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九話

「……解熱剤を与えたので、これで熱は下がるはずです。目を覚ましたら、渡した飲み薬を飲ませてください。それでしばらく様子を見るといいでしょう」

「ありがとうございました」

 馬車に乗り込む医者に礼を言い、シシリーはそれを見送った。辺りは薄明かりに包まれ、雨はもうやんでいる。風はまだ吹いているが、嵐が過ぎ去った今、それもそのうち治まるだろう。シシリーは館に戻ると、急いでジェロームの部屋に向かった。

 入ると、ベッドではジェロームが目を閉じて横たわっている。苦しげな表情は大分和らいだようだ。しかしまだ治ったわけではない。シシリーはベッドの横にかがむと、早く治りますようにと小さく祈った。

「何か、作ったほうがいいかな……」

 すぐに食べられはしないだろうが、それでも体力を付けるためには何かしら口に入れたほうがいいだろうと、シシリーは料理をあれこれ考えながらベッドから離れようとした。

 すると突然腕をつかまれ、シシリーは驚いて振り返った。

「……ジェローム、眠ってなかったんですか?」

 横たわるジェロームを見ると、その目はかすかに開き、シシリーに目線を向けていた。

「ああ……だが、かなり眠い」

「それなら眠って休んでください。何かあれば私が側にいますから」

 シシリーは微笑み、ジェロームの手を毛布の中へ戻す。

「少し離れますけど、すぐに――」

「待ってくれ。あまり覚えていないんだ……私は、どうしたんだ?」

 熱に浮かされた状態では記憶があいまいなのも仕方がない。シシリーは再びベッドの横にかがむと、ジェロームを見つめた。

「昨夜、びしょ濡れで帰って来て、部屋の前で倒れたんです。すごい熱だったんですよ」

「玄関にたどり着いたところまでは何となく覚えていたが……そうか……それは、迷惑をかけた」

「何も迷惑じゃありません。でもそう思うなら、今後は無理をしないでくださいね」

 これにジェロームは少し視線を泳がせると、ゆっくりと瞬きをした。

「……さっきの医者は、どうやって呼んだんだ?」

「メートンまで行って呼びました」

「だが、外は嵐だったんだろう? 町までどうやって……」

「だから、歩いて行ったんです」

 ジェロームはじっとシシリーを見返す。

「自分で、か?」

「ええ。一刻も早くお医者様に診てもらわないといけないと思って。他に方法はなかったもので」

「髪が濡れているのは、そのせいか」

 シシリーの飴色の髪はしっとりと濡れており、普段よりもその色を濃くさせていた。

「拭いたんですけど、まだ乾いてなくて」

 湿った髪に触れながらシシリーは苦笑いを浮かべた。

「なぜそんな危険なことをした。嵐の中を町まで歩いて行くなど……」

「それを言うならジェロームも同じですよ。嵐の中を外出したんですから」

「それは、私にはやるべきことがあって――」

「私も、ジェロームを助けるためだったんです」

「助けなど私には――いや、そうだな。事実こうして助けられたんだ。一方的に咎めることはできないな。それよりも礼を言うべきか……」

 今までにない素直さに目を丸くしたシシリーを、ジェロームは見据えた。

「いてくれて、助かった。ありがとう……」

 素っ気なく、どこか不慣れな口調だったが、それでもシシリーを笑顔にさせる言葉には違いなかった。

「さあ、一眠りして……あ、そうでした。貰った薬を飲まないと」

 思い出し、シシリーは小机に置いた飲み薬を取る。

「目を覚ましたら飲ませるように言われたんです。自分で飲めますか?」

「ああ。平気だ」

 上半身を起こしたジェロームに、シシリーは薬とコップの水を渡す。紙に包まれた粉薬を口に含むと、それを一気に水で流し込んだ。

「これで熱も風邪も治るはずですから、数日は安静にして休んでくださいね」

「悪いがそうはいかない。数日も休めるほど私には暇がないんだ」

「何を言ってるんですか。倒れてうわ言まで言ってたんですよ? もっと自分の体を労わってあげてください」

「うわ言……? 私は何と言っていたんだ」

「もう少しで、と……。それはお仕事のことですか?」

「そう、だろうな……」

 歯切れ悪く言うと、ジェロームはうつむいた。

「熱で苦しんでる間も仕事のことを考えてるなんて、働き過ぎの証拠です。休めないっていうなら、出来そうなことだけでも私に言ってください。負担を軽くするために手伝いますから」

「これは私の仕事だ。その気持ちだけで十分だ」

 そう言うとジェロームは再びベッドに横たわった。目を閉じた顔に、これ以上シシリーと言葉を交わす意思はないようだった。

「……風邪がちゃんと治るまで、私はここで見張ってますから。仕事に行こうとしても無駄ですよ」

 おどけたふうに言っても、ジェロームは無反応だった。少し寂しげに息を吐くシシリーだったが、薬も飲み、大事には至らなかったことにはひとまず安堵する。しかしジェロームのことだ。こんな状態でも本当に仕事を優先させるかもしれない。完全に眠ってくれるまでは目を離すわけにはいかないと、側にあった椅子を引き寄せ、ベッドの傍らでしばらく様子を見ることにした。だがそれもわずかな間だけだった。ジェロームが倒れてから医者を呼びに行った後も、シシリーはまだ一睡もしていない。看病が一段落して気が緩んだ体は、知らぬ間に忍び寄っていた睡魔に引きずられ、シシリーは心地いい眠りの世界へ落ちて行ったのだった。

「…………!」

 次に目を覚ましたのは、体が大きく揺れ、危うく椅子から落ちそうになった時だった。そこでシシリーは自分が寝込んでしまっていたことを知った。椅子に座り直し、両頬を軽く叩いて意識を目覚めさせると、視線をベッドへ向けた。

「……大丈夫ね」

 そこには横たわるジェロームの姿が変わらずにある。その顔は静かな寝息を立てて眠っていた。それを確認するとシシリーは立ち上がり、窓際へと向かう。自分はどのくらい寝ていたのだろうかと、閉められたカーテンを開けてみる。その瞬間、眩しい陽光が差し込み、部屋全体が照らされる。外はすっかり夜が明け、昨夜の嵐などなかったかのような晴天が広がっていた。窓を開けると、濡れた緑の香りがそよ風と共に入って来た。夏らしい空気が戻ろうとしている。

 どうやら寝ていたのは一時間ほどで、シシリーはほっと息を吐く。さわやかな朝の日差しを浴び、ジェロームが眠っている間に食事と家事を済ませようと思い、扉へ向かおうとした。

 だが明るくなった部屋を改めて見て、シシリーは足を止めた。倒れたジェロームを運び込んだ時は部屋の様子を眺める余裕もなかったが、今こうして見てみると、あまり整理がされていない部屋だとわかった。床には本や書類が無造作に置かれ、他にも皿や空き瓶など、ここで食事をしていた跡もある。クローゼットからは服がはみ出し、その周囲にはシャツが数枚放置されている。ほぼ外出する日々では、部屋を片付ける時間も労力もないのだろう。そんな中でも特にひどいのは机だ。床以上に本は積み上がり、書類は散乱していて、書き仕事は不可能な状態だ。その側の壁には無数のメモ書きがピンで留められており、何とも異様な光景を作っている。どんなことが書かれているんだろう――興味を引かれたシシリーは壁に留められたメモに近付いた。

「これは……地名……?」

 多くのメモには、シシリーも聞いたことのある地名や、簡易な地図が描かれていた。同じものは一つもなく、それぞれ違う内容のようだった。もしかしてこの地図の場所にジェロームは出かけているのだろうかと思いつつ、シシリーは隣の机に視線を移した。

「あ、これ……」

 置かれていた本を見て、シシリーの手は思わず伸びた。表紙には「神秘の魔術」と書かれており、中を見ると、書庫で見たものと同じように小難しい文章がずらりと並んでいた。他の本を見ても、やはり内容は魔術に関するもののようだった。ジェロームは魔術について調べている……?

 本を置き、次は散らばった書類を見てみると、何やら書きなぐったような言葉や文が多く見られた。自問自答していたり、まるで謎解きをして答えを導き出しているような文だったり、その時のジェロームの感情が文字を通して如実に伝わってくる。ある言葉の中から熱心に何かを見い出そうとしているのは感じるが、それが具体的に何なのかまではわからない。だがジェロームがこの作業に集中していることは間違いないだろう。仕事とはこれのことなのだろうか。それも魔術に関するような……。

「よく彼を助けてくれた。私からも礼を言おう」

 声に驚き、振り向くと、そこには以前に会った帽子の紳士が立っていた。シシリーに微笑むと、小さく頭を下げる。

「無理は禁物だと、目を覚ましたら言い聞かせることだ。何事も体が資本だとね」

「は、はい……あなたも、ジェロームを心配してくれてたんですね」

「まあ、彼とは短いが付き合いがある。こんな死に方をされてはこちらも困ってしまうのでね」

「風邪で高熱を出しただけです。死ぬだなんて大げさです」

「もうわかったと思うが、彼は自分の体に気を遣う時間さえ惜しむのだ。もしあなたが助けなければ、今頃彼は重症になり、死んでいてもおかしくなかった。それほど弱っていたということだ。死は大げさではなく、気付けばいつでも側にあるものなのだよ」

 表情も口調も至って穏やかな男性だか、そこにはやはり得体の知れない恐ろしさを感じてしまい、シシリーは無意識に視線をそらしていた。

「……あの、聞いてもいいですか?」

「何かな」

「前にあなたはジェロームが何をしてるか知ってると言ってましたよね……ここの書類やメモは、それに関係してるんでしょうか」

 男性は口角を上げ、シシリーを見る。

「そうだ、とまでは答えよう。だがその先は私から言うべきではないと言ったはずだ」

「ジェロームは魔術に関する何かを調べてるんですか?」

「聞こえなかったか? 知りたければ本人に聞くことだ」

 笑みを浮かべながらやんわりと断る男性に、これ以上のことは聞けそうになかった。

「もう一つ……聞いてもいいですか?」

「答えられることなら」

 シシリーは上目遣いに、恐る恐る男性を見つめた。

「あなたは……誰なんでしょうか」

 人ではないことはわかっている。では何なのかと考えても答えは一向に出なかった。面と向かって聞いていいものかと迷ったシシリーだが、こうして言葉を交わしていると、自分は何と向き合っているのか、どうしても気になった。

 わずかな怯えを滲ませるシシリーの目を見つめ返し、男性は微笑んだ。

「私が人間でないと、何となくわかっているようだが……すまないね。それも私から言うことはできない」

「教えられない、ということですか?」

 男性は静かに頷く。

「教えれば、彼の仕事に支障があるかもしれないのでな」

「支障?」

 ジェロームの仕事と男性の正体にどんな関係があるのか、二つが結び付かないシシリーは首をかしげる。

「だが、いずれは知る時が来るだろう。そう遠くないうちに……」

 不敵に笑うと、男性はシシリーから離れて行く。

「……彼の看病を頼むよ」

 背中越しに言い、扉へ向かう男性だったが、たどり着く前にその姿はかき消えてしまった。男性の正体も、仕事の内容もわからず仕舞いだったが、ジェロームがここで何かを調べていることはわかった。そこには魔術が関係し、きっとそれを理由にどこかへ出かけているのだ。それに同道はできなくても、部屋に散らばった書類をまとめ、見やすい資料にすることくらいはシシリーにもできるかもしれない。体調が戻ったら、もう一度協力をしたいと言ってみよう――そう心に決めたシシリーの前では、壁に貼られたメモの群れが窓からの風にひらひらと揺れていた。

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