守護
神格というのは端的に言えばこの世界における神の位を表し、その神の持つ力や影響力の強さを示す一種の指標となる。
それは専らその住まいに現れる。
つまり神殿を見ればその神がどれほどの力を持っているのか、おおよその見当がついてしまうのだ。
一悶着を終えた一行はセべクの神殿に招かれ、まずその立派な様相に度肝を抜かれる。
加えて神殿の敷地は広大で、自身が住むそれとは比べ物にならない。
「こんなでっけえ神殿初めて見た…。」
羨望の眼差しを向けられたセべクは困惑した様子で答えた。
「ここが建てられた当時私は神上がって間もない半可な神でした。しかしナイル川を守護するうち、何故か人々からは軍神として崇められるようになったのです。セトが王座に就き、各地で戦争を引き起こすせいで、図らずもこの様に巨大な神殿が出来上がってしまった訳です。」
「そりゃあんなでかくて狂暴なもん飼い慣らしてりゃ軍神とも呼ばれるわな。」
ホルスと共に何食わぬ顔で聞いていたクヌムがすかさず口を挟む。
「私、争い事は嫌いなんですよ。」
セべクは愚痴をこぼすかの様に不満げに呟いた。
争いを好まない神が軍神として崇められるとは皮肉なものだ。
しかし見事な装飾や壁画に圧倒される一方、目線を落としてみると石製の質素な家具ばかりが並び、何ともちぐはぐな光景に頭が混乱する。
「立派なものを建てて頂いて何ですが、何だか落ち着かなくて…。せめて家具だけはと、自分の趣味で揃えた結果この様な有様に…。いやお恥ずかしい。」
ホルスの胸中を知ってか知らずかセべクは弁明するように言ってどうぞ、と椅子を引いた。
勧められるまま椅子に座ると、クヌムが急にホルスの肩に手を置いて言った。
「こいつはホルス。この国の王になりてぇんだと。」
あまりにも唐突で粗雑な紹介にホルスは思わず彼を凝視した。
「それはまた、大層な夢ですね。」
セべクが苦笑するのも無理はない。
言葉足らずにも程がある。
「俺はオシリスの息子なんだ。父の無念を晴らしたいと思うのは当然だろ?」
ホルスの言葉に切れ長の目がはっと見開かれた。
「成程、貴方がオシリス様の…。神でありながらこの言葉を使うのは#些__いささ__#か滑稽かもしれませんが、貴方とお会いするのは『運命』だったのかもしれませんね。」
柔らかい、けれどどこか悲しげな笑みを浮かべながらセべクは続けた。
「あの方はまさに名君でした。人間からも神からも慕われていた事は間違いありません。」
生前の父を知る人物に会うのは母以外では初めてだったホルスは思わず身を乗り出した。
「父上に会ったのか?」
「ええ。…私はオシリス様が殺された日そこに居合わせたうちの1人ですから。」
ホルスは胸がぎゅっと締め付けられる思いがしたが、それでも息子として目を背ける事はできないと思った。
聞いておかなければならない。
父の死に際のその一部始終を。
「聞かせてくれ。父上がどんな最期を迎えたのか。」
ホルスの言葉にセべクの顔が戸惑いの色を示す。
「宜しいのですか?このお話は息子の貴方には少々堪えるものかと。」
顔色を変えず真っ直ぐ見つめ返すホルスに対してセべクも話す覚悟を決めたようだ。
セべクは小さく息を吐いて分かりました、と言った。
「あの日はひどく雨が降っていました。」
セべクは当時を思い出すように目を細める。
「川の氾濫を案じた私が見回りを行っていた時でした。青々とした川の水がみるみるうちに赤く染まっていったのです。」
ホルスは背筋がサァっと冷たくなるのを感じた。
自分から切り出したとはいえこの後父の惨劇を聞かされるのだと思うと、自然と鼓動が早くなる。
「私は急いで川の上流へ向かいました。すると肩を落とし泣き崩れるイシス様と妹のネフティス様、そしてその胸に抱かれる幼子が泣きじゃくっているのを目にしたのです。
そして嘆き悲しむ2人の目線の先にはオシリス様のバラバラの遺体が転がっていました。
それがどれ程の凄惨な現場だったか容易に想像がつく。
ホルスは耳を塞ぎたくなるのを必死に堪え、代わりに額の汗を拭った。
「遺体を繋ぎ合わせれば復活できるかもしれないと、私たちはオシリス様のバラバラの遺体を探し集めました。しかし体の一部がどうしても見つからなかったのです。
持って数日の命だと悟ったオシリス様は、冥界に下るまでの数日間で貴方を産み、そしてナイルの守護神としての腕を見込んで、私にある事を託していかれました。」
セべクの左手が空を切るように動く。
それは鞘から剣を抜く時の動きそのものだった。
その証拠に彼の手元にはしっかりと剣が握られている。
「セべク…?」
ホルスは突如として現れた凶器が自分に向けられていることに戦慄する。
「今からこの剣で貴方に守護の何たるかを教授致しましょう。」
セべクの顔から柔和な笑みが消え、纏う空気さえもがまるで別人かと思う程に鋭さを増す。
本人は否定したものの、軍神とはよく言ったものである。
「大丈夫です、死にはしません。切れ味はわざと鈍らせてありますから。」
何が大丈夫なのかホルスには全く分からない。
稽古に真剣を使うあたり、やはり軍神の名に恥じない根性をしている。
「このメジェド人形を10分間、私に壊されることなく守り続けてください。ただし回避と防御に徹する事。攻撃は禁止です。」
そう言って渡されたのは木製の人形だった。
一体どこから出しているのか、先程の剣同様狐に摘まれた気分である。
人形はしかし、成人男性ほどの大きさと重さがあり、とても抱えて飛べるような物ではなかった。
そしておそらく手作りだが、お世辞にも上手いとは言えない不気味な様相をしている。
「…これを守りながら逃げろと?」
突如始まった無謀とも言える稽古にホルスは早くも気持ちが折れそうだった。
「当然でしょう。全国民の命を預かる身なのですよ。人1人守れないでどうするのです?
それとも、自分だけ助かればいいなどという戯言を抜かす気ですか?」
そういうや否や、何の合図もなく最初の一太刀がホルスの頭めがけて振り下ろされる。
「うわっ…!っちょ…待てって!」
言いながら、何とかその一振りをかわす事に成功する。
「ほう、流石ハヤブサといった所でしょうか。動体視力、スピード共に素晴らしい。…しかしその羽は飾りですか?まだ活かしきれていないようですね。」
「そんなこと言ったって…!」
いくら広い神殿といっても室内で飛ぶことは出来ないし、そもそも人形の重さに耐えられなくなるだろう。
次の瞬間、鋭い痛みがホルスの右腕を掠めた。
「ッ…!」
血飛沫が宙を舞う。
セべクの剣をまともに食らい、ホルスは思わず抱えていた人形から手を離した。
「集中してください。ほら、さっそく1つ割れちゃったじゃないですか。」
腕から血を流すホルスの様子にも動じる事なくセべクは嬉々としてその刃を振るい続ける。
「楽しんでんじゃねえかよ…。」
完全に外野となってしまったクヌムは高見の見物とばかりに椅子に腰掛けたままその様子をじっと見つめている。
「…あ。」
そうこうしている間に、また1つ人形が割れた。
「やり直しです。」
セべクの陽気な声がだだっ広い神殿にこだまする。
あれから数時間。
壊した人形の数は既に50を超えていた。
「木材はこの国の貴重な資源なんですからこれ以上無駄にしないでください。」
息を切らし、大の字になって寝そべっているホルスの横で仁王立ちしているセべクの顔には疲労の色が一切見えない。
こうして見ると師と弟子の構図が完全に出来上がっている。
体中が痛え…それにもう体が動かねえ。
ホルスはもはや体のどこが痛むのかさえ認識できない程疲労していた。
全身が鉛のように重い。
切り傷だけでなく壁や床で擦りむいた時にできた裂傷や打撲。
とても稽古をしているとは思えない有様だった。
もしかしたら、もう痛覚すら鈍っているのかもしれない。
それならそれで好都合ではあるが。
「逃げる事は出来ても防御に全く身が入っていませんね。」
「そりゃ相手が木の人形じゃあな。」
ホルスは鮮やかな動物の絵が描かれた天井を見つめながら呟いた。
強がってそう返してはみたものの、そういう問題ではない事はホルスもよく分かっていた。
しかし逃げるだけでは埒が明かない。
ホルスには守る事よりも攻める事を考えた方が有意義に思えてならないのだ。
「攻撃は最大の防御、という言葉をご存じでしょうか?」
まるでホルスの思考を読むかのようにセべクが問いかける。
「それそれ!俺はそれが言いたくて…!」
あれは中国の兵法書だったように思う。
幼い頃アヌビスに無理やり読まされたのを辛うじて覚えていた。
知ってはいるが、その言葉は今やっている事とは全く逆の事のように思えるのだ。
「あの言葉は攻撃の重要性を説いているのではありません。相手の戦意を喪失させるほどの圧倒的な防御力の事を指しているのです。」
あの言葉が自分の思っていたのとは全く逆の意味だったとは。
ホルスはようやくこの稽古の意味を理解した気がした。
「それってさ、戦わなくても勝てるってことだよな?そんだけ強くなれば誰も俺に敵わないって戦争もなくなりそうだしすげえいい案じゃん!」
嬉しそうに語るホルスにセべクは少し驚いていた。
要点を的確に捉え、起こりうる結果までを正確に導き出している。
一見何の考えもない若者に見えるが頭は悪くないのかもしれない、とセべクは思った。
「ええ。オシリス様もそうやって国を守ってきたのですよ。」
父の名前を出され、ホルスは尚更この稽古に意味を見出す。
防御の重要性は分かった
しかしホルスにはもう1つこの人形を全力で守れない理由があった。
勿論、想像力の問題などではない。
「でも俺、これが民だと言われてもいまいちピンと来ねえっていうか…。俺が守りたいと思うのは正直家族だけなんだ。」
民は大切だと口では言っておきながらその2つを自然と天秤にかけてしまう自分がいる。
守るべき人と守りたい人。
ホルスには全く別の存在のように思えた。
「俺…王に向いてねえのかな。」
ぼそっと呟いた言葉にセべクがくすっと笑った。
「素質とは何なのでしょう?どれだけ国を思い、民の事を考えても実際に守れなければ意味がない。思いがあればいいというものでもないのです。
敢えて言うなら王として常によくあろうと考え、行動するその姿勢こそが素質なのだと私は思いますよ。」
それに、とセべクは続けた。
「無理に大切だと思う必要はありません。それは実際に王となり、民と触れ合う中で生まれるものだと私は思います。貴方は貴方の中の大切な人を思い浮かべればいいのですよ。」
「そっか…そうだよな。」
王というものに捕らわれる必要はない。
自分の中で納得できればそれでいい。
重要なのはやり遂げる事。
ホルスは自分の中に再び闘志が湧いてくるのを感じた。
「…もう一回頼む。」




