余命一年の彼女からのビデオレター
『この映像を貴方が見ているということは、私はもうこの世にはいないでしょう』
画面の中の彼女はそんな風に切り出した。
柄にもなく真剣な表情で。
まあ、次の瞬間にはいつものおちゃらけた笑顔を浮かべていたんだけど。自分の本心を覆い隠して、周囲に心配をかけないための笑顔を、だ。
『なーんて、にゃっはっはっ! 真面目ぶっちゃうのは私らしくないよねっ?』
思えば出会った時から彼女はそんな風に笑っていた。
あれは中二の夏休み、居眠り運転の馬鹿から野良の子犬を助けようとして轢かれて入院した時のことだった。腕の骨が折れたとはいえ元気が有り余ってたから探索だなんだと病院の中を歩き回って、いざ自分の病室に帰ろうとして迷子になっていた俺に彼女は声をかけてくれたんだ。『へい、そこの男の子っ。新参者かな? だったらこの病院に長く君臨している影のクイーンにあいさつの一つもないのはいただけないにゃー!!』なんて風に。
光り輝く羽衣のように大きく靡く長い黒髪に活発そうな光を宿す瞳をした年上の女の人だった。今まで見たことのない美人さんは思春期中学男子の繊細な男心なんてお構いなしにぐいっと距離を詰めてきて話しかけてきたものだった。年頃の男にとって年上お姉さんがぐいぐいくるのは心臓に悪いんだって絶対わかってないよな? つーか普通に豊満な胸とかぶつかっていたんだけど気づいてなかったのか!?
明るく、元気に、それでいて病衣から覗く腕や脚は不自然なまでに細くてどこか今にも消えてしまいそうな危うさを内包していたものだった。……あの時の俺は『長く』病院に君臨しているなんて言葉がどういう意味なのか深く考えることもなかったが、今にして思えば彼女の抱えているものの一端は垣間見えていたんだよな。
ともかく、そんな出来事がきっかけで彼女は俺の病室に乗り込んでくるようになった。クイーンをもてなすのは新参者の仕事だなんだ言って、年頃の男が年上お姉さんが無防備に病衣から肌色を覗かせるのに心臓バクバクさせていることなんて気づきもせずに。
とはいえ何か特別なことをやったわけでもない。ボートゲームで負けた方は勝った方の言うことを一つ聞くというルールで対決したり(こっちが負けたら耳元でこっぱずかしいこと囁くとか色々させられたのに、こっちが勝ってちょいエロな要求しようとしたら軽蔑した目で睨んで思春期男子の心をへし折るのは卑怯だと思うんだが!?)、『外』で俺がどんな風に生活していたか話したり(そこで彼女はどうだったんだとか聞きやがったのは我ながら馬鹿すぎたよな。まあ彼女からはそれとなく誤魔化されたものだが)、なんだかんだと入院していた時は一日中彼女と一緒だったと思う。
俺はいくら轢かれたからって探検だなんだと歩き回れる程度だったので退院も早かった。退院の見送りに来た彼女の顔は今でも忘れられない。馬鹿な俺でも笑顔で隠したものに気付けたくらいなんだから。
寂しいくせに、それでも彼女は笑っていた。
それがどうしても嫌だった。
だから……いいや、違うな。彼女が、じゃなくて、俺が寂しかったから、気がつけばこう言っていたんだ。『見舞いにくるよ、お姉さんが退院するまで毎日だってな!!』と。
多分彼女の意表を突いたのはその時が初めてだったと思う。いつもは余裕満々にからかってくる彼女が驚いたように目を見開いて、『外』で生きる貴方の負担になりたくないとかごちゃごちゃ言うものだから俺も意地になって『うるせえ! 何が負担だっ、俺が会いたいから会いにくるのが負担になるわけねえだろ!!』とか今になってみればこっぱずかしいことを言ったものだ。
直後、彼女がいきなり泣き出したものだからクソガキだった俺は何もできずにおろおろするしかなかったが。……まあしばらくしたら『ぷっふふ。なぁに慌てているんだよう。まさか本気で泣いているとでも思ったのかにゃー?』とからかってくるのが彼女なんだけど。今ならそれが強がりだってこともわかるが、当時の俺は完全に騙されたものだった。
そんなこんなで退院してからの俺は放課後に自転車を漕いで彼女の見舞いに行ったものだ。片道一時間の距離をかっ飛ばして、汗だくになりながらもそれが苦じゃなかったのは……まあ、うん。あの時にはもうどうしようもなく溺れていたんだと思う。
特別な出来事なんて何もなかった。
彼女に会うことそれ自体が特別だった。
だからといって彼女のことしか目に入らず、それ以外を投げ捨てていた当時の俺ははっきり言って『酔っていた』んだろうな。
中学三年の春。受験において重要な期間でのことだ。隣の家のツンデレ幼馴染みがネットの海でバーチャルという皮をかぶって配信者として登録者数世界第何位とかいうレベルにまで急成長しているというのに貪欲さは翳りを見せず知り合いに宣伝しまくれというお願い……という名の幼い頃の俺の黒歴史をネタに脅迫してきやがったので毎度のごとく見舞いに来てきた俺が仕方なく宣伝活動に勤しんでいた時だ。
受験勉強は捗っているの? と。
そう聞いてきた彼女の目はどこまでも真剣で、だからこそ俺の適当な言い訳なんて泡のように消えていったんだ。
『貴方が来てくれるのははっきり言って嬉しいよ。だけど、だけどさ。貴方の人生はここだけで完結していいものじゃない。「外」で生きていくためにはやるべきことはやらないと』
『は、あはは。なに、そんな、マジになってんだ? 受験だなんだ真剣に取り組んだって別に行きたい高校や叶えたい将来の夢とかそんな立派なもんねえしな。適当に受かりそうな高校にでも入ればそれでいいんだって』
『今は具体的な夢がなくても、将来何かしたいことができた時に基本的な知識があるのとないのじゃ大きな違いがあるんじゃない? 今、頑張ることは決して無駄じゃないわよ』
『まあ、そうなのかもしれねえけどさ。ぶっちゃけ勉強とかめんどくせえし、それならお姉さんと一緒に遊んでいたほうが──』
本当、今にして思えばクソガキにもほどがあったよな。
彼女は見た目上は元気だったからいつかは治るものだろうとお気楽に考えて、彼女が欲しくても手にできなかった『それ』を軽々しく投げ捨てるような真似をしていたんだから。
『そう』
静かに。
彼女はこう言ったんだ。
『出て行って』
『は? いや、何を──』
『貴方が持っている「それ」がどれだけ価値あるものかわからずに! 私のせいで「それ」を投げ捨てるというならもうここには来ないで!!』
それまでも何かしらぶつかることはあった。だけどしばらくしたら自然に解決しているような、友人同士の些細な言い合いに過ぎなかった。
だけど、この『喧嘩』は時間が解決してくれるようなものではなかったと思う。
まあ、当時の俺はそんな『喧嘩』を前に何も言えずに逃げ帰ってしまうクソガキだったんだけど。
『はぁっ!? アンタばっっっかじゃないの!?』
『うっぐ』
そうやって逃げ帰った俺をなぜか人んちのベッドに潜り込むのが日課なツンデレ幼馴染みは呆れたように切り捨てたものだった。
『で? 件のお姉さんとやらが怒った理由については理解しているわけ?』
『受験勉強を、怠けたから?』
『それだけじゃ足りないわよ。そのお姉さんとやらは少なくともアンタと知り合ってからずっと入院生活なわけよね? アンタがめんどうだと投げ捨てた、そう、健康体であれば普通に持っている色んなものをそのお姉さんは持っていないわけ!! わかる? お姉さんはいくら勉強したって、どんな夢を持っていたって、病気に足を引っ張られて夢を叶えるのが普通の人間に比べて遥かに困難なのよ!? だってのに普通に努力すれば普通に夢を叶えるチャンスが転がっているアンタが舐め腐った真似やっていたら怒るに決まっているわけ!!』
『……ッ!?』
『まあ、こんなのは私の想像でしかないから、これが正解かどうかわからないけどね。真意は、お姉さんとやらに聞くしかないわけ』
だから、と。
生まれた頃からずっと一緒だった幼馴染みは俺の胸に拳を叩きつけてこう言ったんだ。
『いつまでも逃げてんじゃないわよ、ばか! それとも初恋の相手の想いを受け止められないくらいアンタは情けない男なわけ!?』
『……うるせえな』
『はぁん!?』
『全部お前が正しいよっ、俺はどうしようもない馬鹿だったよクソッタレ!!』
『そんなことずっと前から知っていたわけ! で、だから!?』
『だけど、馬鹿で情けないクソ野郎でも譲れねえもんはある!! そんな簡単に諦められる恋じゃねえんだからな!! これで満足か!?』
『ふんっ。だったら今すぐにでも真っ向からぶつかってきなさいよ!!』
『今すぐ!? いやもう夜中だし、っつーかよくよく考えたらなんでお姉さんが俺の初恋の相手だってバレてんだ!?』
『細かいことはどうでもいいからさっさと行くわけ! どうせ時間が経ったらぐずぐず悩んで足踏みするのが目に見えているからねっ。アンタはその場の勢いで突っ走ったほうがまだマシな結果を叩き出せるわけよ!!』
そんなこんなで幼馴染みに背中を思いっきり蹴られて俺は病院に向かったわけだけど、もちろん部外者がお見舞いという名目で病院に入るには何時から何時までという区切りがあり、夜中に彼女の病室どころか病院に入ることもできなかった。
まあ、今時は連絡手段は色々あるんだろうけど、電波を発する機器を病院内で使うことに(リモート面会やら何やらが普及するくらいには医療機器に電子機器が影響を与えることはなくなったとはいえ)彼女は抵抗があるようで、電話とか何とかは持ってなかったんだよな。
だからといって病室の窓に向かって糸電話をモーニングスターのように振り回してガンガンぶつけて彼女に窓を開けてもらう、なんてのは本当若気の至りだよな。普通に病院の敷地内に不法侵入だぞ。
コンビニで買った紙コップと糸で作った即席糸電話を手に取った彼女は俺のことを睨みながらも糸電話に耳を当ててくれた。
下手な言い訳や長々とした言葉じゃ伝わるものも伝わらないと思った。だからこそ、言いたいことはたくさんあったし、聞きたいこともたくさんあったが、短くこう言ったんだ。
『悪い、俺が間違ってた』
『……そう。だったらもうここには──』
それでも、と。
現実的なアレソレなんて無視して、ただただ理想ばかりを追い求めていた当時の俺は片方を選んで片方を捨てるような器用な生き方はできなかった。
『俺はお姉さんを捨てるつもりはない! 受験勉強も、お姉さんとの時間もどっちも完璧にどうにかしてみせる!! これなら文句はねえよな!?』
あの時の泣きそうな、心配そうな、それでいて嬉しそうな複雑に移ろう彼女の顔は今でも忘れられない。俺のために強引にでも距離を置こうとしたんだろうが、生憎とすでに俺の人生に彼女は欠かすことのできないものだったからな。だったら俺にとって彼女は重荷じゃないと、心配はいらないと証明するしかなかったんだよ。
『外』で生きる貴方の負担になりたくない、と彼女は言っていた。あの時の言葉はどれだけ否定しても彼女の中にこびりついていたんだと思う。だからこそ彼女を理由に『外』の一切合切を投げ捨てるようなことをしている俺を突き放そうとしたんだろう。
……当時の俺も大概だが、彼女も酷いことするよな。俺の気持ちはガン無視かよっての。
そんなこんなで彼女に会いに行くのは週に一度程度に我慢して受験勉強に精を出すことになった。お陰でそれなりの高校に進めた。少なくとも彼女に恋する自分に『酔って』、その他の全てを投げ捨てていた時じゃ絶対に合格できないような高校にだ。
もちろん高校生になったからって俺は彼女に会いに行くことをやめたりはしなかった。俺の青春の半分は消毒液の匂いが漂う真っ白な病室で彼女と過ごした日々だった。
まあ、彼女に懐いていた入院患者の一人である女の子が実は両親を殺されて自身も殺されかけた過去があり大好きなお姉さんと離れ離れになりたくないがために自傷を繰り返して入院期間を引き伸ばしていたなんてものをどうにかするために奮闘したり、文化祭でミニスカメイド喫茶をやるんだと男子一丸となった末にツンデレ幼馴染み率いる女子に呆気なく叩き潰されて男子一同女装させられる羽目になったり、病院の屋上から飛び降りようとしている入院患者の一人である少女の自殺願望の根幹となる問題を乗り越える手伝いをしたり、ツンデレ幼馴染みに半ば強引に巻き込まれる形でバーチャル配信者たちによる頂上決戦に裏方として挑むことになったり、付き合ってくれないなら俺を殺してあたしも死ぬとチェーンソーを振り回す(顔色やら何やらから簡単に人の心が読める)同級生の家庭環境に首を突っ込んで歪んだ愛の原因と真っ向からぶつかったり、海外の有名大学の推薦を蹴って俺と同じ高校にやってきた天才少女である後輩や委員会で一緒になったあらゆる武道を極めた達人である先輩が気がつけば四六時中後ろにいるかと思えばベッドの下やら天井裏に潜り込むようになったり、冤罪で裁かれそうになっている友達の恋人を救うために推理ものの小説も真っ青なツンデレヤンデレストーカーなんでもござれの反則だらけの法廷バトルが勃発したり、とにかく色んなことがあった高校生活だった。
色々な人と出会って、色々な出来事を乗り越えて、その上で俺はこう断言できた。
彼女のことが好きなんだと。
この気持ちは一時の気の迷いなんかじゃないと。
『ああそうだ、お姉さん』
『んー?』
『好きだ、付き合ってくれ』
『……んー?』
『だから、好きだから付き合ってくれって言ったんだよ』
『…………、んー???』
『だーかーらー! 好きだっつってんだよ!!』
『んーっ! んーっんんんーっ!!』
『あっ、こんにゃろっ、そうやって聞こえないフリすれば誤魔化せると思ってんのか!? 何なら紙にデカデカと書いてやろうか!?』
『わーっ! わーわーっ!! なに? 何でいきなりすっすすっ好きとか言っちゃってるのよう!? しかも普通に世間話でもするようなノリでさ!! そういうのってもっと、こう、ムードとかあるものじゃないの!?』
『ガチな雰囲気になったら緊張して言えねえからその場のノリで言うしかなかったんだよ!! で、返事は!?』
『返事って、そんな……本気なの?』
『こんなこと冗談で言うほど馬鹿で情けなくはなってねえぞ』
『でも、私は、こんな身体で──』
『もしも病気だなんだそんなつまんねえ理由で断るってんなら流石の俺も怒るぞ。そんなことは、百も承知だ。そんなことが気にならねえくらいお姉さんのことが好きになったんだよ!!』
『っ』
『きちんと受け止めてもらうまで何度だって言うぞ。好きだ、付き合ってくれ』
百も承知だなんて今にして思えば想像力の乏しいクソガキの戯言だったが、それでも当時の俺は本気だったんだ。
多分彼女は全部お見通しで。
それでもいつものように笑ってこう答えてくれた。
『うん、私も貴方のことが好きだよ』
『え、あ……本当に?』
『こんな冗談を言うようなくだらない女になったつもりはないにゃー』
『は、はははっ。そうか、はっは、はははははは!!』
浮かれに浮かれていた俺は聞き逃していたのか、それとも無意識下で聞こえないフリをしていたのか。彼女は小さくこう言っていたんだ。
ごめんね、好きになって、と。
そこからしばらくは人生の絶頂期だったと思う。何せ初恋の相手と結ばれたんだ。そりゃテンションも上がるってものだ。あのツンデレ幼馴染みがツンツンすることも忘れて『幸せそうで何よりなわけ。だからそろそろ惚気はやめにしてくれない?』と疲れたように吐き捨てていたくらいなんだから。つーかあの頃の幼馴染みが配信で世のカップルに対して恨み節垂れ流していたのはもしかしなくても俺のせいだよな?
幸せだったんだ。相も変わらず彼女は退院の兆しも見せてなかったけど、それでも『いつかは』なんて何の根拠もない期待をしていたんだ。
目立った怪我もなく、いつも元気に振る舞っていたから。そんな風に見えていたから。
……彼女の『内側』がどうなっているかなんて医者でも何でもない俺にわかるわけがなかったのに。
『参ったな。今日って付き合って一年目の記念日じゃねえか』
高校も三年目となったあの日、俺はいつものように彼女の病室へ向かいながらふとそんなことを思い出していた。もっと早く思い出せばプレゼントとか何とか用意できたのにと焦りに焦っていたのだが、だからといって今更何ができるわけでもない。これは素直に謝って後日何か用意するしかないと覚悟を決めて彼女の病室に続く扉を微かに開けた──その瞬間にその言葉は俺の耳に飛び込んできた。
『余命一年だそうよ』
…………。
…………。
…………。
情けないことに今でもこうして思い出すだけで心臓が不気味に脈動して思考がぐずぐずにぶっ壊れてしまう。冷静になんていられない。
微かに開いた扉の先では彼女の母親が彼女に向かってこう続けていた。話の内容が内容だからか意識が集中していて俺のことになんて彼女たちが気づかなかったのは運が良かったのか悪かったのか。
『ごめんね、健康に産んであげられなくて。もしも、他の人の子供として産まれていればもっともっと生きていられたかもしれないのに……っ!!』
『そんなこと言わないでよお母さん。もしも、なんて選択肢が目の前にあったとしても、私はお母さんの子供として産まれてくる道を選ぶよ。それくらい、私は幸せなんだよ?』
『う、ああ、あああああっ!!』
俺はそっと扉を閉めた。
俺がここにいると気づかれるわけにはいかないと、それだけを考えて外に出て、そして、
『そっか。お姉さん、死んじゃうのか』
余命一年。
残された時間はたったそれだけ。
……本当百も承知だなんてよくも言えたものだ。受け入れられてなんていなかった。この後に及んで嘘だとか嫌だとか駄々をこねていたんだから。
それでも現実は平等に襲いかかる。俺の心の準備なんて待ってくれない。
その後、俺は知るべきだと言ってくれた彼女の父親から彼女には内緒で聞いた『現実』は以下の通り。
・彼女の肉体の機能は異常をきたしている脳からの命令によって『停止』していっており、徐々に弱っていっていること。
・彼女の内臓のほとんどはすでに『停止』命令の影響で壊れかけており、複数の臓器の移植が必要なこと。またその手術は海外の最先端医療を投入して初めて成功する可能性が出てくること。
・『停止』命令は日々加速度的に悪化しているのでもしも臓器移植が成功したとしてもそう遠くない未来に移植が追いつかなくなるほど迅速な『停止』命令によって多臓器不全を起こして確実に死ぬこと。
・『停止』命令をどうにかするには脳の機能そのものを正常に戻すような処置が必要なこと。そのためには遺伝子そのものに直接関与するような技術が必要なこと。とはいえ彼女の頭の中を弄るような技術となると海外でも研究段階の高度な処置が必要であること。加えるならばその処置は未だ動物実験はともかく人間での成功例がゼロであること。
彼女の肉体の破損状況やら何やら様々な要素が絡まっているがために複数の臓器移植だけでも海外の最先端医療が必要。しかも脳からの『停止』命令を阻止するためには半ば人体実験のような形で成功例ゼロの賭けに出ないと治す目処もないときた。
そもそも海外の最先端医療を受けるとなると膨大な金が必要だ。数千万とか数億とか、とにかくただの学生なんかじゃ決して届かない大金が、だ。治療を受ければ治るかどうかわからない以前に治療を受けることすらできないのが現実なんだよ。
はっきり言おう、彼女が救われる可能性はもうない。
いつか治るだろうなんて甘ったれた願望を抱いていたって残酷な現実は一年が経てば容赦なく彼女の命を奪うんだ。
だから。
だから。
だから。
ーーー☆ーーー
それから十年の月日が経った。
だから俺は彼女のビデオレターを眺めているんだ。
ーーー☆ーーー
『この映像を貴方が見ているということは、私はもうこの世にはいないでしょう』
いつもの病衣ではなく、年頃の女の子のように着飾った彼女が映し出されていた。いつもの病室のベッドの上に腰掛けているということはこれを撮っているのは余命一年が宣告されてそう経っていない頃だろう。最後のほうではこんな映像を撮ることなんて不可能だったから。
『なーんて、にゃっはっはっ! 真面目ぶっちゃうのは私らしくないよねっ?』
彼女は笑っていた。余命一年。普通の人間ならもっとずっと続くはずの人生の大半の時間が与えられていないというのに、それでも自分のことよりも俺のためを想って。
『しっかし、あれだよね。私たち本当に付き合っていたんだよねえ。そういう「普通」の人間みたいなことは諦めていたんだけど、えっへへ。貴方に出会ってから私も随分と「普通」に幸せに過ごせたってものだよ! ありがとねっ』
違う。そんなことを感謝する必要はない。俺は彼女が好きだったから付き合っていただけで、彼女もそうで、そんな『普通』のことを身の丈に合わない理想のように語る必要なんてないのに!
『でも、うん。本当なら貴方のことを好きになっちゃだめだったよね。最後にはこうしてお別れになるってわかっていたんだからさ。好きになっちゃって、諦めることができなくて、貴方に辛い想いをさせちゃって、本当にごめんなさい』
もしもこれがビデオレターでなかったら俺は即座にこう返していたはずだ。ふざけるなと。だけど、画面の向こうの彼女には俺の声は届かない。彼女の言葉を止めることはできない。
『あ、あはは。どうしても真面目ぶっちゃうなあ。こんなつもりじゃなかったんだけど、うまくいかないものだね』
笑って、笑って、笑って。
最後の言葉として残していた映像の中でさえ彼女は本当の気持ちを表に出すことはなかった。
『まあ、伝えたいことは一つなんだよね。私がいなくなっても、それでも貴方の人生は続く。だから私のことは気にせず、引きずらず、さっさと新しい彼女でもつくって幸せになってね!!』
最後の最後まで彼女は笑っていた。
泣きそうなくらい辛いのは彼女のはずなのに、本音を奥底に封じ込めて、そんなボロボロの笑顔で俺を騙せると本気で考えて。
『私は貴方のことが……ううん。それじゃあ、これでお別れってことで!!』
そこでビデオレターは終わった。
終わったんだ。
「いつ見ても舐め腐った映像だよなあ。お前はどう思う?」
「こっぱずかしいに決まっているじゃん! なんで結婚記念日になったら毎度のごとく人の黒歴史を引っ張り出してくるんだよう!!」
そう俺の隣で頭を抱えて顔を赤くして絶叫しているのは十年の月日を経た彼女だった。今にも折れそうなくらい細かった腕や脚に健康的に肉がついた自慢の妻だ。
「もうっ。本当ひどい夫だね!!」
「あァん!? こんなくだらないビデオレター残して、本音を全部隠して死のうとしてやがったどこぞの誰かよりは全然ひどくないと思うが!?」
「それに関しては散々謝ったじゃん!!」
「まあ、ぶっちゃけると涙目でプルプル震えるお前が可愛いからいくら謝ったってビデオレター鑑賞会をやめることはないがな」
「鬼畜め!!」
余命一年。彼女の生存は絶望的だったかもしれないが、治療法が皆無だったわけじゃない。確率は低いながらも治すための道は見えていたんだ。もちろん治療を受けるにはそもそも膨大な金を用意できないことには始まらなかったんだけど。
とはいえ宝くじやら株式投資やらで彼女の治療に必要な大金を手にできた、なんて話じゃない。都合のいい幸運も大金を稼げる天才的な能力も俺にはない。俺は幼馴染みの言う通り馬鹿で情けない男でしかないんだ。
だから、頼った。
俺には彼女を救う力がないので諦めます、と素直に引き下がるような聞き分けのいい子供じゃなかったから。
『金をくれ、とは言わねえ』
ネット配信。
彼女の現状と治療のために必要な額を提示した上で俺はネットの海に向かってこう願ったんだ。
『いつか倍にして返してやる! だから「今」お姉さんを救うために力を貸してくれよ!!』
無名の男の言葉なんてネットの海に飲まれて消えていったかもしれない。だけど俺の隣の家にはバーチャルのガワを被って世界でも第何位の配信者なんてレベルで駆け抜ける幼馴染みがいた。
所属している『箱』との兼ね合いで幼馴染み自身が彼女を助けてもらうよう呼びかけるのは難しかったが、俺の配信を話題に出すくらいなら許容範囲内だったらしい。その影響で俺の配信は多くの人の目に留まることとなって、多くの人が力を貸してくれた。
集まった額は海外の最先端医療を受けられるだけの域に達したんだ。
もちろんここまでやって治療に挑戦できるようになっただけ。弱った複数の臓器移植だけならまだしも、人間の成功例ゼロの処置に臨んだとして完治するかどうかははっきり言って奇跡に近かっただろう。
それでも、だとしても。
やる前から諦めて、余命だから仕方がないと思い出作りするだけだなんて絶対に嫌だった。
現実的かどうかなんて馬鹿な男にはわからない。
最後の最後まで駄々をこねるような情けない男でしかない。
そんな俺を彼女は好きになってくれたんだ。だったら付き合ってもらわないとな。
そう、俺は何もできてはいないんだ。幼馴染みや配信を見てくれた多くの人々、そして治療に挑んでくれた医療関係者たちの力が最終的に彼女の命を救ったんだから。
だからどうした。
結果として彼女が救われるのならば俺はヒーローじゃなくてもいい。
……まあ、配信で勢いに任せて倍にして返すとか言っちまったせいで絶賛貧乏生活だがな。実は総額のうち半分くらいは当時の幼馴染みが黙って受け取れと言わんばかりに叩きつけてくれた預金通帳から出ているのだが『あえて返してもらわずに貸しにしてアンタをこき使うのも一興なわけ!!』とか相変わらずのツンデレで気を遣ってもらっていたりする。俺、昔っからあいつには助けてもらってばかりだな。
「なあ」
「にゃによ」
今『も』人生の絶頂期だ。
彼女と一緒にいられるだけでどんな時だって文句のつけようもないくらい幸せなんだから。
「そういえばビデオレターの最後って何を言いかけていたんだ?」
「うっぐう!? 人の黒歴史を晒しての羞恥プレイだけでなく、そこ深掘りしちゃう!?」
「前から気にはなっていたが流石に深掘りするのはかわいそうかなって思っちゃいたんだが、悪い。我慢できなくなった」
「結婚してから日に日にあなたの鬼畜度が増しているよう。昔のあなたは……いや、そういえば品行方正ないい子ちゃんではなかったような? どちらかと言えばヤンチャくんだったような!?」
「で、実際どうなんだよ?」
「ねえ。本当はわかってて聞いてない? なんかメッチャニヤけているしさ!!」
「そんなことないって。にやにや」
「ついに口に出したじゃん!! もお、この鬼畜夫めえ!!」
赤くなった顔に両手を当てて、顔を隠すようにしながらも、どこか見上げるような形で妻はこう言った。
「『私は貴方のことが大好きでした』って言おうとしていたんだよう!! 引きずってほしくないと思っていたくせに、忘れてほしかったはずなのに、それでも我慢できなくなってしまいそうになったのよ!!」
「ふうんへえほおーん。好きだって言っちゃだめだと思っていても我慢できなくなりそうなくらい俺のこと好きだったのかあ」
「ううっ、ニヤニヤしてからにい!!」
「まあ、今は好きだって言うのを我慢しなくてもいいんだ。だから、ほら、今すぐにでも素直な気持ちを口にしてくれて構わないんだぞ?」
「っっっ!? ばっ、ちょっ、もう!! そんなに私を弄って楽しいの!?」
「うん、すっげー楽しい」
「わかってはいたけど、そんな笑顔で言うことじゃなくない!?」
ポカポカと肉つきが良くなってもそれでも痛くないくらいの強さで俺の胸を軽く握った拳で叩く妻。やがてぶすっとそっぽを向きながらも囁くような声が俺の耳に飛び込んできた。
「今も昔も、私はあなたのことが大好きですよ」
「ああ、俺もお前のことが大好きだぞ」
ゆっくりと身体を預けてくる妻を抱きしめながら、俺は心の底からの気持ちを口にしていた。
これから先も何かしらの困難が立ち塞がってくるかもしれない。馬鹿で情けない男じゃどうしようもないことだってあるだろう。
それでもこの幸せな時間だけは守り抜いてみせる。
誰に頼ってでも、どんなことをしてでも、この腕の中の最愛だけは何があっても絶対に。