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奇人のシャッフル  作者: 小田雄二
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男を呪う女

第四章


 一月の寒い中、堀越千恵美は夜の駅を出た。家路につく足取りは重く、両の爪先が外を向く癖のままに歩く。今日は部下の結婚式に出席し、二次会まで参加しての帰りだ。三次会に行った人もいたようだが、疲れたので辞退してきた。小さな溜め息さえついて出た。

 部下の新婦は三五歳で、落ち着いた大人の美しさを存分に見せつけ、新郎は大手商社の課長代理で四一歳。育ちの良い立派な紳士に見えた。披露宴は大阪屈指の一流ホテルで挙行され、大勢の名士が臨席し田中家の威光を盛大に示していた。演出や料理、酒、サーヴィスの全ては文句のつけようのない立派なもので、それが強く印象に残った。多くの人はお似合いのカップルと囃したが、玉の輿と揶揄する声もこっそり聞こえた。酒が入ると言わなくてもいいことを言ってみたくなるのだろう。

 千恵美は五二歳で独身。国内でも有名な百貨店に勤続三〇年で営業技術課課長の肩書を持っている。これまで五〇組の結婚披露宴に臨席してきたので、それなりの評価・評論ができるまでになっていた。昔はほぼ年に三回のペースで披露宴に出席したものだが、平成になって晩婚化が浸透したためか、今回は久しぶりの感があった。新婦が寿退社で家に入るというのも今では珍しい話で、部下である新婦も新婚旅行後は復職する予定だ。

 千恵美は歩きながら、無意識に結婚について思いをはせる。二十代の頃は、新婦は皆先輩で、仕事ではとても厳しくて怖かったのに、披露宴では華やかで美しい花嫁に変身した姿を見た時には、驚きと眩しさを感じた。いつかは自分もと思ったものだ。青森のお国訛りがとれて、上品な関西言葉をやっと習得して婦人服売り場の一部を任された頃、いわゆるバブル景気がやってきて、高級品が飛ぶように売れた。華やかなトレンディドラマに夢中になって、昼休みには物語の展開を熱く友達と語ったものだ。残業でもドラマを見逃したくなくて、無理してビデオレコーダーを買った。栄養ドリンクを飲んで二四時間働けってテレビでやってたっけ。

 とにかく八十年代は、社会全体が元気で明るかった。いつしか友達と海外旅行に行くようになり、値段を気にせず美味しいものを選んで毎日食べるようになった。そして先輩、同僚、後輩までもが結婚して寿退社していった。何度「お幸せに」と見送ったかしれない。

 そして三十代、そろそろ自分もと思っていたのだが、そのような相手が現れることはなかった。友達にドラマではない現実の恋愛話を聞いて、恋の馴れ初めから円満の秘訣、セックスの手管、そして失恋の対処方法までの情報をたくさん頭にすり込んだ。そういうことは不思議とすっと頭に入るもので、他の人もきっとそうだと思っている。そうでなくては、誰それの恋のエピソードがこれほどリアルに思い出したり語れるはずがない。そうでなくては女同士の話は盛り上がらないのだ。彼女は自分のスマートフォンに、聞いた他人の恋愛話を入力して保存するようにしていた。それで恋愛シミュレーションをすることが密かな楽しみであった。

 やがてバブル景気がはじけ、物が売れない時代がやってきた。それが始まった頃は、よくわからなかったが、終わったことはセンセーショナルにテレビがすぐに教えてくれた。物が売れない中で顧客にうまく傅いて自分は売った。更に成功(売れた)・失敗(売れない)ケースをまとめた冊子をつくり、職場メンバーに配布して活用してもらい、戦略的に顧客を増やして、良い品を多くの顧客に届けて業績を上げた。

 流行物は廃り物という言葉があるが、流行物に頼ってばかりいてはすぐに行き詰る。彼女は、流行物は実は創れることに気づいた。わざわざお越しいただいた顧客は、何かベストなものが欲しいのだから、自分のセンスでベストなものをお勧めし、それを身につけて出かけてもらって、宣伝していただくのだ。そして人に「それどこで買ったの? 」と聞かれれば、「それ、素敵ね」と褒められたことになり、顧客にとってそれは嬉しい出来事として記憶され、おそらく再びのお越しになる。

 千恵美は顧客の話を聞いて、望むものをただ提供するのではなく、他人が見ても素敵に映る姿を保証する技術を身につけたのである。

 顧客は喜んだし、自分たちもやりがいを感じたのでウィンウィンだと思っていた。しかし仕事に没頭していたから、自分の恋愛については全然であった。恋の馴れ初めの話はもう三桁くらい覚えているというのに、自分は、そのどれにも該当しないレアケースであることを思い知った。

 社内恋愛はすぐに耳に入るし、セクシャルハラスメントも日常的にあったが、それが深刻な社会問題に発展するようになったのは、この頃だと彼女は記憶している。以前はお尻や胸をちょっと触る人がいても、「やだぁ」と笑って済んでいたのに、今では本当に厳しく禁止されている。不倫やW不倫も時々耳にしていたが、殆どが裏で泣き寝入りとか自然消滅で片づいていたというのに、今では表沙汰になることが増えて、クビになった人も聞くようになった。自分も胸が大きいために視線を浴びたり、ちょっと触られたりしたことがあったが、そんなものかと思っていた。今ではそれらは職場では絶対禁止事項で、発言すらも厳しく制限されている。

 四十代になると、現場からは身を引いて、職場全体の売り上げを上げる技術を考える職場に異動になった。そこで従業員の特性を伸ばしながら、品性を身につけるように提案・指導した。同じ接客サーヴィスでも、凡庸な者より気品や教養ある者に傅いてもらった方が、顧客が喜ぶことを知っているのだ。その結果については今でも誇りを持っている。しかし、二十一世紀になっても結婚どころか恋人すらできなかった。

 これではいけないと思い、同僚と結婚相談所に登録して、お見合いパーティーやお見合い合コンなどに参加したが、友達の方が先に結婚した。あれほど意気投合して男なんてと言っていたのに、結局寂しさに負け、あるお見合いパーティーで相性がピッタリだと紹介された、野村という男と結婚したのだ。彼女とは入社以来馬が合い、ずっと気の置けない関係で、面相や容姿は自分の方が良いと自負していただけにショックだった。

 千恵美はこの野村が第一印象から好きになれなかった。痩せていて目がどんよりと濁っており、ヴィンテージものかい! と突っ込みたくなるほどのよれよれのスーツを着ていた。四十過ぎてもフリーターで生活感が感じられず、小説家になるのが夢と語っていたので、「こりゃ駄目だ。ねぇ」と友達に同意を求めようと顔を見たら、なんと彼女はまんざらではなさそうだった。結局野村が猛アタックして結婚してしまったのだ。

 婚約指輪は大きなガラスダイアモンドで、披露宴も新婚旅行も無し。野村が裸一貫で彼女のマンションに転がり込んでから七年になるが、野村は相変わらず無職で小説を書いているが、作品が完成したとは聞いたことがない。子供が二人できて、遊びに行くと「おばちゃん」と呼ばれてショックを受けた。思わず「お姉ちゃんやろ」と言うとケラケラ笑うのだ。ギャグだと思っているらしい。

 彼女に野村のどこがいいのか尋ねたことがあったが、「あの人あたしがおらんかったら、死んでたかもしれへん」と思ったのだそうだ。「存在感は半透明で、スーツもよれよれやったけど、万年筆だけはモンブランで、よう使い込まれてた。あの人はいつかきっと素晴らしい小説を書かはるて」と五十を過ぎてもまだ信じているようだ。

 野村のような男は世間ではヒモというようだが、今では主夫ともいわれてマメに家事と子育てをこなし、浮気もせずに彼女と暮らしている。彼女は千恵美に野村の愚痴をよく漏らすことがあるが、それがガス抜きになっているのか、うまくいっているようだ。今では野村を少し見直しているし、夫婦がなんとか円満で子供までいるのが羨ましくなっている。

 一体女の幸せって何なのよ! あたしだって素敵な恋愛して結婚したいの! と叫びたくなる衝動がある。カルティエの腕時計を見るとまだ九時過ぎ。こんな夜は馴染みのバーでマスターに話を聞いてもらおうと決めて、外股の足を早めた。


 千恵美はバー『神山』の地味な樫木のドアを開けた。カランカランとカウベルが響くと暖かい空気が頬を温めてくれ、ウィスキーとアロマの香りが出迎えてくれた。店の昼光色の薄暗い照明が彼女をホッとさせてくれる。カウンターに立つマスターの神山がいつものように立っていた。

「まいど。いらっしゃい」

 髪が薄く額が広くなっているが、かえってそれが魅力的な痩せたマスターが温かい笑顔で愛想よく迎えてくれた。

「こんばんは」

 千恵美もつられて半笑いでカウンターの奥側端の席が空いているのを確認すると、どっこいしょと腰かけた。どうやら彼女の指定席になっているようだ。店には男女が五六人ほどの客が各々テーブルに付いていた。神山が雇っているホステスが程よく酒の相手になっている。何だかわからないけど気分が落ち着く音楽つまりジャズが鳴っている。

「今日は結婚式だったんでしょ? 」

 神山が自分のスケジュールを覚えていてくれたのを少し嬉しく思いながら、いつものカクテルを注文すると、彼はそれが当たり前のようにつくりはじめた。勿論千恵美は披露宴について語り始めた。新婦のこと新郎のこと、馴れ初めから交際にいたるまで、話は尽きない。新郎は良家のお坊ちゃんらしく、「ありゃ、絶対マザコンやわ」と言って神山を笑わせた。「玉の輿ですね」と彼が調子を合わすと、彼女が「はいな。あの娘は狙ってホームラン打てるタイプ」と応えた。それから披露宴についての解説。場所は大阪では一流のOホテルだけあって、料理はフレンチで美味しく、ワインも上等で美味しかった。司会がフリーになったばかりの女性元アナウンサーだけに仕切りは完璧で余興も非常に楽しかった。と上機嫌に語った。

 神山は彼女の鋭い観察力とそれを語る能力を高く評価していた。新郎新婦の出で立ちは勿論臨席者の着ている正装服や身につけている時計やアクセサリーに自然に目をやって、あれは何々、これは何十万と見積もり、料理の名前から味の具合、ワインに至るまで、見たもの口に入れたものをわかりやすく聞き手に伝える能力に関しては逸品と言える。彼は常に他の客に目を配りながらも、千恵美の解説にはついつい真剣に聞いてしまうのだった。それだけでも一時間は楽に経過している。

 千恵美が上機嫌に話しているかと思えば、二次会になると立食パーティーでそこで見かけた男女のことになると、急にトーンが下がった。何が悪いわけではない。人の中を泳ぐ様に優雅に挨拶を交わして、気が合う相手とお話をする。一対一で照れるならば、グループで、といった二次会ではよく見かける光景になると、彼女は独りぼっちになってしまうというのだ。

「まったくきょうびの男ときたら、指環くらい確認せえちゅうねん……。ウチはノーリングや! 」

 千恵美がその場で出来なかった表情、つまりは口と目を尖らすと、神山は笑うと失礼になるし、真剣な顔をするのも場にフィットしないので、ぎりぎり目を伏せるに留める。

 彼女は年齢相応の上品なコーディネートで、一部の隙もない出で立ちでワインを片手に優雅に男性に挨拶をすると、まず既婚者(人妻)に見られてしまうのだ。しかも大きな子供がいるお母さんという見立てだ。「今日はご主人の目から離れて…… 」などと言われると、いきおい歯切れが悪くなってしまう。

「ウチもこの歳やから、もう気に入った男性がいたらいきますよ。そやけど行くたんびに母親にみられてはかなわんわ。でもね、相手も大体既婚者なんよね~、そんで世間話で子供の話されて、お子さんは何人? て聞かれたらウチどうしたらええのん? 」

 神山は耐える。

「……そうですね~、私は千恵ちゃんが独身て知ってるから、間違わんけど、知らん人やったら、既婚者に見てしまうかもしれませんな。しっかりしてるしな~ 」

「しっかりて、ホンマ男性らもしっかりして欲しいわ。ああいう二次会の席では、始めに既婚か独身かはっきりわかるようにバッジかなんかつけたらええのに」

「それやったら、もろにお見合いパーティーやがな」

「それもそやな」

 これでおちのようなものが出来て、漸く神山は笑うことができた。千恵美も笑った。

「そういえば、マスター先週のあれ見た? 」

「あれて、何ですの? 」

「テレビでやってた、お見合い大作戦よ」

「ああ、あれね。見てない。千恵ちゃんああいうの好きやねぇ」

 千恵美は『お見合い大作戦』というテレビ番組をよく見ていた。楽しみにしているといってもよい。どこそこで嫁不足に悩む地域、或いは職業柄女性との出会いが極端に少ないというところがテレビ局の『お見合い大作戦』企画に応募して、結婚を真剣に希望する女性を募集して集め、タレントと一緒に訪れてお見合いパーティーを行い、そこで繰り広げられる男女のドラマを放送するという番組だ。

 彼女は出演している男性陣全員をつぶさに物色し、参加した女性の容姿をチェックしてその言動を観察して性格判断までして品評する。そしてクライマックスで男性が女性を一人選んで告白する場面を本気で一喜一憂することを喜びとしていた。自宅でビールを飲みながら、応援したりけなしたりぶつぶつ言っている光景は、誰にも見られたくはない。

 毎回熱心に番組を見ている内に、男性陣の三倍から四倍の女性達が参加していることに気がついた。男性参加者は女性に告白する権利があるので、一人一人丁寧に取材してそれぞれ注目されるのだが、女性参加者は容姿や年齢、職業が様々で全員が取材されることはない。いわゆる一番人気の女性に注目が集中し、続いて二番手三番手、テレビ映りが良いとか、バツイチ子持ちなどの話題性や面白いキャラなどが取り上げられ、お見合いプログラムが進行していく。その中には、放送時間の都合でカットされた男性の告白場面で受けた女性が映らなかったりすることがある。それに、全く注目されず誰からも告白を受けずに終わってしまう女性が数多くいるのだ。千恵美はそんな浮かばれない彼女達に本気で同情を寄せるようになっていた。

 自分なりに真剣に考えて番組に参加した結果、何にもならずに可哀想。自分は実は二度応募したことがあるが、いずれも書類選考の段階で落ちていることを考えれば。参加できただけでも素晴らしい。自分などはまったく問題外な存在だけに、一層の惨めさを感じるとともに涙が出てしまうほどに同情してしまう。世間は、いや、男は残酷だと心底思う。そして浮かばれない自分と告白を受けることなく終わった女性参加者が重なって呪いの感情さえ湧いてくる。

 千恵美が徐々にくだをまき始まると、神山にしてみればマスターとして難しい対応を迫られる。彼女の気持ちがわからないではない。恋人が欲しいのに出来ない。勇気を出して自分から行っても、体よく断られてしまうことの連続。気付けば既に五十を過ぎた。一年が本当に短く感じるようになり、このままでは女としての人生が終わってしまう。そんなの嫌だという考えは至極尤もである。彼女はそれでも恋愛・結婚に憧れている。

 そういった事情は、常連客である彼女から何度となく聞かされて頭に刷り込まれている。可愛そうに、気の毒にと本当にそう思う。しかし彼女に対しては、上辺だけの慰めや励ましは通用しないことも知っていた。苦い薬を飲み込まず、口に含んだままのような顔をして、彼女の気が済むまでここで憂さを晴らしてもらうのが、神山のできることであった。そんな神山の態度が彼女には煮え切らないと映ったのか、声が徐々に大きくなり、他の客の耳にも届くようになっていた。神山もやんわりと注意するのだが、今日の千恵美は普通ではなかった。

 そんな時、千恵美の肩口から声が聞こえた。それはジェントリーでよく通る声であった。

「御機嫌いかがですか。ちょっとよろしいですか? 」

千恵美と神山はその声がした方を見た。見かけない顔で、テーブル席で一人飲んでいて、時々ホステスをからかうくらいの客だった。

 彼は神山と目が合うと、小さく頷いた。神山は「俺にまかせろ」というような意味と理解して、幾分ホッとした。千恵美は彼と目が合うと、素早く脳内のアドレス帳を検索して知人かどうかをチェックし、初対面と判断した。驚きと警戒が混じった不躾な視線を送る。しかし怪しい人物には見えなかったので、「どうぞ」と応えた。彼は「失礼」と言って彼女の右隣のカウンターに腰かけた。

「いえね。実のところ、あなたは声が大きくて活発な方だなと感心していたんですよ。ところが段々と悪い酒になりそうな雰囲気だったんで、ちょっとお邪魔した次第なんです」

 その紳士は人懐こい笑みを浮かべて、神山に彼女と同じものを二つ注文し、まずは型通りに乾杯し、粋にグラスをチンと鳴らした。これで笑顔にならなければ、妖怪だ。

「話は大体耳にしました。あなたは世の男性を呪っていらっしゃるようで、そこで私も世の男性の端くれとして、やってきた次第です」

 千恵美は改めてこの紳士と目を合わせた。職業柄服のセンスにはうるさいのであるが、上質な黒を基調とした冬物スーツを粋に着こなし、白シャツと目立つ艶のある青ネクタイのコーディネートも完璧なその姿は、重厚で余裕のある遊び人と見た。遊び人といってもちゃらちゃらした軽薄なものでなく、風格が備わり同世代だからわかり合えるという雰囲気があるので、警戒心を解いて話をしてみようと思った。

「言葉が標準やし、東京から来はったんですか? 」

「私は埼玉県、東京の少し上から来ました。木下と申します、どうぞ宜しく」

「ウチは青森の生まれなんやけど、大阪暮らしが長いんですっかり染まってしもうた堀越といいます。宜しく」

 二人はこうして極自然に自己紹介をした。名前と年齢と職業、そしてお互いが独身であることを伝えた。彼女はこんな紳士が独身とは意外に思ったが、妻と乳癌で死別と聞いてすとんと腑に落ちた。そういう話を初めて聞いて、それで子供三人を育て上げ、今では長男と会社経営なんて、素敵やわという言葉が出たことは、彼女自身が驚いた。

「いえいえ、それ程のものでは。人は皆それぞれ人生を生きているのです。今日も、明日も、その中には色々あるんですよ。あなたが御自分の人生を嘆いておられるのは、非常に人間らしいと思います。そういう夜もあっていいでしょう。私だってそうです。振り返れば、ああしておけば良かったということばかりです。しかし、世の男性に対して不平を漏らしたところで、これはもう大海に砂を投げつけるようなものです。

 世の中、男と女しかいないのですから、もっと仲良くするべきなのです。たとえ今日までのあなたに良い人が現れなかったとしても、明日はわからないですよ」

「またまたそんな調子の良いこと言って、ニューハーフだっておるやないですか? 」

「はっはっは、御冗談を。彼らだって性別は所詮オスですよ。つまり男、身体は女性で気持ちは男性というのもいますが、所詮女性です。表層だけが妙にややこしくなっているだけで、生物学的にいって男と女、オスとメスこれ以外の性は登場していません。男と女だけでも、これだけトラブルがあるのですから、もうたくさんでしょう。

 表層といえば、あなたはよく既婚者に間違われるといって嘆いておられるようですが、それは単に見かけという表層的な部分でしかありません。そういう時は、黙り込んだり答えに窮することは少しもありませんで、『私はそういった経験はまだありませんのよ』ぐらいに言ってやれば、すぐに溶ける誤解ではありませんか。

 お見合い番組を熱心に見て、告白を受けることがなかった女性参加者に心を寄せるとは、あなたは何と感受性の強いピュアな心の持ち主なのでしょう。私はそう思います。

 私は繰り返します。世の中、男と女しかいないのですから、もっと仲良くするべきなのです。君が代の詩のように…… 」


 第五章


「……君が代の詩て、あの国歌の? 」

「その通り! 」

「君が代て、詠み人知らずで、たしか天皇さんの歌やないの? 」

「何を仰るうさぎさん。君が代の君という漢字は、くちいんの組み合わせで出来ています。このいんは、実は手に杖を持った人の姿です。古くは聖職者或いは高貴の方が口を開けて何かを説いている意味があるのです。

 次に読みですが、『きみ』です。古代の日本語では、『き』は男『み』は女のことです。日本神話で登場する最初の男女神、イザナギノミコトは男で、イザナミノミコトは女ですね。そして翁、オキナは御爺さんで、嫗、オミナは御婆さんですね。因みにそれ以前の神には性別がありませんでした。

 次にイザナの意味ですが、これは誘う(いざなう)といえば、これは誘うということで、誘い合う男と女の物語になるのです。が、我、成り成りて、成り余るところあり、と言えば、が、我、成り成りて、成り足らざるところあり、と応じ、余るところと足らざるところを合体させて子を産むのです。これって、意味わかりますよね。

 成り成りて、とは完全に成長したことを意味し、知性も肉体も成熟して、余るところ、足りないところが出てきたから、より完璧になるためにまぐわいを持って子をなす。ということです。

まあ、これは今風に言えば、男も女もしっかり勉強し体を鍛え、完璧に成長してから結婚して子供を産む。ということですかね。即ちキミとは、完全に成熟し成長したという相手を敬い、おめでたく、喜びの言葉なのです。

 つまり、『君が代は』とは、愛し敬う人、男女の時代。『千代に八千代に』は、千年も万年も続く、『さざれ石の巌となりて』のさざれ石とは、礫岩のことで日本の地勢ならではの岩石です。ご存知のように日本は大陸プレートが鬩ぎ合い、万年単位で押し合いへし合いして細かい石がくっついて地岩となり、それが山脈となって、今でもいたるところで見受けられます。地質学もなかった時代にそれが謳われるのは凄いと思います。

 更に凄いのは、さざれ石は人になぞらえているところです。古来日本では、人は生まれ変わるものとされてきました。だから人が生まれ変わることを何度も重ねて数が増え、例え一つ一つは小さな石(さざれ石)であっても、団結することによって大きな巌となる。と謳っているのです。つまり君とは男女の結合の結果、子孫が増えます。そして『さざれ石の~』の詩で彼らが固く団結(協力)し合うという象徴ととれるのです。

 そして最後、『苔のむすまで』の苔とは、濡れていて水はけの良い清潔なところの固いものの上に生育するもので、カビとは違います。そして、むす、ですが、天地に最初に現れた三柱の神の内の二柱、即ち高皇産霊神タカミムスヒ神産巣日神カミムスヒのむす、を指します。この二柱には性別はありませんが、このムスにコを付けると息子、メを付けると娘になって性別になります。面白いでしょう?  ムスとは生すと書いて、子供を養い育てるという意味があります。又前の、『苔』ですが、永遠の存在ではなく、古いものは死んで土になり、新しいものが生まれて徐々に広がりを見せることから、子孫繁栄を示しています。日本神道の中心にあるのは、生むではなく、その後の育てる、ことにありますから、古いものは土となり、新しいものを生み、育て、繁栄しようという意味が込められているのです。

まとめますと、君が代は、完璧に成長した男と女が互いにしっかりと結び付き、慈しみあって一緒になって汗と涙を流して協力し長い年月をかけて生育する。

 千代に八千代に、永遠即ち、千年も万年も生まれ変わってもなお。

さざれ石の巌となりて、結束して協力し合い強固な巌になって。

苔のむすまで、固い絆と信頼で結びついてゆこう。

 ということになりますかね。人の、ここでは日本人の男女と言ってもいいでしょう。団結と愛と繁栄を見事に謳い上げた祝いの詩なのです。この様な深い意味を、よくぞここまでシンプルな詩にまとめることができたと、私は驚きを隠せないのであります…… 」

 千恵美は知らない間に涙を流していた。それを拭くことも忘れていた。息をしていた記憶もない。瞬きをしていたかも定かでないが、木下が静かに語り終えたとたん、目に見えるすべての景色に色がついて、時間が動き出したような気がした。彼女は彼の話を耳で聞いたというよりも、彼の目を見た瞬間に視線を外すことができなくなり、互いに見つめ合うことによって、心に直接『君が代』を入れてもらったような感覚だった。神山などは口をあんぐりと開けたままで聞き入っていた。そしてその場にいた誰もが、酒を飲み喋ることを忘れて、無意識の内に木下に近づいて話を聞いていた。

 千恵美はこれまで、人の話を聞いてこれほど深く感動したことはなかった。自分だけを見つめてくれ、優雅な所作でパーカーの万年筆を取り出し、サラサラとナプキンに達筆な文字を記しながら、優しい声でゆっくりと語り掛けてくれたのだ。これが心に響かぬわけがない。

 しかも誰もが知っている君が代の内容について、これほどわかりやすく教えてくれた人などいない。そして、このような深い意味があったとは全然知らず大きな衝撃を受けた。ともすれば全く誤解していたわけであるから、それが恥かしくもあり同時に今知って理解することができて本当に良かったと思った。彼女の頭の中の語彙で、「目から鱗が落ちる」という言葉が浮かんだのだが、今は口にするのも恥かしいと思って打ち消した。

 それにしてもこの木下と名乗る人物が、まるで偉人に見えた。そもそも自分が酔ってくだをまいたところから急に現れた人物である。さり気なく近づいてきて、こんな自分を励ます意味で始めた話(講義といってもいいだろう)だ。千恵美は漸く人心地がつくと、バッグからハンカチを取り出して涙を拭いた。

「……なんや知らんけど、無警戒のところにいきなり物凄い話入れてくれてホンマに有難う。君が代にそんな凄い意味があったなんて全然知らんくて、ホンマは日本人の男と女が慈しみあい団結して繁栄していこうという詩やったんやね。知って良かったわぁ、久し振りに感動したわホンマ。

 木下さんの言う通りや。世の中ウチも含めて色んな人がおるんやから、今日までのこと愚痴っててもしゃあないわなぁ。重要なんは明日からや! 」

「わかっていただけましたら、話した甲斐があったというものです」

「それにしても、木下さんホンマにお話が上手ですねぇ。びっくりしました」

「ホンマに聞き入ってしもた。ここは大阪やから御話上手な素人さんはぎょうさんいてるんやけど、木下さんは抜群やね。なぁ」

「そうそう、わしもいつオチが来るんかいなと思うて待っててんけど、最後まで真面目な話で押し切りはった。こら凄い話でっせ」

「ウチも明日誰かに教えたろ……て、言えるかい! 」

 皆が口々に木下に賛辞を送り、色っぽさを売りにしているホステスが大阪名物乗り突っ込みを披露してくれて、みんながどっと笑った。

「いやぁ、ホンマにええ話聞かせてもらいました。木下さんは物知りや、そんでなんぼものを知ってても、それを人に上手に聞かせることは中々難しいもんですわ。これ私の奢りですから、初めに飲んではった奴のおかわりです、どうぞ飲んで下さい」

神山はまるでタレントに出会ったように目を輝かせてウィスキーオンザロックを手早く作って差し出した。木下は礼を言ってグラスを受け取り、ぐいと飲んだ。

「いやー、これは又格別の味わいですね。物知りだなんてとんでもありませんよ。私はこの堀越さんに元気になってもらいたいために、真剣に話をしたまでなんですから」

 木下は謙遜して照れた。それから少し話をして時刻は十一時前となり、神山は店じまいとすると、お客はそれぞれの会計を済ませ「ほなまたな」と帰って行ったが、千恵美は酔っている様子なので、神山がタクシーを呼んだ。木下は歩いて帰れるところのビジネスホテルに宿をとっているので、タクシーを待つ間、千恵美と話をした。是非又お会いしたいと千恵美が言い、木下は快諾したことによって、千恵美は男友達がやっと出来たと泣いて喜んだ。この心温まる光景に神山とホステスは、「良かったな、千恵ちゃんホンマに良かった」ともらい泣きした。

 やがて千恵美のタクシーが店の前に到着したと神山の携帯電話に連絡が入ると、木下は二万円を支払い、釣りは受け取らなかった。そして紳士的に千恵美をエスコートしてドアに向かった。神山が「出来立てのカップルや! お似合いでっせ」と景気良く囃そうと二人の後ろ姿を見た時、その威勢は消え失せた。そしてぞくぞくと寒気がして鳥肌が立った。神山の異変にホステスが気づいたが、あまりの彼の表情に声をかけることができなかった。

 木下が帰り支度にスーツに合わせた黒っぽいコートを颯爽とはおり、ポケットから黒茶系の山羊革の手袋を取り出して付けると、「ささ、帰りましょう」と手際よく千恵美の肩を抱いて立ち上がらせ、ドアに向かったその後ろ姿が、死神が千恵美を死の国に優しく連れてゆく光景に映ったのだ。


 神山は前にそんな油絵〈確かフランス絵画〉を見たことがあった。

その絵は。農夫がペストで死にかけているところに、黒っぽい出で立ちの死神が現れ、死の国へ連れて行く光景を油絵に閉じ固めた作品であった。

 死神といえば、大きな洋式草刈り鎌を持ち、黒いマントに骸骨姿で、おどろおどろしく恐怖を煽り、人を死に追いやるものと思っていたが、その死神は、スタイリッシュで優しそうに描かれていた。

 絵画という静止したものを見ていると、不思議と色々なものを感じさせてくれる。物語さえ想像させてくれる。学生だった頃のある日の神山は、その絵を見て物語を読み取り、暫く立ち尽くしていた。

粗末で不潔なベッドの上で、ペストの末期症状で悶絶する農夫の元に死神が現れて、彼の人生を瞬時に読み取った。粗末な小屋には、一切れのパンもなければ水もない。二三歳で性格は善良で内気で大人しい。文字は読めないし計算もあまりできない。親とは既にペストで死別。親戚も友人も恋人もいない童貞。日の出から日没まで農場でこき使われ、休めば昼と夜のパンとバター、ミルクにチーズとスープにはありつけない。死神は彼の楽しみを探し、漸く見つけたのが、農場主の娘と子犬と遊ぶことだった。輝かしいはずの夢や希望は小さく形をなしていない。見えるものは、孤独・寂寞・怒り・憎悪・殺意・苦しみ・疲労だった。悲しみはもう使い果たしたらしい。高熱に苦しむ姿を見て、余命はもう幾ばくも無い。これでは生きていることの方が地獄と見た。それならば、この世から退場させてやろうという温情すら感じさせる死神であった。

 神山はその後数十年という歳月の中で、このことをすっかり忘れていたのだが、目の前の現象光景のおかげで、なぜかデジャ・ビュ(既視体験)感覚に陥った。

今までこのようなことは一度もなかった。木下を見ても死神を連想させるものは何もないのに、なぜ瞬時にあれが甦ったのか、その構図がぴたりと一致していたのかもしれない。しかしよりにもよって死神とは……。


 それから二カ月が過ぎた三月の末。神山は相変わらず大阪の下町でホステスと、バーを切り盛りしていた。あれから千恵美は一度も店に来ていない。たしか五六年前から月に二三度のペースで人懐こい笑顔を見せてくれたのだが、何かあったのだろうか? と思うときがあるが、こういう水商売を長くやっていると、そんなことはよくあることだ。それほど気に留めることはない。しかし千恵美と交際することになった一見さんを思いだそうとすると不思議な感じがした。なぜあの時死神の絵を思い出したのだろう、そしてもう顔も名前も思い出せないし、君が代の意味を教えてくれたということがおぼろげにあって、内容については完全に忘れてしまった。あの時はあれほど感動したというのに……。

 二月は開店休業の状態が多く、売り上げが落ちる。これは毎度のことで二月と六月は酒呑みにつながるイベントが特になく、水商売にとっては鬼門の月で、多くの店はここで潰れる。素敵なジャズレコードを聴かせるバーといっても例外ではない。飲食店の経営者達はそれがわかっていながら、どうすることもできないのだ。できることは店の掃除、トイレの神様ではないが、神山はトイレ掃除を入念に行った。トイレの神山と何度かふざけた。それが効いたかどうかわからないが、今年も魔の二月を乗り切り、三月から再び売り上げが上がり始めた。神山はホッと息をつくのであった。

そんな三月最後の金曜の夜九時過ぎ、千恵美が久しぶりに姿を現した。

「はい、いらっしゃいこんばんは、珍しい」

 神山が笑顔で千恵美の定位置が空いていることを確認すると、そこへ彼女を導いた。久しぶりに見た印象は、見違えるほどに良い女になっていた。わずか二カ月で、人はこれほど変るものなのかと、お世辞でなくそう思った。美しくなったというのでなく、健康的に痩せて髪型や身につける洋服とアクセサリーのセンスが洗練され、彼女らしい魅力が全面に出ていて、余裕からの所作が美しい。それは彼女の本職ともいえる。一見して、山の手芦屋の優雅なマダムである。

 神山がその変貌の様子に驚いてみせると、彼女は優雅に定位置に座っていつものカクテルを注文すると、全部あの埼玉から来た社長、木下さんのおかげだと思うと白状して笑った。どうやら自分でもしっかり自覚して、それを喜んでいるようだ。その流れで、彼とどのような交際をしているのかという話になる。

 彼はリサイクル関係の会社を経営してはって、大阪市のごみ焼却システムの見学と、自分達が開発中のプラズマ式焼却炉のプレゼンのために出張してて、その合間の息抜きにここに飲みに来たことがきっかけで交際が始まった。それから殆ど毎週、仕事の予定がなくても会いに来てくれてデートを重ねているという。その話の続きは、ホステスも気になる様子で近づいてきた。まるで好物を見つけた猫の様に。

 先ずはゴルフ。十年ぶりくらいにコースに出たけど、スコアは酷いものやった。そやけど、彼が優しく教えてくれて自分の体力の無さを痛感して、体力をつけるためにフィットネスジムでトレーニングを始めた。それからスカッシュ。はじめはテニスやったけどやったことがなくて体力も持たないと言ったらスカッシュになった。ただボールをラケットで壁に打って戻ってきたのを交互に打ち返すんやけど、やってみたら、まぁしんどいのなんの。休憩いれるんやけど五分も続かんかった。

 そして海釣り。彼は伊豆に別荘とクルーザー持ってはって今度の連休に招待してくれるらしい。大阪湾て意外と釣り場があって、竿とか全部レンタルで結構釣れるんやね。彼は器用に大きなサバとかチヌとか釣って捌いてくれて、お刺身や塩焼きやらで食べたらホンマに美味しかった。彼は狩猟の趣味もあって、猟期には猪とか熊とか撃ちはるんやて、それ又捌いて食べるんやて、今では世間でもジビエゆうて流行ってるらしい。

 観光も京都はもう行ったゆうて、大阪城から色々史跡を巡った。彼は歴史に目茶目茶詳しいのよ。ウチも横で聞いてるんやけど、ここでは彼みたいにはとても説明できん。時々やけど、彼は難しい話をするときがある。君が代の意味の時みたいに宇宙の話やら、キリストのこと、ユダヤ教のこと、戦争のこと、人間の命のこと、その時の彼は別の凄い人に見えるの。人はみんな幸せになるために生きているみたいなことを言う。でもそういうことを真面目に言う人を見たことがない。ウチ真面目に尊敬してるわ。

 食事はたこ焼き、お好みとかの粉もんは勿論。大阪名物全般、後は懐石、お寿司に、イタリアン、フレンチ、アメリカン、メキシカン……予約が要るとこはばっちり入れてはって、ホンマに色んなもん御馳走になった。そやけど、段々大食いやなしに、美味しいもんをちょっと食べたらもう満足するようになって運動もするしで、みるみる痩せた。彼はウチのことをいつも見ててくれて、ウチが喜んでるのを見てそれを喜んでるみたい。

 彼女はそれらを本当に楽しそうに思い出しながら、神山とホステスに携帯電話で撮った写真を見せながら話した。二人は途中で電話やお客の対応をしたが、この二カ月間概ね濃厚な週末を過ごしていたことがわかった。ちょいちょい惚気が入るが、全然不愉快ではない。それよりも金持ちの遊びを知ることができて、羨ましいと思った。自分の懐具合では、毎週このようにはとてもできない。

「毎週会いに来てくれるて、よっぽどぞっこんなんやね。すっごい羨ましい。あれ? 彼氏の写真はないの? 」

「そうやねん。あの人ホンマに恥ずかしがり屋で、全然写真撮らせてくれへんのよ」

 千恵美がこぼす様に言うと、ホステスは不審に思ったがすぐにそれを打ち消した。

「千恵ちゃんホンマに、ええ人と巡り合えて良かったね。毎週大阪に来てはんねやったら、ウチにも寄って下さいよ。又ええ話聞きたいし」

 神山は率直に木下に又会いたいと願った。千恵美をこんなに立派に変身させたことも嬉しくて、軽く冷やかしてみたいと思った。勿論縁起でもない死神の絵のことは、口に出さない。

「ねね、明日もデートするの? 」

「うん。明日はね、新喜劇観に行くの」

「わぁ、ええなぁ。中々チケット取れへんのとちゃうの? 」

「二カ月前から予約しててやっと取れたんやて。そうそう、帰りに彼とここに寄ろうて言うてみるわ」

「そら楽しみや。木下さんウチらのことなんか言うてはった? 」

「う~ん。特には、ああそう言えば、店の佇まいがええて褒めてはったよ」

「ほんまに。そりゃ嬉しいなぁ」

「もうこれで、千恵ちゃん社長夫人や」と囃すと、千恵美の顔が急に不安気にくもった。

 神山がわけを訊くと、彼がそういうつもりで交際しているのかわからないと言う。自分は昔から顔やスタイルにコンプレックスを持っていて、男と交際したことは一度も無い。それなのに彼は優しくエスコートしてくれる。他に交際している女性はいないと言って大事にしてくれる。毎週会いに来てくれるから、それは信じることができる。幸せってこんな感じなのかと実感している。でもここ最近になって、このまま交際を続けて結婚まで行けるのかわからないのが不安なのだそうだ。年齢的なことを考えると、彼と結婚することを心から望んでいる。しかし、彼からはそのような気配は全然感じられない。ただの親しい友人としての交際とも考えられる。というのだ。せめて、キスくらいの愛情表現でもあれば、少しは安心できるのだが、自分の家(お一人様マンション)で手料理をふるまうと誘っても体よく断られてはやはり不安になる。と涙を流し始めた。

 神山は千恵美が泣き上戸であったことを思い出し、こんなところに泣きのスウィッチがあったのかと内心げんなりした。こうなると御機嫌はなかなか元には戻ってくれないのだ。

「……でも、言うてたやない、今度伊豆に招待されてるって、多分その時は泊まりやろうから、その時までとってあるんと違う? 」

「そうそう、何といっても木下さんは紳士や、そういうことはきっちりしてるんですよ」

と二人でとりなすと千恵美は、「本当にそう思う? 」と顔を上げた。

「当たり前ですよ。なんぼお金持ちいうても、埼玉大阪の距離を毎週会いに来るなんて、そうそうないことですわ。僕はそこに、木下さんの誠意を感じるなぁ」

「ウチもそう思うわ。こんなこと言うたら生意気やと思われるかも知れへんけど、それはホンマに贅沢な悩みやわ」

 それを聞いた千恵美は、小説家志望で一向に働かない夫に愚痴を言う智子のことが頭に浮かんだ。それを思えば、木下佐太郎は人柄も経済力も申し分がない。心も懐も余裕があり、自分に会いに来ては、デートを楽しんでいる姿を思い浮かべると、さすがに千恵美も御機嫌が良くなった。要するに自分はただ、不安の種をまいて神山と香奈に刈り取ってもらったような格好だ。千恵美は目がさめたように機嫌を取り戻すと、「明日又来るかもしれん」と言い残し、勘定を済ませて帰って行った。二人は彼女を見送ると、溜息をついた。


 翌日夜になっても、千恵美と木下はとうとう店に現れることはなかった。二人は少しがっかりしたが、それも水商売ではよくあること。きっと二人で新喜劇を観て笑って泣いて、どこかで旨いものを食べて、安らかな眠りについているのだろう。

 ホステスの香奈は、神山といつもの片付けをしながら口を開いた。

「千恵ちゃんらが来んかったから言うわけやないけど、あの木下さんてやっぱり変ってると思うわ。悪い人っていうわけやないんやけど、何かコワイ」

「怖い? 何が怖いの? 」

 それは彼女が間接的ではあるが、木下に接して思ったことだ。神山はそれを聞いて香奈の顔を見た。その表情は嫉妬と同情という相反する感情が滲んだ複雑なものだった。彼女はこの店に勤め始めて四年目になる。身長は一六〇位で、美人ではないが、目鼻立ちがすっきりした、男好きのする顔で肉付きが程好く、胸元を開いてミニスカートに素足を見せて、常連客のアイドルになっている。神山は雇い主なので、彼女の本名や年齢・住所を知っているが、自称年齢が二九歳のままで停止している。実際今でも二九歳といわれれば、疑う者はいないので、神山は黙っているのだが、そんな彼女が、木下が怖いというのだから、率直な意見を聞いてみたい。

「彼のお酒の飲み方ね。そしてあの過ごし方。ジャズを聴きながら何かを思い出しながら、考えながら、それを楽しんではるみたい」

「香奈ちゃん。ウチはそういうとこや」

「もう、ちゃちゃ入れんといて、ウチそれで大体わかる。遊び慣れてはるて。そら十分大人やからええねんけど。要するに何か得体が知れんのやね。もしかしたら、ただの道楽で、千恵ちゃんで遊んでるんやないかと…… 」

「それが怖いと…… 」

「だってそうやん。マスターも昨日千恵ちゃんに会うて見違えてびっくりしたやろ。どんな女でもね、ちょうどお花みたいなもんで、目をかけて優しくされたら、愛を感じてそれなりに綺麗になるもんよ。千恵ちゃんが木下さんのことホンマに好きやてわかるだけに、その姿見るのが、何か痛いねん。

 ウチもね、千恵ちゃんの話聞く内に最初は羨ましかったんやけど、段々怖くなった。なんやエライ無理してるように見えんねん。女は男で変わるてよういうけど、変わり過ぎやろ、あれ」

 神山は香奈の意見に同意した。しかしそれを本人も喜んでいるのだから、別に悪いことではないだろう。今は五十代でも積極的に遊ぶ人は多いと思う。店の常連も四五十代が大半だ。その中でも神山の見立てでは、木下は本物のぼんぼんで、実際今も金持ちであると踏んでいる。あんなに話題が豊富で他人を気遣い、金の使い方が奇麗なのは本物だ。それは見せつけると嫌味だが、必要な時にパッと出す金は爽やかさを残す。神山は香奈の言う無理というのは、木下と交際するためには必要なことに思えた。しかし木下が千恵美と結婚を考えているかどうかはわからない。

「もしもの話やけど、この先このお付き合いが壊れてしもうたら、千恵ちゃんどないなるんやろうと思うとね、それがコワイねん」

 香奈がそういう意味で怖いと思っているとわかった。しかし神山は木下に別の怖さを感じていた。これは他人に言うべきではないことだし、言ったとしてもうまく説明出来ないと思う。フィーリングというか、イメージというのか、今となっては彼のことを思い出すと昔観た死神の絵の情景がセットで付いてくる。ならば彼は死神か、それを思わせる要素があるのかと問われれば、そんなことは全然無いのだ。

「でも、俺もこの商売十年以上経つけど、色々な男と女見てきたよ、見栄はってホラばっかり吹いて大物ぶる奴とか、女に取りついて金を搾り取る専門の奴。あっちこっちで女を騙して姿くらます奴とかね。それに比べたら、木下さんはよっぽどいうか比べもんにならん位エエ人やと思うで」

「マスター、そういう奴やったら、ただのクズや。なんにも怖いことあらへん。ああ、わかってもらえへんかな。ウチも何か飲みたなったわ」

 神山は奢りだと言って、安いが酔えるカクテルを作って出した。香奈はそれを飲み干して渋い顔を見せた。

「女はね。そんなクズがたまらんほど愛おしいときがあるの。寂しい時はクズとわかってても、そいつに綺麗に騙して欲しい時があるの」

「ホンマに!? 」

「そら、みんなやないけど、大体四十過ぎて独身やったら、そんな女多いね」

 神山も、そういうダメンズの話を聞いたことがある。女にたかって、殴って苛めて、それでいて甘く囁き最後に抱く、泣いて頼って金をせびり取る男。二股三股をかけた挙句に四股目が出来て身が持たんと、古い女を捨てる男のことも思い出した。しかしそれもあくまで酒の上でのお話だ。どこまで本当なのか、あまり本気にするべきではないと思っている。香奈がどんな修羅場を実際通ってきたのかは知らないが、今の話には説得力があった。

「でも、ま、それは二人のことやし、今は何とかうまくいってるみたいやから、見守ってあげようや、厚かましく助言みたいなことしたらあかんで、大事なお客さんやさかい」

神山は香奈に、諭す様に言った。

「そら、ま、そうやね。でも千恵ちゃんにはうまくいって欲しいわぁ」

二人は千恵美の幸せを願いながら、店じまいを続けた。


第六章


 四月中旬の土曜日は好天に恵まれた。堀越千恵美は、木下佐太郎に招待されて大阪から新幹線に乗って熱海で降り、伊東線に乗り換えて伊東駅に降り立った。彼女は昔友人達と温泉に訪れたことがあるのだが、その頃に比べると随分垢抜けたという印象を持った。事前の連絡では、木下が迎えに来ているはずで、改札を出ると多くの人がいたにもかかわらず直ぐにわかった。粋な白い帽子にサングラスをかけた木下が白っぽい服装で佇んでいる。デッキシューズまで白だ。その隣には背の高い青年が立っていた。あれが息子の秀一なのだろう。千恵美が手を振ると、白い歯を見せて右手を上げて応じた。彼女は勢いをつけてスーツケースを転がして木下の元へ向かった。彼女の出で立ちは、クリーム色のリゾートワンピースで白いレースがアクセントになっている。

 木下は「ようこそ」と迎え、長男で一緒に会社で働いている秀一を紹介した。身長が一八〇位はある逞しいハンサムな青年だった。千恵美は笑顔で初対面の挨拶をした。クルージングは二人では危ないので、操縦を務めるという。

 千恵美はここに温泉で来たことはあるが、船に乗ったことはないと伝えると、「それでは、船酔いするかも知れませんね」と言った。北海道旅行でフェリーに乗った時は平気だったと答えると、一応酔い止めの薬は用意してあると笑った。木下が「是非、飲んどいた方が良い。こいつの操縦は荒いんだ」と冗談めかして言った。

 木下は千恵美をスマートに、海が見えるカフェにエスコートした。人込みばかりでがやがやと喧しい大阪と違って、明るい太陽に照らされた海の景色は格別に綺麗で、そばに木下がいる安心感で疲れなどどこかに飛んでしまい、暫く見惚れてしまった。ウェイターが飲み物を運んでくると我に返ったほどだ。

「ごめんなさい。つい見惚れてしまって」

「ははは。良いんですよ。ここはそういうところです。気に入って頂けたようですね」

「ええ、とっても。大阪とは別世界ですわ。この度はお世話になります」

「こちらこそ。で、これからどうします? 別荘はここから車で三〇分ほどのところにあるのですが、そちらに行って休みますか? 我々はこれから船の掃除や整備をしなくちゃならないのです」

「えっ、そうなんですか? それでしたら、あたしも御一緒したいです。お船も見たいし、御掃除なら御手伝いしますから」

 千恵美は木下の顔色を窺う様に言うと、木下は秀一と相談し、御掃除係ならOK。ということで、これから船が泊めてあるピアに行くことになった。千恵美は喜びを躰で表現して「御掃除でも何でもします。何でも言って下さい」と力こぶを出す真似をした。木下は「頼もしいぞ」と笑いかけた。

 彼女は職場の部長に、連休に友達に伊豆に釣りに連れて行ってもらうと言ったら、レンタルではなく個人でクルーザーを持っているなんて、本当の御金持ちの様だ。良い人に出会ったね、大事にしいやと言われ、内心では本当に楽しみにしていた。勿論千恵美はこの機会に木下が自分と結婚を考えてくれているのかを確かめるというミッションもある。その為には少しでも彼に気に入られるようにしなくてはと思っている。

 彼女は秀一に積極的に話しかけて、年齢や兄弟のことや独身であることを知った。そこで「大阪の女はどうですか? しっかりしてるしおもろいですよ」と笑わせ、秀一に明るくて面白い人だと印象付けた。

カフェを出てピアに向かうべく、有料駐車場に向かい、そこには眩しいくらいの白いレクサスGS450が停まっていた。秀一が運転で、木下がトランクに彼女の荷物を入れ、何気なく後部右のドアを開け、千恵美を乗せるとドアを閉め自分は小走りに左から乗り込んだ。彼女はドアを開けてくれたのは親切であり、当然のように左の奥に移動したのだが、彼が左から入ってきたので慌てて右側に戻った。

「あなたは僕の大切な人なので、もう自分でドアを開ける必要はありません。そしてここがあなたの定位置です」

 木下は千恵美の瞳を見つめて念を入れるように言った。千恵美は『うっとり』というのはこういう気分をいうのだろうと思った。彼が自分を大切な人だと初めて言ってくれた上での配慮に満ちた自然な行為に、魂が抜け出てしまったように放心した。それを黒の本革シートがそれを優しくしっかりと受けとめてくれた。木下は彼女と自分にシートベルトを付けると「OKだ。出してくれ」と言い、秀一は「アイサー」と車を音もなく出した。

 車を停めてピアの管理事務所で手続きを済ませ、三人は管理担当者といよいよクルーザーに近づいていく、潮風と共にリアルな海の匂いがしてきた。

 千恵美は周囲を見渡し、船がこんなに沢山あることに内心驚いていた。百艘はくだらないかもしれない。レンタル等の商業用を除いても、それだけお金持ちが沢山いるということになる。今まで全く関心を持っていなかった世界だけに全てが物珍しかった。尤もこの世界の方でも全く彼女をお呼びにしていなかったのだ。そう思うと潮風も心地良く髪を靡かせてくれ、足元がふわふわとしてコンクリートに付いていないかのようだった。

 その中の一艘に木下と秀一が慣れた様子で乗り込み、あれこれと船内で状態を確認してと秀一が両手で丸をつくって管理担当に見せると、彼は右手を上げて応え、それでは私はこれでと去って行って行った。

「千恵美さーん。こっち来て」と秀一が手招きをしたので、反射的に船に走って行った。

 その船は、セント・メアリー号という名前で、船首部分に美しく英語で書かれてあった。その流線型の純白ボディに、千恵美は初めて乗り込んだ。自分の足音がゴツゴツと響き、中を見ると思ったよりも広く、こぢんまりとしたアパートのリヴィングの様に、据え付けテーブルにベージュ色の本皮ソファがあり、冷蔵庫や、割れないグラスなどが備付され、その先に洗面化粧台があり、その先にコクピットが見えた。船も自動車と同じように右ハンドルなのに気がついた。

 千恵美が装備の充実ぶりに感嘆の声を上げると、船底にはベッドがあるので、眠ることもできると木下が言い、上機嫌で秘密の基地を教える子供の様にあちこち案内した。確かに大人三人が足を伸ばして横になれるクッション付のスペースがあり、空調も照明リモコンで操作できるようになっている。

「これは凄い。ウチやったらここで、なんぼでも暮らせます」と二人を笑わせた。

「今日は、船の点検整備と掃除です。千恵美さんにも働いてもらいますよ」

 木下がそう言うと、千恵美はトレーニングウェアに着替え、掃除機で居住エリアを掃除してソファなどをクリーナーで磨き上げた。秀一はエンジンやバッテリーのチェック、そして水や燃料のタンクや予備を確認した。木下はひたすら船体の掃除に励んだ。

 太陽の日差しを浴びながら、動きやすいマリンシャツ姿で水をかけてデッキブラシでごしごしと洗う姿はまだまだ逞しい。

 三人がそれぞれにセント・メアリー号のために汗を流すと、船は見違えるほどの輝きを取り戻した。その姿は海に浮かんで揺れるので、生命感さえ感じられた。三人は船から降りて、暫くその雄姿と周囲の景色を眺めた。普段の千恵美ならスマートフォンで写真を撮るところだが、とてもそんな気にはなれなかった。それをするにはあまりに疲れたのもあるが、木下親子はこの光景を静かに、そしてしっかりと心に留めようとしているのがわかったからだ。

「この船はずっと海に浮かんでいたわけではない。普段は陸で管理されていて、私がクレーンを予約し、昨日海に降ろしてもらったものだ。そして今日、千恵美さんをクルーとして迎え入れて共に汗を流し、美しく磨き上げた状態で明日出航する。なんと素晴らしいことではないか」

 木下は感慨深げに秀一と千恵美に語りかけた。秀一は神妙な面持ちで父と船と景色を見つめている。千恵美も投げ掛けられた言葉を考えていると、次第にこれが日常ではない、素晴らしい出来事であるとじわじわと感じられた。とても写真を撮る気にはなれない。

 思い出してみると、木下はどこに行っても、カメラは勿論スマートフォンで写真を撮る姿を見たことがない。観光地で多くの人々が様々な機器を使って、その光景と自分を残そうとする中で、彼は静かにその光景を見つめていた。まるで心に刻み込むように……。

 そしてこの時、彼女は漸く彼を理解できたような気がした。彼は写真を撮るべき光景の中で、その行為を好まず、撮影されることも好まないのだ。それは奇異に見えるが、決して異常なことではない。むしろ彼からみれば、何でもかんでも写真を撮る人の方が異様に映っているのかもしれない。そう考えると、自然にそこに居合わせ、静かに立ち去る方がスマートである様に思えてきた。千恵美は、彼はそんな人だから、彼と写真に写ることを諦めることができると思った。

 時刻は午後四時を過ぎたが、まだ明るいし波が静かなので、秀一が試運転を申し出ると、木下はOKした。三人は再び船に乗り込み、セント・メアリー号は出航した。秀一はエンジンの様子を窺いながらゆったりと船を操り、舵の動きを確認するように船を左右に動かすと、シートベルトを締めてと手で指示した。

「千恵美さん。船の調子は良いようですよ。シートベルトを締めて下さい。これから奴は少々荒っぽくなりますから」

 木下は悪戯っぽく笑って千恵美に語りかけると、彼女にシートベルトをつけてやり、自分もつけた。OKだと秀一に声をかける。秀一は「アイサー」と左手を上げると、出力を上げ速度を上げた。急なGを受けて、何者かにシートに押し付けられると、それまで優雅に見えていた海の景色が、ドラマチックに横に飛び去るように見えた。大きなエンジンの音と水しぶきが飛び、後ろを見ると遠くの蒼い海に白いVの字を二本刻み込んでいた。船首が浮いて、わずかだが宙にぴょんぴょん跳ねているような感じがわかる。

圧倒的な轟音と振動。そして船体が激しく疾走する中で、千恵美はかつて経験したことがない爽快感を覚えた。横を見ると木下は慣れた様子で遠くを見ている。遠くを見ていればさほど怖くはないと、何度かどなられて彼女もそうした。それで漸く慣れたと思ったら、今度は速度を少し落としてから右に急旋回を始めた。船は右に大きく傾き、遠心力で躰が左へ強く引っ張られる。二人ともシートベルトをしているが、それでも必死で目に見えない力に抵抗した。秀一はそれに飽きたら次は左急旋回を試し、次は大きくジグザクに船を操った。

 これまでジェットコースターさえ敬遠していた彼女は恐怖を覚え、堪えていた悲鳴を遂にあげた。しかしその声も、エンジンの咆哮と暴風にかき消された。彼女にしてみればどれくらい船が疾走したかわからないが、声なく頭を垂れたところで木下が千恵美の異変に気付き、秀一に止めろと命じて船はおとなしくなった。彼女は気を失い、顔が蒼白くひどく汗をかいていた。木下は血相を変えて彼女を抱き起し、軽々とソファに寝かせた。

「大丈夫ですか? 怖がらせてすみません。奴の試運転は荒っぽ過ぎました。おい、秀一!千恵美さんが大変だ! 」

 木下が叫ぶと、秀一が駆け寄り、ぐったりした彼女のライフジャケットを取り去り、脈をとり、弱いと見るや、手首足首を含む首周りを楽にさせた。木下は彼女の右の手を握り、声をかける。五分位して彼女は漸く意識を取り戻し、口を開いた。

「……ウチ、軽い貧血を起こしたみたいです……。もう大丈夫です」と弱い笑顔を作った。それを見た二人は安堵の息を漏らした。


 翌日の日曜日の朝早く。三人は釣りに必要な物資を、セント・メアリー号に積み込んで出航した。千恵美は、船の釣り場に立ち、優しい潮風を頬に浴びていた。朝焼けの空に添え物の様な雲、そしてどこまでも広がる蒼黒い海。心から頼りになる木下と秀一。彼女は目に映る全てが美しく愛おしかった。気持ちは弾んで、声も自然に高くなる。というのも、昨日彼女は気を失ったが、二人の適切な応急処置のおかげで気分を回復した。そして、『男の世界』というものを体験した気がした。それは気を失うほどの強烈なもので、あらためて自分は、一人の女でしかないのだなと自覚した。ならば女らしさでお返しをしなければならないだろう。彼女はスーパーで食材を自腹で買い込み、木下の別荘で初めて肉じゃがなどの手料理を振舞った。二人は歓喜してそれを食べ、やはり女手による料理は、旨いと絶賛した。勿論会話も弾んで、安らかで楽しい時を過ごした。

 そして木下、秀一、千恵美の順番で風呂に入ったのだが、秀一が風呂に行って二人きりになった時、千恵美は遂に、自分との交際は今後も続くのか、そしてその先に結婚はあるのだろうか。もしもそのつもりがないのなら……。と木下に覚悟して尋ねた。勿論始めには、木下とデートを重ねて、とても楽しく非常に感謝していると伝えている。

 木下は、思いつめた様子で彼女の声を聞いた時、びっくりした顔を見せたが、「関西の人はさすがに積極的ですね」と言い。男らしく恵美の前に立った。

「我、成り成りて、成り余るところあり」と言った。

「我、成り成りて、成り足らざるところあり」と千恵美は応じた。彼女は彼の目を見つめ、思いが伝わった気がした。

「……あなたの方から言わせてしまって、すまないと思いました。ここは私も真剣に言わせてもらいます。私はあなたと結婚したいと思って交際しています」

千恵美は迷わず木下の胸に飛び込んだ。汗の匂いが鼻をついたが、全く嫌ではなかった。むしろこの匂いで彼を捕まえたという実感が湧いて興奮した。彼は優しく彼女を抱きとめたが、それは愛情が昂ぶった行為ではなくハグである。

「嬉しい」

 彼女はこの時、この言葉しかでなかった。もう何がどうなっても良いと思った。気持ちというものは、念願が叶うと、満ち足りて頭がくらりとして、躰などは溶けてなくなってしまったようになると実感した。

「……私とあなたが、結婚を望んでいることがわかりましたね。素晴らしいことです。あなたは、いつも明るく、よく気がついて素敵な人だと思っていました。近々でも埼玉の家も見に来て欲しい。勿論一緒になることが前提です」


 彼女は、昨夜の会話を一生忘れることはないと思った。何度も思い出してはニヤニヤしてしまう。まだ冷たい潮風の匂いも心地良い。高性能クルーザーに乗って、振り返れば半島の一部が遠くに一望できる海原に出ている。果たしてこれから何が釣れるのか? といった興味については、彼女にとってはいま一つだったが、木下親子はその期待感で胸を膨らませているようだった。どうやら、四月は多くの魚が釣れるらしく、アラやキンメを狙っているようで、深場の方向へ向かった。


 セント・メアリー号は意気揚々と波を切って進み、釣り場スポットに到着すると、木下が立ち上がり、ポリバケツを開けて中のやや粒子の荒い白い粉を柄杓で撒き始めた。秀一も別のポリバケツを開けてカタクチイワシを盛大に海に撒いた。

「木下さん。これ何をしてるの? 」

「これは撒き餌さといって、これで魚を誘き寄せるんですよ。なんといっても狙いは、幻のアラですからね。でかくて重いですよ。大体百三十センチ、四十キロは超えますからね。そして釣れますようにと祈りを捧げます」

「へぇ、そうなんや。この白い粉はなに? 」

「カルシウムです」

「この魚は? 」

「これはカタクチイワシです。アラはこれが好物なんです。けちけちしたらいけません。ささ、セッティングの前に一緒に御祈りしませんか」

 木下は、何事もないように質問に答えると、手を合わせて頭を下げた。秀一もそれに倣ったので、彼女も幻のアラが釣れますようにと祈った。しかし、木下のその姿は見たことがないほど真剣なもので、祈るというより拝んでいるように見えた。いきおい彼女も真剣に目をつぶって祈った。それから木下と秀一はロッドを三本セッティングして、三人は真剣にアラ釣りに挑んだ。


「――それで、そのアラは釣れたん? 」ホステスの香奈が千恵美に問いかけた。

「うう~ん、釣れんかった。そやけど、キンメとかいう赤いのとかが釣れてね。ホンマにおもろかったわ。ウチもなんかかかったんやけど、後は殆ど木下さんが処理してくれてね。こうやって、小型ナイフでピシャーて血抜きしはんねん。かっこえかったわ~ 」

千恵美は見よう見まねで、木下の仕草を神山と香奈の前で披露して二人を笑わせた。


 五月の初旬。千恵美は伊豆の別荘で釣りを楽しんだ後、埼玉県S市の木下の自宅を訪ね、会社を見学して最終的に木下との結婚に同意した。馴染みという寿司屋から出前を取ってそれを食べながら、これからについて色々話をすることで、木下に本気で惚れたことと誠実に愛されて求められていることが良くわかり、「身体一つでおいでなさい」と優しく言われたことが大きな決め手になった。この人は、自分の財産が目的ではなく、自分だけを求めているんだと思うと、千恵美は正直に、これまで男性と恋愛関係が一切なかったことを告白し、経験不足かも知れないが、これからは木下家に嫁に入って、子供を産んで温かい家庭を築いていきますと。心を込めて宣言した。木下は優しく抱きしめ、「ようこそ木下家へ、歓迎します」と耳元で囁いた。

 それから木下の表情は、少し困ったような、それでいて哀願するような顔に変わり、彼女に言った。自分はこの年齢で再婚であるし、正式な披露宴はしないことに同意して欲しい。その代わりに結婚式は神前でキチンと行い、結婚写真は一流のスタジオで素晴らしいものを残すこと。婚約・結婚指環や宝石をプレゼントすること。そして新婚旅行は、一カ月をかけて世界中どこへでも行こうと提案した。

 これに千恵美は驚いた。初めて木下に対して失望したかもしれない。披露宴は盛大にしてもらって自分の上司や同僚、後輩達に自分の晴れの姿を見せつけてやりたいと思っていたのだ。しかしよく考えてみると、四~五十名を大阪から埼玉まで招待するのも大変な出費だし、わざわざ来てもらうのも非常に忍びない。その上、挙行したからといって列席者に自分が思う通りの、どうや! ははぁ! と平伏すほどの印象を与えるほどの美貌も若さも持ち合わせていないことを痛感した。どんなにおめでたい席であっても、女は笑顔で送り出したその後は、かなりの辛口批評家になることを思い出した。自分も披露宴に何度も列席しては「なに、あのお嫁さん(又は新郎さん、時には共に)ほんま大したことなかったわ」などと散々に悪口を言ってきたことを思い出した。結局は他人事で羨ましいだけなのだ。幾ら自分が幸せであるということを見せつけたところで、他人に思い通りのインパクトは与えることはできないし、与えたところでどうなることでもないような気がした。ここは彼の言うとおりにしたほうが良いのかもしれないと思えた時、自分は大人になったような気がした。

 それに花嫁姿を一番見せたかった両親はもうこの世にいないし、肉親もいない。田舎から来てもらうほどの親戚付き合いもないことも頭に浮かんだ。彼女はそのことを木下に正直に話して、披露宴はせずに結婚報告の葉書を出すことを条件に同意した。そうすることで、木下に貸しの様なものができたような気がした。そして何度も夢見たウェディングドレスを身にまとって式を挙げ、初めて木下と並んで結婚記念写真が撮れる。そして指環・宝石、一カ月の新婚旅行と聞いて文字通りに目が眩んだ。

今の彼女は、有名百貨店の営業技術課の課長であるが、百貨店の時代はもう終焉を迎えていることは彼女も認識していた。顧客層ががらりと変わって、高級品がほとんど売れなくなった。いくら接客技術を向上させたところで、顧客は売り場で品物を確認し、購入はネット通販で済まされては単なる高級商品展示場となってしまい「ここら辺が限界かも」と思わざるを得なくなった。そんな時にいよいよ自分も寿退社の出番がやって来た。しかも結婚後は社長夫人。これはきっと神様の贈り物に違いないと確信した以上、会社の方々への見せつけなど、物凄くちっぽけなことに思えた。

 その後有限会社三興の公認会計士から経営状態の説明を受け、堅調であることを確認し、総資産は十億円を超えると伝えられた。それに対して自分の資産は、預貯金三千万円ほどと、マンションを売れば二千万円にはなる上に、早期退職金を合わせれば六千万円ほど。その全てを現金化して木下家に入ることに同意したが、その所有権については、あくまでも自分の財産とすることができるがどうするかと問われて、彼女は木下を信じて木下家に全て入れることに合意した。木下家の正妻となって、財産相続権を持つことになるというのに、自分の財産に固執することは何だかひどく卑しく思えたからだ。勿論生命保険の受取人は夫婦相互に変更とした。両方が亡くなった場合は、木下の子供になることに同意した。その他たくさんの書類に署名・捺印をして、書類上の手続きが終了し、次回再び来られた時に婚姻届けを出すことになった。

 そして大阪に戻って産婦人科を訪れ、まだ妊娠できるのか診察してもらった。その結果は、充分に可能であるというもので、喜んで木下にメールで伝えた。ばたばたと大阪での身辺整理を終えて身軽になり、スーツケース一つで明日の新幹線で木下の待つ埼玉に行く前になって、千恵美は馴染みのバー神山に顔を見せた。その顔は二人が見違えるほどに綺麗になっていた。表情が豊かに輝き、柔らかくて明るい。身体も前に比べればはっきりわかるほどに痩せていた。

 千恵美はカウンターの定位置に腰かけると、例のカクテルを飲みながら、とんとん拍子で進んだ幸せの経緯を、淀みのない口調で語った。二人はまるで自分のことのように喜んで聞き入った。特に香奈の「これってまるでシンデレラストーリーや! 」と囃すと、千恵美は素直に「ありがとう」と目を細めて笑った。彼女もそう信じているように夢見るような目を二人に投げかけた。

 神山はその目を見ながら、久々に聞いたおめでたい話に心からの気持ち込めて、祝福の言葉を送った。ほんの四カ月前までは、酔って自分の不幸を嘆き、男を呪っていた女が、これほどの変身(と言えるほどの変化)を遂げるとは、まったく予想だにしていなかった。と言うと、「マスター嫌やわ~ 」と笑い飛ばすほどの余裕を持っている。あの木下さんと言う人は、本当に凄い人なのかもしれないと心底思った。


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