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奇人のシャッフル  作者: 小田雄二
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奇人たち

第十三章


 赤祢は布団の中で目覚めた。まったく知らない部屋の様だが、よく見ればかつて自分が伊川の家で泊まっていた部屋だった。自分は伊川と約定をまとめると倒れるように眠ってしまったのだ。ゆっくりと起き上がって背伸びをすると、ニンニク臭いことに気がついた。昨日の食事は確かにそうだった。それに飲み過ぎて頭がゆらゆらする。周りはあくまでもしんとしていた。まるで家全体が自分の眠りを妨げまいと配慮しているようだった。ゆっくりと立ち上がってみる。この動作に膝年齢を感じた。

 襖一枚を開けると仏壇がある間があって、縁側のサッシからは眩しいばかりの日差しが入っていた。もう昼なのだろう。赤祢はそう思いながら又別の襖を開けて居間に向かった。いつもの日の差さない蛍光灯のついたところだ。まったく何もかもが昔のままでうっかりすると高校生の頃にタイムスリップしたような錯覚を覚えてしまう。居間のテーブルにはお母さんがいて、お茶を飲みながら音量を最小限にしてテレビのワイドショーを見ていた。

「おはよう。よう寝ちょっちゃったね。もう昼の一時よ」赤祢はお母さんの笑顔の皺を見て、やっぱり現代なのだと確信した。

「おはようございます。ああ、よく寝ました。伊川君は? 」

「なんやら、トラブルがあるちゅうて電話で呼び出されて出て行ったいね。多分帰りは晩方じゃろう」

「……そうでしたか。大変ですね」赤祢はぼりぼりと頭をかく。

「まぁ、職場が近いちゅうそも良し悪しいね。あんた、風呂に入る? それとも朝ごはんにするかね? 」

「ええ、頭がボーっとするんで、風呂に入ります」

「そうしいさん。その間に朝ごはんつくるけ、洋食じゃったいね」

「ええ、有難うございます」

 赤祢は寝ぼけながらそう言うと、旅行バックから下着と洗面道具を取り出して居間の奥の曇りガラス戸を開けて風呂場に向う途中で、お母さんが問いかけるように言った。

「昨日はかっちゃんからの相談事を受けてくれたそうじゃね。どうもありがとうね。これでウチらも一安心じゃ…… 」

「ええ、その中身は衝撃でした。大変な状況ですが、これからですよ」

「有難いことを言うてくれるね。さすがは赤祢君じゃ。美佐子さんはまだまだ女盛りで器量も気立てもええから、可愛がってやっておくれ」

「わかりました。がんばります」

「ほんにお願いしますね。さあ、風呂へお入り」

 昼過ぎまでの寝坊の後でのお母さんとの切実さがこもった会話は、あれは夢ではなかったことを再確認し、赤祢は風呂場に向かった。

 風呂から上がると、テーブルには赤祢が好んで食べていた朝食が並んでおり、美佐子が佇んでいた。思わず「うほっ」と声が漏れる。マグカップになみなみのコーヒーにアップルジュース。バターを塗ったカリカリのトースト。そして目玉焼きに焼いたベーコン。更にはフレッシュサラダだ。

 美佐子を見ると会釈をして、宝物を見つけたような顔をしてテーブルについた。

「それはみな、ウチが教えて美佐子さんがつくったんよ。ゆっくり食べり」

「どうもありがとうございました。何かすみません。合格です。あれ? 俺だけ? 」

「何言ってんの、今頃朝ごはん食べる人はあんただけいね。まぁ寝たんが朝方じゃったから仕方がなかろう。でも美佐子さん、えかったね。合格てえね」お母さんが嬉しそうに美佐子に言うと、それが吉報のように彼女に伝わって頬を染めた。

「それでは、遠慮なくいただきます」赤祢は両手を揃えてそう言うと、コーヒーを飲んでトーストを齧り彼にとっての朝食がスタートする。

「あのう。朝ごはんはいつもこうなんですか? 」

「うん。そうだよ。美味しいです。素晴らしい朝をありがとう」

「奥さんは素晴らしい人なんですね」

「うん。そうだよ」赤祢はそう答えながらナイフとフォークを器用に使って、目玉焼きを切って口に運んだ。塩コショウは、高校時代の時の注文通りに目玉焼きの裏側に仕込んであって外観はきれいである。

「目玉焼きってのはね、二個あって成立するんだよ。だって目玉は二個だからね。一つだったら、サニーサイドアップって言うんだ」

「へえ、そうなん。知らんかった」

 美佐子は子供を見る母親のような顔で赤祢の軽口に付き合った。もう昨日のようなぎこちなさは消えていた。逆に赤祢がどんな人物なのかを確かめようとする気配があった。

「さてと、ウチはこれから畑へ行ってから、お父さんを迎えに行くから、二人で仲よう話をしいさん」お母さんは二人の様子に目を細めると、そう言い残して出て行った。美佐子は「行ってらっしゃい」と見送った。赤祢は食べながら新聞を手に取って、カーペットに広げて読んだ。置いてある新聞の位置まで昔と変わらないとは……。

 テレビのワイドショーは、アイドルの不倫問題を取り上げて面白おかしく解説していた。赤祢は新聞を読みながらトーストを齧っている。

「赤祢さんは、お父さんと比べたら全然若う見える」

 美佐子の言葉に赤祢が顔を向けた。

「そうかな~。美佐子さんだって全然若く見えますよ」と笑うと美佐子も笑った。

「……何と言っていいのかわかりませんが、これからよろしくお願いします」美佐子は正座で両手をついて頭を下げた。伊川家跡取り対策のことだろうと思うとどきりとした。

「ちょっと、そんな堅苦しいのは苦手なんで、頭を上げて下さい。こちらこそ宜しくお願いします。でも、伊川もああ見えて実は壮絶な覚悟で日々を暮らしているのがわかって、ちょっと尊敬しましたよ。それに、美佐子さんの覚悟も凄いと思いました」

「覚悟なんて、ウチらも必死で、こんなことは赤祢さんにしかお願いできません。そういう意味では、覚悟を決めているのかもしれんね…… 」

 美佐子は赤祢の『覚悟』という言葉を聞いて思いがけない顔をしたが、よく考えればそういうことなんだと理解をしたようだった。二人はこれからのために、もっと親密にならなければならない。赤祢の屈託のない明るい性格が、彼女の気持ちをリラックスさせた。そして自分の『覚悟』を示して、徐々に彼女の緊張を緩和していった。朝食を食べ終えた頃には、車でどこかにデートでもしようということになり、美佐子はお母さんに電話をかけて、車を使う許可を得た。お母さんは全てを理解し、今日は二人でどこかに泊まったらええと伝えた。それを聞いた彼女の顔は、嬉しさを隠し切れないものだった。赤祢は自分のスマートフォンが気になったが、後ろめたさから電源を切ったままにしておこうと思った。


 赤祢は伊川家のファーストクラスカーであるトヨタクラウン(白)を運転し、高速道路で南下して関門橋を渡って北九州・小倉に向かっていた。快晴の日差しは空と海を美しく照らし、スムーズにエスコートしてくれた。隣の美佐子はおめかしをして薄い水色のワンピースを着ていて、表情ははじける程に輝いていた。二人で支度を整えて出発する段階では、美佐子が後部座席に潜り込んだので不思議に思い訳を尋ねたら、町の人はみんな顔見知りだから、二人で出かけるところを見られたら変な噂になるから、それを防ぐための策だそうだ。お母さんからの指示らしい。赤祢は苦笑しながらも、これから自分がしようとしていることは、世間的には胸を張っていられないことだと再認識した。しかしこれは伊川の家には絶対必要なことなのだと言い聞かせた。

 二人のドライブは掛け値なしに楽しかった。明るく振る舞う美佐子は、成熟した女の色香をまだ失ってはいなかった。鼻は卵型の輪郭の中心に一筋の突起を刻み、その目は大きく魅力的に開かれて、長い睫が魅惑的な印象を与えている。唇は赤味の強いリップスティックで強調されて、長めの髪は左右に綺麗に編み込まれていた。発達した乳房はワンピースの上からでも目立ち、腰まわりはたるむことなくしまっていた。肌は健康的に日焼けしていて、小美人ということが出来る。ただ手と指だけは、長年の農作業のためか荒れが目立った。都会の美人と違うところはそこなのだろう。赤祢は客観的に美佐子をそう見ていた。むしろそんな彼女が何故高校を出てすぐにあの武骨男と結婚したのか不思議だった。

 赤祢は彼女の顔やプロポーションを褒めるついでに、もっと結婚は遅くても良かったのではと聞いてみた。車の中は密閉された空間で、隣り合った位置にいる為か対面している時よりも話をしやすい状況なので、彼女は視線を遠くにやり、あれは親同士が半ば強引に進めた縁談で、本当は自分の本意ではなかったと語ってくれた。

「ウチの西村の家は、山間の谷みたいなところにひっそりとあってね。伊川の家よりももっと田舎なそ。お父さんは小学校の先生で、校長にまでなったんじゃけどすぐ廃校になった。お母さんは工場に勤めながら農業やって暮しちょったほ。

 町までは遠くて、自転車で三十分くらいかかるから、楽しみは友達と遊ぶかテレビくらいのものでね。しょうがないからスポーツに打ち込むか、本を読んで勉強するか、両方するかぐらい。でも生まれてからずっとそうじゃったから、それが当たり前と思ってた。高校は普通科で共学じゃったけど、別に素敵だと思う人も好きな人もおらんかった。卒業が近づいた頃、お父さんとお母さんが縁談話を持ってきたの。それが伊川のかっちゃんじゃった。なんかムーミンの目つきを悪うしたような顔をしちょった。『町の兼業農家で大きな会社に勤めよって先々安心』と言われたわ。正直あんまり乗り気じゃなかった。

 でも、伊川の嫁に入れば、かっちゃんが家のこと(農作業)を手伝うてくれるという条件があって、そうなれば大助かりじゃから是非にと言われてねぇ。

 デートして会うてみたら、とっても優しゅうてええ人でねぇ。それで、(結婚を)決めました。卒業してすぐに盛大な結婚式を挙げてもろうて、赤祢さんとはその時に初めてお会いしましたね。なんか笑顔がキラキラして眩しいような感じがしました。やっぱり地元の人とは全然違うと思うた。

 新婚旅行はオーストラリアに行かせてもろうた。ガイドさんがええ人で、それはもう楽しゅうて夢みたいじゃった。そして嫁に入ってみたら、みんな気さくでええ人ばっかりじゃった。仕事はえらかったけどね。かっちゃんも嫌な顔一つせんで、約束通り西村の田を毎年毎年世話してくれた。あの頃は、たしかに結婚は早いと思うたけど、今ではあれで良かったと思うちょるんよ…… 」

 赤祢は快適に車を走らせながら、美佐子の人生告白と呼べるほどのものを受けとめた。伊川の早い結婚に、まさかそんな取り決めがあったとは全然知らなかった。そういえば伊川のお母さんは色々と顔が広くて世話好きであった。携帯電話やインターネットも無い時代にどこからどうやって仕入れたのか、豪快に笑いながらどこそこの誰々さんの噂話をよくしていた記憶が甦った。当時はその中から伊川君の嫁さんの最適候補を選び出して、交渉して条件を取りまとめて結婚までこぎつけたのだろう。てっきり純粋に善意と責任感から実直にやっているものだと思っていただけに意外で、思わずニヤリとしてしまう。しかし、その先に跡取り問題に苦しむことになるとは、さすがのお母さんも読めなかったことだろう。

 赤祢は「そうだったんですか」と返すと、美佐子は更に話を続けた。

「もう聞いて知っちょると思うけど、ウチには五歳下の妹がおって、同じ高校を卒業して銀行に入ったんじゃけど、取引先の人と婿養子の条件で二十歳で結婚して、これで一安心と思うたら、その人が急に仕事を辞めてしもうて、家の仕事もほったらかして遊ぶようになって勝手に借金までこさえてね。お父さんが激怒して三年目に追い出したそ。中々うまくいかんものいね。それ以来妹はもう誰とも結婚することなく、実家も跡取りがおらん問題が深刻になってね。それで、赤祢さんには引き受けてもらうことになってほんに感謝しちょります」

 美佐子はぺこりと頭を下げた。赤祢としては昨日というか明け方の今日、眠気と疲れが限界のところに、ついでとして聞いた話で承諾した記憶は無いのだが、美佐子にこう言われて「知るもんかってんだ! 」と言えるはずがなく、なし崩し的に引き受けることになっているようだ。微妙に「お? おおう」と応じるのが、精一杯であった。

 美佐子はその様子を見て、あははと笑った。赤祢もつられてあははと笑った。

「でもね、感心したことがあるほ。それは、キチンと約定にしてくれたこと。あのおかげでウチも本当に覚悟ができた。そして、息子を農業大学に行かせると決めてくれたこと。これは赤祢さんがおらんかったら出てこんアイデアじゃった。これでもっと大きな希望が持てるっちゃ」

「……そうですか。あれは別に学歴が大事というだけじゃなくて、せっかくだから農業や酪農の専門的な知識を得て、伊川家だけでなく地域のリーダーになって活躍して欲しいと思ったからなんです。でも美佐子さんが言うように、何事もうまくいかないもんです。希望があっても叶うとは限りません。だけど、だからといって諦めては駄目なんです。できることを精一杯やるんです。伊川は本気です。だから僕も本気になったんです」

 赤祢の言葉は力強く、目は輝きを放っていた。人の心は、声と言葉と目の力で動いてしまう。美佐子はこれで赤祢に惚れた。本気で抱かれたいと思った。後は小倉の城を見ても、おしゃれなカフェでスイーツを食べても、夢現で楽しんだ。傍からは二人は仲の良い、しかも熱々の夫婦に見えたことだろう。ボウリングに興じる美佐子は四十五だが、年齢をまったく感じさせないくらいにはしゃいだ。そして夕食は鰻を食べた。赤祢はビールが欲しかったが、車なので飲まなかった。スマートフォンがあるおかげで知らない町でも遊びや食べる物を探して困ることはほぼ無い。勿論泊まる所も、二人は話し合って大きなラヴホテルを決めて、コンビニに立ち寄りビールとつまみ、サンドウィッチなどを買い込んで車でホテルに入った。デートにかかった費用は、伊川が用意してくれた『軍資金』の茶封筒から支払った。これを美佐子から渡された時は辞退したが、これを使わないと伊川の意に逆らったことになると言われ、有難く使わせてもらった。おかげで赤祢もその気になり、純粋に美佐子とデートを楽しみ、今夜彼女を抱く気分になれた。

 何十年ぶりかにラヴホテルの無人のフロントに入り、部屋を選んで二人でエレベーターに乗り込む。さすがにここでは密やかな声になる。部屋に入ると思ったよりも広く、二人は室内を冒険するが如く見て回った。調度も落ち着いていて窓からの夜景も悪くなかった。冷蔵庫、電子レンジ、簡易キッチン、大型液晶テレビ、本革ソファの他にマッサージチェアもあった。洗面台は豪華でバスタブも広くジャグジーが付いていた。そして寝心地が良さそうなキングサイズのベッドに笑ってしまった。かりそめの宿にしては満足を通り越して、勿体なくも畏れ多い気がした。

 部屋の探検を終えると、美佐子は部屋に入るなり冷蔵庫に突っ込んでおいた缶ビールを取り出し、グラスに注いでつまみをテーブルに広げた。赤祢はソファに腰を落ち着け、美佐子はテーブルを挟んで向いに正座した。

「おお、大人のままごと」

「フフフ、そうね。はい、乾杯しましょ」二人はグラスを合わせて生ビールを飲んだ。

「ああ、旨い!我慢してた分、倍増しだな」

「美味しい。ウチも我慢して良かった。さっき『大人のままごと』て言うちゃったろ? 本当に旨いこと言うなっておかしゅうてね」

「ははは、だってそうじゃん。今日は楽しかった。君はどうですか? 」

「ウチも楽しかった。こんなにはしゃいだのは久しぶりじゃけ。家におったら、こんな思いはできんけぇね」

 すっかり打ち解けた赤祢は、美佐子を一人の女と見ることが出来た。伸びた髪はワイルドで、芯の強そうな眉の下に少し下がった目に大きな瞳、上品な鼻に紅い唇は美人に映る。

「実は僕は埼玉を出る時、開放感で一杯だった。家庭も仕事も人間関係も一時置いて、懐かしくて全然違う環境に身を置けるなんて素敵なことだと。そしてまさか、こんなことになるとは、夢にも思わなかったよ」

「ウチも。もし赤祢さんが帰って来んじゃったら、普段と変わらんただの五月じゃあね。じゃけど赤祢さんが伊川の跡取りづくりに協力してくれたことで、こんなに明るい希望を持つことができたんはよかったと思います」

「僕達は夢や希望の未来を現実にするために、ここにいる…… 」

 赤祢はここで美佐子の手を取ってラヴチェアに誘った。美佐子は黙って赤祢の横に座って彼を見つめた。二人は立ち上がって抱き合い、やがてキスをした。はじめは優しく、柔らかく。そして徐々に激しくなっていった。


 赤祢はベッドで目覚めた。もう明るい光が窓から差し込んでいた。それに軽く驚く。何故なら、自分がいつ眠ったのかわからなかったし、朝が来るまで眠った覚えもなかったからだ。多分全精力を美佐子に注ぎ、その後気絶するように眠ったからだろう。我ながらよく目覚めてくれたものだ。そうでなければ、所謂腹上死として扱われて新聞の片隅に載っていたところだ。彼女との性交はそれ程壮絶だった……。

「おはよう、優さん。やっと目が覚めたね」

 彼女はもう服を着てラヴチェアに座ってテレビを見ていて、ベッドでごそごそ動き出した赤祢に気付いて声をかけた。

「う~ん…… 今何時ですか? 」

 美佐子はベッドに近づいて赤祢の顔に自分の顔を近づけた。

「相変わらず御寝坊さんじゃね。もうお昼よ。ウチがお願いしてチェックアウトタイムを延長してもろうたんよ」

「え? そう。有難う…… 」

 不思議な感覚を覚えた。自分がここにいるようでいないような、身体があるようでないような感覚だけの自分。腹は空いてない。腹があるのかも感じがつかめない。思わず自分の右手を目の前に出した。見慣れた自分の右手が見えたことに安心する。身体があるのなら動かそうと思い、ベッドから立ち上がると膝が重さでがくりと折れた。思わずベッドに腰を降ろした。その腰もどうにも決まらない。膝に力が入らないとは驚きだった。そして不思議なこの感覚。原因は昨夜美佐子を抱いたこと以外にない。かつてないほどの激しい夜だった。赤祢は強壮ドリンクを飲んで休憩を入れて三回射精し、美佐子がしっかりと全てを受けとめた。生真面目に全精力を美佐子に注ぎ込んだ結果が、まるで死んだように眠り、足腰が満足に立たない事態に陥った。「冗談だろ」赤祢は呟いて強い気持ちを込めて立ち上がった。ふらつく身体に背伸びをいれてバランスをとってごまかした。

「頭がボーっとするからシャワーでも浴びるよ」

 美佐子は笑顔で赤祢を見つめていた。彼は振り返って彼女を見ると、ぬくもりを感じた。あれは自分が知る限り、愛情がこもった目だ。彼は脱力感を堪えて笑顔を返した。


 シャワーを浴びて身支度を整え、ホテルを出たのは午後の二時過ぎ。途中でレストランに入り、二人にとっての朝食を食べた。

 山口へ帰る車の中では、美佐子は湧いてくる赤祢への愛情の扱いに困っていた。彼はあくまでも伊川家跡取り対策の為に抱いてくれたのだ。しかしその行為は奥さんには悪いと思いつつ、快楽に満ちた激しい情事であった。昨日の夜は間違いなく自分を深く愛してくれた。独り占めにできたという事実は密やかな快感で、三度の性交は人生で最高の絶頂を味わった。そんな赤祢を愛さずにはいられない。連休が終われば、奥さんの元へ帰ってしまうのは仕方がないとしても、妹になど渡したくないという頑なな気持ちがほどけないでいた。

 赤祢はそんなやるせない気持ちでいる美佐子がわかるわけもなく、これからの予定を聞いた。美佐子はどぎまぎとして、パート先の道の駅に出ると答えた。赤祢は疲れているから、多分家で夢の続きを見るだろうと笑った。美佐子はそっと赤祢の手を握った。

「……昨日のウチは、どうやった? 」

 赤祢は運転しながらも美佐子の熱い視線を感じた。こんな時彼女の目を見ないで済んだのは幸いに思った。

「素晴らしかったよ」

「ウチもよ、最高やった。優さんに情が移ったみたいやわ……。奥さんには、悪いことをしたと思います。でも、ウチも優さんがどうにも好きになってしもうた」

 赤祢は内心で、美佐子の心が揺れていることを知って驚いた。今更何を言い出すんだと。しかし、頭で考えていたことを実行して、気持ちが変わることなんて実際幾らでもあることだ。そして、こんなことになるとは思わなかった。と大抵は失敗したときの弁解を口にするのだ。伊川の家として決めたことを、伊川家の重要人物が今の気持ちのままで次の行動に移れば、きっと何もかもが台無しになってしまう。赤祢は純粋に親友の家のために妻を裏切ってしまったというのに、そうなっては意味が無い。ここはなんとか説得しなければならないと思った。

「……美佐子さんの気持ちは嬉しいんだけど、それは無しでいきましょう。僕にはそれをどうすることもできない。僕はあくまでも伊川の大義の為に尽くしただけです」

「それはわかっちょるけど。このやるせない気持ちはどうしたらええの? 優さんを独り占めにしたい。妹を抱いて欲しゅうない! こんな気持ちになるとは思わんかった…… 」

 それは、美佐子の今の本音なのだろう。彼女は溢れ出た大粒の涙を、ハンカチを出して沁み込ませた。赤祢は前を向いたまましっかりと彼女の思いを受けとめた。正直複雑に嬉しい。

「美佐子さんの気持ちはわかりました。正直に言ってくれて有難う。でも、ここだけの話にしておきましょう。確かに女性にとって大切な心と身体に僕が分け入ってしまったのですから仕方ないと思います。でもね、ここは一つ伊川の人として、私情を封じましょう。

 実はね、思い出したんだけど、昔の日本てのはお家が一番大事で、娘は姫として生き残りを賭けた政略の駒として意に関係なく嫁がされたものです。こう言うと酷いと思うかもしれないけれど、息子だって武士としてお家を存続させなきゃならない相当シビアなものだったようです。歴史に残るような悲しい話も一杯ありますが、当時はそんな話はごまんとあったと思います。それでも、それぞれがぐっとこらえて務めを果たしたからこそ今があるのだと思います。大したものです。

 ところが、時代を超えて現代になって、僕らは言うなれば伊川のお家騒動の只中にいるわけですよ。それは僕らのしたこと、言ったことによって、未来の伊川家に直接影響する非常にあやふやで脆いのです。美佐子さんも覚悟を決めて伊川の未来を考えに考え抜いた上で、僕に抱かれたわけです。それによって心が揺れるのは人間として、いや女性として当然です。でもそれに流されては、何もかもが台無しになってしまう。僕も含めて誰の未来にも良いことはないのです。わかるでしょう? 多分それが『大人になる』ということなのでしょう」

 美佐子は黙って赤祢の言葉を聞いていた。流れる涙をハンカチで拭い、揺れる心を正そうと努めている気配がした。

「そうやね。優さんの言う通りかもしれん。ウチには伊川の跡取りを産んで大事に育てんといけんじゃった。実家のこともあるし。優さんの家庭にも迷惑をかけちゃおれん」

「そうです。子供が生まれたら、しっかり愛情を注いで立派に育ててやって下さい」

「そうじゃね。ウチは悋気で危ないことを考えちょった気がします。優さんの分も含めて大事に育てます。それと、実家の妹のことも宜しゅうお願いします」

 赤祢は運転を続けながら、美佐子が軌道修正してくれたことを喜んだ。女の悋気は後先を考えないから怖い。この度の情事は浮気でもなければ火遊びでもないのだから、万が一これが妻に知れたら、物凄く謝らなければいけない……。

 こうして二人は無事に伊川の家に戻った。お母さんはいつもより濃い笑顔で出迎えてくれた。

「ご苦労さんじゃったね。優さん、美佐子さんはどうじゃったかね? 疲れたじゃろう。晩方にゃまだちいと早いけぇ、ちょっと休みさん」

 なにからなにまで知ってますよという顔でいたわるお母さんの言葉に甘え、赤祢は仮眠をとることにした。膝も腰もヨレヨレでひどく眠いのだ。早速客間に布団を敷いてもらうと、パジャマに着替えて布団に突撃して眠りに落ちていった。


第十四章


 目覚めたのは午後八時過ぎで、辺りはもう暗かった。赤祢はじっとしたまま体調を確認した。意識を失うように眠ったおかげで、体力が回復していることがわかった。気分が良いので、立ち上がると膝も腰も問題なかった。居間の方から、お母さんや美佐子の声が聞こえるし、ご飯を炊いた匂いや醤油の匂いなどがしてきて、晩御飯を食べているのがわかったので、パジャマのまま居間に歩いて行った。

「お、赤祢君。目が覚めちゃったか? 」お父さんが声をかけた。

「ええ、いい匂いがしたもんですから。ちょっと顔洗ってきます」

「丁度起こしに行こうと思うちょったんよ。優さん髪ぼさぼさ~ 」

 美佐子が明るい声で言った。今度はしっかりと目を合わせてくれている。赤祢にはそれが嬉しかった。伊川は赤祢と目が合うと、複雑な顔で見送った。自分が望んだこととはいえ、どう向き合えば良いのかわからない様子だった。赤祢は曇りガラス戸一枚隔てた洗面台で、顔を洗い寝癖を直すと、さっぱりとした気持ちで居間に戻った。あれこれ深く考えるのもいいが、彼はそれをしないことにしている。

 そんな性格が伊川家に受け入れられているようで、赤祢はキチンと両手を合わせてテーブルに並んだ料理を食べ始めた。ニンニク入り牛肉の煮込み、牡蠣、山芋、アボカドとオクラの和え物、ご飯に納豆、鯛の吸い物と、精がつくものをもりもり食べる。勿論、それぞれの昨日今日にあった話を聞きつつ、自分の身に起こった話を披露して、場を和ませて腹いっぱいになるまで食べた。起きたことは取り返しがつかないのだから、せめて隠し事はないようにしないといけない。伊川はそんな赤祢を見てか、気持ちを切り替えていつもの様子を取り戻したようだった。それでも、帰りの車の中での美佐子の気持ちが揺れたことは話さなかった。

 お母さんは、明日の朝は西村の家へ行って、お父さんに挨拶をしてもらわんといけんから、ちいと早起きしてもらわんにゃいけん。と忠告された。赤祢が時間を聞くと、朝の七時という。思わず『うほっ』と声が漏れた。いくら伊川家が認めた男でも、大事な娘の相手となれば、西村の主としてはキチンと顔を見ておきたいところだろう。西村のお父さんは、大分へんくう(偏屈者)で、散弾銃を持っているそうだ。 じゃからあんまり気に食わんかったら撃たれるで。とからかわれた。赤祢は一瞬、散々に撃たれて腹に穴が空き、水を飲んだら腹から水がぴゅうと漏れ出る姿が浮かび苦笑した。そりゃ絶対遅刻できませんね。と真面目くさって言うと、一同が笑いに包まれた。


 翌朝赤祢はキチンと朝食を取り、身支度を整えて白いクラウンを二十分ほど転がして西村の家に着いた。段々緑が増えて道が細くなり、カーナビゲーションの表示では、とっくに道が消えて山の中をずいずい進んでいることになっている。漸く現実の左手の山の麓にある小さな集落の一件の家が、西村家であった。確かに夜で暗かったら、気味の悪いところだと引き返すかもしれないと思った。

 西村のお父さんと呼ばれている老人が腕を組んで立って待っていた。日焼けして痩せた身体に目がぎょろりとこちらを睨んでいたが、車の中からお辞儀をすると白い歯を見せてくれ、手招きで家の庭に誘導してくれた。

「初めまして、赤祢優人と申します」赤祢は車を降りると、何年振りかにサラリーマン風の挨拶とお辞儀を披露した。「宜しくお願い致します」とは敢えて言わなかった。

「……あんたが赤祢さんかね、わしは西村明宏と言います。今日は御無理を言うて悪いね、中で少し話でもしましょう」彼は穴が空くほど赤祢を眺めた後、つくった笑顔で家の中に案内した。

家の屋根は伝統の長州瓦で、庭の手入れも美しく行き届いていた。どうやら伊川の家よりも格が上のようだ。

「……結構な庭石ですね。それに御庭もきれいだ」

「わかるんか。そりゃ嬉しいのぅ…… 」

 西村は赤祢を洋風の応接間に通すと、直ぐに美佐子の妹らしい女性がお茶とお菓子を運んできた。今では絶滅したと思われた奥ゆかしい所作で、一度も顔を上げずにお茶とお菓子を出して去って行った。

 西村はここで漸く顔を緩めてくれて、赤祢も幾分話がし易くなった。まず西村は、ようこそおいでなされた。娘の父親として一度会うておきたかった。と言った。赤祢は至極当然のことだと受けとめた。それから彼は自分のことを話し始めた。元教師で、もう廃校になった地元の小学校の校長を勤めていたという。今は農業をやり、米を農協に収め、年金と娘が地元のインターネット会社の経理をして生活をしているそうだ。家内は十五年程前に高速道路で追突事故に遭って亡くなり、長女は高校卒業後直ぐに伊川家に嫁ぎ、次女は婿養子をとったが失敗して、今も独身で恋人もいないようだ。と説明してくれた。赤祢はそれで色々と納得がいき、自分のことをかいつまんで語った。

 お互いの立場や近況を確認し合うと、話題は伊川の跡取り問題に移り、それはこの集落においても同様だと言った。勿論この家もと付け加える。ここでは四十はまだ若手か小僧で、五十で中堅、七十までは、いや身体が動く間は現役なのだと笑ったが、赤祢には笑うことができない。超高齢化、少子化の文字が再び頭をよぎる。

 西村は、伊川の発案を実行に移したことを知っていた。そして、よくぞお引き受けになられた。と赤祢に言った。その口調に皮肉の色はなく、率直な賛辞と感じたので、常識では考えられないことだが、最終的に伊川の熱意と大義に賛同した。と説明した。その美佐子は伊川の妻であるが、西村の娘でもある。赤祢はそこに最大限に配慮して言葉を選んだ。そして今日は、西村家の跡取りを作るために訪れたのであるが、その要件はなかなか口に出せなかった。勿論それは、西村は十分に理解していた。

 しかし、それだけに悲しいやら嬉しいやらが混ざった複雑な表情を隠せないでいた。奥さんは大丈夫なのかと心配さえしてくれた。赤祢は少し考え、もう遅いでしょう。と言い、ここでの出来事は、多分妻に知れることはない。と笑った。私は西村さんが御心配されているような後ろめたさはない。と付け加えた。西村はそれを聞いて安心したような顔になり、美佐子はもう伊川の嫁じゃから伊川が決めたことに従うのは、仕方がないと思う。が、西村の跡取りを見ず知らずの赤祢さんに託すというのは、正直まだふんぎりがつかん。と言った。赤祢にとっては意外な言葉であったが、尤もなことだと思った。

「西村さんの率直なお気持ちがよくわかりました。御尤もだと思います。しかしこの件は、私の方が望んだことではありません。西村さんの方で少しでも迷いがあるのでしたら、やめておいた方が良いと思います。なので私はこれで失礼させていただきます」

 赤祢はこれで帰ろうと決めて立ち上がった。

「ま、待っておくれ! 」赤祢が予想外にあっさりと引き下がる様子をみて、とんでもないことをしでかしたと気づき慌てて赤祢を押しとどめた。

「わしは迷うちょるのは事実なんじゃ、それだけに赤祢さんに御無礼を言うてしもうたことを許して下さい」

 西村は今ここで赤祢を帰してしまっては、西村家の将来は無いと思い直し、必死の形相で謝罪して止めた。

「ああ、お恥ずかしい限りじゃ。実はわしは混乱しちょるんじゃ。じじぃになってからこねぇに苦悩せにゃならんのか! 赤祢さんから見たらさぞおかしいじゃろうのう」

「……そんなことはないですよ。むしろ将来を真剣に考えているからこそ悩んでおられる。きちんとした正解もないのですから、そりゃ混乱もなさいますよ」

 赤祢は西村の顔をまじまじと見つめた。その顔は本当に苦悩に満ちた顔で救いを求めている様に見えた。二人の間に少しの間が通り抜ける。

「……昔は皆若うて元気で、子供らもようけおって、皆で助け合うてええ所じゃった……。ところが、昭和も五十年代頃になると、子供らは都会に憧れて出て行くようになったんじゃ。それまでは長男が跡を継いで次男三男がそうしてきたもんじゃったが、長男までもが都会に出るようになったんじゃ、女子おなごも都会に出てしもうて、だんだんと若い者がおらんようになってきたんじゃ。

 兼業農家は嫌われた上に、長男は親の面倒を見んといけんから敬遠されて嫁不足が深刻になってのう、ここらでも色々とごたごたがあったもんじゃ。それで平成も三十年になってみれば、帰って来た者もおるが、もう爺と婆ばっかりになってしもうて、どうねぇもこねぇもならん有様になってしもうたんじゃ……。 一体何がいけんかったんかのう。自然にちゅうかなりゆきに任せたらこうなって、それがわしにはわからんのじゃ。赤祢さんはどのようにお考えかの? 」

 西村は時折茶を啜りながら、目線を遠くにやってこの地域が過疎化する様を思い返していた。赤祢にはその話が痛いほどによくわかった。自分など都会に出て行ったくちなのだ。この問題はもはや過疎化の段階ではない。更に進行した超高齢化と限界集落化なのだ。このままでは地域が滅びてしまう深刻な問題に、今赤祢は意見を求められている。

「……西村さんのお気持ちはよくわかりました。私も上京した者の一人ですが、あくまでも私の見解として言わせてもらってもいいですか? 」

「是非ともお願いします」

「わかりました。西村さんは何がいけなかったのかとお嘆きですが、私は何も悪くなかったと思います。しかし自然に任せていたらこうなったと考えるのはどうかと思うのです。だって昔から自然に任せていたけど、それまでは問題なかったのですから。

 私は人の意識や価値観が。それまでと変わったことが原因だと思います。高度経済成長で暮らしが豊かになると、人は夢や希望を持ちました。テレビが普及して様々な映画もばんばん公開されて、それらを視聴するごとに触発されたのです。

 欲望の解放とでもいいましょうか、もっと美味しいものが食べたい、もっとお洒落をしたいとか、しがらみから脱してもっと自由に生きてみたい。夢を叶えてみたい。もっと人生を楽しみたいというふうに生き始めたのです。その結果、地方に住んでいる者は都会を目指して行ったのです。これは私の実感ですが、自分のやりたいことがここにはなくて可能性に挑んでみたい、未知の世界に飛び込んでみたいという冒険心で都会に出たのです。当時の多くの若者がそうしたおかげで都会は繁栄し、地方は過疎化というわけです。まさに『得るものあれば失うものあり』です。

 これではいけないと原点回帰すればまだ良かったのですが、しかし人は更に変わります。個人の尊厳と自由、そして欲求を追及するあまり、人間関係がうまくいかなくなったようです。傷つくくらいなら気楽な一人でいよう。自分の好きなものに囲まれて生きていければ幸せだ。というわけです。インターネットやSNS、携帯電話やスマホが普及して、コンビニで弁当買って後は家から一歩も出なくても、一人で充分に楽しい生活が送れるような社会になったのです。一人上手とでもいうのでしょうか。

 若い時に様々な経験を積んでおかないと、年をとって取り返しがつかない状況になることを頭でわかっちゃいるけど、今はこれでお願いしますと、独身で気楽な日々を送る三十代四十代を私は多く知っています。

 こうなればインフラが整えば都会も地方もないのですが、仕事があるから都会に住んでいるという状況です。こういった人が増えると、結婚や出生率がだだ下がりになるのです。そして人口が減り、高齢化が進みます。物が売れなくなります。市場が収縮します。これは資本主義には由々しい問題です。自治体や政府が少子化対策をやってはいるけど、状況はどうも芳しくないですね。

 西村さん。もうおわかりと思いますが、都会だってそういう深刻な問題を抱えているんです。結婚して核家族で子供を育てるのが普通だと思っていた私などは、もう古いのです。今は核化が更に進んで核個人化がトレンドなのです。飲み会などで、若い人のそんな生き方を沢山聞きます。でも、黙って聞いているだけです。勿論その先は予見できますが、個人の自由ですからね。所詮他人事なので放置です。『いやそうじゃないよ』と言うには根が深いし疲れますからね。結局の無関心。戦争を放棄し、奇跡の平和が当たり前の中に暮らして泣き笑いしてきた結果がこれです。

 仕事なんて衣食住が維持できればいい。万一のための備えは貯金じゃなく保険。恋愛や結婚は面倒だし、傷つくのが怖いからゲームやアニメで十分。女が欲しけりゃ風俗がある。親友なんて煩わしいから都合のイイ時だけSNSでつながれば良い。楽しいことはスマホやインターネットにてんこ盛り。充実した人生を謳歌しているつもりが、実は全部仮想の作り物なんです。

 それに比べたら、伊川や西村さんの行動は素晴らしいと思いました。将来に危機感を持って強引にでも暗い未来に楔を打ち込もうとしているのですからね」

 赤祢は曇りのない顔で西村を見つめた。彼は納得した様子で急須に茶を注いで飲んだ。

「それはそれは、新聞やニュースで妙なことになっちょるとは知っちょったが、そねぇなこととはのぅ……。

 赤祢さんに実際会うてみて、どうやら頭が良さそうじゃし、見てくれもそう悪うない。わしはそう見た。娘の相手として相応しい人物じゃ。時に赤祢さん。そこまでの分析ができちょるんなら。あなたはどうしたらええと思いますかの? 」西村は右手で薄くなった白髪を撫でながら問うた。

「それは個人の力ではどうしようもないでしょう。傍観か見て見ぬふりで、自分の妻子と仕事のフィールドをしっかり守るのみです。多分それらは政治の仕事で、私は政治家ではありませんので…… 」

「赤祢さん、そねぇなことを言わんで是非聞かせて欲しいんじゃ。頼むけぇ」

 赤祢はどうして自分がそんなことを考え、意見を言わなければならないのか、妙な気分になった。しかし彼はどういうわけか問題に対して自分の意見を持つことができる。社長木下はプレゼンで人の心を掴んで動かすことが出来るし、専務の赤祢は問題対処能力が優れている。二人はこのコンビネーションで厳しい業界を生き残ってきたのだ。

「わかりました。私の個人的な意見として聞いて下さい。私の知る限りの他の御家庭にしても、子沢山は珍しいです。一人か二人、多くても三人ですね。子供がいない夫婦も多いです。これは国としては危機的状況です。二人の男女が結婚して子供が一人なら、数十年後の人口は半分になります。二人産んでとんとん。三人で漸くプラス一人になります。最低三人子供を育てなければ国としてはマズイのです。しかし実際三人の子供を育てるには、それなりの経済基盤が必要ですから、それがなかなか厳しい状況です。

 更に言えば、今は結婚する男女が減少しているし、結婚しても離婚が増えています。性的マイノリティも幅をきかせている現実もある。低出生率による少子化の結果人口減少。超高齢社会による限界集落、消滅都市はもう始まっています。日本はどんどん人がいないスッカスカ状態になっているのです。つまり国レベルで滅びの道を進んでいるのですから、なんとも切ないですよね。家がどんどん滅ぶのは当然といえるでしょう。

 私もいつかは死ぬのでしょうが、その後のことは考えていません。そんな中でも、伊川と西村さんは、家の存続という価値観で切ない未来に抗おうとしているのです。家の将来に取組むことは、規模の桁は違いますが、国の将来に取組むことと同義でしょう。国民規模で家の価値観が見直されれば、子孫を残そうとしますから、人口が増えて先ほどの問題は大きく改善の方向に向かうでしょう。だから私は率直に素晴らしいと思いました。

 しかしそれには様々な課題があり、国民レベルだけでは中々立ち行かずに広がらないものです。それには行政の関与が不可欠です。過去には、ある国の政府が実際にこの問題に真面目に取り組んだことがあります」

 赤祢はここで話を区切り、西村の反応をみた。彼は話を真剣に聞き考えている様子で、ぎょろりとした目は少しも動かず赤祢の目を見ていた。

「……なるほど。正直こねぇな話はここらじゃあ中々聞けんのう。大したもんじゃ。じゃけど政府の関与ちゅうのは、アメリカやフランスがやりよる移民じゃろ? 日本じゃ中々受け入れられんと思うで」

 赤祢は、移民は又別の政策で、あくまでも国レベルの人口についてですと言うと、西村は分かりやすく当てが外れた様な顔をした。俄然赤祢がこれから言うことに興味が湧く。

「そんな昔の話じゃありません。その国の経済は戦争によってズタズタになって、ハイパーインフレに苦しみ、大量の失業者に喘いでいました。そこで政府は経済を立て直そうと様々な手を打ちました。その中の一つです。

 まず結婚適齢期の多くの若者に目をつけました。というのも、彼らは職もなく街をぶらついて、酔って喧嘩や器物損壊、売春や窃盗などの犯罪が蔓延ったのです。売春は性病をばら撒き、社会倫理を蝕んでいくのです。やがて組織化すれば国にとって厄介な存在となります。政府は、彼らを結婚させて子供を持てば落ち着くだろうと考え、大規模なお見合いを実行しました。それで結婚の運びになったら、政府が大規模公共工事の職を斡旋します。それに、今で換算すると三~四百万円位のお祝い金を低金利で貸し付けました。更に子供を一人産めば、借金の四分の一を減額、二人産めば半分、三人産めば四分の三に、四人産めば帳消しになるのです。勿論それ以上になれば税金が減額されるのです」

 それを聞いた西村は大きな目を更に大きくした。急いで自分の知識辞典のページをかきめくってみたが、そんな夢の様な国はまったくヒットしなかった。

「そりゃ嘘じゃろう。わしは教師をしちょったんで? そねぇな国は聞いたことがない」

「……西村さんが知らないからといってそれは嘘だというのは、どうでしょう。戦争というのは第一次世界大戦。大量の失業者は六百万人といわれています。そして大規模公共事業とはアウトバーン建設です」

「ああ、赤祢さん。そりゃあ、もしや…… 」

「そう、ナチスドイツです。ナチスお見合い大作戦です」

 西村はそれを聞いて驚き、興奮した。この歳になってこれ程の衝撃を受けるとは思いもしなかったようだ。その証拠に今度は口が大きく開いた。しかし赤祢はそんなことにかまってはいられない。早く帰りたいのだ。

「とにかく、それで人々は元気に働いて妻と子供を愛し、国内の治安は一気に良くなって、奇跡の経済復興を成し遂げたとさ。という史実です。それが全てだったとは言いませんが、要因の一つだと言えるでしょう。少し話が長くなりましたが、私はこの辺で…… 」

 赤祢はこれ以上の長居は無用とばかりに席を立って帰ろうとしたが、西村が赤祢に取り縋った。

「待っておくれ赤祢さん! わ、わしらを見捨てんで下さい。あなたと話をして、腹が決まりました。いやぁ聞きしに勝る素晴らしいお方じゃ。どうか、西村の家の為に娘の美祢子を宜しゅうお願い致します。この通りじゃ」

 西村はあたふたとペルシャ絨毯に跪き、両手を広げて額をつけた。

「西村さん、頭を上げて下さい。困ります」

「いいや、わしはもうあんたしかおらんと決めた。これまでの御無礼水に流して下さい。お願いじゃあ」

「……西村さん。独身の美祢子さんが急に妊娠したら、相手は誰かときっと妙な噂になりますよ」

「なんの。そねぇなものは気にせんことじゃ。それよりも跡取りの実をとった方がどれだけええかしれん。わしは多分、孫が成人するまではもたんじゃろう。じゃが大学まで行かせるくらいの金は遺しておける。お願いじゃ赤祢さん。わしの、西村の跡取りを作って下さい。この通り、お願い致しますぅ」

 西村は赤祢の目を見て、切羽詰まった声を絞り出してから額を絨毯に擦り付けた。そのまま動かず、長い時間が流れた気がした。赤祢が何か言わないとどうにも時間は動きそうもない。赤祢は色々と考えた結果承諾することにした。西村は涙を流して喜び、皺のよった手で赤祢の手をとってゆすった。


 その後赤祢は、クラウンを隣町のショッピングモールに向けて走らせていた。西村の次女美祢子に会うためだ。家にいた女性は西村の縁者だったそうで、もし赤祢と美祢子の二人で出かければ、必ず誰かの目に留まり噂になることを恐れ、赤祢が来る前にわざわざ隣町に出ていたそうだ。西村の住む地域には、地獄耳とCIA並の情報網を誇る老婆が住んでいて、気に入った者には良い情報、そうでない者には悪い情報を流し、退屈凌ぎにあることないこと、時にはないことないことを吹いて回るらしい。まぁそれが老婆の生きる糧となっているのならと、住人達はちょっとした暇つぶしにしているのだそうだ。

 運転しながらラジオを聞き流していると、午前十時前らしいことがわかった。自分が西村の家にそんなに長く居たのかと驚く。偏屈者と聞いていたが、話のわからない人物ではなかったので、それほど嫌な思いはしなかった。結局彼は伊川の跡取り対策を頭では理解しているが心情的に抵抗があったのだ。更に次女の美祢子が未婚のまま妊娠することについて不憫に思っていた。それに自分が孫の成長を見届けることができない寂しさと不安を隠さなかった。「赤祢さんが婿に入ってくれれば一番ええんじゃが」という話は聞き流した。あくまでもこちらはお願いされる立場なので、不満や不安を言われながら低姿勢でお願いされるという腹の周りがむずむずする交渉であった。

 教えられたショッピングモールはそれ程大きくなかったし、駐車場もそれなりの規模だったので、美祢子を見つけるのはさほど苦労しなかった。彼女は人待ち顔で立っていた。髪はロングの栗色で黒いサングラスをかけ、日除けのデザインハットを被り、クリーム色のレースのワンピースを着ていた。伊川のクラウンを見つけると、笑顔で手を挙げた。赤祢も車内から軽く手を挙げて応えると、駐車スペースに車を置いてから美祢子と相対した。

「おはようございます。あなたが赤祢優人さんね。よろしくお願いします」

 美祢子はサングラスを外し、白い歯を見せて挨拶した。色白なだけにリップの紅が強調されて見えた。姉の美佐子と違い農作業をしていない手だ。

「西村美祢子さんですね。初めまして。こちらこそよろしくお願いします」

 お互い挨拶を交わすと、顔や容姿を確認するように黙って見つめ合った。短い間だったがとても重要な意味がある。やがて彼女が笑顔で言葉を続けたので、うまくいきそうだと思った。二人はそれからカフェでコーヒーとドーナッツを買い、クラウンに乗り込んで発進した。

「さてと、どこに行きましょうか? 二人の記念すべき初デートは」

「どこか希望がありますか? 」

「姉の時は小倉に行ったんだから、下関はどう? 」

「……あそこはもうカジノが出来て、国際都市になってしまった。だからあんまり落ち着かないな、ギャンブルは好きじゃないんだ」

 赤祢は西村氏の期待を背負っているだけに、カジノで遊ぶ気にはなれなかった。一方の美祢子は、なんだつまんないという顔をしたが、すぐに何か閃いたように声を出した。

「じゃあ、北の萩に行こうやぁ。松下村塾。あそこ世界遺産になったんだって」

「世界遺産! あの小屋が? 」

 赤祢は驚いたが事実らしい。自分も小学生の頃に遠足か何かでバスに乗って見学に行ったことがあるが、バスに酔って気分がとても悪く、先生の明治維新の話も難し過ぎて全然覚えていないし見たには見たが、それはただの木造の小屋で、感じ入るものは何もなかった。小学生、しかも低学年には重すぎるテーマだった。それから四十年が経っても、どうもあの小屋と世界遺産がつながらない。しかし赤祢は同意した。それ程遠くもないし、ただの観光には持ってこいだろうと思ったからだ。

 萩に向かうために国道316号線を北上して長門に向かう。車は少ないし道路の状態が物凄く良いことに気がつく。美祢子によればロシアの大統領が来るということで徹底的に道路を補修したのだそうだ。赤祢はへぇと感心した。春の日差しを浴びて、二人の会話も穏やかに続いてこのドライヴは快適だった。

「ねぇねぇ、お父さん(に会って)、どうじゃった? 」

「どうって、迷っておられたよ。だって当然だよね。だけど話をするうちに西村の将来を考えたらと腹を決めたそうです。真面目なとても良い方ですよ」

「そう……。で、どんな話したん? 」

 赤祢は思い出すままに美祢子に聞かせた。彼女は二人の会談の内容よりもうまくいったことを喜んでいる様子であった。父は偏屈で頑固で、相手が気に入らなければ怒り飛ばす人だから心配していたそうだが、うまくいって良かったと安心した。という。赤祢は本当にこれから夜を共にすることになるけど、大丈夫ですか? と聞いた。野暮な話かも知れないが確認の必要がある。美祢子は少し照れながら同意した。美祢子も方も自分で大丈夫かと聞いてきたので、頑張るよと答えて笑った。


第十五章


 二人は初対面と思えないほどに話が弾んだおかげで、長門を西に進んで萩にはアッという間に到着した。城下町萩は落ち着いた静かな所だった。町から見渡せる海が、静かに景色に溶け込んで美しいと思った。そういえばこうして海を眺めるのは久しぶりだ。埼玉県は海が無いのだ。美祢子がスマホをいじってナビゲーターになってくれて、松陰神社近くの駐車場にクラウンを停めて降り立った。彼が神様になっていると知り驚いた。赤祢はそれ程に無知なのだ。

 世界遺産になったからといって特別仰々しいものはなく、落ち着いた雰囲気で、二人は気楽に歩いて松下村塾に向かった。ここへ来るのは二度目になるが、四十年も前なので記憶を探っても何も覚えがなかった。ただ自分が大きくなったせいか、あらゆるものが小さく見えた。観光バスも来ていてそこそこの賑わいが見えた。美祢子が腕を組んでもいいかと聞いてきたので、いいよと言うと、大胆に胸を寄せつけてきて赤祢を照れさせた。

 まったくの無造作に、例の平屋の古い小屋が現れてそれを見物した。歴史にあまり興味が無いのでそれ程の感慨もない。吉田松陰についても特に気持ちが動くこともなく、パンフレットを読んで、彼の偉業を知った。なるほどもし彼が危機感を持って行動を起こさなければ、日本は一体どうなっていたかと思わせるものだった。ふつふつと感謝の気持ちが沸き起こる。美祢子にしても赤祢と同程度のもので、ここへ来たのはまったくの気まぐれだっただけに、少し拍子抜けした感があった。ここでは着ぐるみのキャラクターやショーはないのだ。といっても後悔するところまでではない。二人はにっこり笑って良い勉強になったね。一応松陰神社に行こうと再び歩き始めた。

 その道すがら、「吉田松陰先生万歳ぶわんずわあい! 」と老人の声がしてきた。声のする方を見ると、左手およそ三十メートル先に甚平姿の小さな老人が立っていて、快気炎をあげていた。吉田松陰を称え、その偉大さを訴えている様子だった。ここは一本道で彼を避けて通ることは出来ないので、神社に行くにはあの老人を通過する必要がある。

「ちょっと、なにあのお爺ちゃん」

「ああ、こういうヒストリカルポイントでは、ああいう人はいるもんだよ。悪い人じゃない。ただ吉田松陰が好き過ぎて誰かれ問わず訴えたいだけなんだよ」

「スマホに載ってないんだけど」

「載ってはないと思うよ……。とにかくこういう時は、下を向いて目立たないように静かに通り過ぎればいいのさ」

 赤祢は子供に言って聞かせるように美祢子にそっと伝え、目線を合わせないように下を向いて足早に通り過ぎようとした。その時。

「そこの御両人! 」と後ろから厳しい声で呼びかけられた。その余りの勢いにびくりとして振り返ると、老人はすぐ後ろに立っていた。こうなるともう怪人といっていいだろう。

「御両人は御夫婦か? 」

「い、いえ違います」

 赤祢は手まで振って否定した。

「なんじゃ。ややこしい間柄かの? 」

「……ええ、多少ややこしいです」赤祢が正直に答えてしまうと老人は豪快に笑った。

「なるほどなるほど。正直で宜しい。それでお天道様は許してござるぞ」

「はぁ」

「時に御両人、この地へようこそ。そのややこしい間柄で松陰神社に参拝とは見上げたもんじゃ」

「はぁ」

「あなたは、中々に面白い顔をしちょるのう」老人は赤祢の顔を覗き込んで言った。

「はぁ。でもお爺ちゃんも面白いですよ」

「はっ、こりゃ一本取られたわい。気に入った! 」と再び豪快に笑った。

「あなたはどちらからおいでなさったかの? 」

「埼玉県です。が、元々はM市の出身です」

「おお、そうじゃったか。遠路はるばるよう来られた。で、どうですか。松陰先生の松下村塾は? 」

「え、ええ、世界遺産になったと聞いて来てみたんですが、相変わらずの小屋で安心しました。あくまでも日本の大回天の元なのに世界遺産がどうもつながりません」

「日本の大回天の元か。確かにそうじゃの。見事に本質をついちょる」

「ここは(松下村塾)は多くの英傑を輩出したことで有名ですからね。それがこんなに地味な小屋と思うと、なんか嬉しいですね」

「そうじゃな、肝心なのはここで何が繰り広げられたかじゃ。あなたは中々見どころがある。どうじゃ、あそこのうどん屋でもう少しわしと話をせんか? 」

 赤祢はあらためて老人の顔と姿を見た。身長は150センチ位、中肉で背中は曲がり気味にヨレヨレの甚平にサンダル履き、褐色の顔に伸びるに任せた白黒の長い髭、被った麦わら帽の下から伸びた白髪、どこから見ても不潔で怪しい感じがした。しかし、目が生きていた。その光は強くはない、といって弱くもない、しかし生きている。何事にも動じない意思を持っているように見えた。普段ならやんわりとお断りするところであるが、この老人ともう少し話をしてみたいと思った。美祢子から見れば、怪しい小汚い爺にしか映らないので、赤祢は断るだろうと思っていた。

「……いいですよ。これも多少の縁かもしれません。丁度昼時で小腹が空いているところです」

「え? ええ! 」驚いたのは美祢子だった。思わず赤祢の腕を引いて老人から離れて背を向けると、「今大事なデート中なんだから、あんな変な人に関わりたくないんだけど、どうせ何か壺とか売りつけてくるのよきっと」と老人に聞こえないように訴えた。赤祢は苦笑して、「なに、大事なデートのちょっとしたスパイスですよ。案外面白いかもしれません」と返した。彼は笑顔で振り返ると美祢子の手を取り「さあ、行きましょうか」とうどん屋に老人と向かった。

「おお、そりゃあええ、わしゃ壺のセールスはせんからのぅ」


 昼時にはやや過ぎており、うどん屋はほどほどの入りだった。愛想の良い若い給仕の女性に中ほどの四人掛けのテーブルに案内され、赤祢の右隣に美祢子、その向いに老人が麦わらをとってゆっくりと腰を降ろした。意外なことに老人の髪は白いが十分に残っていた。給仕の女性とは顔見知りの様子だった。さりげなく水の入ったコップを三つ置く。

「うーん、うどんを茹でる匂いとつゆの匂いが混ざった良い匂いだ。埼玉の方では、ラーメン屋さんが多くてね、中々久しぶりの匂いです。さてと、何にしようかな? 」赤祢は楽しそうにお品書きに目を落とした。美祢子は少々ばつが悪そうであった。

「ここはキツネのあげが逸品なんじゃ」

「そうですか。それじゃあキツネにしますか」

「じゃあ、ウチもキツネで」美祢子もキツネを食べてみたくなった。

「わしはそれにビールをつけるで、あなたも飲むか? 」

「いえいえ、車で来てますから遠慮しときます」

「そうかそりゃ残念じゃ。よーいお姉さん」

 老人は給仕の女性に狐うどん三つにビール大を先に持ってくるように注文した。

「あなたはなかなか興味深いお方じゃ、まずは名乗らせてもらおう。松田厳陽斎まつだげんようさいという者じゃ。宜しゅうに、で、あなたは? 」

「僕は赤祢優人と申します。こちらは西村美祢子さんです」

「なるほど、いやぁお綺麗な方ですなあ」

「あら、お上手ですわね」

「いやいや、実は老眼で皆綺麗に見えるんじゃ」

「まあ」美祢子は笑った。

「して、赤祢とは、珍しい姓じゃ、赤祢といえば、幕末最強と謳われた奇兵隊の第三代総督赤禰武人あかねたけとが思い浮かぶのぅ」

「本当ですか? 父はただの公務員でして、そんな話は聞いたことがないので、ただの偶然でしょう」

「まあ、他にも赤間とか赤松とか色々あるけぇのう」

「お爺ちゃんこそ、随分クラッシックなお名前ですよ。松田厳陽斎なんて絶対忘れません」

「ははは、そうかい」

 そこに給仕の女性がコップとビールを持って手際良くサーヴしようとしたが、美祢子がいらないと言うので。赤祢がコップは一つでいいと言う間に、松田はコップにビールを注いでいた。

「それでは、わしだけ失礼して御馳走になります。乾杯! 」赤祢と美祢子は乗せられて水のコップで乾杯した。

 松田は喉仏と長い髭を上下させてビールを旨そうに飲み干した。余りの旨さに手に持ったコップを見直したほどだ。

「いやあ旨い! 旨いのう。松陰先生を称えてこねぇな旨いビールを馳走になるとは! 正に松陰先生の御利益というものじゃ」

「あれ、お爺ちゃん。僕が御馳走するのかい? 」

「わしゃ財布持っちょらんけぇの」

 松田の清々しいくらいの図々しさに、赤祢はなによりも先に笑いが出た。怪人松田厳陽斎の小気味良いちゃっかりぶりに、まあいいじゃないかと思った。彼は松田に、生きていればこれくらいの父の姿が映った。それに美祢子についてあれこれ詮索しないのも助かる。うどんにビールくらい安いものだ。

「時に赤祢さん、吉田松陰先生はどねぇな人じゃと思う? 」

 松田は、出し抜けにそんな質問を赤祢にぶつけた。赤祢にとっては、これまで殆ど知らない人物だが、パンフレットを斜め読みした印象を答えた。

「そうですねぇ、今までの不勉強を恥かしく思いつつ、パンフレットを眺めた印象では、多くの功績が称えてあり、非常に優秀だったのはわかりますが、かなりの変人だったんじゃないでしょうか……。お爺ちゃんは相当詳しいんでしょう? 」

「なるほど。わしは別に詳しいとは思うちゃあせんよ、ただ好きなんじゃ。感謝・尊敬せんとどうにもおさまらんのじゃ。無論、人によって色んな印象を持ってええんじゃ。変人と思うんならそれでええ。じゃがもしも彼がおらんかったら、行動を起こさんじゃったら、今の日本の有り様はなかった。

 もしただの変人じゃったら、長州藩の軍師はとてもつとまらんで。全てはあのペリーがやって来た時、どねぇな反応をしてどう考えてどう行動したかなんじゃ、あの時から超のついた変人になられたとわしは思う。だってまともにしよったら、何も変わらんじゃないか。先生は幕府の対応がどうにも気に入らんかった。このままじゃいけんと強烈に思うたんじゃろう。

 先生はあの頃既に水戸学を学んで、天皇を中心とした国家構想を持っておられた。それは、幕藩体制でそれぞれが違う国の集合体が集まっておるに過ぎんかった時代の中で、日本が一つの国というビジョンに到達されたんじゃ。ペリーとの日米和親条約はまあええ、じゃがハリスとの日米修好通商条約は、天皇の勅許無しに締結された我が国に不利なもの。この先日本の政治を、幕府に任せておったらきっと外国の食い物になってしまう。それは絶対に避けねばならん。もう幕府は国の為にならん! ならぬのなら、もう幕府は要らぬ。どうしても日本を守らねばならん。その為にはどうすればええか。それを必死で考えて行動されたんじゃ」

「そして密航しようとして失敗。その前に何度か脱藩もしてますね。

 僕が不思議に思ったのは、吉田松陰は黒船に乗り込んでアメリカに連れて行ってもらい、進んだ技術やら色々学ばせてくれと頼んだことです。当時外国人は夷狄いてきでしょう? にも関わらず頭を下げて教えを乞うというのは、恥も外聞もない行動です。ちゃっかりしてますよねぇ。

 でもその理由はわかります。当時としては幾ら攘夷といっても、まともに戦って勝てるわけがないからです。勝てないなら勝てるようになろう。その為には、密航して技術や知識を取り入れようとしたのでしょう。

 一方外国からしてみれば、これは相当図々しい考えですよ。誰が教えてやるもんかってならなかったのが不思議ですね。日本人を見くびっていたのか、当時日本は金も銀も沢山取れたから、それが欲しかったのでしょうが、後に武器や軍艦を売り、技術や知識を教えたのはまずかったですね」

松田は赤祢の話を真剣に聞いていた。彼は客観的に松陰先生の行動を受けとめている。そして的を射ている。パンフレットを読んだだけで、この様な斬新な意見が持てるとは、と感心していた。もしや、という考えが頭をよぎる。

「ほう、中々に面白いのう。単なる歴史マニアからは出てこん意見じゃ。わしも昔話を披露しようとは思うちゃおらんのじゃ。わしは歴史マニアは好かん。連中はただ色々知っちょるだけで、それを活用できゃせんのじゃ。そんなものは意味が無い。そんな人とは飯は食わん。赤祢さんは、松陰先生のことは殆ど知らん。知らんが、意見は面白い。凄いと思うで、それではとどのつまり、松陰先生の望みは何じゃったと思いますかの? 」

 松田は少し口調を変えて赤祢に再び質問した。彼らは話ばかりをしていたわけでなく、話の腰を折らぬように配慮しながらうどんを啜っていた。松田にいたってはビールも飲んでいた。しかも二本目に突入している。赤祢は老人の目の色と言葉に尋常でない熱を感じていた。このお爺ちゃんは、吉田松陰を昔の偉人と捉えていない。或いは今が幕末であるかように語る様子に迫力があり引き込まれてしまう。これは一体何なのか興味が尽きない。

「勿論諸外国の侵略から日本を守ることです。その為には開国して技術や知識を学び、対等な交易によって、豊かになることを望んでいたと思います」

「そうじゃ! じゃがちいと足らん」

「何ですか? 水戸学の天皇を中心とした国家ですか? あの当時そこまで考えていて望んでいたかなぁ」

「なんのなんの。不羈独立じゃよ」

「フキドクリツ? 独立とはまた違うんですか? 」

「不羈とは、何にも縛られずっちゅうことじゃ、つまり、日本が完全に自分の足で立ち、その上で対等な立場で外国と接する。ということなんじゃ」

「……なるほど」

「どうじゃ赤祢さん。今の日本は不羈独立かのう」

「いいえ違いますね。日本はアメリカの家来ですから」

 それを聞いた松田は、声を上げて豪快に笑った。余程面白かったらしく、飲んでいたビールを噴き出しはしなかったが、開けた口の両端からビールの液体がだだ漏れて髭を伝って盛大に流れ落ちた。赤祢はそれを見て驚いたが、その光景の珍妙さに声を出して笑った。

 美祢子は「ちょっとお爺ちゃん。もう」と言いながら席を立ち、松田の顔と髭をハンカチで拭いた。この異変に給仕の女性も駆けつけてタオルで松田の顔を拭いた。

「そんなに面白かったですか? 日本は食料もエネルギーも自給できません。国の安全保障は相変わらずアメリカの庇護下にあります。こんなことでは松陰先生は泣いているのは間違いないですね」

 松田は血管が浮き出る程に笑い、立ち直るのに数分を要し、二人の女性の介護で体勢を漸く立て直した。

「まったく赤祢さんの言う通りじゃ。家来とまであっさり言い切ったのが、おかしゅうてのう。いや失礼した。食料や石油にも着目するとはさすがじゃ。確かにそれも問題じゃが、まぁそれは貿易の方で賄うことが出来よう。しかし安全保障はそうはいかん。それをアメリカの庇護下とは、鋭い指摘じゃ。ますますもって面白い」

「更に言えば、日本人は、強い権威や力の下で生きるのが好きなんですよ。向いていると言っていい。だから古くは天皇と豪族の下、その次は天皇と将軍の下、武家の封建社会は江戸幕府の前から鎌倉・室町とあって六百七十年余りですからね。かなりのものでしょう。

 そして今度は戦争で負けて、アメリカが世界一強いもんだからもうべったりです。日本人の強いもん好きも、それが外国でも構わないとは思いませんでした」

赤祢は調子に乗ってもっと松田を笑わせようとしたが、これはうまくいかなかったようだ。松田は妙に深刻な表情で、赤祢を見据えた。

「……鋭い見識じゃ。赤祢さんはそれでええと、家来のままでええと思うちょるんかの? 」

「僕らは生まれた時から今まで、それを当たり前のこととして受け入れて暮らしてきたんですよ。意識すらしてませんでした。目まぐるしく変わる国際情勢の中で戦後七十年が過ぎ、その主従関係はよくもっていると思います。多分表には出ない涙ぐましい努力があるんでしょうね。でも、お爺ちゃんにそう言われると、確かに不自然ですね。自分の国はやっぱり自分で守れないといけないと思います。

 不羈独立ですか。僕はこの言葉を知りませんでした。教えてくれてありがとうございました。松陰は鋭いと思いますね。でも、それは理想です。それを実現しようとすれば、アメリカの家来から脱することになる。これは中々勇気が要りますねぇ」

 赤祢はここで言葉を切って、不羈独立から現代日本の安全保障について真剣に考えを巡らせた。まさか萩のうどん屋でこんなことになるとは思いもしなかった。松田は面白そうに、とっておいた狐のあげにしゃぶりついた。

「実は僕ね、埼玉の小さな会社である製品の設計をやっているんですけど、自分らで仕様を決めて設計しても中々良い物が出来ないんです。ところが、一般の人の要望や意見を取り入れるとですね、結構良い物が出来るんですよね。それは、彼らは自分の都合やわがままの言いたい放題ですから、設計側からみれば無理難題ばっかりなんですよ。もう技術的課題の山で、だめだこりゃってひっくり返るんですけど、それじゃ会社倒産しちゃいますから、新しい発想とアイデアでそれらに取組んで設計すると、結構うまいこといくんですよね。それで無理難題の対策を考えるのが癖みたいになっちゃってね。それでつい考えて思いついちゃったんですけど……。

 自国の安全保障が外国頼みとは、やはり無様ですね。しかし我が国は憲法で戦争を永久に放棄しています。この理想を掲げることができるのも日米安保条約のおかげです。

さっきも言いましたけど、僕は今まで安全保障は外国頼みで戦争を永久放棄する体制に何の疑問も持っていませんでした。でも不羈独立を知り、日本は何にも縛られずに自分の足で立つべきだと思いました。しかしその実現のためには数々の難問があります。国内だけでなくアメリカも関係する大きな問題です。戦争を放棄しながら日本の安全を矛盾なく確保する手段が必要です。

その為には、日本が強い力を持てば良いのです。アメリカでさえも驚き、そしてどこの国も戦争を諦めるほどの超パワーを持てば良いのです」

 松田はその言葉を聞いて呆気にとられた。老人がこの表情をすると、枯れた木に見えてしまう。そんな力が持てたら苦労はない。何という無邪気。それが何かは見当もつかない。

「……それはもしや、核兵器のことかの? 」

「違います。それじゃ他の国と同じじゃあないですか。日本核武装論は僕も新聞などで読みましたが反対です。日本は唯一の被爆国ですから、アレジ―があって絶対に受け入れられることはないでしょう。又そうであって欲しい。

 僕は核兵器が嫌いです。原発は大嫌いです。原発は安全だぁ安全だぁって嘘だったじゃないですか! 原発なんてナンマイダアナンマイダアですよ。とっとと廃絶するべきです。核の抑止力で世界の平和が保たれている。だなんて、専門家と称する人らにこの御題目をしたり顔で発言させていつまで飯を食わしているんですか。あんなのを耳にすると、今に凄いのを作って、核を時代遅れの産物に葬り、世界のパワーバランスを意地でも塗り替えてやる! と思ったものでした。それでね、思いついたんですよ。うどん食いながらね、それは…… 」

「そこまで! 」

 赤祢は自信を持って言おうとした時、松田は右手を広げて制した。

「そねぇな大事なことをうどん屋でするもんじゃあねえ。誰が聞いちょるかわからんけえのう。赤祢さん、今の話は凄かった。別人のような格別な雰囲気が出ちょったでよ。その思いついたそは、今まで誰かに話をしたことがあるんかね? 」

「いいえ、ないです。だってお爺ちゃんが不羈独立とか言ったから、それから考えて思いついたんですから」

「それならええ。どうじゃ、今晩ウチに来て飯でも食いながらその続きを是非に聞かせてもらえんじゃろうか」

「ははは、冗談よして下さいよお爺ちゃん。申し訳ないけど今日はこちらの美祢子さんとデートなんです。だからそれはちょっと…… 」

 それは体の良いお断りであった。財布も持っておらず、身なりもお世辞にも良いとはいえない老人の誘いに、これ以上付き合うわけにはいかない。二人はこれから西村家の未来への営みという使命があるのだ。話の区切りがついたところで、そろそろ出ます。お勘定は僕が払いますからと席を立とうとした。老人はまるで、釣った大物が逃げる様子を見送る顔で、少々慌てて言った。

「待ってくれ。その話の続きを聞かんことには死んでも死に切れん。化けて出るでよ」

「ええ、その時に覚えていたらお話しますよ。大丈夫、お爺ちゃんは不・死・身」

「ちょっと待ってくれっちゃ。そうじゃ河豚をつけよう。河豚尽くしでどうじゃ! 」

「伺いましょう」

 赤祢は河豚尽くしと聞いて急に心が動いて態度を変えた。それにこのお爺ちゃんともう少し話をしてみたいとも思ったのだ。

「そうじゃ、そうでなくては! 」

松田は、意外に綺麗に並んだ白い歯を見せて笑った。美祢子などはとんだ邪魔が入ったものだと、この急展開に口を尖らせた。

「……ここはただのうどん屋じゃが、赤祢さんと話をしてたまげたんじゃ。それは松陰先生を偲び、その足跡をなぞるようなもんじゃあなかった。今の日本、そして未来について有意義な議論になったんじゃからのう。こねぇなことは初めてじゃ。赤祢さんはやはり何か非凡なものを持っちょると思うた。実はの、当時の松下村塾も松陰先生の下に集まった若者が、日本の将来について自由闊達に議論したそうじゃ。時代を超えて今ここで、それに匹敵する議論が行われたと思わんかい? 」

 赤祢はそう言われてハッとした。まったく無意識に、話は日本のこれからについて広がっていたからだ。

「そう言われればそうですね。ただの小市民が何を言ってるんでしょうかね。バカみたいです」

 赤祢は自嘲的に笑った。しかし松田厳陽斎は少しもそう思ってはいない様子だった。

「赤祢さん。誰でも始めは皆そうじゃ。あなたはどういうわけか突然に変わったで、核と原発を批難し、世界のパワーバランスを変えるとまで息巻いた。その目は本物じゃとわしは見た。今夜話の続きを楽しみにしちょるで、わしはこれからちいと用事を済ませんにゃならんから、これで失礼する」

 松田厳陽斎は赤祢と美祢子にしっかりと目を合わせ、満足した大企業の経営者のような顔で悠然と引き戸を開けてうどん屋を出て行った。期せずしてそれを見送る体となった二人は、お互い思わず噴き出した。あの老人は今夜再会を約束したが、肝心の時間も場所も告げることはなかった。見事に狐うどんとビール大瓶二本を平らげ、相手に気持ち良く勘定を払わせることに成功して去って行ったのだ。

 給仕の女性は二人の後ろに立ち、にこやかに赤祢が財布を取り出すのを待っていた。

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