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十話

 ぐつぐつと煮えた粥を見てシシリーは火から鍋を下ろすと、それを器に盛った。これを作るのも三日目で、ジェロームの風邪も治りかけている。さすがに粥だけでは飽きているだろうし、物足りなくなっているかもしれない。一応味付けは毎回変えているが、他にも料理を作ったほうがいいかと、その準備をしようと考えていた時だった。

「……あっ、ジェローム!」

 台所の入り口をふと見ると、そこには普段着に外套を着たジェロームが立っていた。

「もう起きても大丈夫なんですか?」

「ああ。……朝食はまだのようだな」

「ごめんなさい、起きられるとは思わなくて……でも、お粥だけなら出来てますけど、先に食べますか?」

 調理台に置かれた粥を示すが、ジェロームはいちべつするだけだった。

「ならば今日はやめておこう」

 これにシシリーは苦笑いを浮かべた。

「そうですか……やっぱりお粥ばっかりじゃあ飽きちゃいますよね。すぐに別の――」

「では行って来る」

 シシリーの声を無視し、ジェロームは廊下へ消えた。

「え、行くってどこに……」

 シシリーは台所を出ると、小走りにジェロームの背中を追う。

「まさか、出かけるつもりじゃないですよね?」

 後ろから話しかけてもジェロームは何も答えてくれない。

「まだ駄目です。風邪はちゃんと治ってないんですから」

 無言で歩くジェロームの先には玄関扉が見えてくる。本当に出かけるつもりらしいとわかり、シシリーはジェロームの前に回り込んだ。

「出かけるなら完全に治してからにしてください」

「もう平気だ」

 ジェロームはシシリーの肩を押し退け、進む。

「平気じゃありません。ずっと寝込んでて体力も戻ってないはずです」

「そんなことは関係ない」

「関係あります。せっかく治りかけた風邪がぶり返してしまったらどうするんですか? またベッドで過ごす羽目になるんですよ。時間を無駄にしたくないなら――」

「すでに時間を無駄にしているんだ。動けるのに休んでいる暇はない」

 すたすたと進むジェロームに立ち止まる気は毛頭ないようだった。シシリーが何を言っても止められる気配はなく、その頭には仕事のことしかなさそうだ。玄関へ一直線に向かう背中を、シシリーはどうにもできず追うしかなく、だがそれほど仕事をしたいと言うのなら、せめてという思いで口を開いた。

「それじゃあ私に協力させてください。ジェロームは魔術に関する何かを探してるんですよね? その手掛かりをまとめることくらいなら、私にもできると思うんですけど……」

 扉に手をかけようとしたジェロームの動きが瞬時に止まった。

「……机の物を、見たのか?」

 鋭い視線が向き、シシリーは怯みそうになりながらもそれを見返した。

「はい……あの、勝手に見たことはごめんなさい。どんなことが書かれてるのか、気になって、つい……」

 これにジェロームは薄く自嘲した。

「まあ当然か。連日部屋にいたのだからな。見える場所に置いていたこっちが悪いか」

「その、どうでしょうか。私に手伝いをさせて――」

「これは私の仕事だ。構わないでくれ」

「簡単な作業を任せてくれれば、ジェロームの時間も労力も節約できます。そうすれば体を休めることも――」

「構うなと言っている」

「だけど――」

「もうやめてくれ!」

 大きな声にシシリーは肩を跳ねさせた。

「……ただ手伝いたいって、言ってるだけです。どうして……」

 目を伏せたジェロームに呆然と聞いた。

「私を助けて、看病してくれたことは感謝している。だが……」

 表情を歪め、ジェロームはシシリーを見た。

「これ以上、優しくしないでくれ」

「そんなこと言われても……私達は夫婦なんです。相手のために何かしてあげるのは当たり前です。それの何がいけないと言うんですか?」

「夫婦であっても、心は離しておかなければいけないんだ」

「意味が、わかりません……心はいらないと、いうことですか……?」

 ジェロームは答えず、険しい表情を作っていたが、おもむろにシシリーを見据えた。

「私の妻にするべきではなかったんだ」

「え……?」

 驚きに固まるシシリーには構わず、ジェロームはさらに言った。

「もう、別れたほうがいい……」

 言葉の衝撃に、シシリーの胸の鼓動はドクンと大きく脈打った。

「どうして、そうなるんですか? 私の行動が気に障ったんでしょうか? 教えてください……自分では、わからないんです……」

 精一杯やってきたつもりが、それらはジェロームに受け入れられていなかった――そう感じると、心には悲しさと、かつてのむなしさが込み上げてくるようで、シシリーはそれを懸命に押し止めながら聞いた。自分のどこが悪く、ジェロームは何を求めていたのか。心当たりのないシシリーにはわかるはずもなかった。

「悪いのは、すべて私なんだ。こんな私の妻でいるべきではない……それだけだ」

 静かな声でそう言うと、ジェロームは背を向け、扉に手を伸ばす。

「聞き捨てならない言葉だ」

 怪しげな声が聞こえた瞬間だった。ジェロームと扉との間に黒い雲のようなものが現れたかと思うと、それは高速で渦を巻きながらどんどんと膨らみ、二階へ届くほど巨大化していく。

「何、これ……!」

「くっ……」

 怖がるシシリーと共に、玄関をさえぎられたジェロームも後ずさる。黒い塊は二人を見下ろすほど大きくなると、その輪郭を鮮明にしていく。黒く光る翼に長い尾羽、そして鋭く突き出たくちばしに不気味に輝く赤い目――目の前にそびえるのは、あり得ないほどに巨大な黒い鳥だった。見上げながらシシリーは、これは夢なのか現実なのか、どちらの実感も湧いていなかったが、ただ本能だけは恐怖を強く感じていた。

「その人間と別れるとは、どういうことだ」

 巨大鳥は地の底から響くような声でジェロームを見下ろし、聞いた。

「……そのままの意味だ」

 ジェロームは巨大鳥を見上げ、怯える様子もなく、普段通りの口調で返した。

「別れた後、どうするつもりだ。すぐに代わりが見つかるとでも思っているのか」

「わかっている。だから、仕事は期限内に終わらせる」

「ククッ……クアッハッハッ」

 巨大鳥は大きなくちばしを開け、まるで人間のように笑い声を上げた。

「何を言っている。私がお前の進捗状況を知らないとでも思っているのか。ここ数ヶ月間、停滞しているのに期限内に終わらせるだと? 誰がその言葉を信じるというのだ」

 黙り込むジェロームを巨大鳥は姿勢を低くし、のぞき込む。

「まさか、諦めたというのではないだろうな。探索も、自分の命までも」

「そのつもりなら、もっと早くに投げている」

「それならばひとまず安心だ。だが別れることはいただけない。仕事が果たせなければ、お前の命は即なくなるのだからな」

「ジェロームの、命が……? どういうことなんですか?」

 シシリーは眉をひそめ、ジェロームに聞いた。しかしジェロームはうつむき、口を閉じたままだった。

「一体、何をしてるんですか? 仕事というのは、命懸けのことなんですか? ジェローム、教えてください」

「知らなくていいことだ。何も聞くな……」

 顔も見ず、小さな声でジェロームは言った。

「知らなくていいとは、随分と勝手な言い方だ。自ら妻に迎えておきながら、一方的に別れを告げた後は、もう何の係わりもないというのか」

 姿勢を戻した巨大鳥は、ジェロームをじっと見下ろし、呆れた口調で言った。

「そうだ。彼女が知る必要は――」

「必要があるかどうかは本人が決めることだ。現にこうして知りたがっていて、その権利もある。振り回しておきながら何も明かさず別れるなど、あまりに軽んじた態度だと思うが」

「違う。私は彼女のことを考えている。だからこそ――」

「ならば言うべきだ。なぜ妻に迎えたのか。その真の理由をな」

「真の、理由……?」

 シシリーの怪訝な視線を受け、ジェロームは気まずそうに唇を噛み締める。

「さあ、教えてやれ。それが礼儀であり、誠意だろう」

 促されるも、ジェロームは口を開こうとはしない。胸の内の葛藤を感じさせるように、その表情は険しい。

「……そうか。できないというのなら、では私が代わりに教えようではないか」

「なっ……!」

 顔を上げたジェロームはそびえる黒い姿を鋭く見上げる。

「もう妻ではなくなるのだろう。教えても何の支障もないはずだ」

「やめろ、言うな!」

 必死なジェロームに巨大鳥の赤い目が光る。

「では、考え直すか? 別れず、夫婦でいると」

 聞かれたジェロームは言葉に詰まり、表情を歪める。それを見て巨大鳥は低い声で笑った。

「お前の気持ちはわかっている。それが別れを決断させたこともな。そうでありながらこの人間を帰らせるのはあまりに惜しいではないか。これほど協力的な人間はこれまでいなかった。真実を教えたところで、お前を簡単に見捨てるとは思えない。素直に手伝ってもらえば、仕事もはかどるかもしれないぞ」

「……貴様の目的は、結局それか。そのために考え直せなどと……」

「何を今さら。私は始めから仕事が果たされることしか考えていない。それが早まるのならどんなこともするつもりだ」

「くっ……」

 ジェロームは悔しげに歯を食い縛る。

「どうする。なおも別れを選ぶか。それとも協力者として使うか」

「あの……」

 小さな声を上げたシシリーは、怖々会話の間に割って入った。

「……どうした、人間」

 巨大鳥に見下ろされ、シシリーは萎縮しながら言う。

「ジェロームが私と別れたいと言うなら、そうさせてください」

「ほお、身勝手な別れを受け入れるというのか」

「そう望むなら、仕方ありません……でも、妻でなくてもお仕事の手伝いはできますから、必要なら私はいくらでも手伝うつもりです。その時は、遠慮なく言ってください」

 寂しさを隠しながら言ったシシリーに、ジェロームと巨大鳥の視線が注ぐ。その一瞬の静寂を破ったのは地の底から響く笑い声だった。

「クアッハッハッ……聞いたか。こんな人間にはもう二度と会えないかもしれない。これほど素晴らしい出会いを無駄にはできまい。真実を教えろ。この人間なら大丈夫だ」

 しかし、ジェロームの口は頑なに開かない。

「私のことは気にしないでください。どんなことであっても、受け止めますから。だから、教えてください……知りたいんです」

 シシリーの懇願にジェロームの灰色の瞳が揺れる。そこに答えは見えなかった。

「そこまで言いづらいのなら、やはり私が教えるしかなさそうだ」

 これにジェロームの目がじろりと向いた。

「……やめろ」

「すべてを知ってもらい、協力をしてもらえ。それがわずかでも助けになるかもしれないのだ」

「無理だ。これは私にしかできない仕事だ。教える意味などない!」

「試す前から否定などするものではない。やってみなければわからないこともある。……事の始まりは前領主、つまりジェロームの父親なのだが――」

「やめてくれ! 言わないで、くれ……」

 ジェロームは叫ぶも、巨大鳥のくちばしを押さえることなどできるはずもなく、シシリーに背を向けると、語られる声から逃れるように壁際へ下がった。しかし巨大鳥はそれには構わず、話を続ける。

「その父親には、今はすたれた魔術の素質があってな。そしてその魔術で、禁忌を犯してしまったのだ」

「禁忌、というのは……?」

 質問したシシリーを巨大鳥はじっと見下ろす。

「冥界から、魂を盗んだのだ」

 そう聞いても、シシリーにはぴんとこなかった。冥界とは死後の世界……そういうものがあることはもちろん知っているが、伝承や物語の中だけの、架空の世界という印象が強かった。神の教えでも、人は死んだら誰でも神の元へ導かれるとされており、そういう世界があるとはどこにも書かれておらず、教えられもしなかった。

「冥界というのは、存在するんですか?」

「あらゆる魂がまず行き着くところが冥界だ。そこでその魂がどのように生きてきたかにより選別される……まあ、今はそんな話はいいだろう。つまり多くの魂が集まる冥界から、父親は魔術を使い、魂を盗み出したのだ」

「どこにあるかもわからない冥界から……そんなことが人にできるんですか?」

「普通の人間ならできないだろう。だが、魔術とその素質を持った父親にはできてしまったのだ。死んだ体から離れたすべての魂は、選別されるまでは冥界の所有物となる。許しもなく持ち出すなどあり得ず、その行為はすなわち、冥界を統べる我が主、冥王への反抗ととらえられることを覚悟しなければならない」

「冥界の、王様……」

 現実離れした話に、シシリーの想像力はなかなか追い付けずにいた。

「父親はそうして冥王の怒りを買ったのだ。盗んだ魂を手放す様子がない父親に対し、冥王は呪いで報復をした。それにより、父親とこの館に住む人間達は死に、盗まれた魂と共に冥界へ行くことになった。自業自得というものだな」

 これを聞いて、シシリーの頭には思い出されることがあった。

「前領主様と、館にいた方々が亡くなったというのは……まさか、一晩のうちに使用人が全員亡くなったっていう、あの事件のこと……?」

 離れた壁際に立つジェロームに視線をやるが、背を向けた姿に返答の意思はない。だがその二つの出来事は間違いなく同一のものだろう。あの事件はやはりジェロームの仕業ではなかった――そうわかると、シシリーの心はわずかに安堵した。

「事件の発端はあくまで父親だ。我々は被害者であり、その怒りは深い。何せ冥王の領域に手を出された挙句、魂を盗まれたのだからな。体面を汚された者が、どれほどの怒りを持つかは人間にもわかるはずだ。だが冥王は悪魔ではない。怒りに任せてこの領内に呪いをかけることもできたが、大事なのは人間に二度と同じ真似をさせないことだ。そこで私が命を受け、意図的に生かしておいた息子のジェロームに、これ以上の呪いを回避するための条件を突き付けたのだ」

「それは一体、何ですか?」

 シシリーは真剣な眼差しを向ける。

「父親が使った禁忌の魔術に関する資料を、一つ残らず燃やすことだ。悪例をそのまま遺していては、いつか繰り返される恐れもある。禁忌に関する物はすべて消し去ってもらわなければならない」

「ジェロームが毎日のように出かけていたのは、それを集めるため、だったんですか?」

「その通りだ。父親は随分と面倒なことをしたようだ。おかげで息子が苦労をするはめになっている。だがそれも自業自得。そんな苦労を悠長に眺めているほど、私は待ち続けるつもりはない。だから資料集めに期限を設けさせてもらった。この条件を伝えた日からきっかり一年……冬の月の始まりまでに果たせなければ、ジェロームの命と共に、この領内は永遠に呪われ、人間の住めない地へと変わる」

「そんな……でも、それでジェロームが死んでしまったら、資料を探す人がいなくなって、禁忌に関する物すべてを消し去ることはできなくなってしまいます。そうなって困るのは冥界の側じゃあ……」

「ここで魔術を使えるのは人間だけだ。人間がいなくなれば禁忌を犯されることもない。だがそのためだけに全員を殺して回るわけにもいかない。要は禁忌に関する資料を読まれなければいいのだ。呪いで領内から人間が消えれば、その心配はなくなる。誰もいなくなった後で建物を燃やしてしまえば、それで目的は果たせるはずだ」

 人の命より、禁忌の魔術の資料を優先させているところに、冥王の怒りが垣間見えているようだった。前領主は、それほど許されないことをしでかしてしまったのだ。ジェロームと、領民の命を脅かすことを……。

 しかし、とシシリーは疑問を口にした

「前領主様が亡くなってから、もう一年以上は経ってます。でもジェロームはこうして資料探しを続けられてます。明らかに期限は過ぎてますよね……?」

 これに巨大鳥の赤い目が笑むかのように細められた。

「確かに不思議だろう。今も資料を探しているということは、一年という期限を守れなかったということだからな。……では、なぜジェロームは生きていられると思う?」

 背後でジェロームが身を硬くさせたのも気付かず、シシリーは考える。

「……あなたが、見逃してくれたんでしょうか」

 巨大鳥は低く笑った。

「私はそんなに甘くないし、甘くするつもりもない。決めた期限は必ず守ってもらう。それを破れば、死が伴うのだ……わかるか?」

 問われて考えるが、シシリーにはその理由が考え付かなかった。

「……わかりません」

 巨大鳥は首をかしげるシシリーを見下ろし、話の続きをする。

「父親の尻拭いのために、ジェロームは奔走してくれた。だがそうする中で、これが簡単なことではないと気付いたのだろうな。一年以内ではとても終わりそうにないと。そこでジェロームは私に一つの提案をしてきたのだ。自分がこの仕事を果たすために、身代わりを立てたいとな」

 これにシシリーの表情は曇った。

「身代わり……?」

「そうだ。その意味はわかるだろう? 期限が来ても自分は死なず、別の人間が代わりに死ぬ……そうして毎年身代わりを立て続ければ、ジェロームは仕事を続行できるというわけだ。しかしそれでは切りがなくなってしまう。仮に全領民を身代わりにすれば、ジェロームが寿命を迎える以上の時間を与えることになる。それでは仕事に取り組む姿勢が鈍る原因になりかねない。だから私はそれを了承する代わりに注文を付けた。身代わりにできるのは、お前の家族だけだとな」

「でも、ジェロームのご家族は、もう……」

「誰もいないのならば、新たに作ればいいだけのことだ。領民の中から適当に選んだ女を、ジェロームは早速自分の妻として迎えた。そうして家族を作り、身代わりを得たのだ」

「妻を迎えて、家族に……ま、待ってください。それって……」

 シシリーの曇った表情は不安を打ち消そうと無理に笑おうとするが、ただ引きつった顔にしかなっていなかった。

「置かれた状況が見えてきたようだな。……ジェロームはこれまで二人の妻を迎え、そして身代わりにしている。三人目の妻である人間、お前がここに迎えられたのは、そういうことなのだ。期限を過ぎた時の身代わりであり保険……それが真の理由だ」

 シシリーは愕然として巨大鳥を見上げる。そしてその視線はゆっくりと背後のジェロームへ向けられた。相変わらず背を見せているその肩は、よく見ればわずかに震えているようでもあった。ジェロームはこの真実を知られることを恐れていたのだろう。自分の代わりに死んでもうらうために妻に迎えたなど、口が裂けても言えることではない。二人の妻が立て続けに亡くなった事件は、当時ジェロームへの疑惑をより深め、陰で死神と呼ばれるきっかけともなったが、実態はそう遠くもなかったようだ。係われば死ぬ――まさに、妻になった者には死の呪いが待っているのだから。

 しかし、身代わりになれるのは家族の人間だけ。それを失えば期限が過ぎた瞬間に死ぬのはジェローム本人だ。シシリーは震える背中に優しく聞いた。

「仕事が終わってないのに、どうして別れようなんて言ったんですか? そんなことしたら、ジェロームが死んでしまうかもしれないのに……」

 身代わりとして妻に迎えながら、その役目をさせずに別れる理由がシシリーにはわからなかった。

「本当に純真な人間なのだな……普通ならば、騙したと怒り狂ってもいいと思うが。いや、むしろそう怒鳴るべきではないか?」

 巨大鳥は少し面白がるように言った。

「ジェロームは、自分の命を諦めてしまったんですか? それとも、私のために、言ってくれたんですか……?」

 何も言わない背中は、ほんの少し身じろぎをした。答えを求め、シシリーは歩み寄ろうと一歩前に出る。が、その瞬間ジェロームはシシリーの脇をすり抜けると、廊下の奥へ足早に去って行ってしまった。

「あっ、ジェローム、待っ――」

「おそらく、その両方だ」

 追おうとしたシシリーを止めるように巨大鳥が言い、シシリーの足は止まる。

「……両方?」

「あれは、お前の命を助けたいのだ。そのために自分が死ぬかもしれないことを覚悟したのだろう」

「私は身代わりなんですよね? 死ぬためにいるなら助ける必要なんてないはずです」

「道理はそうだ。しかし人間の気持ちは常にその通りになるものではない」

「ジェロームが、どう心変わりしたというんですか?」

 鈍感な質問に、巨大鳥は赤い目をきらりと光らせ、見下ろした。

「わからないのか……あれはお前に、情が移ってしまったのだ。身代わりではなく、妻としてな」

 口と目を開けたまま、シシリーは固まった。

「え……? でも……そんな素振り……」

「当然見せるはずはない。お前は身代わりなのだからな。だがそれを貫ぬくことが苦痛になったのだろう。だから別れを切り出した……」

 巨大鳥は身をゆっくりかがめると、シシリーに顔を近付け、見据えた。

「私がこうして真実を教えたのは、お前を助けるためではない。お前に、ジェロームへ協力してもらいたいからだ。あれは自分でなければ果たせないと考えているようだが、現状は悪い。それを打開し、早く仕事を終わらせてほしいのだ。いつまでも足踏みをしている人間を眺めるほど、私は気が長いほうではないのでな」

「私も、そのつもりです。手伝いをしたいけど……本人がそれを、受け入れてくれるか……」

「お前が別れを望まない限り、受け入れざるを得ないだろうよ。人間の夫婦契約というのは、互いが納得しなければ解消されないのだろう? それができないのならば、ジェロームはお前を助けるために何としても仕事を果たそうとするはずだからな」

「そうだと、いいんですけど……」

 シシリーは自信なさげに言う。

「案ずるな。真実を知られた今、ジェロームの態度も変わるはずだ。お前の協力で、領主と領民の運命は変わるかもしれない。死を避けたいのならば、共に励むことだ」

 これにシシリーの表情は少し緩んだ。

「はい……あなたは恐ろしいですけど、どこか、優しくもあるんですね」

「だとしたらそれは私の優しさではない。冥王が愚かな父親にかけた慈悲だろう。この領地ごと呪うのは簡単だが、そうはしなかった。それを回避する機会と猶予を息子にわざわざ与えたのだ。その意を私は汲んでいるだけのこと。でなければこんな面倒なことはしない」

「あなたは、冥界の王様の部下、なんですか?」

「そうだ。……そういえばまだ自己紹介もしていなかったな。私は生を終えたあらゆる魂を回収する役目を担っている。名前などは特にないが、人間がしっくりくる呼び名としては、死神だろうか」

「わ、私は、シシリー・ガーネットです……」

 律儀に名乗ったシシリーに死神は目を細める。

「とっくに知っているよ。何度も会っているのだからな」

「何度も……?」

 黒い姿をシシリーは見つめるが、これほど巨大な鳥を見ていたら忘れるはずもなく、どこで会ったのかと首をかしげる。

「それにしても、死神を前にして名乗るとは……お前はどこまでも清らかな人間だ。その魂は冥界では目立ってしまいそうだ。まあ、早々にそうならないよう、せいぜい頑張るのだな」

 そう言うと死神は姿勢を戻し、シシリーを見下ろす。と直後、その黒い巨体は輪郭をかすませながら急激に縮まり始め、姿形を変えていく。ものの数秒で人の頭ほどの大きさにまで縮まった黒い塊は、気付けばその姿を黒猫に作り変えていた。

「あ、あなた……!」

 シシリーは瞠目し、足下を見下ろす。その黒猫は館内でよく見かけていた、あの黒猫と瓜二つだった。その見慣れた姿に何度も会っていると言われたことが理解できた。確かに、すでに館に来た時から会っていたのだ。驚くシシリーをいちべつした黒猫は、長い尻尾をぴんっと伸ばし、軽やかな足取りで階段を駆け上り、廊下の奥へと消えて行った。どうやら死神は様々な姿に変われるようだ。館内では自分以外とは話すなと言ったジェロームの言葉の意味はそういうことだったのだろう。となると、喪服の女性や帽子の紳士も死神――すべて同一の存在だったとわかると、シシリーは恐ろしさと不可思議さの中にも、少しだけ安堵を覚えた。

「……一息ついてる場合じゃないわね」

 死神に気を取られている暇はなく、自分がここに来た本当の理由を知った今、シシリーにはやらなければならないことが多くできた。それをするために、まずはジェロームと話さなければ――一階のどこかへ消えた彼を捜しに、シシリーは踵を返した。

 だが、同じように死神に気を取られた者がいたことを、シシリーは知らない。

 数分前――

「こんな朝っぱらから、本当、キャスも物好きよね」

「物好きとか、そういうことじゃないんだよ」

 爽やかな朝の景色の中を、キャスバートとハリエットは並んで歩いていた。その先には領主の館が目前に迫っていた。

「領主様が幽霊? と話してたなんて、シシリーに言っても信じないわよ」

 ハリエットはまだ眠そうな顔で、あくびを噛み殺しながらそう言った。

「だから、幽霊かはわからないんだって。姿はぱっと消えちゃったけど、あの館にいるんだ。もっと得体の知れない何かかもしれない……」

 目撃した瞬間を思い出し、キャスバートは表情を強張らせる。それをハリエットは横目で呆れたように見ていた。

「何かって何よ。悪魔や怪物が潜んでるとでも?」

「可能性はあると思う」

 真剣に答えたキャスバートにハリエットは大きな溜息を吐いた。

「あのねえ、そんな空想みたいなことをシシリーに言うのって、迷惑だと思わない? 私もこうして来てるけど、キャスがしつこいから付き合ってるだけで、本当は乗り気じゃないんだからね」

「ええ? あんなに話したのに、ぜんぜん信じてくれてなかったの?」

「だって、目の前で消えちゃうなんてあり得ないじゃない。単なる見間違いとしか思えないし」

「そのあり得ないことをこの目で見たから、僕はシシリーの身が心配なんだ。想像してみてよ。領主様が消えた女と話してたんだよ? 消えたってことは人じゃないんだよ? 嫌な感じしかしないよ。……ハル、聞いてる?」

 遠くの空を眺めていたハリエットはすぐに視線を戻した。

「聞いてるって。シシリーに私達がおかしくなったと思われなきゃいいけど……」

「何かあったら遅いんだ。その前にできることはしないと」

「そんなに意気込まなくても平気よ。シシリーは普通にやってると思うし」

「シシリーはね。でも領主様が普通じゃないかもしれないんだ。それは教えておかないと」

 話しているうちに、二人は領主の館の敷地に着いた。緑が広がる大きな庭を突っ切り、館の玄関へと向かう。

「そもそも、こんな朝早くに訪ねるのも迷惑よ。話し終えたらすぐに帰るからね。長居は駄目よ」

「わかったよ……」

 キャスバートは返事をし、玄関の扉に近付く。

「……ん? 話し声がする」

 扉の前に立つと、その向こうから会話らしき声が聞こえてきた。しかしその声はくぐもっており、言葉ははっきりと聞き取れない。

「先客がいるみたいね。出直して――」

 ハリエットが言い終えないうちに、キャスバートは玄関のすぐ隣にある窓へ向かった。

「ちょっと、まさかのぞく気? 不審者みたいな真似しないでよ」

 だがキャスバートは聞かず、窓から中の様子をのぞき込んだ。

「……!」

 その途端、目はあり得ないものをとらえ、キャスバートは無意識に窓の下へ身をかがめた。

「……キャス? どうしたの?」

「しっ!」

 人差し指を立てたキャスバートの顔は、ひどく引きつっていた。ハリエットはすぐに歩み寄ると小声で聞く。

「どうしたのよ。領主様と目でも合ったの?」

 するとキャスバートは頭上の窓を指差し、のぞいてみろと促す。一体何なのかとハリエットは静かに窓の端から顔をのぞかせた。

「……ひっ!」

 危うく悲鳴が漏れそうになり、ハリエットは慌てて口を塞ぐ。窓の向こうには大きな黒い塊がそびえていた。見た瞬間はそれだけの認識だったが、よくよく見れば、その塊には艶を帯びた黒い羽が無数に生え、太く尖ったくちばしが突き出ており、その上には血のように真っ赤な目が光っていた。その姿はどう見ても鳥だが、人が常識で知る鳥とはかけ離れ過ぎた、まさにあり得ない大きさだった。

 衝撃に身をすくませていたハリエットだったが、キャスバートに服を引っ張られ、窓の下で同じようにかがみ込んだ。

「あれは、何……?」

 ハリエットは震える声で聞く。

「やっぱり、この館には、何かいたんだ……だけど、あんな鳥の怪物がいたなんて……」

 キャスバートは表情を引きつらせながらも、冷静に言った。

「信じられない……」

「たった今その目で見ただろう? 現実なんだ、これは」

「それじゃあ、怪物とシシリーは、一緒に暮らしてるって言うの?」

「そうなる……あんな怪物を連れてるなんて、領主様は本当に死神なのかもしれない。早く、助けないと……」

 そろりと立ち上がると、キャスバートは再び窓越しに中の様子をうかがった。会話は続いているようだったが、誰が話しているのかわからず、その姿を捜す。すると鳥の怪物はおもむろに身を低くし、何かを見ているようだった。どうやらその向こうに会話の相手がいるらしい。しかしのぞいている窓の位置からでは、怪物の体でその姿はちょうど隠れてしまっていた。くぐもった声を聞く限り、男女の会話のようではあるが、それがシシリーなのか、あの消えた女なのかまではわからない。

 キャスバートはかがむと、隣で怯えるハリエットに聞いた。

「突入して、シシリーを連れ出さないと」

「何言ってるの? あの怪物に狙われたら、私達一瞬で飲み込まれちゃうわ」

「じゃあシシリーを見捨てるって言うのか?」

「そんなこと言ってないでしょう。助けるに決まってる」

「それなら――」

「でも今じゃない。焦る気持ちはわかるけど、あんな怪物がいたらどうしようもないわ」

「シシリーの身が危ないんだぞ。ためらってる場合じゃ――」

「確かにそうだけど、すぐに危険っていうことはないと思うの。だって命を奪うつもりなら、館に来た日にそうするはずでしょう? だけどシシリーは普通に生活してるわ」

「そうだけど……」

 するとハリエットはキャスバートの肩をつかんだ。

「私達だけじゃ駄目。シシリーのお父さんに教えないと。それで一緒に連れ戻すのよ」

「怪物のこと、信じてくれなかったら?」

「司祭様が村人の話を鼻であしらうことはないわ。それに自分の娘のことなら、真剣に聞いてくれるわよ」

 そう強く言われ、キャスバートはしばし黙って考える。

「……わかったよ。今日はひとまず、村へ戻る。でも次は……」

「シシリーを助けよう。こんなところにいさせるわけにはいかない……!」

 二人は互いの意思を確認すると、静かに館から離れ、来た道を走って帰って行く。そんな友人達の姿があったことなど、シシリーは知る由もなかった。

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