シリアルキラーの末路
第十九章
木下佐太郎は、都内の高級ホテルのバーカウンターで一人ジントニックを舐めながら時を過ごしていた。気楽なジャズの即興を聞きながら、様々なことに想いを巡らせていた。既に年が明けて、佐々木和子を処理した後だった。和子はN証券の課長だった。警戒心が強かった彼女も徐々に心を開いてくれ、やがて人生を楽しむ喜びを知り変容してくれたことは、彼にとって無上の喜びであった。そして、その絶頂のまま眠らせ、すっかり灰にすることが出来て心から満足していた。その始めから終わりまでを思い出しながら飲む酒は格別だ。
俵池事件の報道はさすがに鎮静化していた。捜査の進展が鈍くなり、この手の事件は他にもたくさんあるし、大きな災害もたくさんあったので仕方がない。従って進展のない事件はどんどん隅に追いやられ、遂には視聴者に忘れ去られて次の情報に泣き笑いするのだ。ある高名な犯罪心理学者がテレビで、「私が独自に犯人についてプロファイリングした結果。犯人は独身で一人暮らし、非情で確固たる意志を持って女性を殺害している。おそらく殺人を楽しんでいるようだ。そして事件が発覚しないように最大限の措置をとっている。
こういう人物というのは、自分の意思でやめることができないので、捕まるまで続ける傾向がある。しかし、俵池事件は十年ほど前以降起きていないのですから、犯人は既に大きく体調を崩したか、或いは既に死んでいる可能性がある」とコメントしたことが、事件への関心を薄れさせてくれたようだ。木下は思わずほくそ笑み、彼に一杯奢ってやりたいと思ったほどだ。「犯人は、殺害や処理の方法を変えた可能性がある」などとのたまわれるよりはずっとマシだ。
今夜くらいは自分の為に楽しんでもバチは当たらないだろう。彼はそう考えながら何気なく左横に視線を流した。そこには上品に着飾った様々なタイプの女性が人待ち顔で座っていた。彼の眼差しが自分に注がれるタイミングを逃さず、彼の目に留まろうとアピールをする。静かだが激しいドラマが展開される。彼は今夜のお相手を物色しているのだ。
勿論今の彼はビジネススーツからカジュアルに着替えて遊び人風を気取っている。彼は誰にも視線を固定することなく優雅に微笑んで、カウンター越しでカクテルを作っているマスターと目を合わせた。
「木下社長。でいらっしゃいますね? 」後ろから呼びかけられて振り向くと、そこには背の高い日本人女性が微笑んでいた。聞き覚えのない声と容姿だった。
「……そうですが、あなたのような美人を忘れるはずがないんだが、どなたですか? 」
「初対面です。私、樽澤悦子と申します。悦子の悦は、悦楽の悦ですわ」
「それは素敵なお名前ですね。それにお似合いだ」
「どなたかと御待ち合わせですか? 」
「いや、そんなことはないです。一人で飲んでいるだけです。よかったらどうぞ」
木下は顔をほころばせて右隣のスツールに悦子を誘った。悦子は失礼しますと冬物のコートを器用にたたんで腰掛けた。マスターにブラッディマリーを注文し、ハンドバッグから名刺を取り出して木下に渡した。彼はそれに目を移す。
「はるばる山口県から来られたんですか。私がここにいるのがよくわかりましたね」
「赤祢専務から、多分ここだろう。とアドヴァイスされたのです」
「なるほど。彼も山口県の出身でした。そのつながりですか。それにしても、まあまあの入りの中からよく…… 」
「社長の背格好は大体聞きました。後は、女の勘かしら? 」
「それは大した才能の持ち主でいらっしゃる」木下は嫌味のない笑顔を向けた。それにしても油断のならない相手だと思ったが、少しも嫌な感じがしなかった。二人は赤いブラッディマリーとジントニックで乾杯と杯を合わせた。
「それで、私に何の御用でしょう? 」
「実は、赤祢専務が昨年五月に帰省なさったおりに、地元のある実力者にお会いになられて、大変に重要なお話をなさったのです…… 」
「ほう、してその内容は? 」
「日本国の未来に関わることですわ」
「日本国の未来に関わる…… 」
「嘘。冗談ですよ。内容については私にも知らされておりませんの。それはそれとして、私の任務は、赤祢専務を山口に連れ戻すことにあるのです」
木下はその件について赤祢から特に詳しく聞いていなかった。ただ休暇明けに「非日常の毎日だった」と聞いた覚えがあるだけだった。まさか県の実力者に認められて、県庁職員が引き抜きにくるほどのことになっているとは思わなかった。
「それで、いつだったか埼玉に来られて赤祢にお会いになったんですね。その件は、彼から御断りしたと聞きましたよ。それで正直ホッとしていました」
木下は率直な気持ちを彼女に伝えた。あれから半年が経過しており、もう終わったこととすっかり忘れていたのだが、年の明けた一月早々に再びやって来るとは、しかも直に自分に会いに来るとは、驚きと少なからぬ脅威を感じた。
「ええ、七月でしたわ。しかし私共としても、赤祢専務の能力とお人柄は、是非とも必要でして…… 」
「それで今度は、私に会って説得でもしようと? 」
「木下社長と赤祢専務は、これまで二人三脚で会社の事業を拡大してこられたそうで、赤祢専務は社長を非常に尊敬しておられ、今の御仕事にやりがいを感じている御様子でした」
「……ええ、私と彼との付き合いは長いものです。彼がそうあなたに言ったのなら、率直に嬉しいし、私も彼を尊敬しています。もし彼と一緒に仕事をしていなかったら、我が社はいまだに、しがない請負の清掃業者の一つでしかなかったでしょう。でも我々は出逢い、共に働いて事業を拡大してきたのです。というわけで、あなたが私のところに直接来たとしても、特段効果は無いように思えるのですが、それとも他に何かあるのでしょうか? 」
木下がそう言った時、少し間があいた。ブラシでドラムをこすって叩く音と軽快にベースが刻むリズムが妙に耳に入ってくる。悦子は木下を熱く見つめた。
「……今夜は、赤祢専務の引き抜きとは関係ありませんの。赤祢専務が心酔なさっている社長のことを私も知りたくて調べる内に興味深い発見をしたのです。それで是非御話ししたいと思いまして、個人的に参りましたの」
悦子はここで勇気を出して言った様に見えた。
「ほう、それは一体何でしょうか? 」
「ここでは周りがありますので、お話しできませんわ。できれば誰もいない所が…… 」
「ああ、それでしたら、場所と時間を変えてあらためてお会いしましょう」
「私は、あえてこういう素敵な場所にいる社長を選んで来たのですが、私のような者では相手にならないかしら? 」
この女は自分に挑んできている。木下はそう思った。いきなりバーでくつろいでいるところにやって来て、初対面にも関わらず二人きりで話がしたいとは、赤祢の引き抜きと関係がないとすれば、ハニートラップを仕掛けて、弱みを握ろうとしているのか。県庁の職員がそのような姑息な手を使うとは思えない。とすると、自分が墓場まで持って行くことにしている秘密のことであろうか。だが、彼女とは接点が無さ過ぎる……。
木下は少々困惑した。と同時に、悦子と名乗る彼女に興味が湧いてきた。話をしてもかなり頭が良さそうだ。だが、この手順を無視したやりくちが面白い。計算づくなのか、無鉄砲なだけなのか。木下は腕時計を見てまだ九時過ぎと確認すると、この誘いに乗ってみようと決めた。
「それでは、はるばるやって来た悦子さんの為に部屋をとるとしましょう。ただし、満室であったら御縁がなかったとする。どうです? 」
木下はマスターに耳打ちをして部屋があるか尋ねると、マスターは奥へ引っ込んで「夜景の保証は出来かねますが、ございました」と認証キーを差し出した。
「さあ、何かお飲みになります? 」
悦子は広い部屋に入るなり、ミニ・キッチンを見つけると、そこへ向かった。
「ええ、ブランデーにしましょう。手っ取り早くて旨いからね」
木下がジャケットを脱いでタイを緩め、シャツのボタンを外してシングルのソファに腰かけた。悦子は手早く手を洗うと、棚からグラスを二つ取り出してブランデーを注ぎ、袋詰めのナッツを皿に落として木下の元に現れた。
「それでは、少々強引な悦楽の悦子さんに乾杯」
「素敵な木下社長に乾杯」
二人は見つめ合い、チューリップの花のような形のグラスを静かに合わせた。それから、とりとめのない話をした。今年の冬は寒いとか、東京はやっぱり大都会だとか、景気が上向いているとか……。頭の回転が良く、話題が豊富な二人が話をすると、話題に深みが増して興味深いものになり、二人の距離は縮まった。木下は彼女の頭の良さに感心したようで、会話を楽しんでブランデーがすすんだ。
「さてと、そろそろあなたの発見というのを伺いましょうか? 」
木下は悦子に話を促した。
「社長は『暗示』というものを御存知ですか? 」
「えっ、『暗示』って、あの人を操る催眠術みたいなやつですか? 」
「そうです。ここで一つゲームをしませんか? 」
悦子は悪戯っぽい笑みを浮かべて立ち上がると、木下の前に立ち、右の人差し指を額に近づけた。木下は突然のことに興味をそそられる。
「社長。手を使わずに、立ち上がることができますか? 指が額に触れてもいいですよ」
木下は悦子の自信満々の目を見て、なんとか立ち上がろうと試みたが、できなかった。色々とやってみる内に段々と楽しくなって笑いがでた。
「駄目だ。どうやっても立てないや。でもこれは、人が立とうとする時の初動を抑えているんだから無理ですよ。『暗示』とは無関係のようだが…… 」
「鋭いですわ。でももう、あなたは私が良いというまで立ち上がることはできません」
彼女はそう言うと、木下の斜め向かいのソファに腰かけた。木下はそんな馬鹿なと立ち上がろうとしたが、立つことができない。色々試したが駄目だった。頭、両手、両足は自由に動くというのに、どうも腰が固定されたように動かない。初めて体の自由を奪われている感覚に、これが『暗示』なのかと身をもって理解した。
「なるほど。これが『暗示』ってやつですね。体験してみるとなかなか不思議なものです。もう結構ですから、この暗示を解いて下さい」
「ええ、いいですとも。但し、私の話が終ってからになります」
ほんのお遊びに付き合ったつもりであったが、悦子の意外な返事に思わず「えっ? 」と声が漏れ、目を見ると、先ほどまでの魅惑的な笑みは消え失せ、異様な光が見えた。この女は本気だ。そう実感した。ますます体の自由が利かなくなるようだ。
「こんな形で私の自由を奪うなんて酷いじゃないか。早く解いてくれ」
「ですから、この状態で話を進めたいのです。そんなにお時間はとりません」
悦子は木下の反応を窺った。初めの内は軽い怒りと動揺を見せたものの、話が済めば解放されるとわかると、冷静さを取り戻したようだ。何でもいいから早くと促す。
「……昨年の夏、社長の地元で檻に入れられた遺体が発見されて大騒ぎになりましたね」
「ああ、そうだね。私も警察から事情を聞かれて迷惑したよ」
「あの犯人は、あなたじゃなくって? 」
「何を馬鹿な……。今まで散々勿体つけた『発見』がこれですか? がっかりだよ」
「……もう一度聞きます。あの事件の犯人は、あなたではないですか? 」
「違う! 」
木下は強く否定して罵声を浴びせようとした時、急に胸が苦しくなって頭痛が襲った。頭の芯から疼き出るような鋭い痛みであった。こんなことは初めてで顔が歪んだ。
「いきなり不躾な質問をしてごめんなさい。どうやら薬が効いてきたようね」
「ブランデーに薬を仕込んだのか? 」
「社長のグラスにスポコラミンを主成分とした所謂『自白剤』を拭き付けました。人の脳は、嘘をついたり、ごまかそうとする時、ある回路が必ず作動するの。だから今のあなたは、その回路の作動を強制的に遮られているのです。それでも嘘をつこうとすると、その反動が頭痛や胸の痛みに繋がるのよ。だからあなたの反応が、認めたことになるの。
純粋だった子供の頃を思い出して下さい。胸に何か秘めている時の重苦しさを、嘘をつくと胸が苦しかった頃を、あの時と似てません? 尤も全部正直になれば、楽になりますよ。試しに、もう一度同じことを聞きます。正直に答えて下さい。あの俵池事件の犯人はあなたですか? 」
「……そうだ。これは、絶対に秘密にしておくと決めていたのに…… 」
木下は、正直に質問に答えた。すると胸が晴れて頭痛も消えた。随分と気が楽になり、身体をソファに深く沈めて脚を組むことが出来た。更に両手をついて立ち上がろうとしたが、それは出来なかったので諦めた。悦子は、「やっぱり」という顔をした。
「……暗示をかけて薬を飲ませ、それで認めさせたところで法的には無効なはずだ。なんだってこんなことをするんだ? 警察官でもないのに! 」
「あら、それはそのままお返しするわ。なんだってあんな残酷なことしたのですか? 人を騙した挙句に殺して沈め、それを繰り返すなんて……。
警察はあなたを疑っていたけど、物証とあなたを結び付けることが出来ないでいたの。遺体の身元さえわかれば良かったんだけど。そして次の犯人捜しをしてみたら、実際あんなことをしそうな人がゴロゴロ浮かんできて、あなたに詰め寄ることが出来なかったのよ」
「ははは。そうだったんですか。でも話したところで、君には理解できないだろう。君はどうしてあれが私の仕業だと思ったのかな? 」
「逆質問ですか? いいですわ。私も正直にお答えしましょう。最初は赤祢専務の説得に伺ったのですが、社長との結びつきが深いことを知って、御社の経営状況や業績を調べ、社長の評判などを聞く内に、女性との交際が尋常でないことがわかりました。そして不自然に思いました。女性が結婚を決意して御宅にやって来て、やっぱり一緒に暮らせない、別れようとなった時、大人しく引き下がるものだろうかと……。
自分に置き換えて考えても、納得できなかったのです。それで調べて行く内に、女性が来た時は、お寿司屋さんの大将とか目撃した人は見つかったのですが、その後の女性の姿を見た人が一人も見つからないのは、おかしいと思ったのです」
「私が車で駅まで送ったとは考えなかったのですか? 」
「ノー。天国から地に落とした男の車になんて誰が乗るもんですか。絶望して飛び出したとしても、携帯が無ければタクシーを呼ぶにも一苦労。今時公衆電話はなかなかないですからね。やけになって駅まで歩くにしても初めて来た町ですから、道だってわからない。その間誰かの目に留まってもいいはずです。
それが全然無いのは不自然です。それでもしかしたら、誰も生きて御宅を出ていないんじゃないかと思ったのです。名前がわかったのは去年の堀越千恵美さんだけ、でもあなたは十数年前からもっと多くの女性と交際している。あなたは今に至るまで、もっと殺しているでしょう」
「……さあね。うっ」
木下は白を切ろうとすると、再びあの苦しみに悶絶した。今度は息をするのも苦しい。
「わかったわかった! やった。やったよ! 」
苦し紛れにそう叫ぶと、先ほどの苦痛が嘘のように去った。
「やっぱり、堀越千恵美さんを殺したのね」
「ああそうだ。六年前から家を改築して方法を変えたんだ。もうわざわざ檻を作らなくて済むようにね…… 」
木下は、堀越千恵美と次の佐々木和子を殺害して処理した方法を話した。あの苦痛がやって来ないということは、それが真実ということになる。悦子はそのあまりの恐ろしさに言葉が出ない。自宅を改築して殺害・処理システムを構築し、一酸化炭素中毒で死亡させ、遺体を車椅子で移送して焼却するとは……。想像するだけで鳥肌が立った。
彼は、悦子に促されるままに、改築前の殺害方法も話した。結婚するという段階で家に招き入れた女性を睡眠薬で眠らせ、首の頸動脈を圧迫して脳死させたのだ。首を絞めて窒息させると苦しみのあまりに目覚めるが、こうすると眠ったまま死に至るという。
冷酷な連続殺人魔を目の前にして、彼女は、木下から目を離すことができなくなった。彼の目は座っていて自分を見つめたまま動かなかった。
「……墓場まで持っていく秘密をすっかり話してしまったな。君の言う通り、肩の荷が降りた気がするよ。こんな仕掛けをされるとは、思いもよらなかった。だが君は一つだけ大きく勘違いしている。私は誰も絶望などさせていない。苦痛を与えたことも一度も無い。
彼女達は皆私とデートを重ね、結婚するものと信じ切ったまま、眠るように死んだよ。私はそれを確認したから間違いない。私は、彼女達と真剣に交際し、出来る限りのことをして喜ばせた。人生の素晴らしさを満喫してもらい、現実味のある夢を見た状態のままで止めたんだ…… 」
「……止めた? 言葉を変えてそれで自分を正当化するつもり? 」
「正当化? 一体誰に対してだ? そんなこと思いもつかなかったよ。私はね、会社で社会に貢献し、家族と楽しく暮らしていたんだ。だが妻が死んだ。辛くてとても受け入れられなかったよ。人間悲し過ぎると、何もする気が起こらないものだね。それで、子供たちの為にも何とかしようと、心理カウンセラーに相談したんだ。それによれば、何か生きがいを見つけろと、喜びを見つけて打ち込めとさ。それで結婚相談所に入って女性と知り合い、交際してみることにした。やがてそれは私にとって生きがいとなり、喜びとなった。私は彼女との交際で相手に尽くし、喜ぶ顔を見るのが喜びだった。
でも人の気持ちは楽しいとか嬉しいとか、長くは続かない。すぐに不安や疑念など反対の方向に行って揺れてしまう。だから、彼女の気持ちが希望や幸せに満ちた状態のまま眠ってもらい、そして殺してしまえば、彼女は幸せの状態のまま永遠となるのだ。私はどうしてもそれを実行したくなった。
しかし、実際にそんなことすれば大変なことになる。死体が見つかれば警察が動き出し、自分との接点が見つかれば、必ず捕まってしまう。そこで、死体が見つからない方法を考えた。そして、結婚相談所のデータベースに侵入し、孤独で実直に暮らす女性を選んで交際するために近づいた。こうして自分との接点を消したのだ。事実、彼女らが行方不明になっても、事件にはならなかった。まったくあの猛暑さえなければ、完璧だったというのに……。あれ? 正直に話す分には本当に苦しくないんだね。
とにかく、私の力の及ぶ範囲で、彼女達の人生を最高の状態で止めたんだ。殺すという行為はその為の手段でしかない。死体が発見されても、私との接点が発覚しなければ大丈夫だと思っていた」
「……それが、連続殺人の動機…… 」
「それ以外に無い。例の発作は起きないだろう。ところで君は宗教を持っているかね? 」
「いいえ、何も…… 」
「ははは、だったら神道だ。日本は八百万の神々の国だからね。この際だから言ってしまうが、私には倅がいてね、新興宗教の『新世紀・人類救済の党』とかいうのに入って熱心に活動しておった。それは別に構わんのだが、その内に信者と金銭トラブルの末に絞め殺してしまったと打ち明けられてね。ゆくゆくは会社を継いでもらおうと考えていたというのに、弱ったよ。でも冷静になってよく経緯を聞くと、他に見た人がいないとわかり、これは無かったことに出来ると思ったんだ。それで死体を預かって焼却したさ。そしたらなんと、事件にはならなかったんだ」
「その信者は、何というお名前ですか? 」
「知らんよ。知って良いことは何もないからね。直ちに焼却。それだけだ。まったくあんなことをしでかす子じゃなかったのに、宗教てのは、その為ならば何でもできてしまうんだね。教義の上でトラブルになって殺すならまだしも、その女と婚約して全財産を教団に寄付する段階で揉めて殺してしまったらしい。あの教団も、始めは評判悪くなかったんだが、最近じゃ御多分にもれず強引な勧誘や寄付の問題が噴出してきて、先は長くないな。ところで、君は宗教を持ってないそうだけど、天国と地獄はあると思うかね? 」
「さあ、わかりません。考えたこともありません。ただ、人は天国に憧れ、地獄を嫌うのではないでしょうか」
「なるほど。なかなか良い答えだ。聡明だ。私が考えるに、天国も地獄も生きている内に味わい、死んだ後の方は、生きている人への戒めだと思うよ。つまり、あると思う人の胸にはあり、無いと思う人の胸にはないのさ。徳を積んで良いことをした人は天国に行き、悪いことをした人は地獄行き。だから生きている内に良いことをしておこう。とね。
こういうのを肝に銘じて生きている人が多い社会ってのは、実に善良で栄えるわけさ。それで死んだ人については、あの人はきっと天国に行ったとか、この人は絶対地獄に堕ちたとか、人々が噂してね。死人に口なしで確かめる術がないから、言いたい放題だ。
でも、天国って所は、悩みや苦しみ、悲しみが一切無いなんていうだろ? 私は快感や喜びも無いと思うな。反対に地獄は、苦痛や悶絶の日々と言われるが、それもないと思うな。だって死んでるんだもの。
きっと何も無いのさ。でもそれじゃあ宗教は成り立たない。あまりにも味気無いから、僧侶とかが職業として成立し、寺を構えて死者を弔い、墓を守って檀家に仏の道を説く、「生きている内の所業が死後の道を分ける。天国は極楽の日々で、地獄は苦しみの日々、どちらがよろしいですか」と語り伝えて生きている人を導くんだ。行徳を積んだ僧に言われれば説得力も又増す。日本は死んだら皆仏様なんだが、地獄へ行く仏様とはこれ如何にだ。もう洗いざらい話をしたんだから、さあ、この暗示を解いてくれ…… 」
彼の目は半開きで悦子を静かに見据え、ゆっくりと宗教や死後についての持論を展開した。彼女は話に聞き入り、彼の思想世界に引きずり込まれる。彼女は頭を小さく鋭く振って、急いで自分の思考回路を再起動させた。
「……なるほど。赤祢専務が社長に心酔する理由がわかったような気がします。でも私には、あなたは連続殺人魔でとても恐ろしい人にしか映らない…… 」
「それは残念だ。後一歩と思ったのに。私の秘密を暴いたのは間違いなくあなただ。でもまだ、あなたしか知らないことだ。この会話は多分録音しているだろうから、できれば無かったことにしてくれないか。取り引きしよう」
木下はそう言って彼女の様子を窺うと、彼女は頭を左右に振った。それは、取り引きを拒否するのではなく、場違いな発言を非難する意思が伝わった。
「それじゃ、どうするつもりですか。警察にでも引き渡すのか? 」
「……録音はしています。でも、あなたは、なんていうか、恐ろし過ぎる。上司に相談しますので、そのままで、私のことは忘れて、殺した女性の夢でもみてて。きっとあなたに取り憑いていることでしょうからね」
彼女はそう言い残すと、急いでトイレに移動してスマホを取り出して電話をかけた。今まで録音していた音声データも送信した。彼をずっとあのままにはしておけない。しかし、迂闊に暗示を解くと、自分は殺されるかもしれない。彼は紳士的ではあるが、殺人を何とも思わない怪物なのだ。そう思うと、身体がガタガタと震えてきた。
悦子はなるべく小さな声で、木下と会見して連続殺人の自供を得た。今は彼を拘束したままトイレに鍵をかけてこの電話をかけている旨を伝えた。電話の上司は音声データを確認してから折り返し指示する。落ち着いて待て。と答えて電話を切った。
音声データは聞くしかないので、倍速再生しても検討に三十分はかかるだろう。それから責任ある判断が下され、こちらに連絡が来るのは、早くても一時間は必要だと見積もった。この間、広いとはいえ連続殺人魔といなくてはならないと思うと、なかなか落ち着いてはいられない。その間には多分薬が切れてしまう。『暗示』だって彼が眠って目覚めると解けてしまうかもしれない。色々な不安要素が頭に湧いてきて、トイレから出る勇気がなくなった。
上司から連絡がきたのは、一時間後だった。最寄りの警察に通報して木下の身柄を渡せ。音声データは違法で証拠にならないから渡すんじゃない。そう指示を受けて、それを実行しなければならない。
彼がふいに襲いかかってくるのではないかと、これまで経験したことのない恐怖の中、悦子はゆっくりトイレから出て、木下の方へ歩いて行った。鳥肌が立ち、寒気がするというのに、汗が噴き出て顎から雫がしたたり落ちた。
彼の姿がソファに無いのがわかると、恐怖が頂点に達した。正に総毛立つ思いで叫び声を上げようとした時、背後から襲われて口を塞がれた。
「声を立てるんじゃない。よくも妙な暗示をかけてくれたな。苦痛を与えるのは本意ではないが、君だけは生かしておけない。すぐに終わる」
木下は右手で悦子の口を塞ぎ、左腕で首を締め上げ始めた。彼女は殺されると思い、必死で身をよじって抵抗したが、圧倒的な力の差によってぐいぐいと首が閉まり、息ができない。喉がみりみりと潰れてゆくのがわかった。彼女は苦しみながらも顔をねじって木下を睨みつけた。このままでは死んでも死にきれない。せめて木下を睨み上げて、恨みの念を刻みつけてやろうとした。
「うっ! 」
木下は彼女と目が合うと、明らかに怯んだ。
「……そんな。なんでお前がここにいるんだ! そんなはずない。お前は…… 」
彼はそう呻くと、後ずさりしてへたり込んだ。悦子は、彼が幻想を見ていると確信した。おそらく自分の言った最後の言葉が新たな暗示となったのだろう。殺したはずの者が急に目の前に現れた時の不可解さと、それとともに湧いてくる不気味さは、恐怖となり、木下の様な合理主義者には堪えるのだろう。
悦子は木下を睨み据えながら、静かに木下に近づいた。
「く、来るな! わ、私が悪かった。勘弁してくれ。だから消えてくれ。頼むー 」
木下は慌てふためき、失禁しながら土下座の姿勢で額を絨毯に擦り付けた。悦子は苦しさを滲ませた恨めし気な口調で彼に言った。
「……あたしたちはこれから、あなたが寝ても覚めても、かわるがわる始終やって来る。素敵なお話聞かせてね。でも、この白蛇が、あなたの命が欲しいらしい…… 」
悦子は首に巻いていたスカーフを取って木下に向かって放り投げた。彼は「し、白蛇」と絶叫すると、身悶えしながら気絶した。漸く部屋に静寂が戻ると、悦子は気持ちを落ち着かせて、木下の上着から認証キーと名刺を取り出すと、部屋の電話から警察に通報した。もう二度と襲われるのは御免だ。
第二十章
二月。樽澤悦子は、知事の鈴木有作に一連の報告のために知事執務室にいた。快活な笑顔で出迎えた有作は、短く挨拶をすると座るように促がした。彼女は緊張気味に「失礼します」とソファに腰かけた。秘書が優雅にコーヒーを差し出す。
「東京じゃ大変な目に遭ったそうで、でも無事で何よりだった。御苦労様」
「有り難うございます。正直殺されると思いました」
「ナラサワ。どうしてわざわざあの人殺しと夜に会ったの? 上司が命令したのか? 」
有作は木下佐太郎を単なる『人殺し』と呼んだ。横で秘書の菊沢ユリが「木下佐太郎です」と小声で囁くと、「ああそれそれ」とコーヒーを飲んだ。
「……いいえ。単独行動でした。今回の出張の目的は、赤祢氏の説得だったのですが、東京で赤祢氏に電話した時に会いたくないと言われまして、それで木下社長の話になり、彼なら今東京にいると言われ、場所を教えてくれました。とりあえずビジネスホテルにチェックインしてから、彼がいつも飲んでいるというホテルのバーに行ってみたら、おりまして、あとは、流れです。本当に申し訳ございませんでした。
赤祢氏をこちらに向かせるには、木下氏から引き離すことが必要と考えていたので、私が持っていた疑惑を確かめようとしたのです。普通なら絶対に無いことですが、私には暗示や催眠術という強みがありましたので、あのようなことになってしまいました」
悦子は神妙な面持ちで、たどたどしく語った。何しろ相手は県知事で、直々の呼び出しなのだから無理もない。彼女はあの夜、警察に通報した後すぐにビジネスホテルに帰って一夜を過ごすと、山口に戻って上司に報告した。それから騒ぎになり、事実上の謹慎状態が続いていたのだ。
木下佐太郎はあの夜、悦子が呼んだ警察に拘束されたが、寝ては悪夢にうなされ、起きては幻覚を見て暴れる日々で、警察が事情を聞く内に、話せば楽になるというキーワードがきっかけで、埼玉の俵池事件とまだ認知していなかった連続殺人の自供を始めた。至急裏付け捜査をした結果。家の一酸化炭素ガス交換設備と焼却炉を発見した。更に長男の秀一が新興宗教の信者の仁科智子と交際。結婚すると嘘を言って全財産を教団に寄付しようとしてトラブルになって絞殺し、父の佐太郎が遺体を焼却して隠蔽した件も、M署の生活安全課・藤川主任から報告があって確認が取れた。
彼は楽になりたいばかりに、幻覚に悩まされながら全てを自供したのだが、幻覚と悪夢は一向におさまることはなかった。眠りにつけば殺した女達が現れ、目が覚めてもやはり女達に囲まれる。彼女達は互いに会話をすることなく、自分が死んだことを自覚していない。おのおのが精一杯の笑顔で結婚の夢や幸せを語りかけてくる。こうなると眠れないし、食欲も落ち、かつての自信に満ちた顔は見る影もなくやつれ果て、警察は精神鑑定措置をとった。
こうして稀有な連続殺人事件は、地元の者なら誰もが驚く結末で幕を引いた。しかし、ここは埼玉から千キロ以上も離れているので温度差は大きい。有作から見れば木下佐太郎などただの人殺しだし、三興のような中小企業が廃業になったところでなんともない。おそらく日本経済にも何も影響は無いだろう。
有作の目の前にいる樽澤悦子の決死の行動が、事件解決の功労者だと褒めてやりたいところだが、これは彼女の任務ではないし、明らかにやり過ぎだ。暴走というべきだろう。しかしこれで、赤祢をフェローとして迎え入れる可能性が高くなったことは確かだ。
「話はわかった。だけど、あれは君がやることじゃなかった。君の行動が裏目に出て、あいつに殺されていたら、俺は親御さんにどう説明すればいいんだ。結果が良ければそれでよしとか、そんなことですまされないぞ。今後単独行動を厳に禁じる。いいね」
「はい」
「それに自白剤を盗み出して、ただの人殺しなんかに使いおって、あれは無味無臭のスプレー式の最新型だよ。あれが警察にばれたら非常に困るんだよ。対応が面倒くさいんだ。もう絶対だめだからね。わかった? 」
「はい」
「君の実績を考慮すると、二度とこんな危ないことをしないと誓うなら、訓戒処分ということで、これで終わりだけど…… どう? 」
「……はい。冷静になって考えますと、とんでもないことしたと、深く反省をしております。このようなことは、もう二度と行わないことをお誓いします。そして、申し訳ございませんでした」
悦子は立ち上がり、思いつめた様子で深々と頭を下げた。その姿は心からの反省が伝わるものだった。
「もういいよ。済んだことだから。それにしても、君は暗示や催眠術とかかけられる能力があるんだ」
「……はい。学生時代に社会心理学を学んでいる時に、暗示やメンタル誘導、催眠術などを学びました」
「学んだだけじゃなくて、能力を身に付けたんだよね」
「はい」
「今までその能力を使ったことはあるか? 」
有作は悦子の綺麗な瞳を。まるで射抜く様に見つめていた。
「いえ、学生の頃の実験を除いて、あからさまに使ったのは、今回だけです」
「そう、それで、これからどうするの? 」
「はい。一刻も早く木下氏に面会して、私がかけた暗示を解いてあげようと思います」
「どうして? 」
「どうしてって、あの、かけたのが私ですから、私でないと解くことが出来ないのです」
「だめだね。これは命令だ。君の存在は、警視庁は把握していないか、重要視していない。あの夜、奴がバーで女と飲んだ後で、部屋に入ったところまでは知られているが、それが君だと特定するつもりはないようだ。
名刺を取り返したのは上出来だ。とっさに通報した時に、ホテルの電話を使ったのもいい。そして動転していたのか、名乗っていなかったのは幸いだった。そして部屋を出る時、わざわざ認証キーをドアノブに置いたのも正解。
しかし君は色々と証拠を残していった。指紋は、君のはデータベースに無いから大丈夫。声は録音されているが、そこから君を特定するほどの価値を認めてないんだろう。骨がおれるからね。更に言えば、髪の毛や防犯カメラに君の映像が残っているけど、警察が本気で解析すれば、君を特定できるだろう。しかし、今日まで警察が君を追っかけてきて詳しい事情を聞くことがないってことは、もう忘れていいんだよ。通報してくれた女が謎なのは、そのままでかまわんらしい。
そんなことより、奴を捕まえたことの方が大きいのさ。おまけに自分のしでかしたことを即ペラペラ喋ってくれたんだから大助かりだ。それに、これ以上犠牲者が増えないということが、社会にとってどれだけ大きいか。
奴は君のことは記憶にないらしい。ただ、グラスには、ほんのちょっぴり自白剤成分があったはずだけど、それが問題に上がってないのなら、君がわざわざ出向いて、暗示を解く必要はない。これ以上我々をハラハラさせないでくれ」
「……はい」
「警察は暗示だの催眠術だのは、まったく頭に無いからね。奴が罪の重さに耐えかねて頭がイかれたとみて、検察に送検は無理だろうと考えているようだ。これでもう何年も面倒な裁判をすることもないだろう。
でもさ、自分の理屈で人をいっぱい殺しておいて、満足してたんだろ。それがナラサワのおかげで、今じゃそいつらに囲まれて、寝ても覚めてもお楽しみってわけだ」
「ちょっと、トノ! 」
慌てて菊沢ユリが窘めた。有作はこのようにしか表現できない性分で、笑みを湛えながらこう言うと、場の空気が黒いユーモアに包まれる。
「おっといけない。でも、君ならわかるね」
「……はい」
有作が口元だけの笑顔を見せると、凄みが悦子に伝わった。さっき反省を口にしたばかりなのだから、とても反論などできない。思い浮かんだ言葉といえば、自業自得。
「君は、格闘技はできるか? 」
「いいえ」
「射撃は得意か? 」
「いいえ、得意も何も経験ありません」
「じゃあ若いんだから、色々やってみるといい。合気道だったらそんなに力入れなくても相手をほいほいぶん投げられるからね。射撃にしたってやる気さえあればたいしたことはない。失業するだろうアカネを見事『気象制御システム』のフェローに就任させたら、ウチ(県庁)には、SPというセクションがあるんだが、そこに異動してみないか? 」
有作は満足した敏腕スカウトマンの様な笑みを浮かべていた。