そこには神官の長であるメリモセが立っていた。
神官の中でも最年長である彼は、その正義感と忠誠心、そして統率力、全てにおいて皆から絶大な信頼を得ている男である。
困惑した顔に深く刻まれた皺はこの神殿に尽くしてきた十数年の時を物語っている。
「就寝前の点呼を取ろうと来てみれば、もう誰も…。全ての部屋を確認して参りましたが、人影すら見当たりません。一体何が起こっているというのです…!?」
神官自ら出て行ったのか、はたまた連れ去られたのか。
しかし部屋の様子から見て抵抗した形跡はない。
自発的に出て行った線が濃厚かと思われるが、意識のない状態であればその限りではない。
今の段階ではどちらの可能性もあり得るとアヌビスは考えた。
「神官達と最後に会ったのはいつだ?」
「1時間程前です。」
メリモセの答えにアヌビスは険しい顔を更にしかめた。
百名以上いる神官をものの1時間で運び出せるとは到底思えない。
共犯者が複数という可能性もあるが、事を起こす際には、その人数が仇となり目立ってしまうものだ。
そもそも、とアヌビスは思う。
己の意思だったのかそうでないかに関わらず、数十年この神殿で神官達を束ねてきたメリモセの目を盗んで動く事など不可能な事のように思えるのだ。
2人でここに忍び込んだあの日も、ものの数分で見つかり母に突き出されて、こっ酷く叱られたのを覚えている。
例え神であろうと彼の目は誤魔化せない事をアヌビスは知っている。
「メリモセ。」
アヌビスが彼の名前を呼ぶと彼は姿勢を正しはい、と返事をした。
「神官達をどこへやった?」
「な、何を言っているのです?」
アヌビスの問いに答える彼の声は酷く震えていた。
「さっき俺を見つけた時、お前は酷く動揺していた。勿論この事態に動揺しているものだと思っていたが、その割に服装の乱れがない。
取り乱し、部屋を確認する為に走り回ったという風にはとても見えない。」
アヌビスの言葉を無言のまま聞いていた彼の額にじんわりと汗が滲む。
「それにここにいる神官達をいっぺんに動かせるのはお前しかいない。それもごく自然に。どうやって誘導したかは知らないが、信頼しているお前から命を受ければ神官達は何の疑いもなく動くに決まってる。」
そしてもう1人の容疑者について、アヌビスは目を閉じて再度考察を始める。
幼い頃から母には神官の顔と名前を覚える様に言われていた。
万が一何者かの企てによって潜り込む侵入者が現れた時それを見定め、また牽制する狙いがあったのだろう。
だが1人だけ、その目を掻い潜っている人物がいたのである。
しかし決定打がなかった。
単に怪しいというだけで、それを裏付ける証拠が足りないのだ。
だからこそアヌビスはこの宿舎を訪れ、直接探りを入れるつもりでいた。
「お前の他にもう1人共犯者がいるな?」
メリモセは何か言いたげに口を開いたが、何も発さぬまま視線だけが動く。
それが自分に向いているものではないと気づいた時、背後からまた別の声がした。
「おや、これは予想外だ。アヌビス様までいらっしゃるとは。」
アヌビスは振り返るまでもなく、それが自分が探していた人物だという事に気が付いた。
その顔を確認できていれば彼の声が記憶に残ることも無かっただろう。
人は誰かに会う時その特徴を無意識に探しているものだ。
特に初対面であった場合には。
アヌビスはゆっくりと振り返り、その姿を確認する。
その身なりは間違いなく自分達をこの神殿に呼び寄せた伝令神官のものであった。
全く知らない顔。
男の顔を初めて目にしたアヌビスは嫌悪感を露わにする。
まるで自分の家に土足で踏み込まれたような、そんな感覚だった。
彼らはここで落ち合うつもりだったのだろうか。
反逆者に挟まれる形で立っているこの状況に危機感を覚える。
「立て続けに起きている事件は全てお前達の仕業か?
教えてくれメリモセ。何故母を裏切る様な真似をする…?母がお前たちの事をどれ程大切に思っているのか分からないのか…?」
訴えかける様なアヌビスの言葉にメリモセは懺悔するかの如くその場に膝をついた。
「その気持ちは私が1番よく分かっているのですアヌビス様。イシス様には感謝してもしきれぬほどの恩があります。しかし忠義か家族か
この2択を迫られた時、私は汚名を被ってでも家族を守りたかった…!
私には愛する家族を見殺しにする事など到底出来ませんでした…。」
メリモセの言い分にアヌビスは眉をひそめる。
自分の知らない場所で一体何が起きているというのか。
「…しかしどんな理由があろうと裏切ったのは事実。首を差し出す覚悟は出来ております。しかし、断腸の思いであった事、決して貴方様やイシス様を陥れるつもりではなかった事をご理解ください。」
メリモセはそう言って、その首を差し出すようにして頭を垂れた。
「ま、待て。どういう事だ…?お前達は誰かに脅されているとでも言うのか?」
「それは少し違うな。脅しているのは私だ。」
アヌビスの耳に聞き覚えのない女の声が響く。
次の瞬間、おびただしい量の鮮血が宙を舞った。
呻き声と共にメリモセが膝から崩れ落ちる。
全身を刃物での様な物で切り裂かれていたが、近くに人影などは見当たらない。
アヌビスは状況が理解できずその場に立ち尽くした。
何が起こった…?
他にまだ仲間がいるのか。
アヌビスは床に倒れ、動かなくなったメリモセを呆然と眺め、それから再び神官の方を振り返る。
「まさか、脅した者の前で白状するとは。」
嘲笑を含んだ女の声は間違いなくその神官の口から漏れている。
まさかこの男、手を触れずに殺したというのか。
アヌビスの背中に冷たいものが伝う。
「お前は誰だ…?メリモセに何をした。」
恐怖と怒りがアヌビスの頭を支配する。
自分を見失ってはいけない。
そう思っても体の震えが止まらなかった。
「何て事はない。男の娘を人質にこちら側に引き入れたまで。役割を果たした今、最早その男に用はない。」
そして不気味な笑みを湛えた神官の姿が突如艶かしい女の姿に変わる。
妖しい笑みを湛えるその姿はさながら女豹のようだ。
だが不思議と淫靡さは感じられず、その雰囲気と立ち振る舞いはむしろ雄々しさを感じさせる程堂々としたものだった。
美しく妖艶な姿にもアヌビスは眉一つ動かさない。
むしろ嫌悪感を抱いているように見える。
「だが、寂しいなぁアヌビス。私を忘れてしまったのか?」
女は蛇のような瞳孔をこちらに向けたままわざとらしく肩を落として見せた。
その姿に覚えはないが、左胸に彫られた刺青には見覚えがあった。
頭部は鰐、鬣と胴体は獅子、そして下半身は河馬という幻獣の姿である。
アヌビスの中で疑心が確信へと変わる。
セトの仕業とばかり思っていたが、ホルスとの会話、そして神官とのやり取りを回顧する過程で思い出したのだ。
死者の心臓を喰らう幻獣と同じ名の組織を。
「ホルスを襲ったのもお前だな。セクメト。
まさか本当にアメミットが存在しているなんて…!」
半神を手に掛けることが出来る人間がそうそういる筈がない。
キオネが言っていた人間の気配とはこの女が成りすましていた神官のものだったのだ。
セクメトは組織の創始者として以前この神殿にも顔を出していた。
ケメト(※注1)一帯を管理していた母に許可を得るためである。
しかしエジプト全土の警護というのは表向きの理由、もとい全くの嘘だった、という事になる。
当時はまだ組織の名前すら決まっておらず、それがまさかアメミットなる非道な組織だとは思っていなかった。
「だったら何だというんだ?あいつは今頃川の底。助けに行こうなどとは思わない事だな。」
やはりそうかとアヌビスは自分の推理が間違っていなかった事に安堵した。
そして死んだ、と言わない辺り、実際に生死を確認した訳ではなさそうだ。
心配だが、生きている事を信じるしかない。
それよりもこの女から出来るだけ多くの情報を聞き出すのが先だ。
重要な手掛かりを逃すわけにはいかない。
「お前には知っている事、そして関与している事件について全て吐いてもらう。」
アヌビスがそう言うと女は嘲る様に笑う。
「お前のような半神ごときが私に全て吐かせるだと?…面白い。どうせ、お前も後で殺すんだ。冥土の土産に少し付き合ってやろう。」
セクメトはそう言って石段の上に胡坐をかいて座る。
アヌビスはメリモセの傍に膝をつくとその手でそっと彼の瞼を閉じた。
「セ・アク(※注2)を成し遂げ、この者に安らかなる永遠の命が与えられん事を。」
「で、何が聞きたい。」
感傷に浸るアヌビスにセクメトは白けた様に肘をついて先を急かす。
ものの道理が分からない者にはいくら説いても無駄だ。
アヌビスは諦めて、推理に集中する。
アメミットの存在が事実ならば、もう一つの仮説が生まれる。
神官達の死体が消えた件だ。
アヌビスが女の刺青を見るまで信じられなかった様に、組織の存在が噂程度にしか広まらなかったのには理由がある。
彼らが出没した噂が立っても、死体も、その形跡すら見つからないのである。
証拠がなければ、その存在すら幻だと思われて当然なのだ。
いわば神隠しに似た程度の扱いだったのである。
「神官達の遺体を持ち帰ったのもお前か?」
アヌビスが厳しい口調で問いただす。
「ああ。ホルスの遺体が手に入らなかった以上、他のもので代用するしかなかった。でもまさか人間の体を使う事になるとは。」
女は口惜しいとばかりに唇を噛んだ。
「どういう意味だ?遺体を回収するのは証拠隠滅の為ではないのか?」
「あの方には体が必要なのだ。半月に一度新しい体を見繕って渡さなきゃならない。…忌々しいあの女のせいだ。」
あの方とは、それにあの女とは誰なのだ。
しかしそれに関してセクメトは頑なに口を割らなかった。
アヌビスは仕方なく別の質問をする。
「半神だけを狙うのは何か理由があるのか?」
「単に狩りやすいからだ。神を手に掛けると色々と面倒だ。それ相応の手間もかかる。下手をすればこちらの命を狩られる可能性もあるからな。だが半神であれば殺すのは赤子の手を捻る程に容易い。」
「その理屈だと人間の方が遥かに狩りやすい様に思えるが?」
「人間の体など何の力も持たぬただの汚らわしい器だ。今回は時が迫っていた故、仕方なくそれを使うしかなかった。神職であるだけまだマシだが。」
本来ならば回収することのない人間の遺体を時間差で回収したのはそういう事だったのか。
「じゃあ神官達を殺したのは自分ではないと?」
「そうだ。ただ私は霊安室に行けば人間の死体があるかもしれないと踏んで忍び込み、そこにいた奴を襲って遺体を回収しただけだ。そいつの顔は見ていない。何せ全身を布で覆っていたからな。」
それではまるでミイラが遺体を奪いに来たかのようだ。
想像しただけで身の毛がよだつ。
「…もういいか?そろそろお前を始末する時間だ。」
セクメトはその場で伸びをして立ち上がった。
他人を殺す事に何の躊躇もない様が#あの男__セト__#と重なりアヌビスは激しい怒りを覚える。
いつか絶対に殺してやる。
どんな手を使ってでも。
「だがいい暇つぶしにはなった。お礼に苦しまぬよう一瞬で逝かせてやろう。」
セクメトは体を丸め、臨戦態勢に入る。
まるで豹が獲物を狩る時のようにその眼光が鋭さを増した。
「さぁ死ぬがいい。」
かまいたちのような鋭い風がアヌビスの眼前で渦を巻く。
先程メリモセを切り刻んだあの風だ。
アヌビスはとっさに傍にあった石像の後ろに身を隠し、その攻撃を躱した。
今や冥界の王となったオシリスの像である。
アヌビスは父の背中に体を預け、心を鎮める。
どうやらあの風は見た所立て続けに出せるものではないらしい。
次の攻撃までにある程度の時間が必要なのだ。
すぐには殺さず自ら質問に答えると言ったのも、その問いに答える傍らその時間を稼いでいたのではないかとアヌビスは思った。
そして風が収まった所を見計らい、宿舎の廊下を全速力で駆け抜ける。
まだだ…。まだ時間がいる。
「逃げるのか?お前も案外腰抜けだな。」
背後からセクメトの声がしてアヌビスは焦った。
このまま逃げ続ける事は不可能。
かといって真正面から立ち向かうなど自殺行為だ。
「ッ…」
突如襲ってきた苦痛がアヌビスの思考を遮った。
その息苦しさに思わず胸を押さえる。
くそ…こんな時に…!
激しい運動によって発作を誘発したのだろう。
アヌビスは苦しさのあまりその場に膝をついた。
敵の面前で動く事すら出来ないとは。
アヌビスは情けなさに笑みを零す。
「何を笑っている?あぁ、成程。死期を悟ると皆そういう顔になるのだな。」
セクメトが腕を振りかぶり、再び風が襲ってきたその時だった。
全身が何かに包まれる感覚にアヌビスは固く閉じた目をゆっくりと開けた。
羽…?
「俺を襲ったのお前だろ!!」
次いで馴染みのある威勢のいい声がアヌビスの耳に響いた。
「ホルス…なのか…?」
声は聞こえるが全身羽に包まれていて肝心のその姿が見えない。
「お前のケンゾクが俺を見るなりすごい顔で戻れって言うからさ。相当怒ってるんだろうなと思って来るのちょっと怖かったんだよな。」
キオネの奴まだ探してくれていたのか。
「当然でございます。主の命令は絶対。連れて帰るまで戻りは致しません。」
ホルスに次いでキオネの声が聞こえる。
その声音は心なしか嬉しそうだ。
「俺の羽は1度受けた攻撃を忘れねえ。気色悪い風起こしやがって。川に落とした事もぜってえ許さねえからな!」
この男は何故こうも空気を読まないのだろうか。
先程までの緊張感が嘘のようだ。
アヌビスは呆れかえりながら感謝していた。
相手に飲まれそうだった空気を一瞬にして変えてしまったのだ。
「あの川に落ちて生きていたとは運のいい男だ。…しかし何だその情けない風貌は?傷だらけじゃないか。」
セクメトはそう言ってせせら笑う。
「当たり前だろ何時間修行したと思ってんだ!」
相手の挑発にもまったく動じていない。
というより挑発されている事にすら気づいていないのだろう。
アヌビスはホルスの無邪気さに羨望の念すら抱いていた。
「一度仕留め損ねた獲物、二度も逃がすものか。」
(注1)ナイル川周辺の地域
(注2)死者をアク(第2の人生)へと送り出す儀式。古代エジプトの死生観によるもの。




