フライングウィッチ
し、死にたくない……
急がば回れ、とは言うが。突っ切るより回った方が速いのは琵琶湖の話だ。
室町時代の連歌師、室長の歌。『もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋』が語源となっている。
当時なら兎も角、現代なら水上オートバイで湖を突っ切る方が車で陸路を駆るより速いのでは、と彼は思っていた。
ちなみに地元人でもない彼は1974年、琵琶湖に架けられた『近江大橋』の存在を知らない。
水上バイクが当時の水路をなぞる形なら、近江大橋を渡る車との時間差はそう大差ないということも知らない。
シトシトと降り注ぐ雨粒が店の屋根を打つ。今日も外には出れそうにない。雨に濡らされて不透明な窓を見ながらそう思った。
テーブルに広げられた魔法書の横に中身を飲み干したカップが置かれる。
一ヶ月。
それが彼が『こちら』に来てから経った時間だった。
「やっべぇ。やべぇよ……もう夏休み終わっちゃうよ……」
真っ黒いローブを着た人型が頭を抱えている。人間らしい動作をしているが、顔に空いたフードの隙間から見えるはずの顔は謎の力で洞のような暗闇に包まれていた。
一ヶ月前まで、彼は日本で暮らす一般的な学生として過ごしていた。しかし、ある日、目覚めたら特に脈絡もなくここ『アイリーリス』に移動していたのだ。転移、と言った方が正しいかもしれない。アイリーリスは恐らく地球上の地理ではなく、そもそも地球と空間的に連続した場所かどうかも疑わしい。つまり、所謂、正しくこれは異世界転移というやつだった。
ちなみにアイリーリスは彼がプレイしていたゲーム『DOLL IN NIGHTMARE』シリーズ…………の外伝作品にあたる『Angel Doll』の舞台である大陸の地名である。
ただの異世界ではなくゲーム系異世界だった。
夏休み初日の出来事だった。
初めは『やっべぇwwゲームの世界じゃんww』とテンションが上がりきっていた彼だったが、3日目ぐらいからは『あっ、もういいっす……』とうんざり状態であった。
そうして、日本への帰還ができずに日付が変わり続け一月が経ったのだ。今居る場所と地球の時間の流れが同じなら、もうすぐ夏休みが終わってしまう計算になる。そのためにも一刻も早い帰還が望まれた。今の彼は鳥人間になって琵琶湖を突っ切る勢いの心持ちだった。
心持ちだけである。
「あぁ、俺夏休みの課題なんもやってねぇじゃん……終わりだぁ」
詰みであった。
今必死に勉強している魔法が帰還への手掛かりになるかどうかも微妙だった。
しかも問題はそれだけでは無い。
「どうだ、ちょっとは進んだか?」
「いやー全然」
「……その本に書かれた内容は初級者向けのものだぞ」
「師匠。この本、初級者に求めるハードルが高すぎだと思うんですよ。『猿でも分かる現代魔術』ってタイトルやめて『意識高い系オカルト本』に改題すべきだと思うんすよ」
部屋の店に続く方のドアが開かれ一人の女性が姿を表す。師匠、と呼ばれたその女性は、一瞬鬱陶しそうに目を細めると、呆れた様子で黒ローブの側まで近寄り、そのまま手をローブのフードに伸ばした。
すかさず黒ローブが『猿でも分かる現代魔術』という旨のタイトルが書かれた魔法書を手放して抵抗する。
「いい加減家の中でもそれ被るのやめたらどうだ」
「嫌です」
「そうか。だがこの家の主は私だ。ここでは私の意思に従ってもらおう」
「あ、ズルい!」
やめろー脱ぎたくなーい。
やる気のない声を出しながら抵抗を続ける黒ローブだったがすぐに体格差で無理やり捻じ伏せられ、秘匿していた顔面を晒さられる。
露わになったのは、色白で目鼻立ちを凡人の考えうる限界まで端正になるよう調整したような顔立ち。ぱっちりと開いた瞳は、深海を思わせる魅惑的な色をしている。また、肩より下まで伸ばされた透き通るような黒髪が艷やかに反射し、その身体が一つの芸術品であることを指し示していた。
「酷ぇ……これが人間のやることかよ……」
「酷いのはお前だろう。家に帰る度に得体の知れない黒いのを視界に入れさせられる私たちの気持ちを考えてくれ」
「そこまで言います?」
「どんな探知にも引っかからないし、視界に入れると強制的に焦点がぶらされるから怖いんだよお前……」
「それは……申し訳ないと思ってますよ。でもこれしないと周囲が女扱いしてくるんすよ」
「それの何が問題あるんだ?」
「問題大アリですっての」
隠蔽が無効化され、高い声が部屋に響く。それこそが彼が解決しなければならない問題の一つ。
肉体の変容。体格及び性別の変化である。
彼は彼女になった。
「元の身体に戻った時自分が女扱いに慣れちゃってたら困るでしょ。嫌ですよ俺、癖で女の子に気軽に触わるような事してセクハラ扱いされるの」
「そこはほら……元の感性を気合で維持すれば………」
「なんでそこで根性論なんですか」
「とにかく、外なら着けていても構わないから、家の中だけでも外してくれ。私はともかくラミが怖がるだろう。私もできる限りマキの意思を尊重して普通に接するから」
「はぁ」
マキと呼ばれた元少年現幼女は言葉を詰まらせた。
マキは居候である。
自分の師匠であり居候先の家主であるこの女性の下知を拒むことなどマキにはできない。
そして、何よりマキはこの師匠のことをそれなり以上に信頼していたし、その発言を疑うようなことはしたくなかった。
「そうっすね。次からは全裸で過ごすことにします」
「0か100しか無いのか?」
「たしかにラミちゃんの教育に悪そうなのでパンツだけは履かせていただきます」
「それならまあいいか……」
「良いの!?」
かけた眼鏡を押し上げながら適当な受け答えする彼女はマキの魔法の師匠であり、こちらの世界に来て色々と面倒を見てくれる保護者のような存在であった。
名をマロニー。マキが初めてこの名前を聞いたときは『透明なパスタみてーな名前してんな!』と思ったが、マキはママー派だったので普通に師匠と呼んでいる。
「まあそれはいいとして……」
「あっ、ローブの隠蔽機能付けっぱでもいいんすね」
「それは許さん」
マキの言うことを食い気味に否定しながら師匠は懐から紙切れのようなものを取り出した。
「これを見てみろ」
「こ、これは……!」
この街を取り仕切っている商会の印が大きく押されている。中の文字を見ていくと日付と思わしき文と地名が書かれていた。
「これプレイシア行きのチケットじゃねぇか!」
「ふふん。手に入れるの大変だったんだから、ちゃんと成果を掴んで帰ってくるんだぞ」
「ありがとう師匠! 愛してるぜ!」
プレイシアは今いる街『ネガー』より北に離れた場所にある街である。マキはそこに帰還の手掛かりがあると考えていたのだ。
「わーい! わーい!」
「ちなみに出発は2週間後だ」
「……微妙に先ですね」
盛り上がっていた気分が少し沈静化した。それでも冷めやらぬ興奮は抑えられずに燻っている。ずっと行き詰まってた帰還への手掛かりにようやく進展がありそうなのだ。マキは師匠に感謝してもしきれなかった。
「それまでに魔法の制御を完璧にするぞ」
「ハハッ、左腕も義手になるのは勘弁っすわ」
「では、その本に書かれた理論を全部覚えるところから始めないとな」
「本当にそれ必要ですか……?」
「感覚頼りで使ったらどうなるかはその右手が証明してるだろうに」
「そうでしたね!」
「どのみちこんな天気だ。今日は客なぞ来ないし、理解できるまでとことん付き合ってやる」
「や、やったー」
その日は邪魔が入ること無く、ずっと勉強漬けだった。惜しむらくはその勉強が大学受験に欠片も活かせることはないだろうということだった。