三人娘の三様の人生
第七章
M署の生活安全課・藤川主任は、午後三時から相談に訪れる予定の柴田信代という女性を待っていた。時計を見ると、まだ三十分程時間がある。彼は周囲が忙しくバタバタして働いている様子を見回し、逃げ出す様にこっそりと席を立ち屋上へ出た。本人はこっそりのつもりだろうが、傍から見ればしっかりと目立つのだが、誰も彼を止めようとはしない。
東京の二月の空気はまだ冷たく、暖房で火照った身体を冷ましてくれる。彼は錆びた鉄製の柵にもたれかかって街の景色を眺める。長くM署に務めた彼には、馴染みの光景だ。太陽の光を浴びるビル群はミニチュアのように美しく見え、遠くに見える首都高速道路では、色とりどりの車が忙しなく走り、その下の道路でも多くの車が走ったり停まったりを繰り返していた。歩道には、平和な顔をした人々が歩いている。
この日常の光景を、彼は上から静かに眺めている。彼もきっと平和な顔をしていると思われたが、苦い顔つきであった。彼はあと三年で定年を迎える。痩せた身体にうまく動かなくなった左脚を持つ彼の頭の中では、目に映るものは別の世界として認知されて、思い出したくもない過去の映像が映っていた。
今日、倅のような歳の上司から、「今日三時に柴田信代という一般女性が相談に来るから対応してくれ」と、まるで早口言葉のような命令を受けていた。
ぼんやりしていると、懐の携帯電話が振動を始めた。取り出してみると、「目黒区の柴田信代が来ているから至急戻れ。もう三時過ぎてるぞ」と表示されていた。
オフィスに戻ってみると、一人の婦人が上司と並んでいた。最初に目が合った時、藤川は照れた笑顔を見せて一礼した。彼女も笑顔で礼を返した。上司は彼女の方を見て何か短く言ってから藤川の方に近づいた。
「君が五分も待たせてどうする。三番の部屋使っていいよ。できるだけ事件にはするな」
上司は藤川を睨みながら早口に伝えて自分のデスクに戻った。
藤川は少し頷いた後は、何事もなかったように書類とミネラルウォーターのペットボトル、紙コップを持って彼女に近づき、初対面の挨拶と遅れたことを詫びて三番の部屋へ案内した。その部屋は粗末なテーブルと椅子が二脚置いてあり、ドアの傍に小テーブルと椅子がある所謂取調室だが、彼女が気を悪くするかもしれないので黙っている。
「どうぞ、おかけ下さい。まだまだ寒いですね」ととりなした。彼女は礼を言って優雅な所作で椅子に腰かけた。
藤川はミネラルウォーターのキャップを開けて、彼女に紙コップと共にどうぞと差し出した。彼女は藤川と目を合わせ「どうぞ、おかまいまく」と言って軽く頭を下げた。
「でもね、話していると意外と喉が渇くんですよ。どうぞご遠慮なくやって下さい。寒いですか? 」
「いえ、丁度いいですわ。お気づかい有り難うございます」と自然な笑顔を見せてくれた。藤川も彼女の向かいに腰かけて対面すると、正面から自分を見つめ、何でも知っていそうな余裕を感じさせるその笑顔を見て、綺麗な人だなと思った。
「それでは、今回の面談に入る前に確認したいことがございます。柴田さんは今ボイスレコーダーか何かで録音されていますか? いえ、それがいけないわけではありません。
私も職務上聞き間違いなどがあってはいけませんもので、録音させていただきたいと思っているのですが、宜しいでしょうか? 」
「いいえ、そのようなものは持っておりませんわ。でも、録音なさるのでしたら、どうぞ」
彼女は少し驚いたような表情で答え、録音に同意してくれた。彼は失礼してと、断わってポケットからボイスレコーダーを取り出しスウィッチを入れた。
「まぁ、録音しているからといって緊張なさらずにざっくばらんにいきましょう。それから、お答え難いことは話さなくても結構ですからね。それでは始めます。まずはあなたのことから伺います。それと確認の意味で運転免許証などの身分を公的に証明するものを、御提示願います」
後遺症が残る彼にとっては、相手に不快な印象を与えずに言葉をかけるのは特段の努力が必要であったが、まずまずの出来だと思う。彼女はハンドバッグから財布を出して、その中からゴールド免許証を取り出して差し出した。
これで、彼女の氏名・生年月日・住所が知れた。昭和四十年生まれということは、今年は平成二十六年だから、四十九歳になるはずだが、とてもそのような年齢には見えなかった。彼の見立てでは三十代半ばとふんでいただけに少し驚いた。アンチ・エージング・ケアというのだろうか、顔や髪やスタイルには気を配っている様子がわかった。自分などは五十七歳で、もう髪は殆どなくて地肌を晒し、顔に皺ができて、シミも目立つ。この点において彼は気持ちが少し引けた。
老眼鏡をかけて彼女の情報を用紙に記入していると。「随分と達筆でいらっしゃるんですね」と声をかけられた。いえいえと謙遜しながらもどこか嬉しくなった。ゴールド免許証を彼女に返す。
「さて、柴田さん。あなたの御用件を伺いましょう」
柴田信代についての情報記入を終えた彼は、真面目な警察官の顔で問うた。彼女は迷いのようなものを振り払ったように口を開いた。
「実は、私の長年親しくしていた友人が、昨年末あたりから行方が分からなくなってしまって。それが心配になりまして、ご相談に伺った次第です。最初はM署に電話で相談しました。私は、それでてっきり捜索していただけるものと思っていたのですが、今はそういったことは、『行方不明届』を出してから、らしいですね。それで今回こちらにお伺いして『行方不明届』を提出したいのです」
「御理解いただいて有難うございます。以前は『捜索願』といっていたのですが、これだと警察が全てを捜索することが前提になってしまって、色々と不具合が生じましてね、それで一旦『行方不明届』を出していただいて、それを受理するかを判断させていただくようになったのです。
それとこの届を出す人は、通常行方不明になった人の御家族や御親族なのですが、あなたは御友人の間柄ということで、その場合、ある条件を満たしていないと受理できない場合があるので、確認させて下さい」
藤川はこう言って、家族・親族以外が届けを出す条件を確認した。
第一に、行方不明者と金銭トラブルなどの利害関係に無いこと。について、彼女は、利害関係は無いと宣言した。第二に、住所が安定していて連絡が取れること。は問題無いと受け入れた。第三に、行方不明者に対して責任を持って対応してくれること。は勿論受け入れた。これによって、信代が届を出して警察は受理する条件を満たすことになったと、藤川が説明すると、彼女はホッとした表情を浮かべた。実は何を言われるのかと身構えていたのだが、どれも届を出す以上当然の条件だと思えた。
こうして、友人による行方不明届の提出を警察が受理をする条件を満たしたことになるので、作業は一歩進むことになるのだ。藤川は場が固くならないように、なるべく柔らかな口調で説明した。彼女は「恐れ入ります」と頭を下げた。
「それでは柴田さんは、行方が分からなくなったという方のことを話して下さい。まずはその方のお名前から…… 」彼が促すと彼女は淀みのない口調で話を始めた。
その彼女の名前は仁科智子。年齢は四九歳で独身。柴田(旧姓・山本)信代が結婚前に勤めていた商社N(一部上場企業)の同期で、それ以来からの友人。それから仁科智子と柴田信代が友人関係であることを証明する客観的な資料の提出を求めた。これは事前に用意しておくように指示があったようで、彼女はバッグから年賀状と手紙、数枚の写真を出して見せた。藤川はそれを受け取り、ちょっと拝見と断ってそれらを見た。
年賀状は、最近のものが数枚で、宛先と差出人で、間違いなくお互いの住所が書かれてあったので、友人であったという客観的な資料と認定できた。彼女の説明によれば、年賀状は知り合って以来、毎年欠かすことはなかったので、古いものは自宅にあるが、今年の年賀状については届いていないという。こういうものは絶交状態にならない限り続いてゆくものだから、昨年から行方知れずになっていることを裏付ける根拠になる。藤川はこの時点で、経験上不吉な予感がしたのだが、口には出さなかった。
続いて写真を見る。二年前に塩原温泉に行った時のもの、五年程前に京都、それにもっと昔の若い頃の、東京ディズニーランドやアメリカ・フロリダ州のディズニーワールドに行った時のものなどだった。
仁科智子という女性は、どの写真を見ても顔色が白くあまり笑っていない。髪型もあまり変化していないことが印象に残った。まるで能面のようだ。女性は年齢を重ねるごとに、髪型や化粧、服装が変わり、行くところも変わってゆく。若い頃はテーマパークや海などのアクティブな場所が多いのだが、次第に落ち着いて山や神社巡り、そして温泉が多くなる。これらの写真を見ていると、そんな彼女達の青春と人生も窺うことができたような気がした。柴田信代は中央に位置していることが多く、華やかに笑っていた。一方の仁科智子はいつも端の方で、はにかんだような笑顔を見せている。
「この写真を拝見しますと、仁科さんは大人しい方のようですね」
「ええ、そうですね。大人しくて控え目なのですけど、私なんかよりはずっと周囲が見えていて、時々ずばっと鋭い一言を発して、それが結構的をえていたりするんですのよ。だから私にとってはかけがえのないお友達です」彼女は、面白そうに笑って言った。
「私は二七歳で結婚して今の主人の家に入ったので、それから暫くは一緒に遊びに行くことはなかったのですが、それでも年賀状で毎年近況を伝え合っていました。そして子供達が大きくなって自由な時間がとれるようになってきて、あることがあってそれがきっかけになって、又一緒に会って遊びに行くようになったのです」
「なるほど。そのあるきっかけというのはなんでしょう? 」
藤川は、写真に何年かの空白があることに気がついていた。それは彼女が結婚し、育児・子育てに時間をとられていたためであると聞いて腑に落ちた。そして又遊ぶようになったきっかけというのが気になった。彼女は一瞬僅かに顔を険しくして語り始めた。
それについてわかっていただくためには、写真に写っているもう一人の女性のことをお話ししなければならないという。藤川は、これは少し長くなるなと腹を据えた。
実は彼女が若い頃の写真には、もう一人の女性が写っていて、名前は沢田綾子。彼女も同期入社で知り合い、いつも三人で遊んでいたそうだ。彼女は、女性にしては背が高く、顔の小さい美人であった。派手なファッションを好み、それを着こなすセンスを持っていた。会社では地味で大人しかったが、休みに入ると男性と派手に遊ぶという二面性を持っていた。そう言われてあらためて古い写真を見ると、柴田の説明に説得力が出てくる。柴田も美人の部類に入るが、沢田は違う方向といえるかもしれない。八十年代のバブル期を知っている者なら、『イケイケねーちゃん』で『ブイブイ』いわせていたくちに見える。
そして彼女は、柴田よりも三年遅く、三十歳を機に社内で評判のエリート上司と結婚し、女性社員の多くが羨む寿退社を果たした。しかし人生はこれで終わらない。嫁入りしてみると、優しくて頼もしかった夫が所謂マザコンで、母親(彼女にとっては姑)にべったりであった。姑は彼女の遊び好きの本性を見抜いていた。そして彼女は、主導権を握ろうとしたのか漫画の様に家事料理出来ない・しない宣言をしたのだ。彼女は甘やかされて奔放に育ち、男どもを手玉に取ってきた自負があって世間を知らなさ過ぎた。当然姑は激怒、舅と夫は呆れ果てた。
椿家(嫁ぎ先)ではそんな嫁が許されることはなく、姑による躾という陰湿で執拗なイビリ指導が始まった。掃除の仕方から料理の味に至るまで一々文句をつけて指導された。嫁のがさつな所を嫌って、茶道と花道を習わせた。味方であるはずの夫は、次第に仕事のプレッシャーとストレスで酒に溺れて暴れることが多くなり、彼女を罵倒し、殴り、蹴り、まるで強姦の様に性交するようになった。
勿論そんな日々に耐えられなくなった彼女は離婚を申し出たが、由緒ある椿家では有り得ないと突っぱねられた。自分の親に泣きついても、舅姑から因果を含まされたのか、せっかく立派な家に嫁いだのだから、しっかり修業するんだよと取り合ってくれない。
虐待で内々に警察に相談しても、この程度では中々介入は難しい。立件は難しいという。同じような相談は多いが、結局お嫁さんが我慢して頑張って、なんとか居場所をつくり、やがては家を牛耳る存在になっている。よくあることだと説得された。
傍から見れば、豪邸に住み、高級車を並べて、家政婦を雇っている椿家は羨望の家である。家長の舅は大手商社Nの専務で、姑は有名私立女子大学の理事で文化人、夫は副部長に昇進したばかりで部長を目指すエリートだけに、近所の評判は上々だ。それだけに嫁である自分がいびられているなど、とても言い出せるものではない。言ったところで到底信じてもらえないだろうことは、彼女にもよくわかった。
自分には味方がいない。これでは『結婚は墓場』どころか『生き地獄』だ。そんな彼女が救いを求めたのが、既に結婚して育児中の柴田と独身の仁科へのメールだった。柴田は始めは惚気かと思いきや、とんでもない苛めにあっていることを知って驚いた。勿論慰め、励まし、「はやく赤ちゃんをつくって孫の顔を見せてやれば、姑さんなんかコロッと変わるから」と体験に基づいたアドヴァイスをした。仁科も同じように慰め励ましたが、どうしてもだめなら離婚もすすめた。彼女はメールで、もう少し頑張ってみると返した。そこで、気分転換にと都合をつけて久し振りに顔を見たいし会おうよと誘って、結婚後三カ月に中華レストランの個室で三人は会った。
旧姓沢田、椿綾子は、別人と言っても良いほどに地味な和服姿で、痩せて、目は虚ろで生気を失っていた。柴田と仁科はあまりに変わってしまった姿に茫然としたが、明るく再会を喜びあった。少し我儘で、自己中心的だがなぜか憎めず、ユーモアで笑わせてくれたのは主に彼女だっただけに、二人は彼女の苦労が伝わって涙が出た。
せっかく会えたのだから、三人だけが知る楽しかった頃の話をして盛り上げようとしたが、彼女は力ない笑顔でうんうんと頷くのが精一杯のようだった。いつもは聞き役が多かった大人しい仁科が務めて明るく振る舞う光景がいじらしかった。
とはいえ、仲が良い三人が互いを気遣いながらの食事に次第に彼女も元気を取り戻し、アルコールも手伝って三人に本当の笑い声が出始めた頃、彼女の携帯電話のコールが場を切り裂き、彼女の顔が恐怖に満ちた。時計を見るとまだ午後の九時過ぎだ。彼女が恐る恐る電話に出ると、ボディガードからで、「奥様、門限に遅れますので、これからお迎えに上がります」というもので、間もなく二人のスーツ姿の男が現れて柴田と仁科に何も言わせない慇懃無礼の挨拶をした後、抱え上げるようにして彼女を連れ帰って行った。今時こんな恐ろしい家もあったものかと、残された二人は茫然と見送るしかなかった。
それから時々彼女からメールが届く様になったが、あまり深い内容ではなく、淡々とした日記のように、何々をしてどうだったというような形式的なもので、気持ちや気分らしいものは意識的に除いているようだった。それでも、はやく赤ちゃんが欲しいという願望は何度も綴られていた。柴田もそれに賛成のメールを返していた。
彼女は柴田のアドヴァイスに従って、はやく子供をつくりましょうと夫に提案したのだが、酒に酔って帰り、家でも酒をあおる夫は残酷に彼女をいたぶった。その方法は陰湿で、痣が残らないように腹を殴り、頭を踏みつけ、痕が残らないように首を絞め、髪を掴んで浴室に引きずり、顔を無理矢理水につけ込んだ。溺れる寸前で顔を上げて水を吐きながら咳き込み、目を見開いて茫然としている様子を見る。それを何度も繰り返すのだ。
それで夫が興奮してセックスに移行するのだが、その行為も乱暴で彼女のことなどまったく考えない一方的なものだった。彼女は夫にどうしてこんな目に遭わされるのか理解できず、何度もやめてと叫んだ。ある日泣きながら夫にその理由を問うと、夫はこれまで見たことがない顔で口を開いた。
「俺はお前のアノ顔を見るのが好きなんだ。恍惚としていてとても美しい。愛するお前の、痛がり、苦しみ、死ぬかと思ったあの表情が、俺をこの上もなく興奮させるのだ。子供が欲しいというのなら、協力して欲しい」
「どうして? 前はこんなに乱暴な人じゃなかったじゃない! 」
「どうして? 人の好みは変わるものだよ。今ではお前のアノ顔を見ないことには、どうにも興奮しなくなったんだ」
「あなたは私を殺す気なの? 」
「誰が死なすもんかよ。お前は俺の愛する妻だ。お前だって近頃はやめてと言いつつ、実はまんざらでもないんだろう。俺にはわかるんだぜ。お前はまだ自分で気付かないだけさ。 俺はジムに通って身体を鍛えている。お前を可愛がるには、体力が要るからな…… 」
夫が自分の目を見据え、左右の口角がつり上がった不気味な笑顔と共に放った言葉は、彼女を心底恐怖させて震えあがらせた。しかし、耐え難い苦悶の後の激しいセックスは、かつて経験したことがない快感を味わった事実を否定できなかった。それから彼女は、自分の躰がそんな部分を秘めていて、夫がそれに気付いて引き出しているのかもしれない。と考えるようになった。
学生時代に読んだ本の中に、上流階級の夫人が、SMの世界に溺れる様を描いた文学作品があって、最後まで読んでも、その文学的な価値が全く理解できずに研究をほったらかしたことを思い出した。
姑、舅、夫。それぞれ優雅に暮らしているように見えるが、実際には彼らに大きな責任というものがのしかかっていて、毎日その責務をまっとうしているのだ。何もなくて当たり前の世間の中で、日々不祥事や事件・事故は大小発生するものだが、その対応を一つでも誤れば世間様に迷惑がかかり、忽ち吊し上げられてすぐにでも失脚してしまう非常に脆く危うい立場にいる。彼らは人には言えない底知れぬ重圧や秘密に苛まれているのを、彼女は嫁いでみて初めて知った。そのとんでもないストレスのはけ口に、夫は酒と所謂SMプレイに行きついたのだろう。そう考えると、馬鹿げた変体プレイもサブ・文化と考えられなくもない。教育者であり文化人でもある姑がそれに薄々気付いていても、黙認していることを考えれば、やはり秘められた文化なのだろうか。或いは姑も若かりし頃は通ってきた道なのかもしれない。彼女はそう思うと、もう夫に抗うことはできなくなった。死ぬかもしれないと思うほどの苦痛に悶絶し、耐え難いほどに凌辱されて屈辱と恥辱を味わい自我が崩壊したと思った時に感じる一種の快感。その先に待っている荒々しい極上の悦楽に浸れるのであれば、彼女自身も、彼のいう『愛の行為』を受け入れてゆこうと決意した。勿論このようなことは、誰にも、たとえ親友にも打ち明けることなどできはしない。
それから三年が過ぎても子供が出来ないことを、姑はお家の一大事と考えるようになった。そして彼女に一々小言を言うことはなくなった。嫁を認めたのではない、諦めたのだ。お茶やお花も辞めさせた。いくら作法を完璧にこなすようになっても、肝心の心がこもっておらず、型をなぞっているだけでは意味が無いし、彼女の素養を高めることにはならない。姑は遂にそれを見極めたのだ。
姑はこれまで多くの女性を指導してきたが、その真髄を理解しないままに、まるでロボットの様に作法をこなすだけの女性が増えていることを憂慮していた。嫁もその一人だったのである。それは目に見えないものが見え、感じることができる達人にとっては、只々寂しく思うばかりである。現代女性は確かに、容貌が良くなってきている。しかし、日本女性らしい内面から滲み出てくる、優しくしなやかで、それでいて凛とした強かさが映える総じての美しさを感じることが出来ないのだ。
姑とても気の置けない友人はいる。勿論それぞれの道を究めた文化人であり、話題は高尚で多岐にわたる。しかし、現代女性という話になったときには、『生けた花の作品としての芸術的素晴らしさを認めつつも、その奥の心根が見えないのは寂しいし残念』といったように、まるで示し合わせたように同じ見解に至るのだ。
文化が連綿と時代を超えてゆき、伝統となるためには、しっかりとした担い手に引き継いでから静かに引いて行きたいと常々思っているところなのだが、中々に巡り合うことは難しい。姑は同じ日本女性でも、年代によって見えているものが異なるのだから、思い通りにならないということかと諦めの境地を見ていた。
さりとて、椿家直系の子供が出来ないことは絶対に見過ごすことはできない、孫の顔見ないことには、それこそ死んでも死にきれない。夫婦関係は悪いように見えなかった姑は、遂に嫁に対して産婦人科で妊娠できる躰なのかを診察してもらうように言った。それは断ることが出来ないほどの強い意志が込められていた。もしも妊娠することができないと診断されれば、石女としてすぐにでも放り出す覚悟を決めたのだ。
三年前の彼女ならば、喜んで離婚に応じたであろう。しかし彼女はもう、優雅な上流階級の生活にどっぷりと浸りきっており、今この立場を失うことをなによりも恐れるようになっていた。夫婦の営みも本格的なSMプレイの領域に達していて、その快楽を失うことも考えられないことであった。煌めくダイアモンドやサファイアを身に付け、品の良い洋服に身を包み、運転手付きのベントレーに乗って出かけ、社交界パーティーで、大手商社Nの貿易部部長の若夫人として、専門的な知識などなくても、きちんと挨拶をして相手のプライドをくすぐり、神秘的な笑みを湛えながら日本経済を実際に動かしている人物の夫人たちの話を聞いている様は、姑も優雅と認めないわけにはいかず、評判も悪くなかった。それどころか信頼を得て、ひそひそ話まで耳に入るようになり、それを夫に吹き込んでビジネスの役に立ったこともある。 そしてなによりも、そうしている自分が好きなのだ。歌舞伎やクラッシック音楽を堪能できるようになったし、美食や高級ワインを嗜む日々は、誰もが羨むもので、そう思われることも無上の快感なのである。それでも椿家の嫁として三年が過ぎても孫の顔を見せられない事実は何ともしがたく、殆ど強制的に監視付きで産婦人科に診察をしてもらった。
一方、柴田は結婚して六年で三人目の出産を終えた秋のことだった。仁科からメールが届いた。その内容は、彼女を愕然とさせるものだった。綾子が亡くなったというのだ。死因は急性白血病。独身の彼女は自分よりも綾子を気にかけていたようで、メールでやり取りをしていた。勘の鋭い彼女だからこそ知り得たことであった。彼女からのメールで、『産婦人科で診てもらうことになった』の後が途切れて嫌な予感がし、椿部長に不幸があったと会社で聞き、椿家の固定電話にかけて夫から聞いて知ったという。
それは急なことで、悲嘆にくれる葬儀であった。柴田と仁科は喪服で久ぶりに再会し、あまりのことで会話も少なく粛々と焼香をあげて静かに参列した。わずかに見覚えのある夫である幸彦は今では部長に昇進していて、しめやかであるが大きな葬儀であった。
「急性白血病なんて絶対ウソ」呟いた仁科智子は確信しているように見えた。前に組んだ手にハンカチを握り潰していたのが印象的だった。
後日、仁科は警察署に彼女の死因について執拗に問い合わせていた。大人しくて控え目だが、何事につけてはっきりさせないことには気が済まない性格の彼女は、親友だったという事実と、死ぬ直前までのメールの内容をもとに、病死とはとても信じられないと訴え続けた結果、同情した一人の女性職員から、絶対に口外せず、どのような訴訟も起こさないという念書を書いた上で、ある喫茶店で落ち合って教えてくれた。
「椿綾子さんの本当の死因は縊死です。事件性はありません…… 」女性職員はむしろさらりと伝えて仁科から去って行った。
彼女はそれを聞いて、全てを理解した。おそらく綾子は妊娠がかなわないという診断を受けて絶望し、自殺したのだ。誰もが羨む結婚で、色々問題はあったが今ではなんとか幸せに暮らしていると思っていたのだが、三年後には自殺とは、あまりにも残酷ではないか。仁科は彼女の無念を慮って泣いた。可愛そうなどという生やさしい感情で流す涙ではない。怒りは天を突き、恨めしい、呪わしいという強い念が、彼女の顔を極限に歪めさせ、絞り出すような涙と押し殺した慟哭は、周囲の人々が近寄りがたい気を放出していた。
彼女はこのことを柴田に伝えることはなかった。
「こんなこと。とてもノブ(柴田の愛称)には伝えられない…… 」
予想を超えた重い話だった。綾子について真相を仁科から聞いたのは昨年だったという。藤川主任にしてみると、結婚した椿綾子さんが色々あったことがきっかけで、仁科智子さんと再び遊ぶようになったということがわかった。彼はまだ肝心の仁科智子のことについてあまり聞けていないので、彼女のことについて話して欲しいと頼んだ。柴田はミネラルウォーターを飲んで喉を潤して話を続けた。
仁科智子は、忌引き休暇が終わって出社してきた幸彦をフロアで待ち伏せて、改めて挨拶をした。幸彦は彼女とは部署が異なるのだが、妻と昔からの友人であることは知っていた。その上仕事ができるという評判も聞いていた。妻を亡くして憔悴していたのだが、ここは背筋を伸ばして真摯に対応した。その時の彼女の顔、というより表情が気になった。彼女は、何か確信に満ちてにやりと笑ったように見えたのだ。
「綾子とはメールで近況を伝え合っていて、急に病死するような兆候はまったく窺い知れませんでした。それどころか、(死の)直前には、産婦人科で診てもらうと教えてくれました。私はもしやおめでたではないかと期待していたのですが、本当に残念でお気の毒なことでございました」
幸彦はぎくりとした。思わず誰かが聞いてはいないかと周囲を見回した。幸い誰も自分達に注意を払っている者はなかった。彼は出来るだけ動揺を見透かされないように、沈痛な表情を浮かべて応対した。その間も彼女の顔を見るが、脇と背中から妙な汗が吹き出して目を合わせることができなかった。彼女はそれで、確信を深めたように見えた。「私は全部知っているのよ。言ってあげましょうか」と言わんばかりに……。これで彼も確信した。彼女は綾子の死の真相を知っている。彼女は彼の動揺を見届けると、では失礼しますと踵を返して去って行った。彼女はそれだけでなく、夜の営みのことも知っているのかもしれない。そう思うと、胃を掴まれて捻られたように動き、吐き気がして重い痛みに襲われた。
彼女は翌年に課長代理となり、その五年後には課長に昇進した。実際仕事人間といって差し支えない程によく働いた。彼女の部署は、国内の大手食品メーカーの工場や飲食店などから小麦や大豆などの発注を受けて、それらを外国から買い付けて輸入して売り捌く業務を担当していた。穀類輸入事業部で、直接彼女が担当するのは小麦や大豆の先物取引であった。それは、世界各国の気象変動によって収穫量が変動し、価格が乱高下するリスクの高い部署である。
その中で彼女は、抜群の勘を駆使して利益を出し続けた。勘だけなら続くものではないが、インターネットを駆使して、気象情報を収集し、作柄を分析した結論に裏付けられたものであったので、他社よりも安く輸入して国内に安く売ることができるのだ。ただの輸入業であれば、受注されたものをそのまま輸入して売ればよいので、それほど難しいものではないのだが、そんな呑気な商売ではとてもやってはいけない。日々価格が変動し、三カ月後の価格を予想して、基準価格よりも少しでも安いところを見つけて、他社よりも安く売ることが求められるのだ。しかも米ドルだての決算なので、為替レートの読みも必要になって来る。北半球と南半球では季節が逆転することを考慮に入れて、更に安全性や品質も契約通りが当たり前で、それが出来て初めて買い付け先と国内業者からの信頼を受け、大口取引が可能になり次の契約にも繋がるのだ。
世界最大のディーリング・マーケットはシカゴ(米国)にあるのだが、他に独自のルートを確保しておいて、信頼が出来て少しでも価格の安いところから小麦や大豆を、少しでも円高の時に米ドル決算で買い付けて輸入することで、大きな利益を自社にもたらすことができるのである。その第一人者が彼女であった。
平成二〇年(二〇〇八年)のリーマンショックで世界が大混乱をきたした時に、多くの商社が取引を停止した中で、彼女はダブついていた小麦と大豆を底値の段階で大量買い付けのホールドサインを出した。それは業界では考えられない大胆な行為で、デリバティブがあるにしても、この先どうなるかわからないから莫大な損害が出ると言われた。しかし翌年の政権交代で円高が高騰し、大量の小麦・大豆の支払いを自社に有利な円高の時に米ドルだてで決算し、他社を抑えて独占的に国内で売り捌いて莫大な利益をもたらした。
「仁科課長は、リーマンショックの時も冷静で、翌年の政権交代による円高を予測していたのか! 」と驚嘆されたものだ。しかし彼女は表情一つ変えずにこう言った。
「リーマンショックは金融ショックであって、先物取引とは全然別物。でもお膝元のアメリカで起きちゃったもんだから、シカゴまでパニックになっちゃって、金融と先物パニックが同時に全世界に波及したのよ。それでもみんなお腹はすくでしょ。私はただ値段(小麦・大豆)が暴落したから、ありったけの弾(米ドル)を使ってホールドしただけ、政権交代の円高進行はただの偶然よ…… 」
そして平成二三年(二〇一一年)三月一一日に起きてしまった東日本大震災から遡ること二カ月、彼女は猛烈な円高を利用して小麦・大豆を大量に買い付けていた。
「穀類はある程度保存がきくから、できるだけ、そう倉庫を借りてでも備蓄するように」と部下に指示した。
当時は誰も理由がわからなかったが、その日になって、大量備蓄の有難さを思い知った。震災後は、国内の取引業者に対して、通常の価格で取引して価格の高騰を抑え込んだ。商社Nの社長大滝は当時経団連の副会長であったので、大震災で日本中が落ち込む中で部下の冷静なこの動きに感動を覚えつつ、冷静に通常の取引を社内と同業他社に呼び掛けた。
「仁科課長は大地震を予測していたのか! 」という噂が流れたのは、状況が落ち着いてきた五月頃、部下の一人が一月の大量買い付けの理由を訊くと、彼女は淡々と答えた。
「東日本大震災が予測できるわけないでしょう。あの時は円高が凄かったから、買いですよ。そして弾がいつもよりあったので大量になっちゃったのよ。震災の後の四月になって一番欲しい時に日本に到着したのは幸運だった。国難に乗じて高値で売りつけるなんて、私は先輩方からそんな商売を学んでいない…… 」
彼女は六月の人事で副部長に昇進した。仕事上では昇進が早いことで名を馳せたが、実績を知る者は異論を唱えることはなかった。しかしプライヴェートでは、男性からは彼女の容姿は特異に映っていて、ウルトラ怪獣の『ダダ』などと揶揄されていた。中・高・大学とあだ名が同じなのは、やはり似ているのだろうと彼女は一人で傷ついた。恋愛経験は殆どなく、もう結婚は諦めてしまった。まだ若かった頃、八十年代は所謂バブル期、と呼ばれてみんな浮かれていた。お金があっても無くてもローンを組んで高級車や高級ブランドバッグなどが飛ぶように売れた時代だ。美食を求め、海外旅行をして存分に楽しんだ。
女は派手に着飾り、男は女の気を引くために幾らでも金をつぎ込んで傅いた。彼女も何人かと交際をしたが、その中身のない交際相手とは恋愛に発展することはなかった。それについては少しも後悔していない。智子、綾子、信代の三人はいつも一緒に行動を共にしていたが、綾子が一番積極的でモテた。次は信代、そして自分はあまり注目されなかった。日本料理でいえば、箸休めみたいなものだったと思う。それでも毎日が十分に楽しかった。
信代が二十七歳で結婚し、披露宴で彼女のウェディングドレスに包まれた華やかな姿を見た時、彼女は号泣した。心から祝福を送り、お幸せにと祈ると感激のあまり涙が止まらなかった。勿論鼻水も盛大に流れてメイクが台無しになってしまった。それから綾子が結婚したが、その時はあまりにも豪華な披露宴に緊張して、あまり感動することは無かった。綾子の極度に緊張した姿を見て不安を覚えたものだ。彼女達が結婚して、もう自由に電話やメールが出来なくなると思うと、自分の青春は終わったなと実感した。自分の結婚など想像もできなかったが、母が「次はあんたの番だよ」と説得されて結婚相談所に登録させられた。それで何度かお見合いパーティーに参加してみたが、もう御免だと思った。
『お見合い回転ずし』という参加男女三十人程が円形に座って、一分程度の自己アピールを行い、時間がくるとイスを一つ移動させて違う男性に又自己アピールを行う。これを十数回も繰り返して、それが出逢いの第一歩だという。なんとも喧しい出逢いではないか。彼女もやってみたが、五六回目でもう嫌になった。出来ないのではない。途中でなぜこんなことをやらなければならないのかと虚しくなるのだ。
そして好みの異性の名前を数人、カードに書き込んで提出する。主催者側はこれで、カップルになる可能性がある組み合わせの目星をつける。そして『フリータイム』という立食パーティーの舞台で、参加男女が時間まで自由に会話を楽しむことができるのだが、彼女のメガネにかなう男性は殆どいない。いたとしても、すぐに他の女性に囲まれてしまっている。
それは女性陣の方でも同じようなものだろう。後はあぶれ組のようになった男女が、複雑な笑顔で会話をする。彼女の場合は、「こっちに来ないで! 」と思っている人に限ってやって来るのはなぜだろうと思う。彼女も全然容姿に自信はないが、男性の方も同様でそんな人物が相対しても会話が弾むことはない。
その後は、最終的に意中の人を一人カードに書いて提出し、男女名前が一致したことでカップル成立となり、祝福の拍手を受ける。大体十組くらいのカップルが成立するのだが、彼女がカップルになった試しはない。カップルになった男女は、恥かしそうにしているが、嬉しさと誇らしさを滲ませた笑顔を隠そうとしない。それが本当に結婚にまで至るのかどうか甚だ疑問だ。
こういったことをイベントとして、或いはゲームとして積極的に参加して楽しむ人は良いのかもしれないが、彼女の場合はそれほど無邪気に入り込めない。入り込むには余りに青春が楽しすぎた。例え綾子と信代の添え物に過ぎなかったとしても、あの頃が良かったのだ。結局パーティーがお開きになれば、まるで敗残者の様に真直ぐに緑区の自宅に戻り、母親に一部始終をぶちまけたものだ。彼女の母親は優しいな眼差しで、うんうんと聞いてくれた。
第八章
「男女の出会いというものは、あんな仕組まれたものじゃなくてもっとこう、自然で、運命的で、出会った瞬間に全部わかるっていうかさ、そういうのが自然だと思うの! 」
智子は母親の前ではどうしても子供に戻ってしまう。母親はそんな娘の話を楽しそうに聞いていた。
「そうね。そりゃあ、あんたにそんな素敵な出会いがあったなら、お見合いパーティーなんかいらないわね。でもね、運命って不思議なものよ。誰に仕組まれたものでもなく、自分で自由に相手を選んだと思っていても、本当のところは誰かに仕組まれて結婚した人もいるかもしれないわよ」
母親は意味深な目をして、それが自分だと言わんばかりに娘の顔を見た。勘の鋭い娘はそれを悟った。
「お母さんが、そうだっていうの? お父さんとの結婚が? 」
母親は、自分の結婚の話をする良い機会と思った様子だった。
「昔の話だし、いい機会かもしれないからあんたに話しておくわ。……お母さんはね、お父さんと結婚するつもりはぜんぜんなかったのよ」
「ええ! そうだったの? 知らなかった」
母親は、遠くの景色を眺めるような目をして、自分の結婚にいたる経緯を語った。
当時の彼女は、小柄で大人しく生真面目な性格で、短大を出てから銀行に勤めていた。来る日も来る日も、自分に関係のない大枚を商品として数え、算盤で計算して記帳していた。二つ上の兄がいて、子供の頃からよく相手をしてくれた。兄は優秀で人柄も温和だったので、国立大学を卒業後は、大手電機メーカーに就職していた。
銀行は信用が第一と言われるように、銀行内では人の信用が重視された。その点彼女は、正確な仕事ぶりで難なく信用を勝ち取った。彼女は単調な毎日を好み、退屈を感じない才能があったのだ。二十四歳の秋、米の収穫を迎える頃に親の勧めでお見合いをした。当時はまだお見合い結婚が多く、結婚適齢期になっても恋人がいない男女は、親や親戚、或いは世話好きな知り合いが尽力してお見合いをして結婚していた。
彼女の相手は五歳年上で、警視庁の警察官であった。剣道の有段者で将来有望だと聞いた。物凄く緊張したが、実際に会ってみると、とても気さくな人で、初めて会ったというのに話がはずんだ。背筋がピンと伸びて礼儀正しい精悍な姿にときめきを感じた。先方も好印象であったらしく、親同士の挨拶も恙なく終えて公認の仲となり、月に一度くらいのペースでデートした。よそ行きの服とおめかしをして、慣れないヒールで靴擦れを作りながらもそれが楽しかった。
「ああ、私もこうして結婚していくのね…… 」
彼女はそう予感していた。そういうものだと思っていた。来年には結婚式を挙げて、家に入り、夫を支えて子供を産んで母親になる。賢い彼女はそういう未来設計を立てて喜んでいた。そして慌ただしい師走の吉日、結納を交わして来年四月に式を挙げると決まった。両親も兄も、先方もこの上ない良縁だと喜んだ。それを見て彼女も嬉しくなった。毎日がふわふわと楽しく、景色が違って見えたものだ。
そんな彼女が、新しい年が明けた頃には家を飛び出してしまった。兄は妹の行方を知っていた。相手は自分の大学時代の友達だった。家でクリスマスパーティーをやった時に来ていた仁科という男だった。仁科は妹に一目惚れしたらしい。職業は民放テレビ局の職員だった。仁科はいうなれば破天荒な男だった。つまり発想が奇抜で、大胆な言動で人が当たり前と思うことを覆すことがしばしばあった。それを兄は面白がっていたのだが、まさか婚約している妹を横からからめとるとは思いもしなかった。
兄は仁科を捕まえて妹が家を出たきり帰ってこないが知らないかと問うと、彼女は自分の自宅で共に暮らしていると悪びれることもなく言ったので、兄は逆上して拳で殴ったという。彼は抵抗せずにそれを受けた。
父親も激怒して母と兄とで、仁科のアパートに乗り込んでいった。そこには、今まで見たこともない顔をした妹がいた。いつも見慣れた控え目で大人しい彼女ではなかった。冷静で目が据わっていた。場所は吉祥寺の古びた木造アパート。兄と両親の三人は、興味深く部屋を見回した。六畳一間の部屋に青いカーペットを敷いて、窓にはピンクのカーテンをかけて裸電球が照らしていた。長く垂れ下がったビニールひもを引くと、寝たまま電気を消すことができる。石油ストーブの上でヤカンが蒸気を吹いていた。壁には明日二人が出勤するための服がハンガーに掛けてあった。粗末な台所に、トイレは共同で風呂は無い。テレビとラジオ以外は清々しいほど何もない。親子三人は安っぽい折り畳み式の小さな卓袱台の前に腰を降ろし、仁科と娘と対面した。寒々しい間が通り抜けてゆく。
父親は怒りを堪え、娘は婚約中の身であるから、こういうことをされては困る。今日はどうあっても連れて帰る。と仁科に告げた。仁科は正面から父を見据えていた。娘は拒み、仁科さんと結婚するときっぱりと答えた。母親は理由を問い詰めた。既に結納も交わした以上それは許されることではない、あなたは騙されているのよ。と思わず言ってしまった。母はまるで放火でもしてしまったような顔をした。
仁科は、「僕のせいで破談にしてしまうことについては、深く御詫びします。しかし僕たちは真剣に愛し合って結婚するので、許していただきたい」と手をついて頭を深く下げた。
父はならんと言った。
彼女は、「騙されているなんてとんでもない。仁科さんと出会って、私は初めて自分の人生は、自分の足で歩むことの大切さと、それを実践することで得られる充実を知りました。私も彼を愛しています。私は彼と結婚するの! 」と宣言した。それは、破談という非常識を乗り越えてゆく価値があると主張した。
父は、「こんな貧乏暮らしに何の価値があるか! 娘が不幸になるとわかっていて、貴様などに渡すものか! 」と声を荒げた。それは娘の幸福を願う父親なら当然の言であった。
母親にしても、九分九厘娘が幸福な結婚をすると思い込んでいたところに、突然こんな男が現れて結婚するなど、とんでもないことだと、仁科は悪者にしか映らなかった。兄も妹に、お前の気持ちはわかるが、やはり見合い相手と結婚するのが筋だと説得した。
仁科は、顔を上げて更に言った。「筋を通して結婚しても、それが彼女の幸せにつながるのでしょうか? そして今夜無理にでも彼女を連れ帰っても、彼女は幸せなのでしょうか。僕たちは真剣に愛し合っているのです。運命のあやが少し違ったことで、多くの問題を引き起こしてしまいましたが、僕たちは結ばれるべくして出会ったと確信している。
今回の二人のことは、自由意思によって成り立ったことなのです。今は御覧の通り何もありませんが、このままで終わるつもりはありません。ここから二人で出発して、一つ一つ手に入れてゆく幸せだってあるのです」と力説した。
兄と両親は、妹を取り戻そうと説得を繰り返したのだが、彼女の心は仁科から離れることはなかった。一体仁科はどうやって妹の気持ちをこうまで変えたのか、そして強固にしてしまったのか。それは『愛』というものなのか、だがそれを認めたくはなかった。
結局夜が明けてしまい、三人は一旦引き上げることにした。始発電車に乗り込んで帰路の中、黙り込んでいた父が口を開いた。
「そういえば、由香利がこんなに面倒を起こしたのは、初めてだったな…… 」
兄は思った。妹は見合い相手の警察官を、愛していると聞いたことがなかった。それは婚約しているのだから当然と思い込んでいた。しかしこの夜、仁科を愛していると何度も聞いたのだ。見合い結婚することと、愛する人と結婚することの決定的な違いがここにあるのかもしれない。こうなってしまっては、もうこちらが折れるしかないのかと……。たとえ無理に引き離しても、妹は子供ではないのだから、又仁科のもとに戻ってしまうだろう。母は、娘は本気と覚悟を認めた様子だった。
今は熱にうかされた『ままごと』のようなもの。今は何を言っても逆効果だ。熱が冷めれば現実が見えて戻って来るかも知れない。と暫く様子を見ることにした。しかし、一週間が経っても、一カ月が過ぎても妹は戻ってこなかった。父は兄に様子を見に行かせた。夜に行った時には、不気味な場所に見えたが、明るい時はただの小汚い木造アパートであった。二階の部屋を訪れると、妹は元気に暮らしていた。
民放テレビ局に勤める仁科の収入は元々安定しており、当時としては高価過ぎるカラーテレビを月賦で購入したために斯様な貧乏暮らしをしていたのであった。これからは共稼ぎで、貯金をしながら一つずつ必要な物を揃えて行くと笑った。先週冷蔵庫の購入を決めたと嬉しそうに話す活き活きとした妹を見ると、恋愛という熱病にうかされ、それが醒めると現実に希望を持ち、二人で人生をしっかり歩もうとしているところが見えて、兄も応援する気になった。兄にしてみれば、妹が幸せになってくれれば相手は誰でも良いのだ。
「これは、先方には早めにお断りを入れた方が良い」と父に進言した。
父はそうかと言うと、先方に母と出向いて誠心誠意土下座して謝り、破談を受け入れてもらった。これも娘の幸せのためと思えば、何でもできる。父母は仁科のアパートに寄り、「もう何も心配要らないから、安心しなさい」と言い残して帰っていった。
仁科は父の計らいで四月に同じ式場で結婚式を挙げた。仁科は感激し、涙を流して父母に頭を深く垂れた。それから翌年の昭和四十年、智子が生まれたのだった。ぜひとも二人目が欲しかったが、元々身体が丈夫でなかったために遂にそれは叶わなかった。父はドラマ番組の制作プロデューサーになって活躍の場を与えられて、仕事が軌道にのった時点で母は銀行を退職した。
智子は母親からそんな結婚話を聞いてショックを受けた。自分にとってのおじいちゃんとおばあちゃんは、優しくてとても可愛がってくれた。勿論そのような経緯があったことなど、一言も言わないままに亡くなった。智子は「お母さん、やるじゃん」と照れながら褒めた。そうなってくれなければ、自分は生まれてこなかったのだから、そう言うしかない。思わず若い頃に観た映画『バックトゥザフューチャー』を思い出す。自分としては、面白父さんとおとなし母さんの間で、何不自由なく育ち、両親にはとても感謝している。まだ何にも恩返しは出来ていないが、せめて幸せな結婚をして孫の顔を見せてやりたいと心から思った。
しかし、今の御時世は、結婚することが現実的に難しくなっていた。理由は色々ある。男なんて星の数ほどいると気楽にいうが、女だってもっといるのだ。誰でも良いわけがないし、失敗などありえない。自分自身にだってそれ程自信があるわけでもない。相思相愛で妥協打算がない結婚となると、遥か彼方の偉業に思えてしまう。
それからの智子は、一人で海外旅行に行くことが多くなった。アメリカ、カナダ、ヨーロッパを巡り、現地で素敵な出会いがありはしないかと密かに思っていたのだ。というのも、若い頃に仲良し三人組でフロリダに行った時、自分の容姿は欧米人から見ると、可愛く見えると知ったからだ。でも、どこの国に行って観光をし、旅の醍醐味を満喫しても素敵な出会いはなく、幾度も無事に帰国してきた。がっかりであったかもしれないが、それは幸運であったといえる。不幸な日本人女性の一人旅は、食い物にされるか、殺されて遺体で発見されるか、行方不明になるケースが少なくないのだ。
智子は海外旅行に見切りをつけると、安定した生活を送る柴田信代の家を訪れるようになった。信代は既に夫との間に三人の子供をもうけており、子育てが一段落ついた頃だったので大歓迎だった。信代の夫も温厚で優しく子供達も智子によく懐いた。やがては家族旅行にも同行するようになって、賑やかな休日を楽しんだこともある。藤川に見せた写真の一部はその頃のものだ。
彼女が四十五歳の冬、父が脳溢血で亡くなり母と智子は悲しみに暮れた。母が遺産を相続したのだが、既に七〇歳を過ぎて高齢で足腰が衰え始め、年金生活で殆ど生活能力が無いために、止むを得ず智子が代理で家と土地を売却してマンションを買い、一緒に暮らすことにした。もともと仲の良い母娘なので、一緒にスーパー買い物に行ったり、掃除洗濯は智子がこなし、料理を母が担当して二人の生活が回りだした。それは穏やかで、充実したものだった。特に、仕事で遅くなり疲れて帰って来ると、食事が用意されていると心から有難いと思った。母親はそんな娘を誇りに思っている。仕事を頑張り、自分の面倒を見てくれる娘に感謝していた。もう結婚だとか孫だとかを口にすることはなくなった。娘が仕事に行っている間、母は新聞に目を通し、テレビを見て過ごしていた。
そうするとふいに昔の記憶が甦ることがある、元気だったあの頃、たくさんの人が周りにいた……。変わった人もいたが、面白い人が多くいつも笑っていた気がする。特にお父さんが面白かった。時々テレビに出ては面白いことを言っていた。あの時代は、未来は素晴らしいものになると、多くの人が信じていた……。智子は母の妙に冴えた弁に乗った昔話や自分が小さかった頃の話を楽しく聞いていた。しかし徐々に同じ話の繰り返しが多くなったので、智子はわざと質問を入れて、同じ話題にならないように工夫した。
「今がその未来なんだ…… 」母はぼんやりと思った。不定期なことであるが、母は頭がこの上もなく冴えわたる時があった。突如として外部から入ってきた情報から、真理と思えるものが見えて「ああ、こういうことだったのか」と悟り、確信に満ちる瞬間があった。そんな時、智子は母が別人になった様に矍鑠として何でも知っているように見えて驚いた。「もしかしてこれがおばあちゃんの知恵袋的なものなの? 」ただそれは長くは続かず、翌日になれば、何を語ったのか? とけろりと忘れてしまうのだ。
例えばあるヴァラエティ番組を観ていて、ある有名コメディアンが自分では面白いことをせずに、若い人にやらせて批評しているのが不思議に映った。他の『大物』扱いの人は、番組の中で日曜大工をやったり、掃除をして回っている。何故本業の芸を見せずに、それほどのものでもない素人仕事を見せて、どこが面白いのかわからない。時代が変われば笑いの質が違うとか尤もらしく言うが、誰もが見ただけで笑い転げる芸があってこそ『大物』と呼ばれるのに相応しいのではないか。
昔は普通に老若男女がテレビを見て笑っていたではないか。すると、今の視聴者は笑いの目が肥えてきているので、老若男女にウケるのは至難の業だという。しかし、みんな貧しくて苦しかった昔の人々を笑い転げさせる方が至難の業だったのではないだろうか。みんなそれを観て笑い、明日を生きる糧としていた。それは当時を生きていた者なら誰でも実感していたことである。芸を体現して見せての、名コメディアンではないのか。出来ない言い訳をしていないで、本業の面白いことをして笑わせて欲しい。批評は視聴者がするべきだ。
今の笑いは、馬鹿なことをしたり、素っ頓狂で無責任な発言をしたりで、視聴者から笑われているだけで、自分は少しも笑えない。芸能人が街をぶらついて、一般人にもてはやされるところを見ても、すこしも面白いとは思わない。芸能人の誰が一流の見分けがつくのか目利き比べをしたところで、何の興味も湧かない。誰が幾ら稼いでいたとか。昔誰と誰がつき合っていたとか。そういうネタを公開することで世間の耳目を集める者もいるが、それが面白いとは思えなかった。
ワイドショーを見ても、スキャンダルやゴシップは昔からあったが、知ることで驚きを感じて見入ったものだったが、今ではただ呆れるものが多い。政治家のゴシップにしても同様だ。それではいったい自分はこれから何を楽しみに生きたらよいのだろう。編み物やパッチワークなど、細かい作業はもうやる気になれない……。ドラマや映画を観ても、母を唸らせる作品に出会うことはなかった。彼女は言うには「みんなきれいごとばかりで嘘くさい」だった。母親はひょっとして自分は、老いらくの中で頑ななものの考え方に陥っているのかと不安になり、智子に意見を聞いた。
「それは多分『テレビの視聴者離れ』というものよ。お母さんは鋭いと思うわ。きっとみんなどうしていいのかわからないのよ。お母さんからそんな話を聞くとは、事態はいよいと深刻よね」と笑った。
母は時々思い出したように、娘智子の幼い頃の話をすることが多くなった。智子は驚いたが、覚えのある話になると、ついつい聞き入ってしまう。よく行ったレストランだとか、デパートのことを昨日のことの様に語ってくれた。その言葉の端々に、母も父もこんな自分を愛し、可愛がってくれたんだなとわかり、嬉しくなるやら悲しくなるやら、胸が熱くなったものだ。
そんな話も今や良い思い出。母はその後、激しい頭痛と嘔吐に悩まされた。間もなく、なんだか景色が二重に見える。赤く見えると言って倒れて、そのまま亡くなった。くも膜下出血であった。仁科智子は、四七歳の冬。独りぼっちになってしまった……。
柴田信代の話は一旦ここで落ち着きを見せたようだった。思いの外長いものだったが、藤川は少しも退屈しなかった。普通に暮らしている人が、自分の友人が行方知れずになった時に、警察官に対してできるだけわかりやすくその人柄や趣味趣向を正確に伝えようとすると、どうしてもとりとめのない話になってしまう。その人柄や趣味趣向を伝えるには、何かエピソードを話すのだが、その背景を説明しないと他人には伝わらないのだ。
藤川は彼女の話を聞き表情を見ながら、仲良し三人娘の人生模様の中で、仁科智子の性格や行動がわかった。イケイケだった綾子が若くして亡くなり、今では智子は行方不明。目の前の信代だけが、親友の智子の心配をする余裕を持っている。三人の内一人だけが人並みの生活を送っているとは、中々に波乱に満ちた人生物語である。もしも信代に大きな問題に苛まれて日々の生活に汲々としていたら、警察に相談に来ることは無かったであろう。藤川はそう思った。
仁科智子は、会社での地位を得ることができたものの、残念ながら恋愛、結婚には至らず、父が亡くなり、母も亡くなってしまった。お気の毒ではあるが、事実は受けとめるほかない。彼女が独りになったのは、ほんの二年前だ。しかしそんな彼女はそれほど不幸な人生だとは思えない。それがどうして行方知れずになってしまうのか? それが知りたい。藤川はそのようなことを信代に伝え、彼女がどんな様子で何を語ってくれるのかを待った。
信代は飲むつもりなどなかったミネラルウォーターを飲んで喉を潤し、視線をやや上に向けて記憶を手繰り寄せ、見えなくなってしまった智子の幻影を追っているように見えた。藤川は話のポイントをつまんでメモを取っていた。既にレポート用紙三枚分に達している。
第九章
智子の母の葬儀には信代も参列した。数年前に父が亡くなったばかりなのに、こうした不幸は意外と続くものだと誰かから聞いた。智子は悲しみにくれながらも気丈に喪主を務めていた。彼女は悲しんでいたが寂しさも感じており、芯を失った駒のようなものだった。忌引き休暇の間は、必要な手続きを行い。それら一つ一つを済ませて行く毎に、自分は完全に一人になってしまったことを痛感した。もう何もやる気が起きない。何もかもがどうでもよくなってしまった。食欲もない。着るものなどどうでもいい。外になど出たくもない。暗くなっても明かりもつけない。暗闇の中で家電(多分冷蔵庫)の何かが音を立てることにも怯えた。生命を維持するぎりぎりの状態になって、夢遊病者のように起き上がり何かを食べ、何かを飲んだ。時計も見なくなり時間の間隔が失われた。意識が無ければ眠っていて、意識があれば起きていて、それでも何も考えなかった。身体は寝た状態のまま殆ど動かさない。
そうゆう状態で何日かが過ぎて電話が鳴った。その全く遠慮のない音は、耳に刺さるようで、自分を責め苛むものでしかなく、恐ろしくて出ることが出来なかった。それは何度か鳴って切れ、その後又鳴るのだ。智子は漸く電話に出ることができると、会社の部長からだった。相手が誰だかわかると、今度は会話というものをしなくてはならない。忌引き休暇はとっくに過ぎていて、それでも会社に来ていないので心配になって電話したという。智子は色の褪せた声で挨拶を振り絞り、会社どころか外に出れないと伝えた。その声は、聞いた者を震撼させるものだった。
会社での彼女を知る者なら、耳を疑い信じられないものであった。しかしあくまでも個人的なことなので、会社としては気休めの言葉以外には伝えることがない。会社規定に沿って、まずは有給休暇があるので、今はお辛いでしょうが、乗り越えられましたら顔を出して下さいと電話は切れた。智子は何日かぶりに人と口をきいたのだが、それに対してなんの感情も湧いてこなかった。
その後、再び電話が鳴った。その音は同じはずなのに、なぜか今度は恐れを感じなかった。母親からのような気がして、智子は電話に飛びついた。「お母さん」と叫ぶ。相手は信代だった。葬儀の後、何度電話しても出ないので心配になり毎日のようにかけ続け、漸く出たと思ったら、いきなり「お母さん」では、ただならぬものを感じた。
家族と普通に暮らしている信代にとって、今の智子は明らかに常軌を逸していた。即座に彼女のマンションを訪ねて部屋に入ると絶句した。カーテンを閉め切った暗い中で、彼女は異臭を漂わせてぽつねんと立っていた。顔は蒼白くやせ細っていて、こんな生気のない智子は見たことがなかった。信代はしっかり智子と見つめ合った。やがて口を開いた。
「お母さんが亡くなって辛かったのね……。でも、お母さんが今の智子を見たら、どう思うかしら。私もどれほど心配したと思ってんの、いい加減に立ち直らないと怒るわよ」
信代はそう言うと、しっかり彼女を抱きしめた。彼女は母親に抱きしめられた記憶が強烈に思い起こされて涙が溢れた。そして声を上げて泣いた。まるで子供のように。彼女はずっとこうして欲しかったのかもしれない。身体ごとしっかり抱きとめられていたかったのかもしれない。智子は一頻り泣くと、相手は母親ではなく信代だとわかってきた。自分を本当に心配してくれているのだと思うと、嬉しいやら申し訳ないやらの感情が湧いてきた。目を開けると、開いたカーテンから入って来る日差しが眩しかった。
ここは自分の部屋で現実の世界……。私の身体はここにいるけど、心はどこにもいなかった。それが漸くわかってきた。信代が来て、こんなに心配してくれている。有難う。会社からも電話があった。有難う。自分が真の孤独ではないことがわかると、気分がよくなってきた。いや、気分というものが湧いてきたような気がした。生きる為の自律神経以外のものが漸く機能を始めた気がした。
智子は自分の中で、それだけの処理を行うと人心地がついた。「ノブ。来てくれて有難う。もう大丈夫よ」と言った。信代は、願が成就したように智子の顔を見直した。顔色は相変わらず優れないが、気が入った顔になっていることがわかり、嬉しくなって今度は人間・仁科智子に抱きついた。
仁科智子はこうして母の死を乗り越えた。信代がおかゆを作って二人で食べた。それから汚れ物を洗濯機に放り込んで、窓を開放して二人がかりで大掃除を行った。カレンダーを見ると、十日間もこういう状態だったとわかった。普通の生活を取り戻すのにそれから三日を要して、漸く会社で仕事をするまでに回復した。
あの時の自分を振り返ると、母の死で自分の気持ちがどんどん落ち込んで行ったことは自覚できた。そして多分底まで行った時、『無』になったと思う。あらゆる感情、欲望、思考、反応がなくなり、生死さえもどうでもよくなっていた。この経験がきっかけとなって、彼女は心とは何かを研究するようになった。インターネットで心理学の情報を得たり、図書館や本屋で関係書籍を読んで勉強をしてゆくと、色々なことがわかってきた。
自分の心は、自分だけの独特なものだと思いがちだが、実はかなりの部分に共通性があることがわかっている。それは男女の差はあっても民族の差は、あまりないこともわかっている。とはいっても、ものの感じ方や外部刺激の反応などの差は、民族で異なるし個人差があるのは歴然である。それは、生まれ育った環境や情緒教育のレベルによって生まれるものだとされている。
その証左として、顔の表情を見て察する感情は共通している。楕円形の中心に鼻を置いて、他のパーツである眉、目、口や皺などの位置や大きさを微妙に変化させることで感じ取れる感情、喜怒哀楽は、言語を介さなくても誰であっても共通しているのだ。両目がヘの字で、口が椀型ならば喜。眉と目が吊り上り、口がヘの字になっていれば怒。眉と目がハの字で、口がへの字ならば哀。眉と目が一の字で、口が椀型ならば楽を表現しているといって差し支えない。その他、リズムとメロディーの融合である音楽を聴いて得られる感情も共通しているといってもよい。名優の演技や、名曲の調べに国境を越えて多くの人が魅了されるのはこの為といっていい。
智子はこの事実を不思議なことだと思った。その理由は未だ不明である。彼女は忙しい仕事を無難にこなしながら、信代と好友を交えつつ、人の心の共通性の理由と癒しについての研究に没頭していた。彼女がその成果を弁ずる相手は主に信代であったが、殆どついてゆけない域に達していた。そんな時、SNSを通じて意気投合した人物が現れる。個人の名前はノブに言うことはなかったが、それは新興宗教『新世紀・人類救済の党』の幹部の一人であった。智子はメールで、日常のちょっとした変化というようなレベルで伝え、半年後には入信した。
この宗教団体は何とも大そうな名前だが、彼らは本気で人の心は万国共通であり、心を癒す共通の方法を確立すれば、人類を救うことが出来ると信じている。
柴田信代の口がそれを語った時、藤川は不安を覚えた。彼は長い(過ぎる)経験の中で、こうしたことがきっかけで行方知れずになる人が少なくないことを知っている。その他詐欺や誘拐、暴力や殺人、レイプやいじめなど犯罪につながったケースがあるのも知っている。しかし、だからといって彼女のケースもそうだと断じてはならない。藤川は冷静に柴田に言った。
「智子さんは、お母さんの死によって心が落ち込み、あなたによって回復したのですね。それから人の心に興味を持って研究するうちに、自らこの団体に入ったと? 」
「ええ、そうです。トモ(智子)は大人しくて控え目な性格ですけど、内面はとてもしっかりしていて用心深く、人に騙されたことは私の知る限り一度もないと思います。ですから、自分で心を研究していたのは、お母さんの死がきっかけで、それを追及するうちにあの団体を知り、話を聞く内に納得したのではないでしょうか」
柴田信代は、ここで初めて自分の意見を述べた。藤川主任は、彼女から仁科智子なる女性の半生を駆け足で聞き、イメージしたその人物像が彼女の意見と一致した。それなりに人生を生き、仕事に生き、母の死を乗り越えて、新興宗教に辿り着いたわけか……。藤川は結論づけた。それは決して悪いことではない。
藤川は自分の頭の中の『新世紀・人類救済の党』についての情報を掻き集めた……。教祖は、響隆盛は多分本名ではないであろうが、五十歳くらいでしっかりしており、時々報道番組に出演してコメンテーターを務めて好印象を獲得している。何かと色眼鏡で見られがちな新興宗教だが、この団体についてはまったく問題を起こしていない。最初に脚光を浴びたのは、二〇〇八年のリーマンショックの頃、日本経済が泥濘に沈む時、響が現れて人々を精神的に安定させようとした。彼は人の心の安定を重視して、冷静に円高・株安の危機に対応しようと呼びかけた。
アメリカほどではないにしても何兆円にのぼる巨額な金が失われた現実を前に、人々は失望したが響は彼らを精神的に支えたといえる。そんなもの役に立つかと非難されようとも、響は信者と共に失望した者を支えて再び立ち上がるように誘導した。そして二〇一一年の東日本大震災である。誰もが無かったことにして欲しい大津波とレベル7の原発事故。日本中が甚大な被害に呆然とする事態に、団体はボランティア活動を行い、人々を勇気づけた。勿論彼らだけの活躍で乗りきったわけではないのだが、彼らは積極的に被災者に寄り添い、支援活動を続けた。信者は増えてその活動は更に強力になっていった。
教祖の響隆盛の主張はまったくぶれていない。人の心を重視し、折れない心、折れても錆びても復元するタフで優しい心を持とう。その上で日々を活動して生きよう。と説き、著書を多く出している……。
「なるほど。行方知れずになった仁科智子さんの大体の為人はわかりました。それで『人類救済の党』に入信してからの彼女はどうでしょう。これはわりと最近で、行方知れずになるどれくらい前ですか? 」
藤川は信代の顔を見ながら神妙な面持ちで尋ねた。信代はここが一番注目されているところだと自覚して答えた。
「彼女は『救済の党』に入ったことは、すぐに言ってくれませんでしたので、はっきりしたことはわかりません。心の研究をしているとは聞いていたのですが、彼女はとても明るくなっていました。それで、何か良いことがあったんでしょう。と聞いてみると、先ほども言いましたが、信者の男性と意気投合して色々活動するのが楽しい様子でした」
「その信者の男性については重要なポイントですね。でも、詳しくは話してくれなかった」
「そうですね。彼女は控え目な上に恥ずかしがり屋だったので、あまり教えてくれなかったのですが、年下であったようです。それだけに恋愛という雰囲気はないようでした。
私としても彼女が明るくなったということで嬉しくなって、教団の評判も悪くありませんでしたし、幹部をやっている方なのですから、なんとなく安心していたのです」
「なるほど。最後に彼女に会ったのはいつ頃ですか。そしてどのような様子でしたか? 」
「昨年の五月連休です。那須塩原の温泉に行きました。その時は特に変わった様子はなくて、まだ教団の話はなかったです。その後は彼女の方が忙しくて会うこともなく、時々メールで近況を伝え合っていました」
「では、教団の話が出始めたのはいつ頃でしたか? 」
「暑かったので、夏頃だったと思います。『新世紀・人類救済の党』て知ってる? と。私も時々ニュースで聞いたくらいで、テレビでも教祖の響さんのコメントがわかりやすいなと思っていたので、知ってると答えました。でも、それくらいです」
「教団の男性の話が出たのは? 」
「やはり同じ頃です。話を聞きに行ったら、とても気さくな男性がいて楽しかったと、そして自分もボランティア活動に参加してみると言っていました。それから教団に入るとメールがあったのが、秋頃です。トモにしては随分思い切ったことをするなと」
「……ですよね。それで行方知れずになったと気がついたのはいつ頃ですか? 」
「昨年の末ですわ。暫くメールが来ないのは珍しいことではなかったですが、なんとなくメールを出したら、あまりに返事が無さ過ぎて、それで電話すると、もう解約されていて、固定電話も通じなくなっていて、びっくりしてマンションに行ってみたら、どこかに引っ越した後だったのです。それで会社に行って問い合わせてみると、トモは昨年末に早期退社したというので、もう唖然としました。私に一言も告げずにですよ」
この事実は信代には受け入れがたいものだったようで、抗議するような顔つきになった。彼女の気持ちもわからないわけではないが、新興宗教に入って仕事も辞めて姿をくらましてしまう人は意外と多い。
「彼女は何かトラブルに巻き込まれていたような形跡はありませんでしたか? 例えば金銭トラブルとか、隣人トラブル、男性関係、お酒とかギャンブルとか、そしてあなたとか」
信代は少し考え込み、出した回答はNOだった。智子との間にトラブルなど、自分には考えられない。お金には困っていなかったし、他人に貸すこともなかった。恋人の話は聞いたことがない。車は持っていないし、両親の財産を相続してマンションは一括購入と聞いていたので、借金は無いはず。誰かに貢いだり騙し取られているとは思えない。生活は質素で、お洒落も普通並で、大金をつぎ込むことはなかった。ギャンブルも一時期競馬にはまったことがあったが、単に馬が可愛かっただけの様で大勝もなかったが大損した様子はなかった。度を越してお酒を飲むこともない。事故や大病、大怪我も聞いたことがない。借金をしてまで海外旅行に行っていたとは思えない。自分の知る限りはトラブルを抱えている様には見えなかった。しかし、宗教団体には、全てを捧げた可能性はあると答えた。
藤川は、なるほどと返した。つまり彼女は十分な大人であり、突拍子もないことはしないからトラブルとは無縁に過ごしてきたというわけか。ただ、宗教団体に入ったことがきっかけで、人生が大きく変わってしまった可能性はある。それは二人の考えの一致するところだった。
「ということはですよ柴田さん。この宗教団体が仁科さんの行方について何かを知っているんじゃないですか? 」
「はい。私もそう思って、団体を訪れて尋ねたのですが、信者の個人的なことについてはお答えできないと断られてしまいました」
藤川は又しても、なるほどと思ったが、口には出さなかった。こういう件については、例え警察であっても、異常に身構えられて立ち入りは困難なのだ。ただ、一般の人の問い合わせなら案外教えてくれるのではないかと期待したのだが、やはり無駄だった。
「……それで、どうすることもできなくなって、それでも彼女のことが心配になってこちらにご相談に伺った次第なのです…… 」
藤川は、彼女の憔悴がよくわかった。彼女にとっては心配している友人の行方を掴む最後の砦が、『警察』ということだ。彼女のためにも仁科智子さんのためにも力になりたいと心から思った。藤川はペンを置き、言葉に迷う様に口を開いた。顔はゴルフでボギーを連発した時の様だった。
「……お話は大体わかりました。長々と話して下さいましてご苦労様でした。これで届けに必要な書類を作成することができます。最後に一つ確認したいことがあります。仁科さんには、お母様の御兄さんつまり叔父様がいらっしゃいましたね。親族でいらっしゃる叔父様は彼女が行方知れずであることを知っておられますか? 」
それは、友人が親族を差し置いて何故行方不明届を出しに来たのかと質すものであった。信代は答えにくそうに口を開いた。叔父さんは、彼女がまだ小学生の時に亡くなったと聞いています。死因までは聞いておりません。彼はまだ独身でしたので、智子はお母さんが亡くなって親族はもういないと言っていた。本当に親族はいないのかと問われても、戸籍を追っていけば父方の親族もいるのかもしれないが、それまでまったく親戚付き合いもないのに、いきなり親族だからと届を出す様にと、智子の友人の立場の自分から言えるものではありません。と答えた。
藤川はそうでしたかと引き取り、知らなかったとはいえ、手続き上聞かねばならないこととはいえ、すまないことを聞いたと詫びた。
「少し話題を変えましょう。柴田さん。日本では年間何人くらいの人が行方不明届を出していると思います? 」
藤川の唐突の質問に信代は驚いたが、それでも五千人位と答えてみた。藤川は持ってきていた白書を取り出して読んで聞かせた。
「昨年の受理した件数は、全国で八万三千九百四十五件です。毎年似たような件数です」
信代はその数の多さに思わず声が漏れた。藤川は淡々と続けた。
「まぁまぁ。その内所在が確認されたのは七万九千七百三十人で、九十五パーセントは所在が確認されました。しかし、四千二百十八人が不明のままです。行方不明者の年代別の統計では、十代が23.7パーセントで四分の一、七〇代以上が18.1パーセント。二〇代が17.8パーセント、三〇代が3.3パーセント。その他は十代未満と四、五十代合わせて27.1パーセントになります。
その理由は、当然何か問題や不満があったわけで、家庭内の人間関係が22パーセント、疾病関係、認知症を含むが19パーセント、その他は、事業や仕事、学業、交友のトラブルですね。ここまでは、まぁ無事だったので笑えるのかもしれませんが、事件や事故・災難に遭ったケースもあるわけです」
「事件や事故が原因ということは……、それで亡くなっていたということですか? 」
「まぁ、そういうことになりますかね」
「それでも、四千二百十八人がどうなっているかわからないんですね」
「そうです。それが毎年繰り越されて、又新たに行方不明者が積み上がるというわけです。それぞれ一人一人に名前があって、人生があったわけです。気の毒なことです。しかし、届出さえも出ていないケースもありますから、そういう意味では闇は深いと思わざると得ません」
「彼女(仁科智子)もその中に入ってしまうのでしょうか」
「……それについてですが、警察としてはこの届を受理致しますが、これによってあなたが責任を持って引き受けていただくことになりますので、宜しいでしょうか? 」
「はい」
「わかりました。次に警察の対応ですが、この行方不明者届に対して、一般家出人と特異家出人に分ける必要があります。
一般家出人というのは、民事に関する家出人を指してまして、つまり成人が自らの意思で家出したり、借金などをこさえて夜逃げをしてしまった場合などがこれにあたり、警察としては、捜査を行いません。警察のベータベースに登録して、通常の業務である警ら、巡回、少年補導、交通取り締まり、犯罪捜査の活動の中で発見に努めます。もしも発見しても、未成年者や痴呆老人など、法律に基づいた保護や特別の事情がない場合は、その家出人を保護することはありませんし、引受人に連絡をすることもありません」
「まぁ…… 」
「一方の特異家出人に分類された場合のみ、専任の捜査担当者が配置され、必要に応じて大規模な捜索活動や公開捜査が行われます。これに該当するケースは、幼児、病人、老人など、自分の意思で失踪すること考えられない者や、事故や災害に巻き込まれた可能性がある者、又は殺人、誘拐などの事件に関りがありそうな者、遺書や日頃の言動から自殺の可能性が考えられる者を指します。
これから会議を行って、仁科智子さんがどちらに分類されるのか審議されます」
「藤川さんは、どのようにお考えですか? 」
「申し訳ないのですが、私の立場では、今は何も申し上げることはできません。柴田さんがお友達の行方を心配されるお気持ちはよくわかります。ただ、こういった届は年間に八万件にのぼっており、それに対して警察が全て対応するわけにはいかないのです。それに一般家出人に関しては、民事不介入の原則があるからです」
信代は、藤川が急に冷たい役人に見えてきて失望の吐息をついた。一般家出人と特異家出人の分類など聞いたことがなかったし、自分としては智子の行方を何としても知りたい気持ちが強く、警察に探して欲しいと思ってやってきたというのに、場合によっては捜索してもらえないという。一般市民としては失望しても当然といえる。しかし、藤川から警察の実情を聞きつつ、事情をキチンと説明してもらったことで、頭の中が整理されて状況を客観的に見ることができるようになったのは確かだ。
堅実に暮らしてきた成人女性が、両親と死別して孤独になり、新興宗教に入信して身辺整理を行って、誰にも知られることなく姿を消したのであれば、これは個人の行動の自由の範囲内であって、警察が捜索するほどのことではないと、説明を受けて自分でもそう思った。やはり特異家出人の可能性は低い、と判断せざるを得ない。どんな心境の変化があったにせよ、引っ越すのであれば、せめて自分には連絡を入れて欲しかったというのが本音である。長年の友人として、あまりにも冷たいではないか。
どうやら彼女の失踪は、『一般家出人扱い』となってしまいそうな気がしてきた。そうなれば、ベータベースに登録されるだけで、通常の警察活動の中で引っかかるのを待つしかないし、引っかかったとしても保護はされないし、引受人に連絡もしないのでは、実質何もしないも同じではないか。藤川にそう訴えると、そうでもないという。
今後、身元不明の中年女性の遺体が発見された場合、仁科智子さんではないかと確認してもらうこともあり、もしかしたらそれで発見される可能性があるという。藤川は警察官なので事も無げに言うが、普通に暮らしている信代にしてみれば不定期に身元不明女性の遺体を見せられると聞くと、やはり引いてしまう。できればそれは辞退したいものだ。それにトモはどこかで生きていると固く信じているのだ。
藤川は信代に言うわけにはいかないが、このケースの事件性は薄いと見ていた。新興宗教に入る場合、身辺整理をして財産を全て捧げ、友人関係を断ち切って臨む人は少なくないのだ。彼女の場合もかなり思い切った行動に見えるが、中には親や妻や夫、子供まで振り切って信じたものに突き進む者もいるのだ。それはそれで様々な問題を巻き起こすのだが、信仰の自由は保障されなければならないのだ。