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奇人のシャッフル  作者: 小田雄二
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悦子現る

第十六章


 赤祢は勘定を済ませて、老人と同じ様に引き戸を開けて外に出た。五月の爽やかな風が二人を包んだ。空の青さが眩しい。彼は自分の中に生じた奇妙な変化に気づいた。どこがどうとまではわからないが、見える景色が違って見えた。景色の方が彼に対して変わることはないのだから、自分の方が変わったのに違いないが、心持ちは軽く、晴ればれとして清々しい。赤祢は松陰神社へ行こうと美祢子の手を取り、ぶらぶらと歩き始めた。

「あ~あ、何とも変なお爺ちゃんじゃったねぇ。一緒に晩御飯て、時間も場所も言わんで行っちゃった」

「……うん、お爺ちゃんはあれで格好を整えたつもりなんだよ。晩御飯の話は多分スモーク(煙幕)だと思う。気にすることはないと思うよ…… 」

「そうよねぇ。でも赤祢さんは優しいね。全然知らんお爺ちゃんでもしっかり話し相手になってあげて御馳走までしてあげてから。ウチ感心した」

「(話し相手に)なってあげたつもりはないですよ。どちらかといえば僕の方がたくさん喋っていた。中々しっかりとしたお爺ちゃんだったな。僕の父も、生きていればあれくらいかなと思ってね。それに今まで旅先で色んな人に出会ったんだけど、親切にしてもらったことがあってね。勿論ちょっとしたことなんだけど、嬉しいもんでした。だからたまには僕もそうしてみたいと思ったんです。ちょっとしたことですけどね」

「へぇ~。確かに楽しそうじゃったね。何か難しい話で、ウチにはようわからんかったけど。でも核とか原発が嫌いじゃっちゅうところから、急に変わったのはわかった」

「あははは、何であんなこと言ったんだろう。わかんないな。でも、なんだかとても気分が良いんだ。お爺ちゃんが言うように松下村塾のおかげかもね」

 美祢子は、そう言って笑う赤祢が頼もしく見えて、この人は自分が思っている以上の人物ではないかと感じられて嬉しくなった。実のところ、父は伊川の話に乗り気ではなかったはずだ。家を存続させるため妙案は思いつかないが、あれでは理性が追い付かなかったのだ。それに昔かつての夫が、働かずに遊んでばかりいることに業を煮やして大喧嘩になり、散弾銃を持ち出して天井に向けて一発撃ったほどの癇癪持ちでもある。夫はそれで出て行ったきり離縁となった。こしらえた借金は彼の実家と談判して解決したが、それ以降町の人々は父を恐れるようになった。父といさかいを起こして散弾銃で穴だらけにされてはたまらない。

 そんな厳格な父が朝七時に来いと言ったのは、赤祢に対する嫌がらせだった。ところが彼に会った後は、宜しくつき合うようにと携帯電話で言ってきたのには正直驚いた。口ぶりも腹の座ったものだったので、彼が父を決断させたに違いない。そもそもこれは、父が赤祢にお願いしなければならない筋のものだ。その父が迷っていたのだから殆ど無理と思っていただけに意外だった。

 美祢子は姉の美佐子から赤祢の画像データをスマホに送ってもらっていて、彼がどんな容姿でどんな人柄であるかを聞いて知っていた。印象は悪くなかったが、姉が先に赤祢に抱かれることが少々癪に障った。それでも父が断わるかもしれなかったので静観を決め込んでいたが、いざGOサインが出たところで心を決めた。そして実際に赤祢に会ってみて、抱かれても良いと思った。理屈ではないフィーリングが彼女の背中を押した。

 明るくて物腰の柔らかい赤祢には、自分を自然に出すことが出来て会話が楽しかった。そして怪人松田厳陽斎との関わりで、彼の印象は又変わった。この人は凄い人かもしれないと思える様になった。この人とならきっと立派な子が産めそうな気がしてきた。

 二人は仲睦まじく、松陰神社に参拝しておみくじをひくと二人とも吉と出た。気休めにしても気分は良い。それから歴史館を訪れて、ろう人形などで吉田松陰の人生を見学した。美祢子も姉の美佐子と同様に、赤祢の埼玉での暮しについては一切聞くことはなかった。彼の方も進んで語ることはなかった。ここに赤祢優人という男がいて、西村美祢子という女がいる。二人は急接近して定めともいえる情を通じて身籠る。それで十分だ。松田厳陽斎が「ややこしい関係」といったが、この鋭い洞察だけは同意する。

 二人は時として譲り、いたわり合い、城下町や萩城跡を散策した。お洒落に言えばオープンカフェ、普通に表現するなら茶店でお茶を飲み、団子を食べて地元の人と気さくに話をした。みんな二人を夫婦とみるので、いちいち否定することもなくなった。穏やかで楽しいひとときを二人は満喫していた。

 赤祢は歴史というものに余り興味が無かった。話好きの木下社長が飲みながら、いくら織田信長や豊臣秀吉、そして徳川家康の話をしてくれても、その場では面白いと思うものの、寝て起きて酔いが醒めればさっぱりと消えたものだった。知識として知ったとしても、感銘して入り込むことはなかった。

 しかし、松下村塾の門下生がしでかしたことは、正直驚きの連続だった。こんなのどかな町に、そんな過激な先人がいたとは意外だった。お茶を飲みながら、品の良いお婆ちゃんの話に聞き入った。はじめはのんきな世間話から入り、吉田松陰や松下村塾について興味があるかと聞かれ、どちらかと言えばあると答える(無ければここにいるのは不自然)と、それでは、少し聞いて行きとなって始まった。彼女は和服姿で座布団の上にちょこんと佇んでいた。表情は柔和で言葉も穏やかだが、慣れている様子で淀みが無く、内容が自然に頭に入り、イメージが出来るものだった。まるでお婆ちゃんが孫に昔話を聞かせるようであったが、昔話にしては何とも凄まじいものだった。


 松下村塾といえば、吉田松陰(寅次郎)。優秀だが、気性が激しい。ただ生きるのではなく、志を持って行動することの大切さを説いた。「諸君、狂いたまえ! 」と嗾けられた門下生達は、自身の名前に『狂』の字をつけたほどだ。その双璧といえば、久坂玄瑞と高杉晋作という。松陰が江戸で斬首された後、亡骸を引き取りに来たのは高杉晋作らで、彼は徳川幕府への復讐を誓ったという。(ここの時点でもうおかしい)

 先鋒は久坂玄瑞。彼は容姿端麗にして頭脳明晰、弁舌も爽やかな好男子。長州藩の代表の一人として京都御所に入り、礼儀作法も儀式・進物・接待も完璧にこなし『尊王攘夷』論を展開して公家達に入説にゅうぜいに成功する。(攘夷は孝明天皇も支持しており、尊王なのだから、朝廷で受け入れられるのは当然といえる。しかしこれを当然として実現するところが凄い)

 久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(後の博文)らは、江戸御殿場の完成間近のイギリス公使館に火をかけて全焼させた。幕府方は犯人の目星は薄々ついていたが、証拠不十分で不問とした。(ええー、それ放火じゃん! 当時の日本人はみんな『攘夷』だった。ただ、天皇を中心として実行するのか、幕府が中心となってなすべきかで割れた。又その『攘夷』もどの様に、どの程度で行うべきなのかということでも割れた。それをうまくまとめられる人物もいなかったために、命がけのやりたい放題だったところに悲劇が繰り返された原因があったのだろう)

 久坂達の朝廷工作が功を奏して、遂に朝廷が幕府を動かす。時の将軍家茂を京都に呼び寄せ、攘夷決行の期日を五月十日と決めさせた。勅諚である。慌てたのは幕府で、攘夷決行というが、まともに戦えば必ず負ける。負ければ国が持たぬ。さりとてこの現実を口には出せぬ。出せば幕府の権威が地に堕ちる。天皇の勅諚を断わるわけにもいかない。他に妙案は無し。現実を知ればこその苦悩であった。

 久坂は長州に戻ると、光明寺党を結成して関門海峡を閉鎖して全ての外国船に砲撃した。彼は全国で攘夷が決行されるものと信じていたが、幕府と諸藩は動かず、実行したのは長州だけだった。これにより長州はアメリカ・イギリス・フランス・オランダの四か国連合を相手に一か月に五度にわたるいくさになり惨敗する。

 そして次鋒、高杉晋作は面長で眼光鋭く、高級武士・小忠太の一人息子で、今で言うならお坊ちゃんエリート。しかし気が強く頭脳明晰であるが故に世の中をなめて数々の問題を起こしていたが、松下村塾で久坂と競い合って頭角を現した。藩命で上海視察に赴き、イギリスが清を実質支配している様を目撃し、断じて日本を夷狄から守らねばと心に刻み込んだ。平素「つまらん」というのが口癖であったが、ペリー来航で時代が揺れ出した頃から彼の過激な言動が妙にはまるようになった。もはや武士では太刀打ちできぬと判断し、師松陰の草莽崛起論を展開して身分を問わずに兵を募り、奇兵隊を創設して武器を一新、外国の戦法である散兵戦術を見習い訓練に励むよう指導した。

 そして京都では、薩摩・会津連合が過激な長州と長州贔屓の公家七人を御所から追放するという所謂八月一八日の政変が勃発し、久坂の努力は完全に水泡に帰した。又、吉田稔麿を含む多くの長州藩士を池田屋事件で殺されたこともあり、長州藩では怒りが爆発して千人規模の武装藩兵が京都入りした。久坂は最後まで御所入りに反対だったが、軍議で突入が決定され、最後には腹を括り御所に進軍して蛤門で会津・薩摩と激突して惨敗。久坂は責任をとって自刃した。後に禁門の変として歴史に残り、朝廷に向かって弓を引いた朝敵とされてしまう。(そもそも天皇に復権の訴状を届けるためだけだったのに、なんでこうなるかな。朝敵となれば、日本中が敵になってしまうじゃないか! )

 その僅か半月後、長州下関では四か国連合との戦で六度目の決戦になり、遂に長州は降伏した。国内では朝敵とされ、四か国戦争で降伏という絶望的な後始末に登場したのが高杉晋作。彼は烏帽子直垂えぼしひたたれという格式高い装束で講和に臨み、威風堂々とした態度で場を圧倒した。イギリス側の通訳はアーネスト・サトウ、長州側の通訳は伊藤俊輔(後の博文)であった。三百万ドル(現在の価値で約九百億円)という高額な賠償金を請求されると、「我が長州は、幕府の臣下である。この度の戦は、天皇のみことのりと幕府の命に従ったまでのこと。従ってこの戦は長州自らの意思によるものではない。であるから賠償は、幕府に請求するべし」と答えた。イギリス側は驚いたが、伊藤から説明を受けて考えてみると、道理であると納得した。

 次に彦島の租借を要求すると突然、当時の文人なら誰でも知っている『古事記』を諳んじ始めた。これには通訳の伊藤も気でも違ったかと思ったほどで、当然英訳などできない。これにはイギリス側も困惑した。それでも一時間でも二時間でもやめないので、遂に根負けして取り下げた。彼は、我が国は始まって以来、国土をどこの支配も受けたことは無いと言いたいのだが、まともに言えば角が立つ。そこで、『古事記』を諳んじて国の始まりから延々と語り続けてうやむやにしてしまったのだ。見事な作戦勝ちと言える。

 その代わり、下関の港を開くという要求には折れた。下関を開いて諸外国と交易をすれば、物や知識や情報が手に入るので長州にとっても利があるのだ。しかしそれは幕府の許可が必要なのだが、この場でそんなことをしている暇はないので独断で決めた。高杉はこの不利な講和交渉の場を見事に支配し、戦に負けたのにもかかわらず長州の面目を保ちつつ有利にまとめ上げた。その功績は藩内外に響き渡った。(その後もイギリスとの友好関係が続くのだから、不思議なものである)

 それが終わると今度は、朝敵問題の対応について藩内が割れた。尊王攘夷を推進する正義派と、幕府に恭順する俗論派である。正義派が禁門の変を起こし四か国戦争で敗北すると、俗論派が激しくこの大失態を糾弾した。幕府はイギリス連合に請求されるまま三百万ドルの賠償金を支払い、その怒りを長州に向ける。長州を追い討ちするために朝廷に働きかけて、長州征伐の勅旨を得た。そのことで俗論派は恐れおののきながら勢いを増した。その結果、俗論派が政権をとり、幕府へ徹底的な謝罪恭順の意を示して、正義派の家老三人を切腹。参謀四人を斬首。部下二十名を処刑し、長州は滅亡の危機を脱した。(確かにこれだけの大失態をやらかしたんだから、責任をとるのが当然だろう)

 だが、この藩の変節に怒りが頂点に達した男がいた。高杉である。彼はたった一人で立ち上がった。奇兵隊屯所に現れ、「幕府の言いなりになっておっては、植民地にされるというのがまだわからんか! 政権存続にしがみつく幕府などもういらぬ! 先ずは共に戦い、俗論派を倒すんじゃ! 」と時の幹部、山県有朋に訴えた。彼も又松下村塾の門下生で知らぬ仲ではない、話せばわかると思っていた。だが、彼らの総意は、ノーだった。第三代総督赤禰武人は奇兵隊存続を俗論派と交渉していた。

「今や藩内は俗論派が牛耳っちょります。それを守る藩の兵は少なく見積もっても二千はおります。こちらは搔き集めてもせいぜい二百。これでは到底勝ち目はありませぬ。(腹の内・我が隊は、現状安堵が約束されておりまして…… )高杉さん、非常に言い難いのでありますが…… 」

 それを聞いた高杉は、顔を真っ赤にして怒鳴った。

「こぉの卑怯者がぁ! 勝ち目があったらやるんか、なかったらやらんのか! それを卑怯者というんじゃ。ここで引き下がりゃのう、僕らは何のために命をはってきたんかわからんじゃろうが! 悔しゅうはないんか! よう考えや。明朝、功山寺で待つ。僕につく者は来い」

 高杉はそう言い残して屯所を去った。彼は極度の興奮で一睡もできなかったかもしれない。雪の降り積もる寒空が明けて十二月十五日。集まってきたのは伊藤俊輔を筆頭に八十人。高杉の胸は熱く燃えたに違いない。「高杉さんが言うんじゃ仕方がないな」と討ち死に覚悟で集まってくれたのだ。

「これより、長州男児の腕前をお目にかける! 」彼は公卿達に言い残して到底勝ち目のない戦いに出た。これが世に言う功山寺挙兵である。

 高杉晋作が八十名と共に下関の奉行所を襲撃。武器弾薬、食料に藩の軍艦三隻を奪取した知らせは奇兵隊屯所にも伝わった。「高杉さんもしょうがねぇなぁ」と山県が奇兵隊と諸隊が加勢に回って勝ってしまうのだった。

 勝ち目が無いのなんのと言っていたが、奇兵隊は創設以来毎日最新銃の腕を磨き、散兵戦術の実地訓練を積んできたので、藩の正規軍など敵ではなかった。正規軍は二千といえども武者一人に対して馬回りと草履取り、旗持ちなど戦力にならない家来を従えているので、実質は三分の一か四分の一。その武者の戦いぶりは逃げ隠れもせずに槍や刀の一騎打ちだからとても勝負にならなかった。「おのれ野盗の如き振る舞い」と言われても、もはや戦法がまったく違うのだ。これにより、長州藩は再び正義派が政権を取り返した。

 驚いたのは幕府側である。将軍家茂を総大将に、再び十五万の兵を集めて長州の四方から攻めかかってきた。対する長州は三千五百。やはり圧倒的に不利な状況に変わりはない。

 この第二次長州征伐は、幕府軍十五万といえどもやはり古式ゆかしい武者達で、恩賞も期待できずに言われたままに来ただけの士気の低い軍団だった。高杉らは小倉口で勇猛果敢に戦ったが、やはり多勢に無勢で徐々に追い込まれていったが、総大将家茂病死の情報で幕府軍の士気が下がり総崩れとなった。(高杉の運の強さに驚く)

 この戦は殲滅戦ではない。追い返したらそれでええ。退路を断ってしまうと敵は死にもの狂いで向かってくるから損害が大きい。撤退させれば勝ちに等しいのだから、わざと退き道は一つ開けておく。という長州参謀大村益次郎の采配が際立った。誰もが長州は終わったと思っていたが、それを覆して四方からの敵を見事に撃退して長州の危機は去った。

 これによって幕府の権威は地に堕ちた。勢いづいた長州は薩摩と組んで、幕府を追撃してゆく。高杉もさぞや歓喜して京都・江戸へ歩を進めたと思いきや、直後に労咳が悪化して亡くなってしまった……。


 ここで品の良い老婆は話を切ると、さざ波の様な余韻が赤祢と美祢子を包んだ。長州はこうして生き残り、幕府最後の将軍徳川慶喜を朝敵返しにして一気に明治維新に突入する。

 二人は、学校の歴史では特に強調されることのなかった地元や先人達の活躍の一端を知って驚くやら、ハラハラするやら、最終的にホッと安堵の息を吐いた。

 赤祢は高杉の突然の死を聞いて驚きを隠せなかった。この頃に活躍した人物は、大仕事を終えたところで、ふっと天に召されるように亡くなるイメージが前からあった。坂本龍馬や将軍家茂、孝明天皇もそうだった。高杉も又そのような気配がする。

 二人はお婆ちゃんに丁寧に御礼を言って志を渡し、身支度を整えてから茶店を出た。時刻は既に六時を過ぎていた。ぶらぶらと歩きながら、今日の出来事を振り返ってみる。非常に頭を使った後のような放心と、色々な知識や情報を得たことによる満足感が妙に混ざった状態だった。観光で京都に訪れたことが何度かあるが、あそこは既に観光化されていて、どこに行こうが何を食べようが、宿に至るまで費用対効果が程好くてとても楽しい。しかし逆に考えると意外性がないといえる。歴史を紐解けば京都こそ凄まじい話は幾らでもあるはずなのに、地元の人にこれ程に語ってもらった経験はなかった。

 さしたる目的もなく松下村塾。そしてふらりと寄った茶店でこれでもかと歴史を注入されるとは予想もしていなかった。勿論それは強制的なものではなく、嫌な気は全然しなかった。それどころか、積極的に聞いてイメージして充分に楽しんだ感が胸に残った。京都並の観光客がいれば、それは当然無理なはずだから、ここに来てみて良かったのだろう。そんな気がした。それにしても凄まじい話だった。お婆ちゃんの話は、まるで昨日読んだ新聞記事を話すように生々しかった。松田老人は今の日本に話をつなげた。ここ(長州)の存亡に関わり、日本の命運を左右したところのぎりぎりの闘い。人は死んでも志が受け継がれ、用が済んだらあっさり死んでいった人がいたことを知ったのは良かったと思う。

 自分の言動も、もしかしたら現在と未来に影響を与えるのかもしれないと思えるようになった。現に伊川や西村の家に影響を与えようとしている。それは自分だけではない、きっと今活動している人々の言動は、何かしらの影響を現実に与えているんだな。そして未来につながるんだな。そう思った。未来は不確定で、どの様にもなり得る。過去を振り返って何がどうして起こり、そうなったのかを知るのが歴史というものなのだろう。

「どうしたん? 深刻な顔して」

「えっ? そう? お婆ちゃんに濃い話を聞かせてもらって、色々考えちゃってさ」

「本当にそうよね。吉田松陰が神社になるのもわかるわぁ」

「僕が二十代だったら、多分これ程真面目に耳を傾けて、考えることはなかったと思うよ。だって興味無かったもん。でもさ、この歳になると、あのお爺ちゃんやお婆ちゃんの話や話す姿も含めて、味わいがわかるんだよね。多分忘れないと思う」

「……そうね。ああ、なんかお腹空いてきちゃった。晩御飯何食べる? 」

「そうだね。鰻が食べたいな」

「そりゃあええ。優ちゃんには精をつけてもらわんと」

美祢子は今夜のことを想像したのか、にっこりと笑った。早速近所の鰻屋をスマホで探す。程なく近所に店が見つかったのでそこまで歩くことにした。二人は手をつなぎ町の通りを眺めながら、急速に暮れて行く黄昏時を楽しんだ。


第一七章


 目指す鰻屋の前に立ち、さあ入ろうとした時、後ろから声をかける者がいた。

「赤祢様。今夜は松田様との御会食の予定がございますので、お食事はお控えいただきたく存じます」

赤祢が振り返ると、白シャツに夏物の黒スーツを着込んだ、黒ネクタイに黒サングラスの痩せた男だった。背は百六十センチほどか。葬儀屋さんみたいだなと思った。

「松田様って、あのお爺ちゃんのことかい? 」

「さようでございます赤祢様。私は松田厳陽斎の第二秘書の高田と申します」

 高田と名乗った黒男は慣れた様子で名刺を差し出した。赤祢は、こりゃどうもと受け取った。山口県経済研究所 第二秘書 高田信吉 とある。

「こりゃ驚いた。じゃ、あのお招きは本当だったんですか? 」

「松田様は約束をたがえることを嫌います。どうでしょう、お食事になさるのであれば、お車をご用意しておりますので、御案内致しますが…… 」

「高田さんは、僕らが食事をしないようにずっとツけていたんですか? 」

「……失礼ながら、そうさせていただきました。何しろ時間も場所も伝えなかったということで、仕方がなかったのです。御容赦下さい」

 高田がキチンと説明して頭を下げたので、赤祢はそれで気がすんで彼の案内で車の方に向かうことにした。美祢子は不安げな表情で赤祢の腕をひっぱり、「すみませんちょっと」と高田に愛想を言って、今度は絶対聞こえないように距離をとった。

「ちょっと。今夜はウチらにとって、ぶち大事なんよ。それをあんな得体の知れんお爺ちゃんのところに行くなんて嫌やわ」

「美祢子さんの言うこともわかりますが、僕はあのお爺ちゃんがどうも気になるのです。これで正体がわかるかもしれない。なに、ちょっと行ってみるだけです。

 実はね、どういうわけか前にもこのような経験をしたことがあるんです。まだ若かった頃に、やはり弁の立つお爺ちゃんに出会って、なんでも自分は金持ちで、一人娘の婿を探していると言うんです。「家に来いよ。娘と一緒に飯でも食おう」と誘われて付いて行ったことがあるんです」

「それでどうだったの? 」

「僕も若かったから、少なからず期待してついて行ったらね。そこは雑草の中のボロ小屋で、娘さんはいたにはいたんですが、当時の僕より全然年上で、聞いた話と何もかもがまったく違っていてね。娘さんはお爺ちゃんを叱りつけながら僕に、「お父さんは、時々こういうことをするんです。何を言ったか知りませんが、すみませんが御引き取り下さい」てね。僕は騙されたんだけど、全然頭にこなかった。逆に恐縮しちゃってね。切ないやら気の毒やらで、今思えばしょっぱい思い出です。なんかそれ思い出しちゃってさ。今度もなんかそんな気がするんです。それを確かめるためにも、乗ってみませんか? 」

 赤祢は懐かしそうな顔で彼女に言った。美祢子は、その若者の様な好奇心に輝く瞳を見て同意した。その代り話と違うようなら走って逃げましょうねと言うのを忘れなかった。


 二人は高田の案内で車が停めてあるという通りに出た。そこには丁寧に磨き上げられたアウディのリムジンが佇んでいた。高田は小走りで先に出て、後部のドアを開けると恭しく二人を迎えた。余りの意外さに戸惑いながら乗り込むと、まだ新鮮な革の匂いがした。右手に対面式のグレーの本革シートに据え付けの長テーブルが見えた。これでは大人六人がゆったりと寛げるではないか。

「奥に冷蔵庫があってシャンパンが冷えてございます。ご自由にどうぞ」

 高田はそう言い残すと優しくドアを閉め、運転席に向かった。二人は狐につままれたような顔というものを相手の顔を見て確認すると、とりあえず対面でシートに座り、言われたままに美祢子が小型冷蔵庫からシャンパンを取り出して、赤祢は良く磨かれた美しいグラスを二つ用意した。美祢子が開け方がわからないというので、オープナーで開けようと冷えたボトルを手にして息を飲んだ。

「うあわ! これ、モエ・エ・シャンドンじゃないですか。高いんですよこれ」

赤祢がまじまじとボトルを眺めていると、高田の声が聞こえてきた。

「それではこれから発車します。念の為シートベルトをして、御注意下さい…… 」

「あの、ちょっと高田さん」

「すみません。声が少し小さいので、テーブル角のボタンを押しながら御話し下さい」

赤祢は言われるままにボタンを押しながら声を発した。

「高田さん。これは我々には勿体ないです。とても飲むわけにいかないです」

「……わかりました。奥にジンジャーエールなどもございます」

「お、それじゃジンジャーエールをいただきます。それでどこにいくのですか? 」

「ここから近い長門湯本に向かいます。およそ三十分を予定しております」

「なるほど。宜しくお願いします」

「それでは発車します」

 その後リムジンはゆっくりと走り出した。美祢子は缶のジンジャーエールを開けてグラスに注ぎ、二人で乾杯して一息ついた。この先何が起こるのかわからないので、アルコールは口にしたくなかった。

「ああ、やっと落ち着いたわ。あのシャンパン、そんなに高いの? 」

「うん。あんまり詳しくないけど、数十万はすると思うよ」

「ええー! そんなにするの? ……でも、興味あるわね」

「よしなよ、あんなもの。恐れ入って味なんてわかりゃしないさ。でもあんなものが普通に置いてあるということは、かなりの財力の証明だし、あれを普通に飲む人物がこの車に乗ってるってことさ」

「もしかしたらウチら、凄いことになるんじゃなくて? 」

「かもしれない…… 」

 二人はこれから長門湯本で老人と出会い、温泉にでも浸かって河豚尽くしを堪能する光景を語り合って盛り上がった。


 五月は日が長いが落ちるとなると急に暗くなる。アウディの黒リムジンは、紳士的な走りで山間に入ったようだ。いかんせん前後が見えないだけに乗り慣れていないと妙な感じがする。彼女が切ってくれたサラミを齧りながら話をしていると、山の中で漸く停車した。

「赤祢様。到着致しました…… 」

 高田が優雅にドアを開けると、山の澄んだ空気が入ってきた。二人がおずおずと車を降りると、目の前には闇があり足元を照らす灯りが続いていて、和服姿の婦人が笑顔でお辞儀をしてくれた。その後ろには平屋だが重厚な屋敷が浮かんでいるように見えた。

「赤祢様。ようこそ御出でました。松田もお待ち申しておりますのよ。ささ、こちらでございます」

赤祢は突然の歓迎の挨拶に戸惑いながら「どうも宜しくお願い致します」と応じて高田の方を見た。「私はこの辺で、どうぞごゆっくり。又お迎えに上がります」と言って車に戻って行った。建物は一見して旅館の様だが、それにしては他の人が見当たらない。あくまでもひっそりと落ち着いていた。建物は見えているというのに、歩いて行くとなると中々辿り着かなかった。

 和服の婦人が引き戸を開けると広い玄関間があり、そこにあの松田厳陽斎が浴衣姿で立っていた。二人が来るのを待ち侘びていたように近づいてくる。

「おお、よう来たのう。待っちょったで、上がりんさい」

「お招きありがとうございます。お爺ちゃんはお金持ちだったんですね」

「なんのなんの、大したことはないよ。先ずは温泉でも入ったらええ、わしゃ座敷で待っちょるけえの」

 赤祢は松田老人の顔を見てホッとした。その主然とした雰囲気に安心して、彼は本物の金持ちだと理解し、自分達は騙されているのではなくラッキーだと思った。松田老人が僅かに婦人に目配せをすると、二人に用意した部屋を案内すると言い、玄関間から離れて老人と別れた。この婦人はまるで旅館の女将のような風情で、客あしらいがうまく部屋を案内し、温泉は部屋とかけ流しの露天風呂があるが、どちらを利用かは自由だと説明した。

 客間に案内されると二人は驚嘆した。二十畳程の和室の畳は真新しく、流木を加工した様な長テーブルは粋で、床の間には見事な龍の掛け軸があり、申し分のない部屋であった。外の景色は既に暗くてわからなかったが、プライヴェート温泉が湯気を立てていた。

「なんとも結構なお部屋ですね。本当に宜しいのでしょうか? 僕達は、その、ただ松下村塾で偶然に出会っただけなんですけども…… 」

 赤祢が恐縮気味に言葉をかけると、婦人は赤祢と美祢子を交互に見て言った。

「なにを仰いますやら、ここは旅館ではございません。松田がお客様をおもてなしになる専用のゲスト・ハウスでございます。松田がお二人を招かれたら、私どもにとって大切なお客様なのです。どうか今宵はお寛ぎ下さいませ」と恭しく頭を下げた。

 赤祢はこれで納得して、妙な遠慮はするべきではないと思い、お世話になりますと頭を下げた。美祢子もそれに倣った。婦人は見事に二人の恐縮と緊張をほどいてくれた。後はご自由にと浴衣を差し出して去って行った。婦人がいなくなると、落ち着いた雰囲気が二人を包んだ。美祢子は部屋の探索に入り、開くと見れば全部開けて中をチェックした。その度に感嘆の声が上がる。そして手早く萩焼の急須と湯呑みを取り出してお茶を淹れてくれた。

「なんとも素敵なお部屋ね」

「そうだね。申し分ない」

「ウチらラッキーなんかな? 」美祢子は疑うことを知らない人の顔で言った。

「そうだね。だけどこれであのお爺ちゃんが、僕の話の続きを本気で聞きたがっていることがわかったよ。でもなんでこうなるかな」

 この様子だと、温泉から上がった後は河豚尽くしを御馳走になるのだろう。そして自分がうどん屋で思いついたアイデアを老人に話すことになるのだろう。果たしてそれほどの価値があるのだろうか。老人をがっかりさせてしまうのではないだろうか。赤祢は急に不安になってきた。そもそも冗談の延長線のようなのりで、思いついたものだった。まさかあそこで止められて、このような場所で話すハメになるとは考えもしなかった。あの時は名案だと思えたものが、今となってはすっかり黒く萎びたバナナのように思えてしまい、頭の中からどんどん小さく消えてしまいそうで、それを必死で手繰り寄せていた。

 気がつくと露天風呂に入っていた。硫黄の匂いがしてぬるりとしたお湯が身体の中に染み込んでくるようで心地良いことにも今気づいた。これは赤祢の癖の様なもので、一度たび考えごとを始めたら、他のことはまったく覚えが無くなってしまうのだ。今は気持ちの良い温泉に入っているからよいものの、美祢子とどういうやりとりがあって部屋から出て温泉に浸かっているのか思い出せない。頭や体を洗ったのか、それも覚えがなかった。赤祢は苦笑いすると、覚えがないならこれから頭と体を洗えばいいのだ。その代わりうどん屋でのアイデアをしっかり取り戻していた。それどころか更に明確な骨子を形成して肉付けまでできた。これでもう老人を前にしてしどろもどろになることはないだろう。それを聞いて老人ががっかりしようが怒ろうが、知るもんかってんだ。自分は博士でも学者でもないのだから、経済研究所の会長さんが満足するようなアイデアなど出るわけがないじゃないか。赤祢は頭の中で消えそうだったそのアイデアを、人に言えるだけのものに仕上げることができたことで満足した。

 赤祢が浴衣を着てフロアに出ると、右手の長椅子に美祢子と婦人がいたのに気がついた。目が合ったので「やあ」と右手を挙げた。

「ちょっと、『やあ』じゃないわよ。部屋を出る時から様子がおかしかったよ。そんでいつまでたっても出てこんから、女将さんと心配してもう少しで様子を見に入ろうとしよったんじゃけ。大丈夫なん? 」

「僕は全然大丈夫ですよ。ちょっと考えごとをしてただけです。いやあ、良い湯でした」赤祢は爽快な顔で言うと、二人は安堵するやら呆れるやらで結局笑うしかなかった。

「赤祢様は、考えごとをする時は没頭するタイプなんじゃね。時々そういう方がいらっしゃいます。湯に溺れんでようござんした。ささ、松田が首を長くしてお待ちですから行きましょう。御案内致します」

 婦人の先導で廊下を長く歩いて座敷に入ると、その又奥に座敷があって、立派な襖戸の前で婦人が美しく正座すると、聞いたこともないような魅惑的な声を出した。

「松田様。お二人をお連れ致しました…… 」

「おお来たか。中に入り」

 松田老人の陽気な声が聞こえてから婦人は静かに襖戸を開けて二人に「どうぞ」と促した。赤祢はそのままスッと座敷に入ると、上座に松田老人が鎮座しており、横には艶やかな着物を着た妖艶な芸奴が付いていた。その奥には三味線を持った婦人と明らかに輝いて見える芸奴が正座していた。これが芸者を侍らせるという光景かと思った。美祢子はこの光景に借りてきた猫のような顔で少し気後れしていた。

 松田老人は慣れた様子で赤祢を向いに誘導し、その横に美祢子を座らせた。座ってみると妙に落ち着く座布団だなとその感触を味わった。松田老人の横にいる芸奴が飲み物を聞き、ビールと言うと、襖戸の女将がそれを受けた。老人は既に人肌の地酒をやっていて上機嫌に侍らせている芸奴の紹介をした。『お初にお目にかかります。椿と申します。どうぞ御贔屓に』その容姿、流れるような作法に非の打ち所がなく、芸奴に丁寧に挨拶をされると、こんなにもドキドキするものかと実感した。おそらく美祢子も同じ思いをしていることだろう。

 それから冷えたビールが運ばれて乾杯となり、宴の幕が開けた。軽快な三味線の音色と共に次々に運ばれる河豚尽くしに目が点となり、それらを味わい絶賛した。それから芸奴・菊野が艶やかな舞を披露してくれた。三味の音に合わせた優雅な舞い。指の先までに込められた芸、日本人形のような妖しくも美しい顔、特に流し目に真骨頂を感じた。このような高尚な舞いを観たのは初めてであったが、すっかり魅了されてしまい、飲むことも食べることも忘れる程であった。舞いが終わると、松田老人、赤祢、美祢子は拍手でその芸を称えた。菊野は、丁寧にお辞儀をして座を引いた。その余韻は暫く続いた。

 三味線は長閑な即興に変わって場を和ませてくれると、自然に再び会話が始まり赤祢は菊野の舞を絶賛した。先ほどは座敷の素晴らしさ、河豚刺しや唐揚げの旨さ、ひれ酒の珍味を堪能していたので感心しきりだった。松田老人はそれを聞いて、「それがわかるだけ甲斐がある」と目を細めた。しかし当の本人は少し箸をつけただけで、目の前の二人が喜んで食べている様子を嬉しそうに眺めて酒を飲んでいる。

 やがて話題は茶店にいたお婆ちゃんから、高杉晋作の話を聞かせてもらった件になり、老人はそのお婆ちゃんを知っている様子で「君らは運がええ」と言った。どうやらそれが滅多にないことのようだった。赤祢はそのお婆ちゃんも絶賛した。

「おもしろき、こともなき世をおもしろく、すみなすものは心なりけり…… 高杉先生の辞世の句じゃ。下の句は、看病しておった尼僧が詠んだそうじゃ」

「……かっこいいですね。つくづくそう思います。そしてあのメンタルの強さ。勝つとか負けるとか、生きるとか死ぬとか、そんなことを考えない行動が、絶望的な窮地を切り開いたのでしょう。彼が長州の英雄であることは間違いないと思います。そして明治維新の口火を切ったところで急逝してしまうとは劇的です……享年二十九。若すぎます。

 みんな生きていたら、色々なことがあるじゃないですか。それに意味や価値をつけてしまう。面白いとかつまらないとか思うのも、実は心もち次第だという詩なんでしょう? 僕も今年で五十になるんですが、一通りのことを経験してきました。面白い人生だと思います。特に今夜などは、このような贅沢な宴席を設けていただき、お爺ちゃんには感謝申し上げます。そしてこれは、うどん屋での話の続きへの期待に他ならないのでしょう」

 赤祢は松田老人を正面から見た。老人は面白そうな顔をして杯をあおった。

「……わしは赤祢さんの、何かわからんギラギラしたものを見たんじゃ。じゃから声をかけんにゃおれんかった。そして話してみて凄いと思うた。今までわしに向かって堂々とあねぇなことを言うた者はおらんかった……。そして高杉先生の話を聞いたのは偶然としても、あなたはそれらをきちんと頭の中に入れて、単なる昔の話で片づけんところが気にいった。どうじゃろう。そろそろ例の話の続きを聞かせてくれんかのう」

 松田老人は穏やかに水を向けた。赤祢は素直に居住まいを正して口を開く。

「そうですね。お爺ちゃんが気に入るかどうかは後のこととして、あの時僕が思いついたことを聞いて下さい。それは、太陽です」

「太陽…… 」

「そう。毎日昇っては沈むあの太陽です。その恩恵は生き物全てに対して今でも計り知れないものです。僕はそのエネルギーを利用して、気象をコントロールできないかと思いついたのです」

 それを聞いた松田老人の口はポカンと開き、再び枯れ枝のようになってしまった。

「それは一体、どういうものなんかのう。わしにもわかるように説明してくれ」

 老人は紙とペンを用意させて赤祢に図を描いてくれと頼むと、赤祢は心得ましたとばかりに説明を始めた。

「太陽は核融合反応でずっと昔から燃えていて、地球の半分を常に照らしているのですが、地球の方が旨い具合に二十四時間かけて自転しているもんですから、ほぼ全面にそのエネルギーを受け続けているのです。又自転軸が少し傾いているおかげで、一年をかけて太陽の周りを公転しているから、日本などは四季があるわけですね。

 まぁこれは常識として御存知と思いますが、地球の気象変化の条件について考えてみましょう。先ず自転によって生じる常に西から吹く風、つまり偏西風があります。又月の引力の関係で潮の満ち引きもあります。そして陸地があり、陸では山と平地や町で熱の吸収と放出の度合いが違います。想像してみて下さい。大海原に太陽光が降り注げば、大量の海水が蒸発して上に上がって雲になります。それらが風で流れて集まって雨になったり、寒ければ雪になったりするのです。

 今では気象衛星によって地球の上から膨大な気象データを集めてスーパーコンピューターで解析し、天気予報の精度が格段に向上しましたが、所詮予報でしかないのが残念なところです。どうして人間が都合の良いように手を出さないのでしょう? 例えば台風が日本に来るのがわかっているなら消滅させるとか、それが無理なら進路を変えてやるとかね」

「そりゃあ、できりゃあええけど、どねぇしたらええかわからんからじゃろう」

「僕は出来ると思います」

「出来るて…… どねぇするんか? 」

「地上で虫メガネを使って太陽光を集めると、紙を燃やせるでしょう。基本的には、あの原理を利用してもっと大きなデバイスを空に打ち上げて、それで太陽光線を集めて地球に照射して海水を蒸発させて雲をつくるのです。勿論僕は気象の専門家ではないので、あまり突っ込んだ話はできませんが、これで自然の気象に対して介入できると思うのです」

「なんとも太い話じゃのう。こんな話は初めて聞いた。中々面白いのう。で、実現するためにはどうしたらええんか? 」

「先ずは、気象データの収集です。気象庁が保存しているでしょうから、それを手に入れるのです。過去のデータでも構いません。大きな被害をもたらしたゲリラ豪雨や豪雪など色々ありますが、ここではわかりやすく、例えば、台風が発生した前後のものを解析すれば、その発生メカニズムが解明できるはずです。

 今や日本の気象データは、秒単位で変化する海水温度や気圧配置、気温・湿度、風向きなどの膨大なものですが、日本と周辺の地形データと合わせてスーパーコンピューターで処理をすると、3Ⅾの気象動画をつくるまでに発達していて、かなりの精度で台風の進路を予測することがもう出来ています。これを有効に使いましょう。

 その気象データを解析して台風が発生する前と後の差を特異点として見つけ出すのです。勿論一つだけでは足りません。複数のケースの特異点に共通項を見い出すことが出来れば、台風発生のメカニズムというか条件がわかるのです。

 そして、気象シミュレータをつくります。これは3D気象動画に気象データを色々に変えた場合の気象が、どう変わるのかをリアルに3D気象動画を走らせるというものです。気象を決定する要因データの数値を変えるだけですから、ゲーム感覚でいいと思います。

 目的は、台風発生を防ぐにはどうしたらよいのか? 発生しても消すことが出来るのか? それが無理なら日本やアジアに来ないようにするには、何を変えてやればよいのかをシミュレート実験するのです。最初は失敗の連続でしょうが、徐々にコツがわかりノウハウが蓄積されると思います。それは大事なデータの宝です。

 次の段階は、実際に気象を制御するために必要な人工の力が、幾ら必要なのか見積もりができるので、それを元にシステムを設計・構築して宇宙に飛ばして運用するのです。気温や湿度、海水の温度や気圧が変化するのは、太陽光線が大元になっているのですから、人間の意思が気象に介入できる手段は、太陽光線の制御がベストだと思います。

 それはまるで、ビリヤード台の白い玉を複数のプレーヤーが目隠し状態で、指示を受けながらキューで少しずつ突いて動かす様なものかもしれません。キューで弾き飛ばせばスカッとしますが、多分そうはいきませんね。勿論これは台風だけでなく、昨今甚大な被害をもたらしているゲリラ豪雨や大豪雨の対処も可能になると思います……。 」

 赤祢は気楽な調子で、絵図を描いて老人に説明した。時々地酒をあおり、料理をつまみながらの呑気なものだった。これはプレゼンではない。あくまでもうどん屋の話の続きなので、如何ほどのプレッシャーも背負っていなかった。しかし聞いている老人の方は真剣だった。赤祢の話を聞き、絵を見て、考え込んでいる様子だった。美祢子はその光景を目撃しているだけで、入ることなどまったくできなかった。

「……たしかに、これは凄い。世界広しといえども、今まで聞いたことがない。天気に手を入れるという発想は確かに無かったのう。じゃが赤祢さん、あんたはうどん屋じゃあ世界のパワーバランスを変えてやるといきまいちょったが、それほどのもんじゃないのう」

 老人は少し力が抜けたような表情を浮かべると、赤祢はとりなすように口を開いた。

「やだなお爺ちゃん。よく考えてよ。台風を制御できるとなったら、台風を起こすことだってできるんですよ。それに地球の上にいるわけですから、どこにでも移動可能です。

 竜巻やハリケーンを発生させるのだってお手の物です。例えば、日本に喧嘩を売ってくる国があれば、その国の雨雲を片っ端から蒸発させてやれば、その国は干上がること間違いないんですよ。

 僕はお爺ちゃんから『不羈独立』という言葉を初めて聞いて、今の日本が本当の意味で今一度自分の足で立って生きていくには、防衛の問題について具体的な措置が絶対に必要だと思いました。そして思いついたのがこの気象制御システムなんです。それに年々災害がひどくなってきていますから、それに対抗する手段としても有効だと思うんです。

 これを実現させるには、膨大な費用がかかるでしょう。でも、わけのわからんミサイル防衛システムをアメリカから言われるままに五千億円も拠出するくらいなら、こっちの方がよっぽど良いと思うんですがね…… 」

 それを聞いた老人は手を打って笑い出した。赤祢は彼の会心の笑顔を見て漸く、ああ話をして良かったと思った。これはただの冗談の延長なのだから、せめてうけてもらわないとこれだけの宴をもうけてくれた主に申し訳が立たないと思っていたのだ。結果、赤祢もつられて笑った。

「なるほど、これは平和利用できるし、場合によっては軍事転用も可能じゃちゅうことか。素晴らしい発想じゃ。しかも武器や兵器じゃなく国レベルの喧嘩にも使えるのが凄いと思うで、いやあなんともええ話を聞かせてもろうた。あの短い時間でよう考えちゃったね」

 老人は赤祢に礼を述べると、襖戸の女将に「あれ一つ持ってきて」と言い、婦人が風呂敷の包みを持ってきた。老人はそれを赤祢に渡す様に命じた。赤祢はことわって包みを開けると、手が切れそうな一万円札の束であった。驚いたのは赤祢である。

「ちょっとお爺ちゃん。なんですかこれは」

「金じゃ。見たことないんか? 」

「いや、そういうことじゃなくて、この意味を聞いているんです」

「なんでじゃ、邪魔にはならんじゃろう。今の話はそれだけの価値があるとふんだんじゃ。わしをこれだけ喜ばしてくれたんじゃ。わしらの世界じゃ、当たり前のことじゃから遠慮せんと受け取ったらええ…… 」

「……そうですか? そういうことでしたら、有難くいただきます」

「ああ、それがええ……。 わしはつくづく、あの時にあんたらに声をかけて良かったと思うで、あんたらを見て、ただの観光客じゃないとすぐわかった。夫婦もんでもないと思った。ええ歳をして若いアヴェックみたいな妙な雰囲気じゃった。それがまさか世界を変えるほどのアイデアを思いつくとは思いもせんじゃった。

 わしもあれから、それが何かと知恵を絞って考えてみたがわからんかった。それだけに、話の続きを聞くのが楽しみじゃった。そして赤祢さんの構想は、わしの予想を遥かに超えたもんじゃった。まったく世の中にゃ、面白いことを考えるもんがおるのう」

「それはお爺ちゃんもですよ。堂々としてて変だった。でも実は凄いお金持ちで、本当に河豚を御馳走してくれるとは思ってもいませんでしたよ。喜んで貰えて良かったです」

二人はさしで杯を交わして語り、心を通わせた。

「わしはこの話、実現させると決めたで」

「えええ! お爺ちゃん、だってあれはただの戯言ですって」

赤祢は心から驚いて、目をむいて手を横に何度か振った。

「戯言かどうかは、こっちが決めることじゃけの。赤祢さんはキチンと、実現の為に必要な段階を踏んだ構想を説明してくれたおかげで、わしでもようわかったんじゃ。こうなれば日本が今一度の不羈独立の為に、この構想に賭けてみたいと思うた。

 これからは有識者を集めて真剣に検討をすることにしよう。じゃから赤祢さん、もうこの構想については他言無用にして下さい」

 老人は、構想実現の決意を述べて口止めまでした。赤祢は驚いた上に老人が自分に発案者としての敬意をはらってくれていることに気付いた。これは本気だと恐縮の至りである。

「……こんな戯言、余所で言うことはもう絶対無いと思います。でもお爺ちゃんがどれほどの金持ちなのかは知りませんが、多分大変な時間と技術とお金がかかると思いますよ。でもおやりになるんでしたら、どうぞ御自由にして下さい。

 でも不思議なものですね。あのうどん屋で、今の日本が本当の意味で独立していないと言われて、僕は何が問題なのかわかりませんでした。でも『不羈独立』の話を聞いて、肝心なことはアメリカの言いなりだよなと思ったら段々腹が立ってきまして、それじゃあってんで思いついたんですよ。これも萩ならではの醍醐味ですかね。

 立派なお屋敷に招かれて、河豚尽くしを堪能し、綺麗な芸者さんの舞いを観て、語るは国レベルの不羈独立の戯言に、謝礼まで頂いたんですから、愉快過ぎてまるで狐にばかされているようです。本当に感謝感謝です。ありがとうございます。

 ひょっとしてお爺ちゃんたち、実は狐で、僕ら目が覚めたら、たんなるぼろ小屋だっていうオチじゃないでしょうね」

 それを聞いた老人は面白いと再び笑い出した。「狐うどんにかけておるのか。こりゃ傑作じゃ」と続けた。

「……大事なことは案外、料亭で芸者を侍らせ、三味の音を聞きながら酒を酌み交わして戯言を並べてから決まるんかもしれんで、伊藤博文公は芸者遊びが大好きじゃったし、木戸孝允の奥方は芸奴じゃった。久坂先生も高杉先生も皆馴染みの芸奴がおったもんじゃ。

 じゃが、赤祢さんのは、珍珍怪怪の一級品じゃ。これぐらいスケールの大きい戯言なら、逆に本気にしとうなるちゅうもんじゃ。なに、わし一人でやれるとは思えんけ。これまでの人脈を生かして、総力を挙げて取り組もうと思うちょる。久しぶりに腕が鳴るのう」

 老人は矍鑠と胸をはってみせた。その後宴はお開きとなり、赤祢と美祢子は自分の部屋に通された。既に布団が敷かれ、枕が二つ並べてあった。赤祢は強かに酔い、腹は一杯。緊張の糸は緩んで、頭は使い過ぎたらしく意識は朦朧とし、とてもじゃないが西村家の子作り使命は果たせそうもないと美祢子に白旗を上げ、歯だけを磨いて布団に倒れ込むと直ちに意識が落ちた。


 目が覚めると、もう明るかった。うつ伏せで顔を横にし、清潔な布団の上に横たわっていた。そこはおんぼろ小屋。ではなく、記憶にあったままの豪奢な和室だった。隣に寝ていたはずの美祢子は既に起きていて、テレビのワイドショーを見ていた。その後ろ姿がとても美しく赤祢はそれに見とれていた。寝ている時は意識が無く、起きている時の方が夢の様だった。久しぶりに帰省してみれば非日常の連続だ。

そして今日、彼は再び起き上がる。

「目が覚めたん? おはよう」

「……おはよう。どうやら狐にばかされたんじゃなさそうだ」

「そうね、でも夢みたいじゃったね。てゆうかもう昼過ぎよ。あんまり起きんから女将さんが心配して何度か様子見に来たわよ。大丈夫? 」

「うーん、多分…… 」

 目は半開きでヨレヨレにはだけた浴衣姿は、どう見ても寝ぼけたオヤジで、それを見た美祢子はクスリと笑い、冷蔵庫からミネラルウォーターをコップに注いで渡してくれた。赤祢は洗面台に行って口を濯いだ後で一気に飲み干し、もう一杯飲んだ。

「うはー、目が覚めた気がします。美祢子さん、ああ、昨日はゴメン。そのう、酔っぱらった上に疲れてて、何もできなくて…… 」

 弁解する赤祢に美祢子は目を細め、機会はまだあると許してくれた。あの流れではどうしようもないことだ。あの宴は、芸奴の舞いが終わった後からは、殆ど老人と赤祢の一騎打ちで、少しも自分の方を見てくれなかったと軽く拗ねた。


第十八章


 七月。日本列島は猛暑に見舞われた。しかし西の方では局地的な豪雨が続いて、各地で地滑りと川の氾濫による大水が町を呑み込み、甚大な被害が発生した。更に竜巻や台風が発生した上に大きな地震も頻発した。赤祢は埼玉で日常の生活を送る中で、西日本や北海道の悲惨な報道に胸を痛めていた。伊川に連絡をとって、ここは大した被害はないと聞き、ひとまず安堵する。

 近頃の天気はおかしいと実感しているが、どうすることもできない。せいぜい水分と塩分を補給しながらあくせく働いて、夜はエアコンで涼みながらビールを飲むくらいだ。地球温暖化だとか北極振動とかで説明されても現状は何も変わりはしない。ここらで一つ異常気象に手を入れてやろうじゃないか! と主張する有識者は現れることはなかった。自分以外は、尤も自分は有識者ではないが……。 

「気象制御システム、か…… 」

 赤祢はそう呟いて、いつもの交差点を右折して家路についた。ほんの二カ月前に気象制御システムを松田老人に喜々として説明したのが、遥か昔どころか夢幻のように感じられた。つられて伊川やファミリーの顔、美佐子や美祢子との情事が甦って苦笑した。そう言えば、美佐子が妊娠したかもしれないというメールが届いて複雑な気持ちがした。目的を達したという嬉しさ、妻以外の女性との激しい性交で得た生々しい快感と、それに対する後ろめたさがないまぜになったものだ。

 一方美祢子からは何も連絡は無かった。おそらく妊娠していないのだろう。彼女とは松田氏と会った後で日を改めて性交したのだが、美佐子との性交と比べると、性欲を満たし快楽を追及するという色合いが強かったような気がする。行為としては同じかもしれないが、あれでは妊娠は無理だろうなと思った。彼女が妊娠しなかったのなら、又性交を求められるだろう。そう思うと気が滅入った。

 ここでは自分の日常と暮しがある。突然自分の妻や娘を孕ましてくれと頼まれることはないし、妙な爺さんに戯言を披露して百万円が手に入ることはない。狐うどんが河豚に変わるなんてことも有り得ない。日本の将来を語るなんてことはさらさらない。小さな会社ではあるが専務として働き、若手を育て、社長を盛り立てて日々を暮らす。まあまあのやりがい、そこそこの収入で生きてゆくのが自分にとっての日常だと思っている。

 家に帰れば家庭があって、今度のお休みにはどこそこに行きましょうよ。なんて家族と話をし、テレビを観ながらゲラゲラ笑って飯を食い、ビールを飲んでベッドに入れば朝が来る。特に良いこともなければ悪いこともない。身体の悪いところもなく日々を乗り切っているが、何しろ今年の夏は特に暑い。といって文句を言う先もないから我慢する他ない。

 熱中症で倒れたり、洪水や台風で家や家族を失ったというニュース聞くたびに、気の毒にと思う度合いが大きくなってきたような気がする。歳のせいか、悲惨なニュースが多いせいか、その両方なのか、赤祢は自身の心境の変化に気がついていた。自分の身にあのような災難が降りかかってきたらどうだろう。自然は人々の生活など無関係に猛威を振るうのだから、恐れたところで仕方がない。

「その時は、その時さ…… 」赤祢はふとしたことで勝手に湧き上がる不安についても、対処の術を身に付けていた。


 ある日の仕事中、会社のスマホが鳴った。赤祢はトラックの荷物を降ろす作業を手伝っているところで汗だくになっていた。スマホを耳にあてると、受付が「赤祢専務に外線です。山口県庁の樽澤様という方からです。どうぞ」と言った。全く心当たりがなかった。

「お電話変わりました。赤祢ですが…… 」

 赤祢はそう言いながら、相手の返答を待った。

「初めまして。私、山口県庁の事業企画管理課の樽澤悦子と申します」

凛とした高い声と歯切れの良い発音だ。仕事柄県庁や市役所の職員の電話を受けることはあるが、山口からは初めてだ。彼は「はい。どのような御用件でしょうか? 」と返事をすると、樽澤は二カ月前の五月に松田厳陽斎と会食をした時に出た『気象制御システム』が、今では県庁が預かり、実現に向けて動き出した旨を告げた。赤祢は率直に驚いた。

「本当ですか。よくここがわかりましたね。確かこちらの連絡先は伝えてなかったのに」

「失礼ながら、調べさせていただきました。あのお方はその辺頓着なさらないので」

「でしょうね。でもあの話は宴席の戯言でして、おやりになるならどうぞと言ったと思います。それが実現に動き出したなんて、わざわざの御連絡有難うございます」

「赤祢さん。こちら山口を含む西日本では、猛暑に豪雨で大きな被害が出ていて、なんとか気象を制御できないかというアイデアに関心が高まっているのです」

「そうでしたか、あなたの御実家は大丈夫でしたか? 」

「ええ、何とか。お気にかけて下さって有難うございます。それで私今、埼玉に来ておりまして、お会いして詳しいお話をさせていただけないかと思いましてお電話した次第です」

「ええ? こっちに来ているんですか? 」

赤祢は再び驚いた。樽澤は明日でも構わないから何とか面会できないかと言ってきた。普通なら思い切り怪しいので体よく断るところだが、怪しい話の元は自分である。それにあの戯言がどのような経緯で実現に踏み出したのか興味が湧いた。更に樽澤悦子と名乗る綺麗な声の容姿を拝んでみたい気にもなったので、明日の午後七時に駅前の中華レストランで会う約束をした。


 翌日。仕事を終えた赤祢は、その中華レストランに入ると、樽澤の名前で個室が予約されており、そこへ通された。ここは何度か利用したことがあるが、個室は初めてであった。通された個室は中国式に赤で装飾された豪勢なもので、中央に回転テーブルが配置されていた。奥にこんな部屋があったとは知らずに無意識に周囲を見回すと、ビジネススーツに身を包んだ二十代の男女を認めた。この女性が樽澤悦子だろうと思った。

「初めまして赤祢様。樽澤悦子と申します。悦子の悦は悦楽の悦です」と笑顔で右手を出したので、赤祢も挨拶をして握手を交わした。もう一人の男性も同僚の岡崎と名乗り握手を交わした。ここの費用はもちますので御心配なく。と言われ少々ホッとした。

 彼女は百七十センチ程で、漆黒の長い髪をまとめて左に流し、紺のビジネススーツにミニスカートからは、長い脚と黒い刺繍が施されたストッキングを見せていた。大き目の口から形の良い白い歯がズラリと並び、美しい、綺麗、押し強そう。と見える。彼女のインパクトが強烈で、隣の岡崎などはカレーライスのラッキョウみたいだ。

「なんか慣れないので、さまはよして下さい。ここは時々利用したことがありますが、個室があるなんて知りませんでしたよ」と二人を笑わせた。

「セキュリティ上、個室がベストです。勿論ここはクリアです」と岡崎が接待用の笑顔を見せたので、自分は接待される立場と悟った。樽澤悦子は自然に親愛の表情を見せているので、これは彼女の方が場数をふんでいるなと思った。代行サービスを予約しているので、安心して下さいと言われ、紹興酒で乾杯すると、中華フルコースの接待が始まった。本格的な華麗なチャイナドレスを纏ったウェイトレスが静々と料理をワゴンで運んでくる。それらを口にしながら『気象制御システム』の話が始まった。

 松田老人はこの二カ月の間に全てのコネクションを駆使して、このアイデアを仲間内に広め、賛同者と資金を集めて、スーパーコンピューター購入の計画を立て、気象庁からの膨大な気象データを入手する手筈を整え、システムエンジニアやプログラマーの人材集めに奔走したそうだ。県としてもこのプロジェクトを前向きに捕らえて協力することになり、私ども(樽澤と岡崎)が担当することになったと説明した。おそらく来年の末には『気象シミュレータ』が完成するのではないかという。

 彼女は話を続ける。このプロジェクトが起動したのは、赤祢が具体的に段階をふんで完成に導く説明を松田に行い、彼が完全に理解したことと、今年の猛暑と豪雨が西日本各地で大きな被害をもたらして気象制御を試みるというアイデアに対する理解と関心が非常に集まったという幸運があったと説明した。

赤祢はそれを聞きながら普段あまり食べることのない山海の珍味を堪能していた。自分のアイデアが本格的に起動した話を聞くのは嬉しいものだ。彼は率直に喜びを表し、頑張って下さい。今後も行く末を見守っています。と言うと、樽澤は微かに表情を曇らせた。それで「何を他人事のように」という意味が伝わる。しかし赤祢にはその真意が理解できなかった。喜びようが足りないとでもいうのだろうか?

 樽澤は、いよいよ本題を切り出した。

「つきましては、赤祢さんにおかれましても、本プロジェクトにフェローというお立場で本格的にご参加いただきたいのです」

「え? 」これが赤祢の本音だった。

「なんで僕が? あの時にも、どうぞご自由にといったはずですが…… 」

「私もそうお聞きしておりました。しかしこの計画を実現するにあたっては、巨額な費用と優秀な人材が多く必要になります。そうしますと、計画の全体を正確に把握しながら、進捗状況を管理する人物が不可欠だとわかりました。そこで、発案者である貴方に参加を御願いできないかとお願いに伺った次第なのです」

「……それでわざわざ、こちらまで出向かれたのですね。やっと意味が分かりましたよ」赤祢は苦笑を浮かべながら、この場をどう乗り切ろうかと考えて言を続けた。

「でも僕は、この事業計画に参画するつもりはないですね。こちらで仕事がありますし、これから全然違う仕事をするなんて、ちょっと考えられないです。発案者としての権利を尊重するお考えは嬉しいし、敬意を感じるのですが、僕は御辞退申し上げます」

 彼は山口からの使者が気を悪くしないように気遣いながらも、しっかりと伝えた。しかし彼女は、美しい笑みを湛えながらも、少しも動じる気配はなくむしろ想定の範囲という余裕を見せていた。彼がそう感じたのは、彼女の顔を構成する表情で、特にその両の目にあった。アーモンドの様な形で少しだけ左右に上がり、大きな瞳には自分の顔が映っていた。それを半開きにして綺麗な歯を見せられると、もっとその奥を覗き込みたくなる。今まで見たことがない魅惑といっても差し支えないものだった。

 悦子は冷静に、赤祢がこちらでの生活に満足しているものの中身を聞きたがった。その声は甘美であり、思わず真剣に答えたくなってしまうもので、赤祢は妻や子供との生活、そして仕事はやりがいがあって、人間関係も充実していて自分の立ち位置や社長との相性が抜群で、これからも今以上に事業の拡大が見込めるところだ。と説明した。

 彼女は社長である木下佐太郎はそんなに素晴らしい方なのですね。と確かめるように聞くと、当たり前だよとばかりに彼の人間的な素晴らしさや、そのやり手ぶりを語って聞かせた。悦子は魅惑的な目を動かすことなく赤祢に据えて話を聞いて、なるほどと納得したようだった。

 しかし、木下社長について、少し気になることがあるのですが、お気を悪くなさらずに聞いていただけるかしら? と確認した。こんな意外なことを言われると、気になるので聞かずにはいられない。樽澤等は、折角こちらに来たのだから、有限会社三興について調べさせてもらったのだが、その途中で関西訛りのキツイ、野村正弘という男性と知り合ったが御存じか? と問われたが、まったく初めて聞く名だった。しかし関西弁と聞いて思い当たった。彼は先週会社にやって来て木下社長に面会を求め、堀越千恵美という女性に会わせて欲しいと言った男だった。

 赤祢は野村と直接会うことはなかったが、社長からその顛末を聞いていた。それによれば、彼はヨレヨレのスーツを着た自称小説家・志望で、自分の妻の親友が堀越千恵美という女性で、五月初めに社長と結婚すると言っていたが、七月になっても全然連絡がないので、業を煮やした妻が、千恵美がどうしているのか会って来いと言われて来たのだそうだ。

 木下社長は野村を応接室に招いて説明した。堀越千恵美と交際していたことを認め、五月初めに結婚を前提にこちら(埼玉)に来てもらったが、生活を共にするのに決定的な齟齬が判明し、お互いを尊重する意味で納得の上でお別れした。その後一切連絡をとっていないので、申し訳ないが知らない。と伝えた。野村は決定的な齟齬の内容はなんだと詰め寄ったが、それは個人的なことなので、御話しできないと断ったそうだ。

 野村は納得が行かない様子であったが、押し問答の末に諦めて帰って行った。てっきり大阪へ帰ったと思っていたが、諦めきれずにうろうろしていたところに樽澤・岡崎の両名に出くわしたのだろう。ここのような小さな町で、同じような目的でうろついていれば、自然と顔を合わせたとしても、おかしくはないのかもしれない。

 赤祢はその話を聞いて、五月の連休前に見かけた雨傘の女性が大阪から来た堀越千恵美といい、それから社長と別れ、その二カ月後に野村が会いにやって来たのだと理解した。その人物が織りなす糸は、出張で来ていた樽澤・岡崎に繋がったのだ。

 赤祢はわざと、「なんだそんなことですか」という体で、社長は早くに奥さんを乳ガンで亡くされて独身の身であること。(だから女性と交際は自由)そして男手で子供さんを育てる傍ら、社交的な人柄でパートナーを見つけては、共にデートを重ねて人生を謳歌していらっしゃる。ただ、同じ女性と長く続かない。その理由は僕もわからない。しかし誠意ある交際をなさっているところは、何度かお見かけしたことがある。僕も今度こそはと思ったんですがねえ。やはりダメでしたか……。と笑い事にして片づけようとした。

 樽澤は、それが意外という顔をした。

「赤祢様はもう慣れてしまって、なんとも思わないのかもしれませんが、何も知らない私共としては、これは尋常なことではありません。カフェで野村氏から話を伺いましたが、確かに真面目で真剣なお付き合いだったそうです。堀越さんという為人も聞きました。彼女が身辺整理をし、スマホまで解約して社長の胸に飛び込んだというのに、その日に別れたなんてあんまりです。私は理解に苦しみます。少なくとも女は、そんなに簡単に割りきれるもんじゃありません。社長が社交的で素敵な方であればあるほど、別れるなんてありえないと思うのです。決定的な齟齬というその中身はわかりませんが、どんなに自分を曲げても別れるという選択はないと思います。

 木下社長は、これまで何人もの女性と真剣交際の末に、同じように別れているそうですね。女性にとっては、とても残酷なことですわ。それを自分がフられた話にすり替えるなんて、男性本位の性質の悪さですわね。それに御気付きにならないのは、赤祢様も男性だからですよ」その声には多少の非難の色が滲んでいた。

「それは、僕だって知りませんよ。他人事だもの。社長がどんな女性と交際していようが別れようが、それを繰り返そうが、僕が口を出すことではありません。しかし、ビジネス思考や仕事ぶり、不屈の精神は尊敬に値します」

 赤祢が思わずムキになって言い放つと、悦子は勝ったような顔をした。

「あら、私にとりましても他人事ですわ。ただ、同じ女としての自然な見解を述べたまででございます。ただ社長の、後腐れのない女の別れ方というのも、尊敬に値するのではなくって? 」

「……そのようですね。それも含めて尊敬することにしますよ。すみませんが、私はこれで失礼したいのですが…… 」

「御気を害されたのでしたら、御詫び致します。失礼致しました。どうか御許し下さい」

「……正直不愉快になりました。でも、あなたの女性の立場としての御意見は尤もだと思います。それで僕が不愉快になったのは、男の身勝手を暴かれたからでしょうね。多分。

 僕とは関係ないことですが、あれが社長の唯一困ったところなのかもしれません。でもそれを除けば素晴らしい方なのです。僕は社長と別れてまで、そちらのプロジェクトに参画するつもりはないのです。折角ですが、すみません」

 赤祢はこれで終わりだと思って代行タクシーで帰った。しかし樽澤悦子と、その背後で赤祢を求めている者達はそう簡単に諦めはしない。彼女は、今日はこの辺にしておこうかしらという気でいた。赤祢優人という男の心の中にしっかりと爪痕を残して……。


 八月に入っても、日本列島は依然として猛暑に見舞われた。特に関東地方は、どうして? というくらいに雨が降らない。台風はやってきたが、恵みの雨は降ることは無く、乱暴にそこらを蹴散らしていっただけだった。こんなに暑い夏は記憶にない。毎日みんな口々にそれを言い合い、色々な汗を流して日々を送っていた。そんな中でも木下社長は、又違う女性と交際しているようだ。暑い暑いと言いながら、海釣りを楽しみ、良い色に日焼けしている。赤祢はそんな社長を心底羨ましいと思った。

 そしてお盆の前、地元であるニュースが報じられた。その不気味さは全国ニュースに昇格して色々と周りが騒がしくなった。警察も報道も休みは無いのだ。赤祢が最初にそれを知ったのは、昼休みに同僚と弁当を食べていた時だった。いつもなら会社のテレビは高校野球の甲子園中継を流しているところだが、この日はこのニュースにみんな注目していた。

 会社から車で五分程の山の中に俵池たわらいけという小さい池がある。それは地元の者しか知らないような無名の池で、米俵の様な形状が名前の由来である。周囲には草木がうっそうと繁り、水も非常に汚いので誰も泳ぐ気にはなれない。わざわざ訪れる人もめったにいなかった。その池の水がこのところの猛暑で徐々に減っていき、真ん中付近に四角形の黒い金属の檻の様な物を、寺に墓参りに来た人が偶然発見した。そして更に水かさが減って、遂に半分近くが見えるようになった。大きさは人一人が入れるくらいで、その数は八個。通報を受けた警察が檻を引き揚げると、泥にまみれた人骨が見つかったのだ。詳しいことはまだわからないが、大昔のものではなく、何者かが人間八人を檻に入れて沈めたということが明らかになった。警察は殺人事件として、池の中と周辺の捜索と近隣の人や発見者から詳しく話を聞いているという。

 ニュース映像は、小型ボートに乗った警察官が二三人のダイバーと共に近づき、六個目の檻をボートに乗せようと苦心している模様だった。ブルーシートで周囲を覆って視聴者にはよく見えないように配慮している。

「うわっ! なんだこれ」「いつの話だよ」「オレ行ったことあるし」「あそこお寺が近くにあるんだよ」「昔肝試しで行ったわ」「ナマズと長い髪の毛が釣れるって聞いた」「あそこで夜デートしていちゃついてると、ぼっぼっと泡が出るらしい」

 若い社員達は映像を見ながら、噂や思いついたことを口々に喋った。地元の若者の間では気味の悪い所だったのだろう。赤祢はその存在すら知らなかった。しかし、「なんてことを…… 」という言葉が口をついて出た。久しぶりに感じた衝撃と不気味さだった。みんながニュース映像を食い入るように見つめ、生放送なので何か怖い場面の目撃者とならないかと期待していたが、ブルーシートに阻まれて檻の一部分が見えただけだった。

 それから連日、ワイドショーもニュースもこの事件(いつの間にか俵池事件と呼ばれるようになった)を取り上げて、色々なことがわかってきた。

 被害者は八人で全員白骨化していた。全員が三~五十代の女性とわかったが、身元はまだ不明。現在頭蓋骨から生前の顔を復元中。直接の死因は不明。少なくとも五~十年は池の中で経過しているとみられる。骨の状態から、八人を一度に沈めたのではなく、間隔をおいて個別に沈められた可能性が高い。遺留品がなかなか見つからないことから、全裸で沈められた可能性がある。これまで檻の様な物と表現されていたが、頑丈な手製の檻と断定。縦横九十センチ高さ百センチの鋼スチール製で、溶接の技術は未熟だが、充分な強度があった。底板が重りになっていて、格子部をフックで接続して溶接固定してあった。錆止めのタールは十分で、腐食していなかった。等々……。

 いつもなら他人事の悲惨なニュースで済ますところだが、地元ということで関心が高く、事件について詳しい人が各所に現れて、学校で、職場で、話題になっていた。赤祢の職場にも色々詳しい男性社員がいて、熱心に情報を提供していた。赤祢はその中心ではなかったが、話は聞いていた。そして嘘か本当かわからなかった情報には、実はそれなりの根拠があったようだ。

 生き物が水中で死ぬと、やがて全身が腐敗して体内でガスが発生し、腹がパンパンに膨れて浮き上がる。その浮力はとても強くて大抵は浮き上がって発見されるものだが、遺体を屈曲させ、狭く頑丈な檻で固定したためガスが発生しても腹の破れが小さくガスが漏れ出てしまい、浮かぶことはなかった。泡の目撃話は多分ガスだろう。池の真ん中あたりでは泡が出ても匂いは届かないし、それを見たとしても誰も死体とは思わないから通報せずに不気味な噂にとどまった。又死体は水中の生物の格好の餌になるが、髪の毛はどうにもならず池を漂う。だから魚釣りで髪の毛が少々釣れることもありえる。骨は浮くことはないから、今年の異常な暑さで水がひかなければ、まだまだ発見されることはなかっただろう。ということだった。それは夜のニュースで解剖学の権威と称する学者が同じようなことを言っていたので納得した。

 それでも謎は多く残る。なぜこの俵池なのか? から始まり、檻と遺体を含めれば、およそ百キロ越えの代物を、どうやって運び、岸から約二十メートル先に沈めたのか? 被害者の八人はどんな女性だったのか? なぜ、どうやって殺害したのか? 犯人は単独か複数か? その人物像は? 目的は何か? 等々……。警察は地道な捜査と科学捜査で毎週のように新しくわかったことをマスメディアに提供し、ワイドショーは様々な工夫をしてコメントをつけて放送すると、巷では無数の名探偵コナンやガリレオが登場して自由な推理を巡らせた。


 九月になると、暑さも漸く和らいできた。多くの人が「やれやれ」と一息ついたが、今度は台風と大雨が列島にやって来た。ニュースは各地で被害の状況を伝えた。「気の毒なことに…… 」と赤祢は又思う。次は自分の町が酷いことになるかもしれないが、目の前の悲惨な状況に心が傷んだ。大地震や洪水、豪雨や猛暑、自然災害は年々過酷になってきた。来年はきっともっと酷いことになるのかな? 赤祢は容赦がなくなった自然に対してぼんやりとした予想を呟いた。

 俵池の事件の進展は芳しくなかった。警察は、発見された八人の女性の復元した顔画像を公開して情報提供を求めたが、身元に繋がる有力ものはまだない。同時に行方不明届リストから該当する人物を探していた。

 更に周辺に住む、三十代から六十代までの男性から話を聞いて歩いていた。木下社長は、八月の初旬、赤祢は八月の下旬だった。型通りの事情聴取といいながらも、かなり幅広く聞かれた。過去十年の暮らしぶりと人間関係、健康状態、簡易心理テスト、趣味趣向、家族構成や住まい状況について、それに溶接作業経験の有無、自動車・船舶免許の有無。等々である。警察官は世間話を交えながら、注意深く相手の受け答えの様子を観察していた。

 赤祢の場合は、早々にシロ判定が下されたようだ。終始リラックスして、何を聞かれても真摯な態度で答え、事件について興味を持って逆に質問をしたからであろう。それは、何か後ろめたいものがあれば、出来ないことだそうだ。それは演技かもしれないと反論しても、我々警察はそれを見抜くのには自信があるらしい。ただ、上司である木下佐太郎について色々と聞かれた。彼は内心、あの女(樽澤悦子)のことを思い出した。やはり社長のアレは、困ったものだと思いながら、彼女に話したことを繰り返した。結局、ペットボトルのぬるいお茶を飲んで、ある意味楽しんで終わった。自分が質問したことはうまくはぐらかされたのには、さすがだと思った。

 警察官の見立てでは、赤祢はごく普通の四九歳の妻子持ちの男性であり、趣味趣向は正常、性格も特異点が無い。山口県から埼玉に転入してきて、俵池の存在を知らなかったのだ。誰にも見つからずに人を殺害して檻を製作する時間もスペースも無かったのだ。

 一方、木下佐太郎については、グレー判定を下している。地元の名士で、所謂『やりて』で交友が広く、独身でプレイボーイであり、資産があって多趣味である。人を殺して人知れず檻を作って俵池に沈めてしまうことは出来ないことではない。しかしそれを実行する動機が見当たらない。それを証明する証拠が何も無い。そして性格は明朗で、献身的に他人に尽くす傾向がある点は、殺人とはかけ離れている。プレイボーイといっても、真剣に交際するので年に二三人。これは世間一般的に比較しても、それほど多いとはいえない。別れた主な理由を聞くと、答えるのをためらっていたが、「自分の財産が目当てで、贅沢な暮らしを求めていることがわかったから、そうなると一気に冷めてしまう」というもので、それほど理解に苦しむものではなかった。現在交際中の女性が一人いるのも、独身ならむしろ正常なことだ。相手の年齢を聞いても違和感はない。別れた女性とは、二度と連絡しないのも理解できる。話題が豊富で、世間話となると冷静な警察官でさえも魅了してしまう術を持っている。

 従って警察官から見ても木下は好人物に映る。しかし、どうも何かが引っかかる。という。怪しいところは何もない、むしろ評判が良くて実際に接見しても好人物なのに、どこか腑に落ちないのだ。それが何か説明できない。だからシロでなければクロでもない。グレー判定なのだ。尤も彼よりも怪しい人物は既に三人上がっているので、捜査は更なる人物の洗い出しと、滅多に人が寄りつかない、地味な俵池に行っていた人物の目撃者を探すことに力を注ぐ方針だ。



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