~不穏~
アヌビスの洞察力には皆一様に舌を巻く。
人があり得ないと切り捨てる可能性にさえ光を当て、その考察はその先の見えない部分にまで及ぶ。
ホルスと違い、生まれつき体があまり丈夫ではなかった彼は、その欠点を埋めるかの如く魔術や頭脳の鍛錬に労力を割いた。
もっとも、神上がることが出来れば体の心配などしなくても良くなるのだ。
体術はそれから磨いても遅くはないとアヌビスは考えていた。
「これは…。」
数人の神官達を引き連れて霊安室にやってきたイシスはその光景に目を疑った。
つい先程まで寝台に横たわっていた神官達の遺体が跡形もなく消えている。
端から遺体などなかったのではないかと錯覚するほどに。
呆気に取られているイシスの横でアヌビスが身を屈め、真剣な顔つきで何かをじっと見つめている。
すでに彼の意識は別の所に向いているようだ。
「何を見ているのです?」
イシスは眉をひそめ彼の目線の先を辿った。
その視線を感じ取ったアヌビスはさっと身を引いて寝台の角を指さした。
よく見ると小さな黒いシミのようなものが付着している。
「それは…。」
「おそらく血、ではないでしょうか。」
異様な光景をも凌駕した彼の興味とは、わずかに残る血痕だった。
しかしその痕跡を不審がる者は一人もいない。
「…ここに運んだ者が拭き忘れたのではないのですか?」
イシスの言葉にアヌビスは静かに首を振る。
「神官達が殺されたのは礼拝室。ここに運ばれてくる遺体はすでに清拭を終え、身を清めたものだけ。ミイラにされ、埋葬されるまでのいわば待機室です。殺された神官の血が付着することはあり得ない。」
「では一体誰の血だというのです?」
まるで狐にでも化かされたような顔でイシスは答えを迫った。
「この血が殺された神官達ではなく、遺体を運び出そうとした犯人の物だったとしたら。」
アヌビスの意外な答えにイシスは眉をひそめる。
「どういうことです?」
「死体を運ぼうとした者もまた、何者かに襲われた、という事ですよ。」
いよいよ訳が分からなくなったイシスは閉口し、アヌビスが再び口を開くのを待つしかなかった。
「ここに僅かですが剣で切ったような跡があります。」
そう言ってアヌビスが指さしたのは、中央の壁、大きな鳥が翼を広げた壁画が描かれた中心、鳥の瞳の部分だった。
確かにその部分だけ切り傷のように鋭く削れている。
壁や床に使われている石灰岩は加工がしやすく、装飾を施す神殿や墓などに使われる。
裏を返せば傷つきやすく、他の素材より強度は劣る。
それを証明するかの如く、こうして証拠を刻み込んでしまっている訳だ。
「帯剣しているということは、神官ではあり得ない。侵入者を断罪しようとしたという可能性も潰れます。第一、剣の心得のない者が一人で立ち向かうなんて無謀すぎる。」
そこで、とアヌビスは顔の前に人差し指を立てた。
「俺は一つの仮説を立てました。消えた遺体に何らかの価値があったという可能性です。
それを知り得た者同士の奪い合いに発展したと考えれば一連の流れに説明がつきます。」
イシスはまだ頭の整理がつかないらしく、傷付いた壁を茫然と眺めている。
「ただ、まだ疑問も残ります。まず礼拝室に遺体を放置した件。最初から遺体が目的なら、暗に殺し、見つからない様に持ち帰ればいい。母上が言ったように、まるで見せつけているかのような派手な殺し方だったのも気になる。
そして誰が遺体を持ち帰ったのか。これが最も気がかりです。双方で揉み合いになった後、結局どちらが遺体を持ち帰ることになったのか。そもそも神官達を殺したのはそのどちらかなのか、また別の誰かなのか。それもわかりません。」
アヌビスの話を黙って聞いていたイシスがやっと口を開く。
「貴方の推理はだいたい分かりました。」
その声は微かに震え、静かな怒気を含んでいた。
「殺した犯人、その遺体を奪い合った者達の特定、そして最も重要なのは遺体を取り戻すことです。その者達にとって遺体にどんな価値があろうと、殺された彼らを思う私の気持ちに勝るはずもありません。
大事な神官達が死して尚、得体の知れない者達の手によって蹂躙されることなど決してあってはならないのです。」
イシスは気持ちを切り替えるように軽く息を吐くと、周りにいた神官達を見回して言った。
「私はしばらくここを空けます。私が留守の間、この様な参事が再び繰り返されることのないよう皆気を引き締めなさい。」
イシスの言葉に神官達の顔に緊張が走る。
「私が戻るまでの間、この神殿の主はアヌビス。彼に責任の一切を預ける事とする。
彼の命令は私、豊穣の神イシスの命であると心得よ。」
思ってもみない言葉にアヌビスは驚愕し、目を見開いた。
「母上、それは…。」
アヌビスが堪らず声を上げる
「母の命を断るのですか?」
「い、いえ…ですが。」
自信がない、とは言えず口籠る。
イシスは息子の肩にそっと手を置くと微笑んだ。
「心配いりません。貴方は皆をまとめる力量も、策を練る才格も十分に持っているのです。まずは己を信じる所から始めなさい。」
「…善処します。」
アヌビスは言い得ぬ不安を抱えながら母の言葉に応えるしかなかった。
とは言え面倒な事になった。
頭を整理しようと籠った部屋の中でアヌビスは頭を抱える。
ただでさえ問題が山積みだというのに、ここにきてさらに難題が降りかかってきた。
何も起きなきゃいいが…
このまま時が平穏に過ぎてくれれば、自分はこの神殿の主という肩書を持ったただのお飾りでいることができる。
しかし同様に利点もあった。
ここの神官達を意のままに動かせるという事は、彼らを使い、あるいは自分自身で自由に動き回って効率的に情報が収集できるという事だ。
母がいつまで外出するか不明だがこの機をうまく使い、何とか事件を解決できないかと考えていた。
アヌビスがふと視線をあげると、壁の絵が目に入る。
そう言えばここは幼い頃ホルスと自分の部屋だった。
壁の絵は幼い頃ホルスがいたずら書きしたものだが、描いた本人があまりにも泣き喚くものだから、何故か自分が代わりに怒られたのを覚えている。
アヌビスは絵を見つめながら、その何とも言えない下手さ加減に笑みを零す。
本人曰くここの神官達を描いたつもりらしいが、説明を受けても尚そのようには見えてこないのである。
思い出に浸っている場合ではない。
アヌビスは急に現実に引き戻った。
ホルスの行方も未だ不明のままなのだ。
「アヌビス様。」
その意を汲んだかのように、耳元でキオネの声が響いた。
「見つかったのか?」
アヌビスは思わずその場で立ちあがる。
「いえ…ナイル川の上流あたりで彼の気配が消え、追えなくなりました。周囲を探しましたが、見つけたのは彼の羽一枚だけで…申し訳ありません。」
嫌な予感がする
アヌビスは言い得ぬ不安を覚えた。
「ただ周囲に別の気配が…。」
「叔父か?」
アヌビスはキオネの言葉を遮り、すぐさま問いただす。
ホルスにいくら放浪癖があると言っても、こうも長時間音沙汰がないとなると事件か事故のどちらかを疑わざるを得ない。
そうなると必然的に挙がるのは彼の名だった。
「あれは神ではない。人間のものです。」
キオネの答えはアヌビスの想像を超えた意外なものだった。
どういう事だ…?
セトはおろか神のものでもないとなると話が見えてこない。
半神とはいえ人間にやられてしまうほど柔ではない。
考えを巡らすアヌビスの脳裏にある光景が浮かび上がる。
神殿に入る前に感じた違和感。
もしかしてあいつか…?
アヌビスの額に僅かに汗が滲む。
これはとんでもない事態だ。
何も起きないでくれと願ったアヌビスの願いは早くも崩れ去った。
アヌビスは見張りの神官に声を掛けて部屋を飛び出した。
気づいてしまったのだ。
この神殿の中に裏切者がいる、と




