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奇人のシャッフル  作者: 小田雄二
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シリアルキラー

第十章


 五月初旬の午後。堀越千恵美は、埼玉県S市のJR線の某駅に降り立った。大阪からの道のりは長かったが、思ったよりも簡単であった。あいにくの雨だったが、これからこの町で木下佐太郎との新しい人生が始まると思うと、心は晴れていた。

 彼女は木下に言われた通りに、財産を全て処分し必要最低限の荷物を三興宛てに送って、小さなスーツケース一つの身軽な姿であった。携帯電話も解約してしまった彼女は、東京へ向かう新幹線の自由席の中で、久しぶりに暇を感じた。手持ち無沙汰と言ってもいいだろう。さり気なく周囲を見回してみると、多くの人が携帯電話を操作し、イヤフォンまでつけて静かに暇を潰していた。彼女はそれを少し羨ましいと思いながら、仕方なく飛び去ってゆく景色を眺めていた。そして、思いついたことをできる限り詳しく思い出してみることにした。今まで出会った人々のことや、楽しかったことや辛かったことも……。子供だった頃や学生時代、そして社会人……。色々なことがあった。退社の時の挨拶回りに見た人の顔をできるだけ丁寧に思い出した。「結婚するんです」と伝えると、それぞれ驚きの表情を見せてくれた後は、それぞれにお祝いの言葉を述べてくれた。それは温かく嬉しいものだった。

 居酒屋を借り切って盛大な送別会を開いてくれて、五十人からの人々が別れを惜しんでくれた。自分の為にこんなにも集まってくれたことに感動した。勿論彼女は全員のことを覚えていた。これまで誰にも不義理をした覚えはないので、その点は心配していなかったが、各々が自分と関わったエピソードを披露してくれた時には心が震えて涙が出た。大きなプロジェクトで苦労を共にしたことや、殆ど忘れていたような些細なものまでが披露されて、人々の記憶の中に自分は確かに生きていたのだと思い知った。そのどれもが、話題を共有することができたので楽しく場が大いに盛り上がった。昔の失敗談や苦労話、辛かった出来事というものは、こうして披露してみると、どうして懐かしくて楽しいのだろう。千恵美は沢山の人の縁で働いてこれたことを実感し、感謝の気持ちが湧き上がった。

 昔話に浸る古参の社員達の顔をあらためて見ると、みんなそれなりに歳をとっていた。身綺麗にしてはいるが、髪の毛は白いものが目立ち、薄毛、禿げた者もいた。顔には皺やシミ、イボも見えた。歯の改修工事が目立ち、加齢臭や歯周病の臭いが鼻をついた。

 若い社員から見れば、悍しい集団なのかもしれない。しかしそれでも家庭を持ち、家族を守りながら必死に働いて暮らしてきたのだ。それを知って分かり合えるだけに、千恵美は少しも嫌な気はしなかった。

 自分などは初めから容姿に自信などなかったが、独身で身軽な分、移り変わる時代の中で気楽にやってきたんだなと思った。それに大病や事故もなかったことは幸運と言えるだろう。これからは、遅まきながら結婚して家庭を築いてゆくことになると発表すると、大きな拍手が沸き起こった。みんなが良い話として受け止めて祝福してくれた。羨ましいと言ってくれたのは、女性陣ばかりではなかった。

 サラリーマンは、定年まで勤めたところで老後の生活はたかが知れている。それに今の世の中、百貨店業界は生き残りが非常に厳しい。もはや老舗の伝統というだけではどうしようもない。ニュースで大手百貨店の店舗縮小や統廃合のニュースを聞くたびに、どきりとして先が見えないばかりか、現状を打破するアイデアが見えない。それだけに人生の後半に差し掛かり、妻子を抱えた男性社員からも、羨ましいと冗談めかして苦労話を吐露された時は、気の毒で仕方がなかった。そして、もう自分は違う舞台に移動しようとしていることを自覚した。

 お相手の写真が見たいとせがまれたが、持っていないのでやんわりと断り、その代りに彼との馴れ初めと交際の内容を披露すると、誰もがお相手は筋金入りの社長さんだと囃してくれた。こうなると何を言っても『お惚気』になってしまう。会社の名前を明かすと、一斉に検索を始めたものだ。

 長年勤めた職場の人々と離れるのは辛かったが、一つの区切りをつけることができた気がした。これから先も真面目に働いて定年を迎えるという人生もあるが、千恵美自身がこの機会を生かすと決めた以上、みんながそれを尊重してくれたのが嬉しかった。

 若いうちから大きな企業で働けば、倒産の心配は無いし安心して暮らすことができる。その間家庭を築いて幸せを実感しながら人生を謳歌することができるのだが、そうしてきた人と、その一方で小さい会社でも自営で頑張って生き残った人とでは、大きな差があることを知った。やはり木下は強いと実感した。勿論自由競争の中で淘汰されて破綻するリスクはあるが、それだけに日々生きている真剣度が全然違う。と千恵美は知らず知らずのうちに、目の前の男達と木下を比較してしまっていた。


 駅には木下佐太郎が迎えに来ていた。平日なので、彼は汚れた作業服姿にキャップを被り、会社のワゴン車に乗っていた。作業服姿の木下を見るのは初めてで、デートの時のスタイリッシュな服装とのギャップに驚いたが、それが又魅力的に映った。

 木下は千恵美を見つけると、笑顔で手を振った。彼女も飛び切りの笑顔で彼に向かった。もう外股で歩く癖はなくなっている。彼は仕事中でこんな格好ですみませんと詫びたが、堂々と胸を張っていた。千恵美はその姿を見て逞しいとさえ思えて惚れ直した。いつものスマートな誘導で彼女をワゴンの助手席に乗せると自宅に向かう。

 彼は彼女を気遣い、車中でも会話が弾んだ。長旅の疲れをねぎらい、コーヒーを手渡して、仕事が終わるまで部屋で休んでいて欲しいと伝えた。彼女は佐太郎の気遣いが何よりも嬉しかった。ここに来たのは二度目で、目に映るもの全てが大阪とは違うことが興味深いと思った。大阪と比べて車も人も、動きがどこかのんびりしているように見えた。勿論人と話をすれば、関西弁を聞くことはないだろう。


 彼の会社は駅から北西に三〇分程走った郊外にあり、到着すると社の駐車場にワゴン車を停めて会社から道続きの自宅に彼女を通した。彼女は社員達に紹介されて挨拶でもするかと思ったが、木下は社員達に一瞥をくれただけで通り過ぎたので少し拍子抜けした。雨が降り続いていたので、雨傘をさした二人が会社の事務所を通り過ぎて宅に向かう光景を数人の社員が見ていた。

「いよいよ来られましたよ専務。社長は今度こそ結婚するんですかね…… 」

 若手エンジニアの山中が、事務所二階の窓から視界に入った木下と千恵美を認めると、向いに座ってCADを操作している赤祢優人あかねゆうと専務に話しかけた。

「社長は女性に対しては、ここ一番で腰が引けるところがあるからねぇ」

 赤祢は意味深な表情で言った。しかし彼は社長である木下を尊敬している。人格や人徳は申し分ない。だからこそ二十年前から二人三脚で三興をここまで大きくしてきたのだ。赤祢も立ち上がって窓に近づき、二つの動く雨傘を目で追っていた。

 赤祢と山中はプラズマ焼却炉の設計・開発を担当している。構想から既に四年が過ぎて、いよいよ試作機が完成し、今はちょっとした改良点を検討している段階にある。さすがに専任というわけにはいかないが、少しずつではあるが、成果が出ていることに二人はやりがいを感じていた。

 それから一時間もすると、木下が事務所に戻ってきた。意識的に表情を消している様子なので、山中はただお帰りなさいと声をかけた。木下はただいまと答えると、ポケットから缶コーヒーを開けてグイグイと飲んだ。それから女性事務員を呼んで、自分がいなかった間の業務についての確認を行った。問題がないとわかると、安心したようにデスクに着いて何事もないかのように他の書類に目を通し始めた。赤祢と山中にとっては、社長の『あの表情』は何度か見たことがあるものだった。女性を家に入れた後は、大抵あの顔になる。会社の規模が小さくて社長と社員の距離が近く、更に自宅が会社の隣にあるのでは、それは彼の照れ隠しなのだろうと思っている。

 当然ながら、先ほど家に入れた女性のことを話題にするなど、とてもできるものではない。そういうことは、飲み会の席などに御機嫌を伺いながら少しずつ聞いていくものだ。勿論皆社長の再婚を望んでいる。

「……赤祢専務は明日からの連休はどこかに行くの? 」

 木下は、思い出したように所謂ゴールデンウィークの予定について話題にした。

「えっ。そうですね、久しぶりに田舎に帰ろうかと思っています」

 赤祢はやや恐縮そうに答えた。町のゴミ処理やリサイクルショップの営業などで、社員全員が一度に長期で休むことが出来ないので、協議して順番で休むことにしているからだ。今年の五月連休は、赤祢専務と他の一人の社員が十連休を取ることになっている。彼は何年も長期連休を取っていなかったので、社員の間では快諾を受けていた。

「専務の実家って確か山口ですよね。遠いなー 」

 山中が “遠い”に実感を込めて言った。

「赤祢専務が帰省なんて珍しいよね。何年振り? 」

「……かれこれ十年ぶりぐらいかな」

「それもう、旅行ぽいですよ」

「そうだよね。ホントはもっとマメに帰るべきなんだけどね。なかなかさ~ 」

「それじゃぁ御両親の御墓参りとか親戚の挨拶巡りとかで、穴埋めが大変そうですね」

「まぁそうですね。それに今度は久しぶりに旧友に会うんですよ」

「旧友ですか。それは又オツなもんですね。楽しみでしょう」

「ええ、何か私に相談事があるようで、金なら無いよって言ったら、そうじゃないらしいんです。じゃ何だと訊いたら、会ってから話すそうで、社長は何だと思います? 」

 赤祢は急に思いついた様子で木下に訊いてみた。勿論気軽なものであった。博学で鋭い見識を持つ木下の意見を聞いてみたいと思ったのだ。

「そうだな、先ずは久しぶりに君の顔が見たいんだよ、きっと。そして健康そうだと見るや、今年で五十になる専務に、お子さんの手も離れた頃だから、山口で農業でもやって楽しく暮らさないかというお誘いなんじゃないかな? 」

 木下は面白そうに言うと、赤祢は、それならなくはないと思った。自分ではさっぱり見当もつかなかったことだったので感心し、やっぱり社長に訊いてみて良かったと思った。そう言えば、およそ二十年前に会った時に、本気とも冗談ともつかない顔で「お前もエエ加減に帰って来いや」と言われたことを思い出した。

「もしそうだったら、なるべく断ってくれないかなぁ。専務はここでもっと活躍してもらわなくちゃ困るんだ」木下は経営者としての顔で言った。

「社長、けっこうマジすね」中山がそう言うと、木下は実はそうなんだよと三人は笑った。


 午後五時になると終業になり、リサイクルショップ以外の社員達は帰り支度を始めた。赤祢は明日からの十連休に、大人気もなく胸が弾んでいた。木下は赤祢を気遣い、仕事の心配などしないで、ゆっくり休んでリフレッシュして絶対戻って来て下さいと明るく送り出した。おかげで赤祢は気分良く社を後にした。

 社員全員を見送った後、木下は一人でリサイクルショップが終わる夜八時まで、顧客の要望やクレームに目を通し、業務日誌や業務報告書を読んでいた。社員やパート職員の要望や業務改善提案などに目を通し、色々と思いを巡らせてニヤニヤしていた。パソコンやタブレットなどが普及する現代でも、彼は部下の手書きの声やアイデアを読むのが好きだった。日々の業務でトラブルが無い日はない。クレームもそうだ。その対応は大切だが、必ず解決しきるのが社長の務めだと思っている。彼のこうした姿勢が功を奏して、これまで重大な労働災害や、職場内の不和などはない。長年業績の良い風通しの良い会社だと、地域で信頼されていることが彼の誇りである。

 今日もリサイクルショップは無事に業務を終えて、その残務を済ませて夜九時過ぎに歩いて自宅に戻った。副社長である秀一は、とっくに愛車のベンツでどこかへ遊びに繰り出している。

 ドアを開けると、カレーの良い匂いがしてきた。千恵美が気を利かして食事を作ってくれたのだろう。ダイニングキッチンに行ってみると姿はなく、和室リヴィングのドアを開けてみると、彼女は座布団を敷いてテレビを見ていた。そこは十畳程の空間で、和室に相応しい調度と、冬には掘り炬燵になるテーブルがある。彼女は木下の顔を見ると、飛び切りの笑顔でお帰りなさいと笑顔を向けてきた。木下も思わず素の笑顔になった。その端に疲れを見た千恵美は、お仕事御苦労様と頭を下げる。彼もこれはこれはどうもと頭を下げ、笑いあった。

「カレー作ってくれたんだ。有難う。お腹空いててさ」

「ただ待ってても退屈やから、あり合わせのもんでつくってみたんです。秀一さんは? 」

「あっ。言ってなくてごめん。奴はもう遊びに出掛けちゃってさ。帰りは多分明日になると思う」

「金曜やもんね。若いからしゃあないわ。明日食べてもらお。

ウチもお腹空いたから、先に食べます? それともお風呂が先なんですか? 」

 その声は、残念そうでもあり、わずかに嬉しそうにも聞こえた。

「いやぁ、今までずっと一人暮らしが長かったもんですから、そう言われるだけでも嬉しいなぁ。実は食事とか風呂とか順番は決ってなくてですね。折角ですから、手を洗ってから先にいただきましょう」

 千恵美は木下の恐縮したこの言葉を聞き、そして薄汚れた作業服姿で照れている仕草を見て、母性本能が呼び覚まされて、思わず彼の背中に抱きついた。

「二人きりの夜……こんな毎日が、これから始まるんやね。ウチホンマに幸せです」

「こちらこそです。こんな私ですが、宜しくお願いします」

 木下はそう言うと、振り返って彼女を優しく抱いた。彼女は、この時をどれほど夢見たことか、今それが現実になった。嬉しい。これが幸せなんやね。と涙を溢した。彼はこのいじらしい言葉に心が動き、柔らかく彼女をとりなした。

 それから彼女は気持ちを切り替えて食事の用意を始め、カレーライスとサラダ、冷水をダイニングテーブルに並べた。ビールは後にしようと彼の提案に従ったのだ。他愛もない会話を交わしながら二人は幸福感に包まれて食事をとった。

 木下は彼女の料理の旨さを絶賛した。それから食後のアイスクリームと苺を食べて、明日の土曜日にはショッピングにでも行こうと盛り上がった。食事が済むと和室のリヴィングに移動してテレビを観て過ごした。どちらが先に風呂に入るかで、お互いが譲り合い、それが又楽しかった。結局彼が先に風呂に入り、くつろげる部屋着に着替えて戻ってくると、彼女はすっかり片付けを終えていて、入れ替わりに風呂に行った。

 リンゴを齧りながらテレビを見ていると、彼女が風呂から上がってきた。既に髪をドライヤーで乾かしていて、やはり寛げる部屋着に着替えていた。彼女は上機嫌のニコニコ顔で、おビールいただいて良いかしらとダイニングの冷蔵庫から缶の生ビールとコップを二つ持ってきて乾杯した。彼女は美味そうに小さなコップのビールを飲み干すと、ああ幸せと木下を見つめた。それから出会った頃の話を思い出として語り出した。彼が優しい目でそれに相槌をうっていると、又嬉しさが極まった様子で泣き始めた。それで彼女が泣き上戸だったことを思い出した。彼はそんな彼女の話に付き合っていたが、ちょっと二階で仕事を片付けて来ると言って部屋を出て二階の自分の部屋に入った。

 一般家庭にしては厳重な指紋認証式の電磁ロックを解除して入ったその部屋は、広い洋間でパソコンや液晶パネルが三つも並んだ本格的なデスクと椅子があり、その上趣味のヴィジュアル・オーディオ設備が設置してあり、無数の本、CD、DVD、BD、アナログレコードまでが棚に整然と並んでいた。ここなら彼は、何時間でも過ごすことができる。

 彼は機能的な椅子に腰かけ、無造作にモニターのスウィッチを入れてソフトを起動した。するとモニターに、和室リヴィングで大人しくテレビを見ている千恵美の姿が映った。その他、日付と時刻、室温、湿度、酸素濃度の数値がリアルタイムで表示された。もう一台の画面のタッチパネル画面を起動して、『DOOR & WINDOW LOCK』ボタンを押すと、表示が『LOCKED』 に切り替わった。

 それを確認して立ち上がると、部屋の隅にあるロッカーを開けた。その中には大型の金属製のガスボンベの様なものがあり、その配管は和室リヴィングに接続されている。右手でバルブを開けると、デスクに戻ってモニターに映る千恵美を観察する。

 タッチパネルに表示されている『置換』ボタンを押して独自の空調システムを起動させた。あの部屋は高い気密性が保たれているので、ゆっくりと静かに一酸化炭素ガスが注入され、酸素を追い出してゆく。

 二十一パーセントだった酸素濃度が一分間に約0.1パーセントずつ減ってゆくのがモニターの表示でわかり、彼は千恵美の様子と、徐々に減少してゆく酸素濃度を観察していた。まるで動物実験を観察している学者のように無表情だが、内心は彼女が異変に気付いてドアや窓を開けようとしないでくれと願っていた。

 一酸化炭素は無色無味無臭で、比重は空気とほぼ同じであり、血中のヘモグロビンは、酸素よりも約二五〇倍も結びつきやすい性質を持っている。従って急激に酸素と置換してしまうと、一気に一酸化炭素が脳に行ってしまい、激しい頭痛や吐き気を引き起こすのだが、適度な置換であれば、逆に強い眠気を誘うことが出来る。

 彼は、千恵美が眠気に見舞われて欲しいと望んでいた。彼女に頭痛や吐き気を催させてしまっては、ドアや窓を開けて逃げようとして、電磁ロックによって出られないことを知ることになって恐怖や絶望感を味わわせてしまう。それは何としても避けたいことであった。酸素置換の割合は、これまでの経験で黄金比を見つけて実行しているのだが、個人差があるのでそれが心配なのだ。いきおい目は真剣に彼女の様子と酸素濃度値の両方を見つめている。これは実験ではない。

 何も知らずに木下が戻って来るのを待つ彼女は、欠伸をして眠そうな仕草を始めて、徐々に頭が下がってゆき、遂にテーブルに両腕を敷いて眠り込んでしまった。濃度表示は二〇パーセントを切っていた。彼は和室リヴィングの画像をサーモグラフィーモードに切り替え、彼女の体温観察に入った。赤みがかった色から室温と同程度の青色になっていった時点で、ロッカーのバルブをしっかり閉じてから『置換』を停止させた。更に様子を見て、千恵美の体温が安定して青色を表示していることを確認し、タッチパネルの『換気』ボタンを押した。すると空調システムが切り替わり、外気を取り込んで室内の酸素濃度が再び上昇して通常の二十一パーセントを表示した。彼の表情はまだ固いままだ。

 酸素が安定値に戻ったことを確認した彼は、電磁ロックを解除してから和室リヴィングに戻った。ドアを開けて用心深く顔を入れて息をしてみて、問題ないことを確認してから和室内に入って一応窓を開けた。家の周囲に人家はなく、もう雨はやんでいて外は漆黒の闇であった。彼は立ったまま、テーブルに突っ伏している千恵美に目をやった。まるで眠っているだけのように見えるが、もう息をしていない。手を取って脈を確認し、彼女が死んでいることを確信した。時計やアクセサリーを確認したが、風呂上がりで身に付けていなかった。控え目なデザインの指環をそっと指から外し、引き出しからハサミを取り出してブラジャーを切り取った。ポケットを探って他に金属製のものが無いかを確認したが、持っていなかった。

 彼は一仕事を終えたように息をつくと、軽く体をほぐしてから物置部屋から折りたたみ式の車椅子を持ってくると、遺体となった彼女を抱え上げて乗せ、和室の灯りを消して家庭用エレベーターで下に降り、通路を通って会社屋の焼却炉がある方向に車椅子を押していった。人感センサーが感知して暗い通路を自動的に照らす。もう会社には誰も残っていないことを知っているので、ゆっくりとした足取りだった。

 三興は保健所から委託を受けて、道路で車に轢かれて死んだ猫や犬などの小動物の焼却処分や、依頼があればペットの火葬に応じる為の炉を一基所有している。彼は明かりをつけて炉の空焚きスウィッチを入れる。システムが起動するブザーや一連の作動音も全て聞き慣れたもので、異常は感じられなかった。別のスウィッチを押して焼却炉前室のドアを開けて中から台車を引き出した。それは耐火仕様で深さ1.5、幅1.0、奥行き1.5メートルの箱であり、四輪は鋼鉄製でそれなりに重いが、レールが敷いてある範囲ならば一人でも動かすことができる。彼はそれをやおら引き出すと、箱の右側の鋼板を倒して、車椅子のブレーキをかけてから、彼女の両脇に手を入れて抱きかかえて箱の中に入れた。優しくしたつもりであったが、彼女の後頭部や身体が底部に打ち付けられる形になり、異様な音が響いた。微かに舌打ちをすると、箱を閉じて台車を押して前室内に戻した。前室のドアを閉め切り、焼却時間を四〇分にセットして、後処理(骨を砕く)を設定すれば、その二〇分後には彼女の骨は細かく砕かれて、荒い粒子のカルシウムになり、ポリ袋詰めになる。彼はこの焼却システムを起動させると、空になった車椅子を押して家に戻った。

 宅に戻った木下は、車椅子をたたんで戻し、二階の部屋に戻ると椅子に座ってモニターを切り替えて焼却システムの運転状況を表示させた。『正常運転中』という表示と経過時間、炉内の温度(千二十三度から上昇中)が見えた。途中何か異常が発生すれば、表示が変わりアラームが鳴る設計だが、事前に整備を十分に行っているためこれまで異常が発生したことはない。「オール・システムズ・ゴー」木下は小さく呟くと、引き出しからA4ファイルサイズの封筒を取り出し、中の書類を真剣に読み始めた。封筒には『信頼の尾道リサーチ』と印刷されている。内容はN証券の佐々木和子課長についての調査結果であった……。

 彼は以前から結婚相談所のサーバーにハックして、結婚歴が無く孤独な五十代の女性リストを作成していた。その中から次の相手を彼女に決めて、更に詳しい個人情報を調べさせていたのだ。趣味や好物はデータでわかっていたが、実際の性格やどこでどんな買い物をし、どんな所に立ち寄るのかといった生活レベルと行動パターンを知りたいのだ。

 報告書を読み込むと、彼女は恋愛経験が殆ど無く、仕事に生き、孤独だが実直に生きている様子を思い浮かべることが出来た。それこそが彼にとって相手を決める重要な要素であった。彼は、どのように接触すれば、運命的な出逢いを演出できるかを思案した。スーパーマーケットで買い物中。時々行くカフェでスイーツを食べている時。居酒屋の中。残業帰りの和食食堂の中。接触のチャンスはそれほど多くは無いが、金曜日にはよく最寄りのレンタルビデオ店で、連続ドラマDVDを借りて翌週月曜日の仕事帰りに返却しているところに注目した。だとすれば、今彼女はどんなドラマを観ているのだろう。木下は最終的に次の相手を彼女に決定し、東京の役所に御機嫌伺いをしながら、彼女(佐々木和子)を自分で調べてみようと決意した。


第十一章


 土曜日の朝。赤祢優人は、東京発博多行きの新幹線のぞみの中で、高速で飛び去る風景を眺めながらぼんやりとしていた。五月連休で混雑が予想されたが、二本見送っただけで自由席の二人席の通路側に座ることができた。「これで富士山を拝むことが出来る」と小さな満足感を覚えた。本当は窓際が良かったのだが、そこには三十歳くらいの女性が座っていた。彼女は俯いたまま眠ることにしたようだ。周囲を見渡すと、家族連れやカップル、学生風、サラリーマン風、外国人観光客などが、かりそめの居場所に身体を落ち着けて各々寛いでいるようだ。

 今回の一人旅は、妻も高校生の娘も快諾してくれた。結婚して三十年が過ぎて、夫婦の間に程好い距離ができ、息子は独立して娘は高校生にもなれば、「たまにはいいんじゃない」ということなのだろう。その代りに仲良しの母娘で気ままな小旅行に出かけるらしい。赤祢も又、たまにはいいだろうと思ったものだ。

 開放感。赤祢は本当に久しぶりにこの感情に浸っていた。家庭・仕事、責任・重圧・人間関係・しがらみ。赤祢はそんなものをダイナマイトで吹き飛ばしてやった気分だった。そんなもん知るもんかってんだ! とニヤニヤしていた。別にそれらが嫌だったわけではない。逃げ出したつもりもない。ただそれらから一時解放されると思っただけで随分と心が軽くなり、それが彼には痛快だった。言ってみれば、長年活動していたバンドが、合意の上でソロ活動を始める心境に似ているのかもしれない。

「奴(旧友)の相談事っていったい何だろう? 」赤祢は座席でこの問題に取り組んでみた。


 三月のある夜、高校時代の友人である伊川克也から電話がかかってきた。最後に伊川と山口で会ったのは二十年前に帰省した時だったとして、それ以来だから軽い驚きを持って久しぶりの受話器を取った。あの当時携帯電話をまだ持っていなかったので、固定電話番号を教えていたことも忘れていた。不思議なもので、二十年ぶりだというのに声を聞けばすぐに奴だとわかった。

 気さくに挨拶を交わしてお互いの近況を伝え合った。こちらは家庭を持って皆元気。転職はしたが、まずまずの暮らしだと伝えると、伊川は安心したような声で、「おお、そうか」と受け取り、「こっちも相変わらずじゃ」と応えた。

 赤祢は安心して嬉しくなり、お世話になった伊川の家族の近況を聞くと、御婆ちゃんは既に亡くなり、お母さんは膝を悪くしてあまり歩けなくなった。お父さんは前立腺がん治療中で大分弱っている。と予想外の知らせに、「そうか、お気の毒にな。おい、全然相変わらずじゃないじゃん」と突っ込みを入れた。伊川は苦笑いを浮かべたような声で、「そりゃあ、歳をとりゃ仕方がなかろう」と窘めるように言った。赤祢は少し辛い気持ちになった。長い間帰らず連絡も取っていなかったことを暗に責められているような気がした。

 思わず御婆ちゃんやお父さん、お母さんの面影の記憶を手繰り寄せた。といってもその記憶は、元気で明るく、自分を家族のように可愛がってくれた優しい笑顔ばかりだった。それが今では病に苦しんでいると聞いても、中々結びつけることができなかった。しかし当の伊川はそれらをひっくるめて面倒を見ていて、逆にさばさばとした感じで語るのが印象に残った。彼は赤祢がそんな気持ちになっていることにはまったく関係なく話を続けた。

「ユキ(伊川の二歳下の妹)は嫁に行って、子供が四人もできて、すっかり家の実権を握った。お前が来た時はまだ小さかったワシの一人娘も、看護師になって徳山の病院に勤めよったが、もう嫁に行って元気な男の子を産んで、ワシはお爺ちゃんになってしもうた。今家で元気に働きよるのは、ワシとカカァの二人で毎日パンパンに忙しい」

 彼は兼業農家で、石灰岩を採掘する会社で働きながら、嫁の実家の分の農作業もこなしている。赤祢はその大変さを想像して、トーンが落ちた。しかし伊川はそれを当然のように引き受けて日々を暮らしているのだ。あっけらかんとした様子で語る伊川の口調に、それが唯一の救いのように感じた。

「……そりゃあ大変だなぁ」赤祢は実感を込めて漸く声に出した。

 それから高校時代の懐かしい話で少々盛り上がったところで、彼は切り出した。

「今度の五月連休にゃ。お前も色々と忙しいと思うが、皆待っちょるんじゃから、久しぶりに帰って来いよ。なんなら往復の新幹線代を出してもええで」

「なに言ってんだ。そんな(新幹線代)必要はないよ。スマン。帰省はマジで全然考えてなかったんだ」

 赤祢は少し驚いた。伊川がそれほど帰省を迫るとは思っていなかったのだ。それが嫌なわけではない。ただ、自分の両親は既に他界していて、実家も処分してしまったので、自然に足が遠のいてしまうのは仕方のないことだ。連休は予定があったわけではなかったが、帰省は考えてもいなかったので即答できなかった。家族と相談してみると言うと、伊川は更に踏み込んできた。

「ワシらも今年で五十(歳)じゃ、ええ機会じゃないかのぅ。折り入ってお前に相談事があるんじゃ。頼むから帰って来てくれんか。前みたいにウチに泊まりゃええが」

 伊川の声はまるで受話器から顔を出して、こちらの様子を窺う勢いであった。赤祢は、奴らしくないと感じた。そういう男ではなかったはずだ。どちらかというと飄々と他人や社会を醒めた目で見る皮肉屋だったはずだ。

「相談事ってなんだよ? 金ならないよ」赤祢が冗談めかして言うと、それは金ではないときっぱりと否定した。中身は実際に会ってからでないと話せないという。勿体つけているようではなさそうだが、何か重要なことのように感じた。

「お前を見込んでのことなんじゃ。頼む、帰って来てくれ! 」

「お前を見込んで……か」

 赤祢はこの言葉に弱かった。今まで何度となく違う人物からそう言われてきて、色々なことをしてきたものだ……。暫く考えて、彼は家族と相談してから折り返し連絡するということで、旧友との電話は終わった。時計に目をやると、一時間は話をしていて、受話器を持っていた右手と腕、首から肩が硬直して痛かった。多分奴も同じ痛みを感じているだろう。

 赤祢にとって伊川は、工業高校の電気科で一緒だった。男子校で殺風景な感じがしたが、伊川はいつも近くにいた。『赤祢のあ』と『伊川のい』で出席番号が近かった偶然かもしれない。どういうきっかけで友達になったのかは忘れてしまったが、すぐに仲良くなった気がする。彼の家は学校から自転車で一五分程の所にあったので、誘われるままに遊びに行ってみると、典型的な農家であった。彼の家族構成は、明るくて口やかましいお母さんと線が細くて優しいお父さん。それに御婆ちゃんに二歳下の妹がいる五人家族であった。それにインコが数羽と雑種の中型犬とチワワを飼っていて、飼ってはいないが時々飯を食いに来る野良猫がいた。

 自己紹介と挨拶をすると、すんなりと受け入れてくれた。お母さんは、顔は笑いながら自分の生まれや住んでいる町を聞き出して、「○○町の赤祢さんかね。あそこにゃこねぇな立派な子がおったかな。これからもうちのかっちゃんと仲良うしてやってちょうだい」と笑った。そのはりのある声に中々豪快な印象を持ったものだ。伊川が友達を連れてくるのは、非常に珍しいことらしい。


 赤祢はそんなことを思い出し、奴の相談事について考えてみたが、楽しい思い出を懐かしく思うばかりで、ニヤニヤするばかりだった。何しろ勝手知ったる地元で、相手は旧友なので、それほど重大なこととは思えなかったので、これからいったい何が起こるんだろうという、まるで冒険に繰り出すかのように胸がワクワクとした。これも久しぶりに味わう感情であった。又そう思えるほどに彼は五十を目前にしては健康で元気があり、老け込んではいなかった。

「あのぅ、ちょっとすみません…… 」

 赤祢は知らない間に居眠りをしていて、どこか遠いところから女の声がしたと感じて目が覚めた。ハッと目を開けると、隣に座っていた女性が立ってこちらを見ていた。手洗いに行きたいので、ちょっと通して欲しい様子がわかった。前の客がシートを倒していたので、通路が狭くなっていたのだ。

 赤祢はどうぞと立ち上がって道をあけると彼女は恐縮気味に、用が済んだら戻るので、座席のキープを頼んできた。彼が快諾すると彼女は笑顔で頭を下げて、前を通り過ぎて行った。その時にわずかな香水の良い香りを感じた。そういえば、見知らぬ女性が隣に長時間いるという経験も又、随分と久しぶりの経験であった。無意識にその香りを大きく吸い込んで、この女性はどんな用事で何処へ行くのだろうと思いながら座席についた。

 やがて右手にあの富士山が見え始めた。その雄大な山はまだ小さかったが、高速移動する車窓から刻々と大きくなって見えてくる。彼はこの風景を眺めるのを好んだ。天気は良いし、これは期待できそうだ。彼は思っていることがすぐに顔に出るタイプで、もうニヤニヤしながら注目していた。彼女が戻ってきて再び席を立っても彼はその山の変化から目をそらさなかった。

「……富士山が見えますよ。見といた方がいいですよ。やっぱでかいなぁ…… 」

「え? ああ富士山がお好きなんですね。良かったら座席変わりましょうか? 」

「いえいえ、いいんですよ。ここからで十分です……。うわぁ」

 赤祢は彼女の申し出に応えながらも目線は富士山に集中していた。自然に表情が輝き、声が漏れる。明るい視界になだらかな富士の稜線が見えて、その頂上には白い雪を美しく湛えている。まるで富士山の方が動いて、様々な角度で見せてくれているようだ。「雄大なり」彼は小さく呟いた。周りからもささやかな感嘆の声が聞こえてきて、自分が何か手柄でも立てたかのように、満足そうな顔になっていた。彼女もつられてその雄大なるを静かに見つめていた。このような美しい山は他に無い。彼はこの光景を見るたびに、心が澄みきるような感覚を覚えた。

「本当にきれいですね。なんか得した気分」

 彼女は富士に視線を向けたまま、独り言のように呟いた。新幹線独特のヒューンという音と単調な連続音の中で、多くの人々の時間が富士山を起点につながったような気がした。

「……富士山の名前の由来って知ってます? 」赤祢は彼女に尋ねた。丸顔で目鼻立ちがすっきりした彼女は、びっくりしたように振り返った。

「いいえ、知りませんけど…… 」

「今はそんなのスマホですぐに調べられますが、面白い話があるんですよ」

 赤祢はどうして新幹線で隣り合わせただけの女性に話しかけたのか、自分でもよくわからなかった。普段ではとても考えられないことなのに、一人旅の開放感で隣の見知らぬ女性に好奇心を持ったのか。それとも、(いつだったか忘れたが)木下社長から、聞いたこの話に感銘を受けて、いつか誰かに話してみようと思っていて、そのタイミングが今だったのか。彼女は赤祢の顔を見ても警戒感を持ってなさそうだった。年齢が離れていると思って安心したのか、これまた旅の一興と思ったのか、彼の話を聞くことにしたようだ。

「……実は、私も聞いた話なんですけどね。竹取物語を御存知ですか? 」

「かぐや姫のことですか? それなら知ってます」

「そうですそれです。なんでもそれは平安時代に出来た日本最古の物語だそうです。

 竹取の翁が光る竹を見つけて切ってみると中から女の子の赤ちゃんが出てきた。そのあまりの可愛さに、翁は連れて帰って育てようと決めた。それからというもの、光る竹を切ると中なら黄金が出てくるようになり、暮らしは豊かになっていった。

 女の子はわずか三カ月で成長してとても美しくなり、その評判は知れ渡って、かぐわしき姫=かぐや姫と呼ばれるようになった。その姿を一目見たいと多くの見物人が屋敷の周りを囲むようになった。そんなおり、五人の貴公子がプロポーズするも悉く失敗。ついには帝(天皇)がプロポーズに乗り出した。

 ところが、かぐや姫は今秋の十五夜に月へ帰らなくてはならないという。帝はそうはさせじと、姫の屋敷に兵二千を送り込んで警備させた。そして十五夜、月の使者が天から不思議の乗り物で降りてきて、兵たちの戦意を喪失させると、姫を連れて帰ったとさ…… 」

赤祢は日本人なら誰もが知っているお話を彼女に聞かせた。

「それは知っていますが、富士山出てきませんよね」

「はい。実はこの物語には続きがあるのです」

「(かぐや姫が)月へ帰ってお終いじゃないんですか? 」

「はい。なぜそれがあまり知られていないのかは謎ですが、続きがあるんです。

 実は、月の使者が来て、姫に天の衣を着させる前に……。この衣を着るとこれまでの記憶が書き換わってしまうそうで、そうなる前に、姫は帝に宛てた手紙と不死の薬を残したそうです。結局その後月へ帰ってしまうのですが、手紙と薬を受け取った帝は、もう姫に会えず涙にくれているというのに、不死の薬など何の役に立つというのか。と言い、大臣達を集め、この辺りで、天に最も近い山はどこかと尋ねた。ある大臣が駿河にある山だと答えたので、そこで不死の薬と手紙を焼いてくれと命じました。

 大臣は兵を大勢連れてその駿河の山に登り、命令通りに手紙と薬を燃やしたそうです。それでこの山は、士に富む山、富士山と呼ばれるようになったそうなんです」

 赤祢は話し終えると、彼女の反応を見た。あれ? と内心思った。彼女はそれほど感銘を受けた様子はなかったからだ。自分が木下社長からこれを聞いた時は、ひどく感動したというのに、彼女は「なるほど」という淡泊な顔をしていた。まるでパンダは白黒でモノトーンだねと聞いたくらいだ。

「すみません。つまらない話しちゃって」赤祢は急に恥ずかしくなって間を埋めた。

「いえいえ、面白かったですよ。でもこういうのって諸説ありますからねぇ。ちょっとスマホで検索してみていいですか? 」

「どうぞどうぞ。僕もそれ知りたいです」

 彼女はバッグからスマートフォンを取り出して、「富士山 由来」で検索すると、たくさんヒットした。その中から幾つかを読んでみると、不二山、不死山……などが出てきた。

「うーん、やっぱ色々ありますねぇ。あっ、竹取物語の説ありましたよ。作者は不明ながら紫式部が源氏物語の中で絶賛しているようです」

「本当ですか! 紫式部って、そんな昔なんですか」

 赤祢は彼女以上に驚いた。彼女は悪戯好きな猫っぽい顔でスマホを見せてくれた。赤祢は反射的に覗き込んだ。ヒビが入った画面には、その話を表示していた。赤祢はそれを見て少し安心した。一つは木下がまともなことを自分に教えてくれたのがわかったこと。もう一つは、それを誰かにちゃんと伝えることができたことだ。その色は彼女にも伝わった。

「でも不思議ですよね。こういうのスマホで調べるとたくさん出てきて、だけどだんだんどうでもいいわってなっちゃう。でも人から聞くと、多分忘れない」

「そうですね。人件費がかかってるから? 」

ここで彼女は笑った。赤祢も笑いスマートフォンを返した。

「これらの中の情報では、竹取物語の説が一番説得力ありますよ。それにしても千年以上も前の創作ですからね」

「ロマンがあるから真偽などはどうでもかまわない。そういうのはメガネをかけた連中が気が済むまでやればいい。ただ五百年でも千年先でも残って欲しい。僕はそう思います」

「そうですね。とても良い話だから、きっと残りますよ」

 そして赤祢と彼女は、ほんの数秒間見つめ合った。女はそれで相手をわかった気がして、そんな顔をする。男はそれで女に興味を持つ。富士山が通り過ぎて視界からなくなると、もうどうでもよくなってしまう。二人は、どこまで行くの? というところから話が始まる。彼女は京都で降りるとわかり、僕は小郡まで行くと伝え、新山口と訂正される。しかし赤祢にとってはどうも小郡の方がしっくりする。昭和の生まれだからねと笑った。彼女は見ていないふりで、彼の笑顔をしっかりと見ていた。理由は単純、気持ちが良いからだ。技術や時代がどんなに進歩しようが変わろうが、ここのところの面と向かったやりとりが一番楽しい。人によっては苦手だというが、そうでなければ人間の世界ではないではないか。そこに販売員がワゴンを押してきたので、コーヒーでも飲む? ときいてから、ホットコーヒーを二つ注文し、多めに入れてねと言って販売員を笑わせた。

 彼女は赤祢に興味を持って、色々と話しかけるようになっていた。周囲の迷惑にならないように声を落としているので、まるでピロートークのようだ。赤祢は好奇心が旺盛で性格が明るいので、初対面の人とでも話が弾むことが多く、おかげで京都までは退屈せずに済んだ。のぞみが京都に近づくと、彼女は名残惜しい様子で「それじゃぁ、また」と手を振った。赤祢は「日本は狭いさ」と笑って別れた。始めは暗そうな人だなと思っていたが、話してみると優しくて明るい人だとわかって良かったと思った。

 自由席なので席が空けば、立っていた人達はそこに座ろうとする。赤祢が隣に座ろうとしている人を見ると、真面目そうなスーツ姿の中年男だったので、窓際に移っていいですかと断って移動した。のぞみは定刻に京都に停車する前に整然と降りる人が列をつくり、立っていた人は軽い言葉を交わして自然に席が決まってしまう。残念だが京都から乗る人のための座席は殆ど無い。赤祢は、のぞみが京都を出たらトイレに行って、後はトンネルが多いから小郡までは寝て過ごそうと決めた。


 彼は漸くJR新山口駅のホームに降り立った。空気が埼玉とはまったく違うことに気がついた。長旅の疲れを背伸びと深呼吸でうっちゃり、軽やかな足取りで階段を降りて構内に出た。ゴミや汚れ一つない明るい空間に、乗客を迎えに来た人々の顔がずらりと見えた。彼らは改札から出てきた人全員に失礼のない柔らかな視線を注いで、目当ての人を見つけると、パッと笑顔を咲かせて手を振るのだ。「いやー久しぶりぃ」と小さく叫ぶ女性がいると思えば、顔をくちゃくちゃにしたおじいちゃんが、孫を抱き抱える光景もあった。赤祢のまったく知らない人々だが、そのシーンに思わず心が和んだ。

 赤祢を迎えに来たのは、黒のスウェットを着た強面の五十男だった。目が合うと「よう」と照れの混じった笑顔を見せた。赤祢もフッと笑顔になった。

「久しぶり。すっかり老けたな」と赤祢が言うと「まあの、お前もの」と伊川が応じた。髪の毛はどうした? とからかうと、それを言うないやと笑った。旧友とは不思議なもので、長い歳月が互いを隔てていても、会えばパッとわかって打ち解ける。

 車がある駐車場に歩いて向かう途中で、自販機から缶コーヒーを二本買い、一本を赤祢に投げた。彼はそれを片手で受け取りフタを開けて飲んだ。相変わらずぶっきらぼうな奴だなと思った。そんな飾り気のない男は赤祢に対面して、よう帰って来てくれたと芯から嬉しそうであった。

 二人は工業高校時代の同級生で卒業後、赤祢は都内の大手電機メーカーに就職して上京し、伊川は実家の農業を継いで地元の石灰石の砕石工場に就職した。それから約三十年が過ぎ、その間伊川の結婚式などで何度か再会したものの、最後に会ってからもう二十年が過ぎていた。

 伊川はさっきまで農作業してましたという風情で、汚れた軽トラックのドアを開けて乗り込んだ。赤祢もその助手席に座るとおもむろに発車した。その後は意外に丁寧な運転で、懐かしい話で笑いあった。伊川の家がある町に向かった。赤祢は五月の山の緑、川の流れ、こじんまりした街並みを珍しい絵でも眺めるように目を細めていた。

「これからどうするんか。墓参りとかするんじゃろ? 」

「そうだな。長い間帰らんかったから、今日は挨拶がてら叱られてくるよ」

 赤祢は自嘲気味に笑った。

「それじゃったら、車貸すから自由に使うてくれ」

「そうか、すまんな。多分二三日は、ウチの挨拶まわりに忙殺されることになる。もう電話で連絡してるから、お前んとこに世話になるのはそれからだな」

「そりゃあええで。家での歓迎はそれからじゃ、遅うても前日には電話してくれの。こっちも準備があるからのぅ」

「うん。わかった。有難う」

「いやいや、わしらもお前が来るのを待っちょるからの。とりあえずはわしの家じゃ」

 伊川は昔から自分のことを『わし』と言っていた。若い頃はそれが面白かったが、今ではそれなりの風格を感じる。家につくと、お母さんが家の前で待っていた。赤祢の姿を見ると満面の笑顔で迎えてくれた。

「まぁ~、赤祢君かね。よう帰って来たっちゃね。あんた全然変わっちょらんわ」

「そんなわけないでしょ。どうも、御無沙汰してました。お久しぶりです。すっかり御婆ちゃんになっちゃって。でもお元気そうで、僕にとってはお母さんです」

「そりゃあ、赤祢君が来るんじゃから元気が出たいね。ささ中へ入り、お茶でも出しましょう」

「赤祢はこれから、挨拶回りとかあるけぇ、今日は長居できんで」伊川は赤祢の顔を食い入るように見つめて喜んでいる母に伝えた。

 赤祢はお邪魔しますと言って、かつて自分も過ごした伊川の家に入った。匂いも雰囲気も懐かしく、中は驚くほど変わっていなかった。ただ二十年という時の膜が層のように重なって全てが古びて褪せた感じがする。玄関で靴を脱いで上がり、右手に妹の部屋、左手に客間と縁側があり、そこを通り抜けた奥の右側が十畳ほどの板の間で、伊川家の人々が寛ぐ居間になっている。リフォームもしておらず、ただ風化を感じさせた。奥の座敷で陽が入ってこないので、いつも蛍光灯がついているのも懐かしい。

「御無沙汰してます。いやぁ懐かしいな~ 」と赤祢は真ん中の掘り炬燵式のテーブルについた。その位置は居候として座っていた位置だ。

「赤祢君が帰って来たら、何も変わっちょらんて言うじゃろうね。て昨日も皆で言いよったんよ。赤祢君が東京に出てから、この家はなんも変わっちょらんのよ」

「そのようですね。二十年前にお邪魔した時もそうでした。でもまぁ、テレビが液晶で地デジになってるし、時代の流れには沿っていますね」

 赤祢は部屋を見回しながら言った。伊川はタバコに火をつけて、家に存在している赤祢に目を細めていた。「そのレーザーディスクはまだ動くで」とびっくりさせた。そこへ伊川の嫁の美佐子がコーヒーを持ってきた。彼女にも二十年ぶりの挨拶をした。

「おう、これはこれは、美佐子さんお久しぶり。いやぁ全然変わってないとはこのことだ。お元気そうでなによりです。これ、お土産です」

「こちらこそご無沙汰しております。ほんにお元気そうで、いややわぁ、もうからかわんといて下さい」

 美佐子も気さくに挨拶を交わして笑顔を見せてくれたが、目を合わせたのはほんの一瞬で、後は殆ど伏目がちだったことに赤祢は少し違和感を持った。それでも四歳年下の四十五歳で孫がいるようには全く見えなかった。化粧は若く見せようなどというあざといものではなく、ほんのりとした感じのメイクは好印象だった。そんな彼女が高校を卒業してすぐにこの武骨で愛想のない伊川と結婚したのが不思議に思ったものだ。

 美佐子を加えてしばし談笑した赤祢は、仏壇に手を合わせて御婆ちゃんを偲び、手土産を置いて伊川の軽自動車で家を出た。


第十二章


 赤祢が墓参りと挨拶回りをきちんと済ませ、伊川の家に戻ったのは三日後のことだった。この日は伊川の家で歓迎してくれるという。おそらくここで例の相談事を話してくるのだろうと思っていた。

 赤祢が伊川家の居間に顔を出すと、先ずはお風呂に入りと言われ、風呂から上がると、病院に行っていたお父さんと、嫁いでいた妹のユキが加わっていた。それぞれ二十年の歳月がどのように作用しているかを見るのは、ある意味怖さがあるが、楽しみでもある。それでもお父さんは病気で痩せていたが、赤祢の顔を見て元気を取り戻してくれたようだ。ユキの方も、温泉旅館の逞しい女将の様な歳のとり方をしていた。赤祢を見て何か一安心した様子だった。伊川が風呂から上がり、お母さんと嫁の美佐子が料理の支度を始めた。

 先ずはビールで乾杯し、料理は焼肉で、地元で『とんちゃん』というニンニクのきいたたれにつけたホルモン焼きとサラダであった。それは赤祢が高校時代に好んだものだった。

 それらを囲んで、それぞれが赤祢の思い出話をするたびに盛り上がる。彼はそれだけの足跡を伊川家に残していた。高校時代、伊川は硬式野球部で、ポジションはレフト。打順は主に七番だった。強肩で守備は上手いが、変化球がさっぱり打てない。速球もバットに当たらない。真ん中に来た緩いストレートをかっ飛ばす選手で、試合で絶好球を投げる投手はそうそういないから、打順は七番だった。しかし他の選手もバッティングは似たり寄ったりだったので、チームとしては万年弱く、県の大会や甲子園予選では専ら一回戦で敗退していたが、彼は純粋に野球が大好きで練習も試合も楽しんでいた。今は仲間とチームを組んでソフトボールを楽しんでいるという。

 一方の赤祢は、友達四人でロックバンドを結成し、ボーカルとサイドギターを担当していた。洋楽のコピーを主にやっていて、それなりに受けも良かったが、プロになる気などさらさらなく、夏のアブラゼミの様なものだと皆を笑わせた。

 お母さんは、赤祢が初めて家に泊まることになって、風呂に入った時に五右衛門風呂を知らず、湯に浮いていた板をフタだと思ってそれを取って入り、足の裏がぶち熱かったと言った顔が忘れられないと言った。そして、伊川家の皆さんはホントに我慢強いですねと言うたから、ウチは、あの板は、底に沈めて足を乗せるんじゃよと教えてあげた。あれは傑作じゃった。赤祢も五右衛門風呂初体験を思い出して笑った。それには後日談があって、数カ月の後に、学校で伊川はノートに風呂場のスケッチをして、タイルの色は何がええか聞いてきたので、ピンクとかブルーが良いと言ったら、次に泊まりに行った時には、風呂場がすっかり改装されていて、タイルの色がそのまんまだったことにびっくりしたと語った。お母さんは、あれは改装するええタイミングじゃったと、又笑いをとった。そこにユキが、あれはホント嬉しかったと重ねた。

 ユキは赤祢が遊びに来た時、コーヒーをつくって出したが、お砂糖を幾つ入れるかを聞くために「おいくつですか? 」と聞いたら、十七ですと答えた。誰も歳なんか聞いてないっちゅうの! と笑った。あの頃、コーヒーといえばインスタントしか知らんかったから、クリープと砂糖は入れるもんだって思いこんじょった。テレビのドラマでも、コーヒーに砂糖を入れる時は「おいくつですか? 」と普通に聞きよったもんじゃから、真似してみたら、十七って言われてびっくりしたっちゃ、そんで砂糖はいらんちゅうてそのまま飲んで、これインスタントじゃねぇか!って言われて、「優ちゃん味わかるんや。凄い」て思うた。それからお母さんにコーヒーメーカーを買うてもろうたっちゃ。今でこそドリップコーヒーは当たり前じゃけど、あの頃は珍しかったもん。多分優ちゃんはええとこの子なんじゃってみんなで言いよったいね……。

 三十年も前の日本では、きっとそこかしこであったであろう他愛のないエピソードを事件として笑い話にする文化が、ここにはあるのだろう。ユキはまだ黙らなかった。当時は中学三年で、赤祢のバンド『ショックス』が好きで、ライブをやると噂で聞けば英子ちゅう同級生と観に行っていたそうで、その英子ちゃんが優ちゃんにサイン貰いに行った時、名前を聞かれて『英子』と答えたら、アルファベットのAで『A子ちゃん江』と書き、恥ずかしがらず本名でイイじゃんて言うたんやて、本名じゃっちゅうの。

 これらの話は、彼女のネタになっているようで、非常にスムーズに聞くことが出来、ちゃんと落ちの様なものがあって笑いやすかった。当人の赤祢はすっかり忘れていたが、当時の自分はもう全然別人で、まるで天然キャラのような感じがした。

 料理は好物が並び、ビールや酒は飲み放題、話は若かりし自分の事件、場は盛り上がって皆の笑い声がもう一つの調味料となり、掛け値なしの楽しい宴だ。一体全体、伊川家の人々は、どうして昔から自分をこんなにも受け入れてくれるのか不思議だ。

 話は徐々に赤祢が工業高校を卒業して上京した後のことに移った。お母さんは遠い方に目をやり、かっちゃん(伊川)は無口な方じゃけぇね、なんか歯が抜けてしもうたみたいに物足らんようになったね。つまりピエロがいなくなったと。赤祢が自嘲を込めて言うと、そうじゃない。とユキが否定した。

「この歳になって、いや、なったから言えるんじゃけど、優ちゃんがおらんごとなったら、いきなり寂しゅうなったんよ。盆にゃ帰って来ると思うちょっても帰って来ん、正月にゃ会えるじゃろうと思うちょったら、全然音沙汰無し。やっと会えたんが四年後のかっちゃんの結婚式じゃ。仕事でアメリカ行っちょったて、たまげたわ。それでもどこかでやっぱりねと納得した。あの時は夏で、祭りがあったじゃろ? 」

 ユキは妙に真剣になってわざわざ赤祢の目を覗き込んだ。

「ああ、夏祭りね、覚えてるよ」

「あの時、カラオケ大会でウチが浴衣着て、『恋に落ちて』をホント気持ち込めて優ちゃんに向けて歌うたんよ。わかった? 」

「いや。全然」

「そうじゃろうねぇ。優ちゃんは何故か近所の娘と金魚すくいしよった。それからかっちゃんと結婚前のどんちゃん騒ぎに行ったよね」

「そうだけど。なんか、怒ってんの? 」

「……もう今じゃから言えることじゃけど、あの頃ユキちゃんは短大生で、優ちゃんのことが好きじゃったそいね」お母さんが口添えをした。ユキはまだ真剣な目で赤祢を見つめていた。

「僕もユキちゃんのことは、可愛くてやんちゃな妹だと思っていて好きだったよ。だけどそんな特別に意識することはなかったな」

 赤祢は内心、そんな昔のことを今言われてもと困っていた。

「ウチもね、あの当時そういうことなら、赤祢君にユキちゃんを御願いしてみようかと思うたんじゃけど、赤祢君の行く道を邪魔しちゃいけんような気がしてね。ま、結局皆落ち着くとこに落ち着いたし、今となってはあれで良かったんじゃろうと思う…… 」

 お母さんはここで妙な間をあけた。赤祢は何か言わなきゃいけないと思い、伊川の結婚式の思い出を語った。その豪華さと花嫁が若くて美しかったこと、まるで美女と野獣だと評して、再び場を盛り上げて嫁の美佐子の頬を赤くさせた。伊川はビールを飲み、タバコをふかしながら、上機嫌で話を聞いて目を細めていた。ただ放つ言葉は鋭く、サッとまとめてしまう力があるようだ。お父さんはニコニコ笑いながら、「ああそうじゃね」と言っていた。この家族は女性陣が圧倒的な様だ。

 赤祢は、その後の自分のことを話した。二六歳で結婚し、息子と娘が生まれて、息子は大学を出て独立し、娘は今年大学受験を控えていると話したが、それについては伊川家の人々はあまり興味を持っていない様子であった。嫁さんてどんな人? 写真見せてよとか色々聞かれるかと思っていたのだが、ああ、それかね。くらいのもので少し拍子抜けした。彼らは自分にしか興味が無いということか……。

 皆が楽しく食べて飲んで腹がいっぱいになったところで、宴は自然にお開きになっていった。お父さんは、笑顔で赤祢に帰ってきて有難うと言い残して風呂に入った。ユキは、「優ちゃん久しぶりやったけど、やっぱ面白いっちゃ」と満足した様だった。美佐子は甲斐甲斐しく酌や片づけをこなしながら、赤祢に笑顔を向けていたが、目が合うとすぐに下を向いた。伊川は「優人。ちょっと話があるけぇ、奥の間で飲み直そうで」と誘った。


 伊川家の奥の間には大きな仏壇があり、その上に代々の当主の写真が大きな額縁に入って並んでいた。畳と襖絵は新しく和式の長テーブルは、それなりの高級感がある。伊川はやれやれと言いつつ、赤祢に座布団を渡して上座に着いた。その姿は堂々としていて、当主としての威厳のようなものを感じた。赤祢もそれに応じて座布団を敷いて座についた。

 そこへ美佐子が酒の入った御銚子とつまみを盆にのせて入ってきた。この静かな空間を損なうことの無いように、細心の注意を払っているように見えた。やはり相談事というのは非常に重要なことのようだ。赤祢は内心でそう感じた。

 美佐子が襖を静かに閉じて去ると、伊川は無表情で御銚子を取って赤祢に向けた。赤祢は猪口を取ってそれを受けた。赤祢も同じように御銚子を取って伊川に向ける。さっきまで賑やかだった家が急にしんとなって時間の流れが遅くなったように感じられた。

「……まずは、お互い元気で会えて良かったの」

「全くだな。実際二十年は長いもんだ。人がおぎゃあと生まれて大人になるんだからな。お互い色々あったが、病気や事故、近頃では災害で大きな苦難に出くわさずに済んだのはなによりだ。

そしてお前が言うように、こうして元気で再会できたことは良かったよ。俺も向こうで会社は変わったが、結婚して子供を育て、今は仕事に打ち込んで充実している」

「ははは、そりゃあええことじゃ。家の者とも会うて皆喜んじょろうが。お前が来ると知って待っちょったそがようわかったろう」

「うん、わかった。だけど皆俺をいじって遊び過ぎだぜ。まぁそれでも元気で良かったよ」

「元気? ああ、お前に会うたことで元気が出たんじゃろう。いつもは本当に静かなもんじゃで。お前と話すと面白いからのぅ」

「そうかな」

「間違いないの……。正直わしはお前の目を久しぶりに見て安心したんじゃ、歳をとったが全然老け込んじょらん。何かでかいことを考えちょるやろう。そういう目じゃ」

「いやいや、別にそんなことはないよ。俺は埼玉で普通に暮らしている」

「まぁ、仕事に打ち込んじょるのはわかるけどの。お前が東京に出てからわしも色々な奴に出会うてきた……。じゃけどお前みたいに目立って周りに影響を与える奴は見たことがないんじゃ。人はの、長う生きるほどにえらい(辛い)目に遭うんじゃ。そりゃえらいばっかりじゃ生きていけんから、ちょっとは嬉しいこともあるけえど、全体的に見ればえらいことの方が多いんじゃ、それに溺れた奴はの、目が濁るんじゃ。腐った魚の目みたいになるんじゃ。ところがお前はどうじゃ、五十になろうかちゅうのに目が生き生きしちょる。わしは正直たまげたんじゃ。こらどういうことなんかとな」

「おいおい、そんな(俺を)持ち上げてどうすんんだよ」

「わしは人を持ち上げるようなことはせん。わしは実際そういうつまらん人間をようけ見て来たんじゃ。じゃけどの、目が生き生きとしちょる奴にも会うて来た。ちょっと話をしてみたら、そりゃ清々しいもんじゃ。こういう連中が実際大きな仕事を任されるんじゃろうと思うたもんじゃ」

「そうだな。お前の言う通り、辛い目には俺も散々あったよ。だけど、逃げたりせずにできる限り乗り越えてきたつもりだ。それがそんな風に見えるだけさ」

「なあ優人、正直今わしに会うて、どねぇ思うたか? 」

「……髪の毛が全然無くなった」

「それを言うなっちゃ」

「まあまあ、そうだな、色々と堪えてるって感じかな。疲れてるようにみえる」

「そうじゃ! わしは工場で三交代で働いて、その合間に家とカカァの実家の農作業をしよる。これが結構えらいんじゃ。若い頃は問題なかったが、最近は特にこたえる。毎年毎年同じことの繰り返し、じゃけど逃げるわけにはいかんのじゃ。逃げたら直ぐ破産して、じじぃ、ばばぁにカカァも大した働きは出来んから共倒れじゃ。そねぇ金持ちじゃないけぇの。もうわしは大きな病気も怪我もするわけにいかんのじゃ。死ぬまで仕事でパンパンで働かんにゃならんそ」

 伊川が話し終えた後、重い静寂がのしかかった。暫く言葉が出てこなかった。普段は無口な男が、こんなふうに絞り出すように自分の苦境をぶちまけてくるとは思ってもいなかった。それだけに迫力がある。自分などには想像も出来ない過酷な労働と責任の一切を引き受けて、この友人は日々を生きている。その辛い現実を理解すると、目の前の男が途轍もなく偉大に見えた。

「……よく話してくれたな。そんなこと俺は思い至らなかったよ。考えてみたら当然だよな。高校生の頃は、お前は一生懸命野球に打ち込んでいた。俺もピエロみたいに皆を楽しませながら随分世話になったもんだ。あの頃は気楽で楽しかったよな。

 それもお父さんやお母さんが働きながら農作業をして家計を支えていたからなんだな。でも、徐々に働き手が減っていって今じゃお前一人に責任がのしかかってるんだな。それだけじゃない、奥さんの実家の面倒まで見ていたとは……。お前は凄いよ。さぞ辛いだろうな。それを、誰に何を言うわけでもなく、黙々とこなしてよ…… 」

 赤祢は涙を溢して、声が裏返った。それでも構わず絞るように語った。友の苦しい現状と悲壮なまでの覚悟を持って働いている姿を真に理解して、その心の内に寄り添うために絶対に言葉にして伝えねばならない言霊だった。赤祢は泣いた。過去の日々が美しいだけに、そのギャップの残酷さに久しぶりに泣けた。それは伊川に確かに伝わった。彼の両目からも涙が流れていた。くうと堪えきれずに漏れた声は、その嗚咽が魂に響く。二人はもう堪えるのをやめて泣き放題となった。

「……さすが優人じゃ、ようわかってくれた。わしは嬉しいで……。今までこねぇな泣き言みたいなことは誰にも言うたことはないんじゃ……。友達ちゅうのはええもんじゃのう」

 やがて二人は、黙って味わいのある照れの混じった顔で杯を酌み交わした。気持ちの昂ぶりが静かに治まって、再び時が息を吹き返したような気がした。

「わしも正直、高校の頃が一番楽しかった……。お前のおかげじゃ、お前がおらんかったら、赤点ばっかりでとても卒業できんかった…… 」

「……その話かよ。お前は別に頭が悪かったわけじゃない。野球ばっかりやってて、勉強をほったらかしてただけだったんだよ。その証拠に引退した後は真剣に勉強して、赤点なくなったじゃないか」

「それいや。お前と今井が作ってくれた試験対策プリントはわかりやすかった。おかげでみんな就職も決まって卒業もできたんじゃ」

「おうおう、今井か懐かしいな。あいつ頭は良かったが、性格が暗かった。でもガンダムが好きで趣味が合ってね。それでみんなの為にあれ(試験対策プリント)を作った。それでみんな人生大逆転だ。先生らもびっくりしてたな」

「その今井は今何しよるか知っちょるか? 」

「いや、知らん。確か大手のコンピューターメーカーに入ったろ? 」

「おう。じゃけど五年くらいで辞めて、実家に戻って今じゃわしと同じ百姓じゃ」

「え? えー! あいついつも成績一番だったのにさ~ 。わかんないもんだね」

 赤祢は本気で驚いた。今井は成績がいつも学年トップだったが、性格が陰気ととられて、クラスの中では浮いた存在のようだった。しかし成績が良いのでクラス委員長になることが多かった。やがて赤祢が台頭してきて一緒に学校行事を担当するようになった。話をしてみると、陰気なのではなく、大人しくて他人への気遣いが過ぎて言葉が少ないだけだった。運動の一切を放棄し、趣味はアニメ鑑賞で、アニメの話題になると急に饒舌になった。赤祢は『ミンキー』何とかの美少女アニメは駄目だったが、『機動戦士ガンダム』の話は面白いと思った。彼は異常に詳しく、喜んで熱く語った。当時赤祢は青春の実践に忙しく、大人しくテレビの前に座ってアニメを見ている暇はなかった。仲間とギターを弾いて歌って叫んで、女の子を魅了することの方が大切だった。

 赤祢は俄然今井に興味を持ち、『機動戦士ガンダム』の話に付き合った。当時ビデオはまだ高価で、テレビ放送を真剣に見て記憶し、アニメ雑誌を読んで理解を深めるしかないのに、今井は非常に詳しく語ってくれた。おかげで実際見てはいないけど、まるで見た気がしたものだ。

 高校生にしては小太りで、髪型はマンガみたいな七三分け、ふっくらした顔に大きな目と団子鼻があり、ニキビ面に赤ら顔。それが今井の印象だった。二人はすっかり意気投合して「卒業前に何かやってやろうぜ」と赤祢が呼び掛けて今井が鼻息荒く応じた。彼も何か足跡を残したかったという。 それから二人で試験対策プリントを作成に取組んだ。それは予想問題集と解説のレベルではなく、赤祢が各教科の教諭に掛け合って理解を得て、出題する方からの意図を聞き出してそれを盛り込んだ。手書きのガリ版印刷の粗末なものであったが、皆喜んでくれた。結果は各教科平均点が十点以上上がり、落第者はゼロと上々だった。担任は驚いて、「なんでもっと早くこれをやらなかった」と唸った。赤祢と今井はこの上ない達成感を味わったものだ。

 そんな今井は、大手コンピューターメーカーに就職して上京したが、わずか五年で辞めたというのは、赤祢にとってショックだった。何があったか知らないが彼の能力を考えると非常に残念なことだ。赤祢が今井について想いを巡らせて黙っていると、伊川が引き戻す様に口を開いた。

「今井みたいに都会に出てから戻って来る奴は、実際ようけおるんじゃ。ただ帰って来るのはええ方で、心も体も擦り減らした奴もおっての、それが噂に聞こえてくるもんじゃ。ところがお前は全然帰って来んどころか寄り付きもせんかった…… 」

「俺は一人っ子で、守る田畑もなかったからね。親のことは心配だったけど、もう亡くなって、家も土地も処分したら疎遠になるのは仕方がないだろう」赤祢は碌に親孝行が出来なかったことを弁解するように言った。

「まあの、それはそれで仕方がないことじゃ。話がちいと逸れたのぅ。わしはまだ相談事を言うちょらん…… 」

「おお、そうだったな。で、相談事ってなんだよ? 」

「そねぇ迫られると言い難いんじゃが、それはこの家に関係する重要なことなんじゃ」

 伊川の顔が真剣味を帯び、吸っていたタバコを揉み消して杯をあおった。赤祢はわずかに姿勢を正した。

「それは、この家には跡取りがおらんということじゃ。わしは二十二で結婚したが、結局子は一人しかできんかった。それが娘で、今時婿養子を条件にしたら結婚できんで娘に恨まれるけぇ、好いた人が出来たら嫁に出したんじゃ。それで初孫ができたが、時々顔を見せに来るが、そりゃもう可愛いもんじゃ。そりゃええんじゃが娘の旦那の実家が熊本での、例の熊本地震で実家がえらい目におうての、近々娘も孫も連れて熊本の実家に帰るそうじゃ…… 」

 伊川はここで言葉を切った。おそらく寂しいという言葉を呑み込んだのだろう。

「……今はわしが元気でおるからええんじゃが、わしが死んだ後はこの家も田畑もなくなってしまうんじゃ。上の写真を見てくれ、大した家でもないんじゃが御先祖のおかげでわしらがおるんじゃ。若い頃はそんなことは、どねえかなるじゃろうと軽く考えちょった。ちゅうより深く考えもせんかった。じゃが、それはもう取り返しのつかん間違いじゃった。このままじゃったら、この家は消滅してしまうんじゃ…… 」

 伊川が言葉を切った後、長く重い時間が部屋を支配した。赤祢は何と言っていいかわからなかった。まさか伊川が跡取りの問題で頭を悩ませているとは思いもしなかった。新聞で読んだ超高齢化、限界集落という言葉の先の残酷な現実が頭を巡る。月並みで不用意な言葉などかけるべきではない。すぐに見透かされてしまう。

「……そうだな……何て言っていいのかわかんないけど、俺の場合結婚して息子と娘を持ったけど、息子ができたから家が続くということは考えなかったな。勿論お前と俺とでは背負っているものが全然違うけどね。これはプライバシーの問題だけど、奥さんと子供を作ろうと努力はしたんだよな」

「色々と試したんじゃが駄目じゃった。こういうことは焦れば焦るほどできんもんじゃ。若い頃は自然に出来ただけにのう…… 」伊川は神妙な顔で答えた。

「そうか、確かに年取るとそういうのが億劫になるよな。わかるよ」

「お前はどねえか? 奥さんとはやりよるか? 」

 伊川は遠慮のないプライヴェートな質問をぶつけてきた。普通なら単なる猥談としてはぐらかすところだが、こう真剣に訊かれては正直に答えるほかない。

「俺も最近はとんとご無沙汰だなぁ」

「そうか。でも最後にしたんはいつか? 」

「……えーと、今年の一月かな。姫始めということでね…… 」

「お前まだできるんか」

「できるわ! まだ四十九やぞ。お前まさか…… 」

「……そうじゃ、わしはもう全然立たんようになってしもうた…… 」

「それは医者に診てもらった方がいい。まだそんな歳じゃないはずだ。今じゃカウンセリングとか良い薬あるからさ」

「そうじゃのう。わしも医者に診てもろうたいや。多分前立腺の機能が弱ってきているらしい。薬も飲んでみたけど、うまくいかんから、多分精神的なもんもあるらしい。で、怒らんでくれよ。お前浮気したことがあるか? 」

「あるわけないだろ」

「なんでか? そういう相手がおらんのか? 」

「何を言い出すんだ急に」

「そう言わずに教えてくれよ…… 」

 なぜか伊川は真剣に浮気をしない理由を聞きたがった。それは予想もしなかったものだった。しかし伊川がそれなりの告白をした以上、自分もはぐらかすわけにはいかない。

「そうだな……。浮気をしない理由か……。若い頃は色々あったけど、結婚して家庭を持ったら、他の女とどうこうするのがもう面倒くさくなったんだ。仕事が忙しくてそんな暇もないんだ。それにカミさんに隠れてこそこそする浮気する自分が嫌いなんだろうな。自分に嘘をつけないし、性格的にすぐばれるしな。それに今となってはあんまり興味が薄れたんだ。体力的にもアレはきついんだ」

 伊川は赤祢の話を注意深く聞いていた。それが赤祢には意外に映った。そして伊川にしては言葉を選ぶように口を開いた。

「つまりお前は、エッチなことはできるが他の女と浮気するよりカミさんと家庭が大事っちゅうことじゃ。ええことじゃのう……。じゃけど、お前は随分モテよった。わしは知っちょるで…… 」

「昔のことはいいんだよ。もし昔の俺が目の前にいたら、懇々と説教してやりたいよ」

 それを聞いた伊川は笑った。若い頃の赤祢を知っているだけに、説教してやるという五十手前の赤祢が面白いのだろう。しかしそんなことを笑ったところで、伊川の跡取り問題は少しも前進はしない。

「そこでじゃ優人。本当に申し訳ないんじゃが、わしのカカァを孕ませてやってくれんか」

伊川の言葉は衝撃的で、赤祢は彼の顔をまともに見なおした。

「おい、そりゃ一体なんの冗談だ。笑えんぞ」

「いや。冗談なんかじゃないけぇ。家の存続がかかった真剣なもんじゃけぇの。わしはもう駄目じゃから、どうするか家族で話し合うたんじゃ、それで、お前にわしの代わりをしてもらえんじゃろうかとなったんじゃ。頼む、この通りじゃ! 」

 伊川の声は切羽詰まったもので、やおら座布団から身を引いて両手をつけると額を畳に付けた。この展開に、赤祢は今年に入って一番驚いた。伊川の苦境は理解出来る。しかしそれで自分が彼の嫁さんを妊娠させるという。論理の飛躍が大き過ぎた。伊川はこの姿勢で固まり、赤祢の返答を待っている。それを見降ろすのは気持ちの良いものではない。

「おいおい伊川、話はわかったから頭上げろよ」

「引き受けてくれるんか? 」

「そんなわけないだろ! 何を考えてんだ! 」

 伊川は仔犬のような上目遣いで赤祢を見たが、赤祢の一喝で再び尤もじゃと言い額を畳に擦りつけた。

「お前の気持ちはようわかる。わしも必死なんじゃ。全部わしが至らんかった! じゃがそれで跡取りなく家が滅ぶのはどうねぇなことをしても避けんといけんのじゃ!

 頼むから聞いてくれ! 今わしは病気も怪我も許されんとパンパンで、しかも先を見たら後十年もすりゃあ定年で、跡取りもおらんで稼ぎ手がおらんごとなる絶望しかない状態なんじゃ。けどの、ここでもしカカァが孕んてくれたら、希望が出るんじゃ。それで後二十年は頑張れる気力が出るんじゃ。二十年後は七十じゃ、歳からしたらもうギリギリじゃ。

 そこでその子に家を継いでもろうたら、もうわしは何も思い残すことはない。今は七十でも元気に働きよう人がようけおるから、多分わしもできると思う。じゃけど子がおるとおらんじゃ全然違うけぇ。子は鎹とはよう言うたもんでの、子宝ちゅうのは本当じゃと思う。必ず大事に育てるけぇ、わしの頼みをきいてくれ! いや、御礼は何でもするから何卒きいて下さい! 」

伊川は土下座の状態のままで淀み無く言い切った。伊川のこんな姿と涙ながらに訴える姿を、初めて見た。これによって赤祢は、この突拍子もない相談事を真面目に考えてみる気になった。

「まぁまぁ、頭を上げてくれよ」

「引き受けてくれるんか? 」

「お前の真剣さはわかったから、話を聞くから先ずは頭を上げなって」

 伊川は漸く頭を上げてくれた。又同じ展開だけは避けないと赤祢も酔っているので笑ってしまいそうな空気だ。

「お前の悲壮な気持ちはよくわかる。俺も力になりたいと思うよ。確かに子供がいれば希望も出るし力も湧くだろう。だけどそれはあまりに突飛過ぎるぜ。この家の跡取りは、お前の子じゃないと駄目だろう。今は人工授精技術とかあるから、そっちの方向で行こうよ」

「やっぱりのぅ。さすがは優人じゃ。押しの一辺倒じゃ駄目じゃのう。これだけは言いとうはなかったが、もうここまできたら聞いてもらおう。実はの、娘は無事に生まれたが、その後で実は男の子ができたんじゃ…… 」

 赤祢は驚いた。伊川待望の男子が生まれていたことは知らなかった。

「……じゃけど、生まれつき心臓に欠陥があっての、色々手を尽くしたんじゃが二週間くらいで死んでしもうたんじゃ。その時はショックでのう。わしもカカァもさすがに寝込んだよ。仏壇に小さい位牌があるじゃろう。それがあの子のもんじゃ。以来、子は欲しいんじゃが、あの事が頭から離れんでのう。医者に精子を調べてもろうたら、なんや弱々しいらしい。でもカカァの方は正常らしいんじゃ…… 」

 伊川は肩を落として力なく、出来ることなら黙っていたかった話をしてくれた。これで赤祢の人工授精案は否定されたようなものだ。もう伊川は出来る手を尽くしている。子供は授かりものと言うが、自分のケースを振り返るとやはり本当だなと実感する。妻が妊娠して、順調に胎内で育ち、無事に出産、五体満足な姿。親はその経過を見守り無事を祈るしかない。自分の子供に生まれつき致命的な欠陥があったらその心労はいかばかりか、想像しただけで、断崖絶壁に突き出されたような悪寒が走る。赤祢は伊川の突飛な願いを次第に理解できるようになった。

「……そうだったのか。気の毒にな……。話が突飛な理由がわかったよ。でもさ、何も俺じゃなくてもいいだろう。できれば他をあたってくれないかな」

 赤祢は事情がわかっただけに、本音を言った。その時伊川の顔つきが少し変わる。

「優人。これはよう聞いてくれ。わしら家族で真剣に何度も話し合うたんじゃ。それで一番迷惑がかかって責任も大きいのはカカァなんじゃ。

 相手は誰でもええわけじゃあないで、わしが日頃仲がええ近所の友達は論外じゃ、すぐ噂になるけぇの。わかるじゃろ。これも言いとうはなかったけど言うで。実はカカァの気持ちなんじゃ。カカァは家のことを全部わかって、どうしてもというんなら、お前じゃと言うたんじゃ。わしもばばぁもじじぃもみんなお前を見込んじょるんじゃ」

 赤祢はそれで、美佐子が妙によそよそしいわけがわかった。今思えば、伊川家の皆がそういうつもりでいたわけだ。彼女が自分を見込んで選んだというのは、赤祢を複雑に喜ばせた。美佐子が伊川家の者として、先に思い切った決断をしたと思うと、もう赤祢が決断をしないのは、何かいけないことのような気がしてきた。しかし浮気という罪悪感が赤祢を逡巡させていた。そこに伊川が、これは浮気などではない。わしらの家の跡取りを作ってもらうために協力をするという大義があるんじゃ。と言った。伊川が大義と言うとは驚きで、それによって未来の伊川家建設に陰ながら自分が力になることが具体的にイメージできた。

 赤祢はここまでの考えに到達して、伊川の相談事に応じることにした。伊川は再び涙を流し、これでわしも家族も希望が湧くと泣いた。有難うと何度も礼を言われた。それでも、自分の遺伝子を持つ子供がこの家を継ぐために生まれてくる以上、幾つかのことを確認しておきたかった。漸く落ち着きを取り戻した伊川は、赤祢の話を真面目に聞いて議論した。結果伊川家跡取り対策は、次の様にまとまった。

一、絶対秘密にすること。二、美佐子が妊娠するまで毎年性交すること。三、第一子が男の場合これで終了。女だった場合、出産後も継続する。四、二人目も女の場合、それまでとする(婿養子案を検討)。五、親権は伊川家にあり、実子として大切に育てること。六、必ず農業大学まで行かせ、伊川家の発展に従事させること。

 二人は合意して紙にボールペンで同じものを二通書き、日付と署名を入れて二人で分けた。ここに伊川家跡取り対策の約定が成立した。赤祢も伊川も清々しい笑顔で、乾杯して笑い合った。これで伊川家に淡く小さな希望が灯った。外を見れば、白々と明るくなっていた。この小さな古い家も荒れた小さな庭も、暗闇が薄れて姿が徐々に露わになり、存在が確定したような気がした。勿論この先どうなるのか誰にもわからない。二人の思い描く未来がやって来る保証はどこにもない。しかし、二人は絶望しかないという未来に抗うと決めた。それは、目には見えない細い糸を手繰り寄せるようなものだ。しかし、二人の意志が固いことを確認できたことは大きい。

二人は立ち上がって縁側に出て、外の景色を眺めた。

「ああ、気分がええのう」

「そうだな」

「実はもう一つついでの頼みがあるんじゃ」

「ついでってなんだよ。もう勘弁だぜ」

「そう言うないや。実はの、カカァの実家は西村ちゅうて、二人姉妹で五歳下の妹がおるんじゃ。その妹は婿養子をとったが失敗して、そこも跡取りがおらんのじゃ。今はわしと西村のじじいで農作業をやりよるんじゃが、そこにも希望を灯しちゃくれんかの…… 」

赤祢はそれを聞いて気が遠くなってしまった。


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