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奇人のシャッフル  作者: 小田雄二
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五十過ぎの恋愛結婚

第一章


 六月の金曜の夜。彼女は仕事の帰りに駅近くにあるレンタルビデオ店を訪れた。その店舗は一階が書店で二階がコミック本や映画、ドラマや音楽のレンタルコーナーになっているので、彼女は慣れた様子で階段を上った。

 店内は今夜何かをゲットして、家でゆっくり楽しもうという自分と同じ魂胆の人が多いせいか、様々な人がゆらりゆらりと漂うように、陳列された作品の中から一品を見つけようと目を輝かせている。見知らぬカップルが寄り添って何かを小声で語り合っている。足早に奥のアダルトコーナーに引っ込んでいく男。彼女はそういった光景をちらりと見るのが嫌いではなかった。

 彼女はシリーズドラマのDVD一、二巻を返却し、続きの三、四巻を借りようと人々の間をすり抜けて、奥側にあるお目当てのDVDがある場所に辿りつく。

 彼女は新作よりも旧作を好んだ。料金が安く、一週間借りることができる上に、他の誰にも借りられることなくスムーズに物語を楽しむことができるからだ。

 個人差はあるのだろうが、人は五十歳を過ぎると行動パターンが大体決まってくる傾向がある。彼女もほとんど同じ時間に目覚め、絶妙な電車の乗り継ぎによって通勤し、殆ど同じ様な時刻に戻ってくる。買い物に立ち寄る店も、曜日もほぼ決まっている。彼女はそうであり、自由であるはずの日常生活の中で、自分なりの無理のないパターンを見つけ、それをこなすことで安心感や安定感のようなものを感じているようだ。

 季節の移り変わりや、天候の変化はあるし、体調、食生活の嗜好が年齢とともに変わってきても、少しずつ何かを変えながら、ほぼ同じようなパターンを保ってきた。これによって彼女は大きな病や事故に見舞われずに済んでいると密かに信じている。

 彼女は金曜日の仕事帰りに旧作DVDを借り、家で風呂上りに発泡酒を飲みながら楽しむという習慣を、少なくとも二年位前から続けていた。今度のシリーズは第一巻が無料で、アメリカ・カリフォルニア州の外科医療チームのドラマで、予想以上に面白かったので次巻を楽しみにしていた。

 しかし今夜、その棚を見ると三、四巻が空になっていた。それは勿論誰かが先に借りていますよ。という意味なのだが、「うそ。信じられない」と無意識に口から漏れた。

「先週は確かに誰も借りていなかったから、三、四巻から借りる人なんかいる? これは一話完結ではなく物語がつながっているんだから、通してみないとつまらないのよ」

 彼女はしゃがんだ状態で、状況を理解して何とか対処しようと試みた。

「……ということは、あたしより前に一、二巻を観た人が、三、四巻を借りて行ったということね。どうしよう、せっかく来たのに急に他に観たいものなんて思い浮かばないわ」

 彼女は前のめりで、一から四巻が空になったパッケージを恨めし気に見つめ、あれこれ考えていた。無意識にぶつぶつ言っていたかもしれない。そこに突然、後ろから男性の声がした。それは小さかったが、よく通るものだった。

「あのう、もしよかったら、どうぞ」

 彼女は声がした方を見上げた。そこには一人の男が立っていて、手には欲しかったDVDの三,四巻を持っていた。その先には上質なスーツに身を包んだ紳士の優し気な笑顔があった。おそらく諦めきれない様子の自分を察しての好意だと理解した。驚きと警戒が混じった不躾な視線を彼とDVDに何度か向けると、やおら立ち上がって言った。

「いえ、あの、お気持ちは嬉しいのですが、けっ結構です」

「まぁそう仰らずに。あなたがこれを観たいと思っているのがあまりにわかったものですから、遠慮なさらず、さあどうぞ」

「でも…… 」

 彼女は予想外の申し出に明らかに動揺し、バタバタと手まで振って断ったのだが、紳士の表情が柔らかで、自然な親切心からくるものだと伝わったので、これ以上断るのは失礼だと思い、「それでは、有難く」とDVDを受け取った。

「良かった。この作品はとても良くできていて、面白いですよね」と笑顔になった。それは健康的で爽やかなもので、眼尻と口角に皺が見えた。それを見た時、彼女はまるで自分が褒められたかのように嬉しくなって笑顔を返した。

 これをきっかけに二人は、その作品についての話が続いた。観た者だけがわかるという込み入った話で、紳士は物語の背景を自分よりも知っているようで、気づかなかったことを色々とわかりやすく説明してくれた。

 それを聞くうち、彼女は知らず知らずの間に、感心するやら笑うやら思いのほか楽しくなった。そして、それならばとある質問を紳士に投げかけた。

「あのう、マイクという登場人物が着ていたTシャツにプリントされていた人物が気になったのですが、あれは誰だかわかりますか? 」

紳士が、どんな感じでしたか?と尋ねると、彼女は記憶を手繰り寄せて答えた。

「えーと、確か赤いTシャツに、黒か紺色でプリントされた男の顔でした。星が一つついたベレー帽みたいなのを被った、髪が長くて髭面の三十歳ぐらいの男の人で、その目力が凄いんです。渋谷でもそのTシャツ来ている人を見かけたことがあって、誰なんかなと、気にはなってたんですよね。でも、もしかしたらただのデザインかもしれないし…… 」

 彼女は視線を上にして、確かめるように紳士の顔を見て言った。

「ああ、それはチェ・ゲバラですよ」紳士はさらりと答えた。

「チェ・ゲバラ? 」

「そう。アルゼンチンの生まれで、医者です」

「とても医者には見えない」

「でしょうね。でもあの顔は有名で、キューバ革命時の司令官だった頃の肖像です。でも彼はもともと医者で放浪の旅の末、フィデル・カストロと出会い、キューバで革命を成し遂げて国の英雄になりました」

「ホントですか? 」

「本当ですよ。彼はその後も世界中に衝撃を与え、若くしてボリビアで銃殺されました。そして見せしめのために遺体は公開されたのです。それだけに伝説となって二一世紀の今でもTシャツにもなるのです。勿論グッズはそれだけじゃないですが、彼のことを何も知らなくても、自然に誰かがクールだと感じて手に取って身につけるんですから、あの目力は多分不滅でしょう」

「そんなに凄い人だったんですか」

「そうですね。彼の物語は本にも映画にもなっていますし、多分ネットで検索すればもっとよくわかるはずですよ」

「でも、なんで医者が革命を? 」

「それは、彼がマルキストであったことが大きな要因です。そして旅の途中で、貧困や政治的抑圧に喘ぐ人々を目の当たりにし、彼らを救おうと常々思っていたところに、たまたま独裁者バティスタからキューバを救おうとしていたフィデル・カストロと出会い、意気投合して医者(軍医?)として参加し、戦いの末に革命が成功したというわけです。

 まぁ、普通に考えたら突拍子もない話でしょう。八十人ほどいた同志も、キューバ島に乗り込んだ時には、バティスタ軍の待ち伏せ攻撃を受けて二十数人に減りました。これで成功の可能性は絶望的です。

しかし、それは客観的な視点によるものでしかありません。当の彼らは決して諦めたりしませんでした。広大なマエストラ山脈に逃げ込んで集結すると、簡易ラジオ局をつくって、バティスタの圧政に苦しんでいるキューバ国民を救うために来たと挨拶をしたのです。

 バティスタは独裁を維持するために、民主的な選挙を禁止していたので、銃を取って戦うしかないのだ。と主張したのです。そしてビラを配って宣伝したのです。国民を散々に働かせて利益を搾取するバティスタを打倒し、解放するためにやってきたカストロ。このわかりやすい善と悪の構図を海外のメディアも興味を持って取材しました。

 当然、バティスタ軍も攻撃にやって来たのですが、何せ山中の不慣れなゲリラ戦に、カストロ革命軍にあえなく撃退されます。それが放送されると、町や農村から若者が革命軍に続々と加わってきたのです。人が増えても日々の食糧や武器や物資も援助されて、衣食住が足りました。チェ・ゲバラは革命軍の最高位、司令官にカストロから任命されて、彼は医者として医療施設、識字学校、ラジオ局、そして戦闘の意義を訴えるパンフレットや新聞まで作って配りました。これで国民を味方につけたのです!

 チェ・ゲバラの親しみやすい性格と大胆な発想に基づいた行動は、皆の尊敬を集め、訓練・戦闘・教育・宣伝・食事・睡眠を繰り返すこと約二年。カストロ革命軍は三百人になり、遂に反撃に出ました。命令を受けたチェ・ゲバラは百人ほどの兵士を連れて進軍し、大都市のサンタクララを制圧したのです。勿論激しい戦闘がありましたが、民衆が彼等の味方ですから、様々な支援を受けたこともあったのでしょう。しかしそれは快挙であり、民衆に光を与え、バティスタ打倒に立ち上がる勇気を与えたのです。その勢いに恐れをなしたバティスタは、国外へ逃亡しドミニカ共和国に亡命したのです。これにより、事実上不可能と思われたキューバの革命は成し遂げられたのです」

 彼女は、紳士の話に知らないうちに夢中になっていた。彼の目を見て話を聞いていると、周囲のことが全て取り払われ、物語だけが頭に入ってきた。それはまるで居ながらにして『どこか南のキューバに連れて行ってもらった』という実感があった。キューバがどこにあるとか、革命とかバティスタとかチェ・ゲバラなど全然知らず、難しいこともわからないが、圧倒的に不利なところからどうやって成功したのかが十分に伝わってきた。それは幼い頃、寝る前におじいちゃんが寝床で、キツネとタヌキが出てくる話をしてくれて笑い、ドキドキワクワクしながら眠ったあの時のようだった。

「そうなんですね。とても面白いです。それにしても、あなたはお話がとても上手で博学でいらっしゃるんですね。感動しました」

 彼女は両手を自分の鼻と口に軽く当てて感想を述べた。

「いえいえ、そんなことは…… 」

「キューバといえば、今アメリカと国交回復して、そのカストロ議長が亡くなったと、最近ニュースで聞きました」

「その通り、よく御存知ですね。歴史は続くのです。キューバはかつての敵アメリカと国交を回復し、指導者カストロというカリスマを失い、これからどのようになるんでしょうね。チェ・ゲバラは、そのカストロと堅い同志でしたが、色々あって袂を分かち、ボリビアで果てたのです。それはたしか、一九六七年のことでした。

 その当時は、キューバはソ連よりの共産主義で、いわゆるキューバ危機が起こり、米ソは核戦争の一歩手前までいったのです」

「まあ! 」

「結果、起こらなくて良かったのですが、その時のアメリカ大統領があの有名なJ・F・ケネディでした。これも詳しくは『ネットで検索』ですが、そうすれば私が大げさに言っているのではないことがわかるでしょう」

「そうなんですか。何か凄いことを知ってしまったみたい」

「ドラマの中で、リヴィングでくつろいでいたマイクが着ていたTシャツ一枚で、これだけ話が広がったのですから、面白いものですよね。只、私が強調したいのは、それが作家の創作物語ではなく、今につながる現実世界で起こった物語も又、充分に素晴らしいということです。

 当時は先のことなどまるでわからず、シナリオなど存在しない中で、彼らが必死に活動した結果、今の世界があるのだ。と思うと感動も又一入ひとしおというものです。

 又チェ・ゲバラは、キューバだけでなく、圧政に苦しむ人々を救おうとしてアメリカを非難するのはもとより、同盟であるはずのソ連も圧政を強いていると批判する行動に出て、ソ連の支援を受けようとしていたキューバでは、なんとも居心地が悪い状態になり、キューバを出たのです」

「それで、殺されちゃったんですね」彼女は、残念で悲しい気持ちを率直に言葉にした。

「まぁ結果的にはそうです。革命は成功すれば偉業、失敗すれば死です。しかし彼の功績と理想は不滅となり、その姿は人類がいまだに到達できない形態ともいわれるのです」

「理想を実現しようとすると、怖いことになるんですね」

「そうですね。お話としてはいいんでしょうが、いざ実現となると利害が絡むだけに理解を得るのは難しいものです。だって利害どころか貨幣価値すら放棄しろっていうんですから。仮に今、そういう勢力が日本に出てきて革命を宣言して武力闘争をしても、同じように衝突しますよ。

 今の日本でもそれを叫ぶ人は、いるにはいますが少数です。我々民衆は革命を望むほど圧政に苦しんではいませんからね。それに七〇年代の連合赤軍事件でもう懲りています」

「ああ、なんかよかった」

 彼女は再び両手で鼻と口を覆い安堵の言葉を口にした。どうやら癖らしい。紳士は立ち話の区切りのように腕時計に目をやり、長い間引き留めてしまった失礼を詫びながら立ち去ろうとした。彼女はこの紳士との出会いがあまりに素晴らしく、このまま別れてしまうのが惜しくてならなくなった。このままだと、もう二度と会えないかもしれないと思うと、『何か行動を起こしなさい』と誰かに押されたような気がした。

「あのう、DVD有り難うございました。そして色々教えていただき、本当にためになりました。チェ・ゲバラについてもっと知りたくなりました。それでもし、ご迷惑でなければ、又お話をお聞きしたいのですが、LINEとか教えていただけないでしょうか」

 彼女はこれまで、初対面の男性に対してこのような申し出をしたことは一度もなかったので、非常に大胆な行動といえる。しかし、この紳士の登場と引き際が余りに鮮やかであったので、次の機会のとっかかりを得るには、どうしてもと思ったのだ。

 紳士は、思いを巡らせるように一瞬視線を外すと、思い切った様に左の内ポケットからスマートフォンを取り出し、「これも何かの御縁でしょう」と彼女とLINE交換に応じた。その仕草は手慣れたもので、スムーズであった。

 彼女は久々に胸がときめき、最高の笑顔を紳士に見せて、その広い肩幅の後ろ姿を見送ると、お目当てだったDVD二枚を借りて自宅マンションに帰った。


 彼女は先ほどの出会いを思い出しながら、七階建ての中規模マンションのエントリーを指紋認証で開け、ポストを確認してからエレベーターに乗り込み、五階で降りて自分の部屋に入ると、誰もいない暗い中で自動的に明かりがついてテレビもついた。

「ただいま、シンヤ君。ご飯食べたらお風呂にするから、お湯溜めといてね」

 彼女がテレビに向かって声をかけると、液晶画面が急に変わり、ホストの様な風貌のイケメンリアルCGが飛び出した。背景には豪華なビクトリア調のセットがあり、気楽なBGMピアノが静かに鳴って、彼女が和む雰囲気が出来上がった。

「かしこまりました。姫、おかえりなさいませ。今宵は素敵な金曜日ですね」

 シンヤ君と呼ばれたリアルCGイケメンは、優雅に目を伏せて一礼した。今は風呂の準備くらいは命令一つでできるのだ。

 それからそそくさと楽な部屋着に着替え、ざっくりと化粧を落として素顔になると、トイレで用を足してから冷蔵庫から作り置きのトマトソースをフライパンにあけて温め、パスタを茹でて皿にのせてからかけた。戸棚からフランスパンを取り出し、冷えた水と氷をコップに入れれば、夕食の出来上がりだ。

 このままキッチンで食べてしまうこともあるのだが、今日はテーブルにそれらを並べて座って食べることにする。四人掛けのテーブルには椅子が四脚あるが、他の人が座ることはあまりない。

「あのさ、今日ね、とっても素敵な紳士と出会ったの」

 彼女はフォークでパスタをソースに絡めて器用に口に運びながらCGシンヤ君に語り掛けた。どうやらそれが彼女の日常らしい。

「それは良かったですね。で、どんな方でしたか? 」

 CGシンヤ君は、まるで本物の人間のように表情と声を豊かに変え、彼女が話をしやすいように導いた。彼女はまるで親しい人との会話のように、思い出しながら経緯を話した。

「う~んとね~。身長は一七五位で、ちょっとお腹出てたな。歳は四十代くらいで、髪が白髪交じりで、イイ感じでウェーブしててね。上品な黒っぽいスーツに白いシャツに少し緩めた黒赤系のネクタイで、凄く似合っててかっこいいの。

 そんで顔はね、そんなイケメンて感じじゃないんだけど、目力があって鼻がシュッとしててね。それでとにかくお話が上手なのよ~ 」

「あのう、それはもしかしたら何かのセールスマンでは? 」

「ち~がぁう。何言ってんのよぉ…… 」

 彼女は紳士との出会いがどれほどドラマチックであったのかを、CGシンヤ君に真剣に語って聞かせた。人工知能が搭載されているらしく、CGシンヤ君は、「うん、うん」と頷きながら話を全て聞いた上で彼女に同意した。

「……なるほど、それは素敵な出会いといえるかもしれませんね」

「でしょう? それに、Tシャツのデザインの男の人を多分チェ・ゲバラだって教えてくれたのよ」

「Tシャツのチェ・ゲバラなら、こんな感じですか? 」

 CGシンヤ君は、インターネット検索でチェ・ゲバラTシャツを提示した。

「そう。これよ! やっぱりそうだったんだ」

 彼女は、探し物を見つけてやや強めに言った。長髪にベレー帽には星一つ。のびたままの髭にやや右上を見つめる強い目、固く結んだ唇。正しく印象に残っていたあの顔だ。この人物の名がチェ・ゲバラだと、紳士が教えてくれたのだ。幾らインターネットで検索したところで、自分の印象を現実に存在するものに結び付けるには、やはり人間の仲介が必要なのだと改めて思った。

「さすがにTシャツの男という情報だけですと、数十万件にもなってチェ・ゲバラにヒットするまで相当な時間がかかるでしょうね。それに姫からチェ・ゲバラのようなワードが出たことがなかったものでしたから、全くの想定外でした」

 CGシンヤ君は爽やかに弁解をして頭を掻いてみせた。

「でも、こうしてわかったんだからいいのよ。それじゃあ、このチェ・ゲバラさんが何をしたのか教えて。たしかカストロとキューバ革命をやったらしいんだけど」

「お安い御用です。たくさんございますので、好きなものを選んで下さい」

 CGシンヤ君は笑顔で検索結果を提示した。

「そうね、読むのが面倒だからYOUTUBEで見せてよ」

「かしこまりました。それではどうぞ」

 それから間もなく、キューバ革命についての動画が始まった。彼女はパンにバターを塗りつけて齧り、パスタを食べながら黙ってそれを観た。キューバの位置からチェ・ゲバラの生い立ち、革命活動の背景と内容がわかった。それは紳士が語ってくれたものとほぼ一致していたので、スッと理解できたと同時に紳士の話す能力の高さに驚きを感じた。何も知らない人にものを教えるというのは、自分の経験からしても簡単なことではない。

 他に関連した動画があったので観てみると、彼は『新しい人間』という考えを持っていたことがわかった。それは、困っている人々を見たら、無条件で助けるためにベストを尽くす人間のことのようだ。少なくとも彼はそれを理想として活動していたらしい。故に彼は『赤いキリスト』とも呼ばれたらしい。

 世界がこの『新しい人間』ばかりになれば、なんて良いんだろう。彼女は自然にそう思った。しかしそれは素敵な理想像に過ぎない。と彼女は自分の中ですぐさま打ち消した。自分は、働いた成果の対価を得るのが当たり前の日本で生まれ育って生きてきた。頑張って人よりも出世したいし、社会的にも認められたい。良い暮らしがしたいし、貯金だって増やしたい。誰もがそう願い、それを目指して日々を暮らしているはずだ。そんな社会では、彼の言う『新しい人間』は、きっと生まれてこないだろう。彼女はこの部分はあっさりと結論付けた。

 そして自分はクリスチャンではないから詳しいことはわからないが、キリストも当時の人々から理解されずに結局処刑された。『言っていることはよくわかって素晴らしいことだけど、実現するとなると、ねぇ…… 』当時の人もこんな感じだったのかな? と、二千年以上前のイスラエルの民と自分の心情に思いを重ねた。

 彼女は、このチェ・ゲバラという人物についての情報を得た上で自分なりの解釈をしてみた。当時のアメリカ帝国主義やバティスタ政権が本当に酷かったから、カストロが革命を画策し、そこに彼と遭遇して意気投合したのだ。これは『運命の出会い』といえるし、彼は軍司令官として活躍し、そして何よりキューバの国民の支持・支援があってこそ、革命という大事業ができたと思う。それが叶った時は、もう歓喜熱狂の頂点であったろう。

 カストロは彼と共に、キューバという国の舵取りしていこうと考えていたようだが、彼はそうでもなかったようだ。アルジェリアでの演説で、帝国主義と共産主義をも痛烈に批判したことから、革命成功体験をもう一度、いや、何度でも味わいたいと思ったのかもしれない。と同時にそれは、虐げられた人々を開放して救うという偉業を世界に広げようと決意したのだ。だからキューバを出て、革命活動を続けたのだ。色々な理由があったにせよ、彼は自らの意志でカストロと指導者としての活動を望まず、海外での革命支援を選んだ。『成るか死か』の闘争の中で、ボリビアで銃殺。そして伝説となったのだ。

 困った子ね……彼女はそう思った。多感な十代であったら、感動と同情でポロポロ涙を流したかもしれない。だがすっかり歳をとって社会で自立している今となっては、地位や名声そして家族一切を捨てて出て行き、明日をも知れないテロリストに戻るなんて、どうしても彼には『自分勝手なロマンチスト』という冷めたレッテルを貼ってしまう。

 だから自分は名もない一市民であるし、彼は永遠の英雄なのだと理解することができた。それだけに自分の卑屈なところが見えたし、この偉大なる人物の物語も、今となっては娯楽作品の一つでしかないという現実世界に生きていることも胸が少し痛んだ。

 彼女は、チェ・ゲバラ問題をそのように総括すると、スマートフォンを取り出し、あの紳士に丁重な礼と簡単な自己紹介、そしてチェ・ゲバラについて調べてみたことをメールに書き、よくよく確認してから送信した。時間はいつの間にやら夜の十時を回っていて自分でも驚いたが、それほど無礼な時間とも思わなかった。

 その後片付けを済ませて風呂に入り、自分への御褒美の冷えたビールとつまみで、お楽しみのDVDを観ようと思いたった。

 手早く全裸になり汚れ物を洗濯籠に突っ込むと、王様のような貫録で浴室に入る。軽くシャワーで汚れを落としてから豪快に湯に浸かる。当然盛大に湯が溢れ出すが、そんなことは気にしない。首までどっぷりとつかると両脚と胴体が浮くのがたまらなく心地良い。この部屋では自分が王であり、忠実な臣下CGシンヤ君を従えて、自由気ままに快適に過ごすのだ。それを心ゆくまで楽しんで、じゃぶじゃぶと顔をこすって上を向くと、見慣れた浴室の無機質な天井と灯りが見える。それを見ていると、今日一日を振り返らずにはいられない。

 仕事・売上高は可もなく不可もなく目標はクリア。(彼女は大手証券会社のオペレーターサービス課の課長)部下に少しはっぱをかけすぎちゃったかな。でも最近は上げ調子だし、来週はもっと攻めていこう。

 そして、なんといってもあの紳士よ。さり気ない親切心で、あたしの(心の)中に現れたあの人よ。容姿も素敵だったけど、あの表情と声、豊かな知識があってこそのあの話術。本当に引き込まれてしまった。正直もっと話を聞いていたかった。(彼女は紳士との出会いを丁寧に思い返していた)たしか指環(結婚)をしてなかったわね。独身なのかしら、いやいやそんなはずはないわ。何をしている人なのかしら。おそらくは学校の先生かな。

 でも、なんであたしなんかに声をかけてくれたんだろう? ナンパ? そんな気配全然なかったわ(といっても幾らかはそんな期待がある)本当にあのDVDがきっかけだとするなら、本当にラッキーだった。

 そしてあのTシャツの男がチェ・ゲバラだとわかったのも良かった。けど、彼については知れば知るほど正直がっかりかな。話を聞いた時は、なんて凄い人なんだと感心しきりだったけど、自分で調べちゃうと、やっぱり色々考えちゃうのよね。カストロはリアリストでチェ・ゲバラはロマンチストとはよく言ったものだわ。

 あたしはもう五十を過ぎ、結婚はできなかった。多分独身のままで終わるのかな。子供を産むことはなかったし、一人娘で両親は交通事故で他界したから、このままじゃ佐々木という性は、自分の代で消滅してしまう。まぁ結婚しても子供できなきゃ消えてしまうんだけど、一番寂しいカタチかもしれない。でもこればかりはどうしようもなかった……。

 バスタブから上がって機械的に髪や体を洗っていると、彼女はいきおいどうしてもそういったネガティブな思考に陥ってしまう。彼女にはそういう傾向があるので、殆ど強制的にそれを打ち切った。そしてポジティブなことを考える。

 でも、あたしは大手証券会社の課長。派遣社員がもてはやされた頃に派遣の女性オペレーター達をうまく教育して使い、業績を最高益まで押し上げた実績のおかげで今がある。リーマンショックの時は本当にキツかったけど何とか乗り切ったし、両親も被害死亡事故だったから、まとまった保険金が入ってこのマンションを買うことができた。一応貯金もあることだし、このまま定年退職しても、何とか人並みには老後を迎えられそうだわ。

 これは彼女のポジティブ思考のネタのようなもので、さきほどのネガティブ思考のネタの後には何度も登場するものだ。そして風呂から上がる頃には、心の平衡を取り戻し、誰にも見られたくはない顔になっていた。

 バスタオルを巻いてソファに落ち着いて無線ドライヤーで髪を乾かす。スマートフォンをチェックしたが、紳士からの返事は来ていなかった。自分が傷つかないためには、それほど期待するべきではないと思いながらも、やはりどこかで返事を待ってしまう。喉の渇きが増したところで、大きな冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、柿の種ピーナツを出して、DVDをプレーヤーにセットする。

 立ったまま蓋を開け、缶に吸いついて上に向けてあおる。ゴキュ、ゴキュと冷たいビールが喉を通り、麦芽の風味と苦味、そして喉から胃に至って身体に染み込んでゆくアルコールを十分に堪能しながら、三分の二を一気に飲んだ。この瞬間も彼女にとっての至福の儀式といえる。ふうと息をついて、残りをビールグラスに注ぎ、もう一本を取り出してソファに落ち着いた。他の映画の予告情報を丹念に観て次のお楽しみへの参考にして、いよいよ本編に突入する……。

 彼女はDVD三、四巻を存分に楽しんだ。期待通り、いやそれ以上に自分をアメリカのロスアンゼルスの外科医療チームの中に運んでくれてやきもきさせてくれた。来週も続きを絶対観ようと心に決めたところで眠くなってきたので、トイレに行って歯を磨きパジャマに着替えてベッドに入って眠った。


 土曜日の昼前に彼女は目覚めた。何か楽し気な夢を見たかもしれないが、思い出せない。外は強い雨が降っているのがわかった。それだけで今日は憂鬱な気分になったが、彼女は土曜日を掃除洗濯の日と決めているので、自分にはっぱをかけて飛び起きた。

 メールをチェックしたが、紳士からのメールは無かった。それどころか他の誰からもない。小さい溜息をついてトイレに行き、食事の用意を始める。金曜の夜の素晴らしい出会いと、これまた自分の好みにドンピシャのDVDを思い出して、これから何でもない日常と休日の始まりである。


第二章


 紳士からの返事が届いたのは、翌週の水曜日の会社帰りの電車の中であった。それがあの紳士からだとわかると心が躍った。躰は弾んではやる指をおしとめながらスマートフォンを操作して何度も読み返した。

 諸侯の挨拶と返事が遅れたことの詫び、名前を木下佐太郎といい、小さなリサイクル関係の有限会社を経営しているという。自分たちが開発した新式のプラズマ焼却炉を都庁の役人様にプレゼンするために出張していて、自分と偶然に出会ったと書いてあった。

 彼女は、あの紳士の名前がわかったこと、そして会社経営者つまり社長であることに感激するとともに、あの容貌からするとなるほどと納得した。

 会社は地元埼玉県にあって、そこに暮らしており、先週の土曜日は四人のお役人様をお連れして接待ゴルフを催したことを教えてくれた。

 彼女は彼が埼玉県出身でそこから出張で、この街に来ていたことを知った。土曜は接待があったから、金曜の夜に暇つぶしにレンタルビデオでも観ようかと思い立ってきたわけね。あのDVDの三四巻をあたしより先に借りたのは、きっとあたしよりも前に一二巻を観たんだわ。もしかしたら、彼は以前から何度かこの街に来ていたのかもしれない。と彼の経緯を組み立てて満足した。

 そして、自分との出会いはとても有意義であったこと、頭の回転が早くて声がとても魅力的であったので、営業か何かの責任者ではないかと思ったそうだ。

 彼女は顔を赤らめた。彼女は職業までは明かしていなかったのに、その推察が的を射ていたので、感心するとともに頭の回転や声という自分の強みを褒めてくれたことが、嬉しかった。ああ、大人の男性というのは、ちゃんと人を見てわかってくれるんだ。と年甲斐もなく舞い上がってしまった。

 最後に、来週は又出張で同じビジネスホテルに泊まるので、金曜の夜なら時間がとれるから一九時半頃、記念すべき同じレンタルビデオ店でお会いしませんかと伝えてくれた。

 これを目にした時、彼女は余りの感激に眩暈がした。彼女にとって、男性と個人的に日時を決めて会うなど、まったく初めてのことだった。自分が憧れて再会を望んだ相手から、誘いを受けることが、こんなにも嬉しいものなのかと、遅まきながらその感激に幸福を感じた。これまで彼女は、異性と交際したことが一度もなかった。若い頃、いや幼い頃から彼女は、男性から選ばれて声をかけられたことがなかった。

 グループ交際や合コンなどは何度も経験したが、その度に自分は華やかな女達の、ほんの添え物か引き立て役的な存在であった。当人はそんなつもりはなくても、相手がそういう印象を持ってしまえば、もう反論の余地はないという世界。先輩や同僚、そして後輩までもがお声がかかって交際が始まるのを幾度も目の当たりにすれば、自分が男性から一体どのように見られているのかを認知せざるを得なかった。

 他人の男女の交際の様子は、深くはないがたくさん見てきた。うまく行かなくなればそれを慰め、傷つけた男を一緒に罵り、親身になって相談にのってきた。そしてうまく結婚の運びとなれば、披露宴に出席してその御祝儀もバカにならない。これまで三十組は出席したが、二次会という暗黙のお見合いパーティーでも、誰からも見初められることはなかった。

 こちらが好意を持って近づいても、やんわりと断られてばかりでは、自分の存在を否定的に見ざると得なくなる。自分は一言でいえば不美人、太った身体は魅力的なものとは遠いところに位置している。悲しいことだが、それを認めざるを得ない。

 しかし電話オペレーター業務の中で、声と応対には自信がついた。どんなに怒ったお客様でも、自分なら五分もあればとりなすことができ、電話だけで上司が驚くほどの大口契約を取ったこともある。声だけならば、興味を持った男性から誘いを受けたことは幾度もあった。勿論それは、丁寧にお断りした方がお互いのためである。

 そんな自分を変えようと、何度かダイエットに取り組んだことがあるが、いずれも失敗。仕事や容姿の悩みがストレスとなり、どうしても大食と酒に走ってしまうのだ。三十代半ばの頃にホストクラブのホストに入れ込んで、五百万円ほど使ったことがある。自分では身も心も捧げて大恋愛をしていると本気で思っていたが、金の切れ目が縁の切れ目とホストから呆れ顔で諭されると、心の底からの絶望を味わった。全ては自分の不覚であり、自殺や無理心中まで考えたが、思いつめた様子を察した会社の上司の説得によって踏みとどまった。今では塩辛い思い出だ。

 美容整形も真剣に考えたが、当時健在だった両親に止められたし、結局それは相手を騙してしまうことなると考えて諦めた。しかしその相手はとうとう現れずじまいの上に、両親も遂に孫を抱くことなく急逝したのは、皮肉としか言いようがない。今となっては美容整形など、横目でせせら笑うことができる。

 当時の同僚のすすめで結婚相談所なるものに登録し、何度かお見合いパーティーに参加してみたが、良い人を見つければ、必ずといっていいほど他の女との笑顔の闘いが始まり、それに勝ったためしがなかった。後は自分から見ても、ろくでもない男から声がかかるばかりだった。馬鹿にしないで! と脱会しようとしたが、年会費は免除で、互いの条件に合致した場合のみ、有料でお見合いをする。という条件で、脱会はしないでおいたが、お見合いの連絡は無いまま七年が過ぎている。

 結局仕事に打ち込み、結果がついてくるのが面白くなって、昇格試験を突破して実績を積み上げ、社内では一目置かれるようになったが、それが嬉しくも寂しくもあった。いきおい男性社員に恐れられる存在になってしまった。

 久しぶりに寿退社した友達に会ってみれば、挨拶もそこそこに亭主や姑の愚痴、子供の不出来の嘆き、果ては亭主や子供の家庭内暴力、生活苦で借金の申し出、浮気・不倫・離婚などの嫌な話ばかりで、若い時に有頂天だった頃を知っているだけにその凋落ぶりは、驚きとともに微かな痛快さを禁じ得ないが、そんな友達が年々増えてくると、さすがに辟易となってこちらから疎遠になるように仕向けた。細やかな菓子折りなどで、そんなごたごたをこちらに持ち込まれてはたまったものではない。

 そして、うまくいっていて幸せな者は、自分にはなんの用もないことを思い知った。勿論そんな者達に会いたいとも思わない。ごたごたも御免だが、セレブ自慢や見栄が詰まった話につきあわされるのも真っ平だ。

 まったく人の人生など、一体何がどうあれば良いのだろうと考えてしまう時がある。素敵な人と出会い、恋に落ちて愛に満ち溢れて結婚し、その後は出産、子育て・生活がある。その中で生じる現実的な問題を数多く見聞きした時、自分にはそういった問題が一切なく、社会的な地位を獲得して孤独ではあるが、不自由のない生活というのも、現代女性の一生としては、『あり』なのではないかと思い始めていた。

 そんな時に、あの紳士は木下佐太郎という名前で自分の前に現れ、純粋に自分に興味を示してくれて、再びお会いすることができるという現実は、そういった達観したような自分を一発で粉砕する力を持っていた。これを前にしては理屈を超えて感激を抑えることは無理だろう。いくら男なんてと見下げたところで、あの紳士だけはこれまで見知ったどの男性よりも断トツで素晴らしいのだ。

 ただ彼女は、冷静な一面を失ってはいなかった。木下さんはお忙しい中で、お話を又聞きたいという自分の求めに応じて下さったに過ぎないこと。そしてこの再会というものは、それ以上の、例えば男女の交際に発展するかもしれないという要素は皆無に近い。と肝に銘じておかなくてはならないと心にブレーキをかけた。

 それでも彼の好意が嬉しくてたまらず、又素晴らしい話を聞くことができることを、やはり楽しみにする自分を抑えることはないと思った。それでは、いつOKのメールを打つか? というタイミングから彼女はあれこれと考え始める。

 すぐに返信しては、こちらの余裕の無さを見透かされてしまう。彼の返信は五日も経過していたのだから、でも余り遅くなると彼の日程に迷惑がかかるかもしれないから、来週木曜日にメールするのがいい。と決断すると、今度はその内容について考える。諸侯の挨拶、再会のOKと、感謝の気持ちと、あなたに好意を持っていますよとさりげなく伝えるような旨い文章を書くにはどうしたらいいのか頭がいっぱいになった。

 自分は、木下さんに恋をしている。はっきりとそう自覚した。今これほど心を砕く男性は彼しかいない。でも彼は結婚していてお子さんもいるかもしれない。いえ、きっといるはず。となれば、これは道ならぬ恋? いいえ、木下さんは絶対にそんなことまで思っているはずない。恋どころか単なる茶飲み話の相手というだけ。あの人が私なんかにそれ以上の好意を持つはずがない。それは重々わかっている。だけど、嫌いな人とわざわざ時間を割いて会おうなどと思うかしら。ここは彼の真意が知りたいところ。ああ、でも何でもないとわかってしまったらどうしよう。恥ずかしいし悲しい。自分のこの昂ぶりはとんだ茶番ということ。それでも……あたしはそれを知りたい。でもやっぱり怖いから知らなくていい。

 彼女はまるで十代の小娘のように心がときめき、木下佐太郎をテーマに舞い上がったりったり落ち込んだりを繰り返した。その夜は興奮状態が続いて、なかなか寝つけなかった。その翌日も、どこかふわふわとした精神状態が続き、食欲があまりわかず夕食はビールとおかきで済ませ、ひたすらメール作成に励んだ。一体何度書き直したかしれない。その内頭が熱くなって熱を測ると微熱があった。こんなことはかつてなかったので、もしかしてこれが恋煩い? と思うと怖くなり、CGシンヤ君に相談してみた。

 CGシンヤ君に正直に全てを打ち明けると、彼は親身になって話を聞いた後、木下さんへのメールは、一旦紙に書いてから添削して、それからメールにしましょうと提案した。納得いくメール文が書けないことが、姫のストレスになっているようです。素晴らしいメールのサンプルなら、幾らでも提案することができます。時間はまだありますから、一緒に素晴らしいメールを書きましょう。

 そして、木下さんのことを考え過ぎだと指摘した。姫の想いはどんどん膨らんでいて、恋愛・結婚にまで及び、自分の卵子を冷凍保存しておかなかったことを後悔するのは、やはりこの辺りの段階で止めておくべきです。

 今の姫は、恋愛まで行っていない。猛烈な片思いです。そしてこれまでの情報では、恋愛に発展する可能性は、0(ゼロ)です。従って今の段階では、彼を恋愛の相手と見るのは良くないと思います。今後のことはわかりませんが、姫の好き! という思いを、少し方向を変えてみましょう。例えば、その気持ちを尊敬や崇拝の方向に持って行ったらどうでしょう。恋愛の相手として好き! というのではなく、素晴らしくお話が上手で素敵な芸人さんのファンの一人であるというスタンスで好き! であれば、お相手もそれほどびっくりしないだろうし、逆に喜ぶ可能性が高いと思います。

 そして、これはまずないとは思いますが、木下さんからお金の話が出たら、早い段階で御引きになった方がよろしいかと思います。

 彼女はCGシンヤ君にアドバイスを受けてハッとした。正気に戻ったといってもよい。女の一人暮らしの欠点は、誰も止める者がいないということだ。自分が冷静でしっかりしている内は問題ないのだが、今回のように彼への妄想がそこまで発展した状態で再会したら、相手は気味が悪いと思うに決まっているし、次はまずないだろう。そうならないようにCGシンヤ君はやんわりとした表現ではあるが、遠慮なく彼女にわかるようにアドヴァイスしてくれた。

 この段階でまだ浮ついているようなら、もっと違う表現でアドバイスしてくれたに違いない。そして、仕事に生きて孤独を感じる女に、舌なめずりで忍び寄る蝮のような結婚詐欺の可能性も頭に入れておけと心にクサビを打ってくれたのだ。

 たしかに彼女は、結婚詐欺の言葉を聞いて冷静さを取り戻した。その証拠に結婚詐欺の可能性を指摘されても激怒することはなかった。その可能性も無くはない。話がうますぎるし、出逢いが劇的にすぎる。彼女は改めてCGシンヤ君に礼を言って感謝した。たかがAIと思っていたが、実際に人に相談した時と同じように気持ちが楽になったので非常に助かった。

 CGシンヤ君は、『それほどのことは』と謙虚に照れ笑いを浮かべ、姫の臣下として幸せを願っています。そして、姫は木下さんと出会ってからというもの、表情が豊かになり、明るくなりましたね。と言って画面から去って行った。勿論彼女が呼び出せば、すぐに登場するのだが、この時はしばしその余韻を楽しむと、レポート用紙を取り出して、文章作成に取り掛かった。


 彼女の変化は、既に職場で静かな噂になっていた。スーツの着こなしが更に洗練され、さり気なくピアスなどのアクセサリーが映え、化粧が上手くなり、声は五十代とは思えないほどの艶が出てきた。部下をきつく叱責することがなくなり、話を聞く姿勢が出て理解し合うようになったのだ。

 最初は気味が悪いなどと言っていた部下達も、次第に良い上司として心を寄せるようになった。誰もが働く以上は成果を出したいと望んでいる。失敗した時、成果が出ない時、それをあげつらって責められても落ち込むだけだ。しかし最近の彼女は、訳をゆっくり聞いてくれるようになった。そして優しくアドバイスしてくれて、挽回の機会を与えてくれるようになった。それは当人しかわからないような細かい演出で、部下は更に仕事に積極的に挑むようになった。そして成果が出なくても根気強く待ってくれて、出れば率直に褒めてくれた。そして自分が大切な仲間であることを伝えてくれた。

 課長である彼女のそんな変化は、部下達の奮起を促して好業績に繋がり、月間最高売上記録を更新した。六月はボーナス時で、貯金をしても金利が低いために、多くの人々が有利な資産運用を考えていた。そこに電話で相談にして、優しい声でわかりやすく説明してくれて、背中を押してくれたことが、小口でもいいからやってみるかというお客様が多かった。そこに日経平均株価が二万円の大台を超えた時勢が『買い』に拍車をかけたのだ。

 それはお客様を含めて誰にとっても喜ばしいことで、彼女自身の株もグンと上がり、『きっと(待望の)カレシができたのでしょうよ』という話でまとまった。しかし部下達は年齢が離れているせいか、中々当人に対して突っ込んだことが聞けないでいた。

彼女は、仕事で素晴らしい成果を出している中で、納得の名文を木下佐太郎に送り、金曜日に再会を果たした。

 その日の彼は落ち着いた普段着で現れ、カフェに誘われて話をした。チェ・ゲバラの話から始まり、ビデオのことや、話題の映画の話を楽しくした後で、さり気なく個人的な話に移り、彼女は五十三歳で独身であること、そして交際している男性がいないことを伝え、木下は、そうですかと真面目に受け取り、自分は今五十一歳で、結婚して息子二人と娘が一人できて恙なく暮らしていたが、十数年前に妻を乳癌で亡くし、それ以来独身で、今では長男と一緒に会社をきりもりしている。と応じた。

 それを聞いた彼女は、思わぬ重大な告白を受けたと密かにチャンスだと思ったが、そこは良識ある大人の女性としてのお悔やみを軽く述べて、心を寄せる言葉を送った。

 そして彼から、やんわりとした口調で、あなたと会ってからというもの、なんだか心が穏やかになり、経営の方でも良い感触を得られた。こんなことはあまりないことで、あなたに不思議な力と縁のようなものを感じる。だから、これからもお付き合いしてもらえないだろうかと求められたのである。

 彼女にしてみれば、それは正に、青天霹靂のハンマーで胸と頭を打たれたようなもので、くらくらとしながらも精一杯の声で嬉しさと、自分もあなたにお会いしてからというものは、心が躍り、仕事でも望外の成果を出すことができたことを報告し、こんな私でよかったら、喜んでお願い致します。と応じて頭を下げた。

 木下は、飢え渇いた砂漠にオアシスを見つけたような笑顔を浮かべ、それは嬉しいの一言。こちらこそよろしくお願いします。と頭を下げた。それからの彼女はもう天にも昇ってしまったかの様子で意識がどこかに飛んでしまい、木下が慌ててそれを呼び寄せたほどだ。後はもう喜びの涙が溢れ出した。

 一体どんな話をして、どうやって帰ったのか覚えていない。勿論注文したもののことなど覚えておらず、木下佐太郎に始終がしっと抱きしめられていた気がしていたが、実際は指一本触れられてはいなかった。漸く自分の部屋に戻って一息つく、財布の中から彼の名刺を発見し、自分はそんなこともまったく覚えていなかったことなど吹き飛んで、決して誰にも見せることができない姿で喜びを爆発させた。

 すぐにCGシンヤ君を呼び出すと、その経緯を報告した。彼は『うん、うん』と頷いて今まで見たことがないほどの、優しい笑顔モードで『ようございましたね。姫』と言ってくれた。彼女は生まれてこの方初めて、幸せ感というものを実感した。もう死んでもいいとさえ思った。いいえ木下さんともっと幸せになるの。いいえもう死ぬわ。とフローリングの床に寝転がって暫くじたばたと身悶えした。

 彼女が目覚めると、既に土曜日の昼前だった。慌てて飛び起き、壁掛け電波時計を確認したから間違いない。これは時間にかけては自分よりも数段正確なのだ。灯りもつけっぱなしで起きることは珍しくないことだが、素面でやらかしたことはなかった。

 彼女は全裸になると風呂に湯を溜め始めて、用を足し化粧と汚れをざっくり落としてシャワーを浴びて湯船に突撃した。大量の湯とともに嬉しさが溢れ出す。そして笑い泣いた。


第三章


 それから約二カ月が過ぎての八月、彼女は初めて興信所を訪れていた。所謂探偵というもので、依頼人が求めた対象を調査し、依頼人では到底知ることができない客観的な事実を報告書にまとめて報酬を得ることを主な業務とする。

 映画やドラマでは難事件を鋭い観察力と推理で、犯人を追い詰める格好いいものだが、実際は殺人事件などを扱うことはほぼない。それは警察の領分で、探偵などの介入する余地はない。彼らの領分は警察の範囲外の案件。例えば、浮気の調査や、尋ね人、素性・素行の調査などが関の山だ。

 彼女は事前に最寄りの興信所を検索し、相談・見積もりのアポイントをとっていた。それが八月の暑い日曜の午後だった。興信所というと、人の秘密を探るなにやら怪しいところと思い込んでいたが、意外なほど清潔なビルの一角にオフィスがあって入りやすかった。狭いエレベーターに一人で乗って八階で降りると、『信頼の尾道リサーチ』というプラスチックカードが貼ってあるドアが見えたので、ノックをしようか迷ったが、とりあえず開けてみる。

 中はオフィスになっていて、ひっそりとした雰囲気に誰かいないか周りを見渡す。デスクが十ほど並べてあって、その一つに黒メガネをかけた長髪の青年が座って、パソコンでインターネットを眺めていた。窓側の角にパーティションで囲われた部分があった。

「こんにちは。ご相談でご予約の佐々木様ですね」

「はい、そうです」

「いやぁ、お待ちしておりました。今日も相変わらず暑いですね。僕は駒木と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

 駒木と名乗った長髪の青年は、爽やかな笑顔で彼女と目をしっかり合わせると挨拶をして名刺を差し出した。細身の身体が立ち上がると、意外と背が高く一七五センチはありそうだ。駒木は右手の応接室1に彼女を通した。既に空調が行き届いていて、快適な温度であった。彼女は案内されるままに、中々リラックスできるシングルソファに座った。

 駒木は、「コーヒー取ってきますので、少しお待ちください」と言い応接室を出て行った。他に人は誰もおらず静かなもので、駒木が奥の簡易台所でガチャガチャする音を聞くうちに、彼女は何となくここは信頼できると思った。

 駒木がポットと氷、グラス二つをトレイに乗せてやってきて、準備万端整えて。彼女の話を伺うことになる。さぁどうぞとばかりに彼女の顔を見つめると。彼女はどこからどのように話せばよいのかわからなくなってしまった。苦し紛れにその旨を伝えると、駒木は、今気がついたように、「それもそうですよね、わかります」と言うと、テーブルの引き出しからノートPCを取り出して起動させた。

「それでは、こちらから質問をするという形で、調書も同時につくっちゃいますね。これはご相談の一環でお見積りの際には必要な書類なんですよ」

「そうですね。その方が助かるかもしれません」

「それから、これからお話になることは録音されますが、機密事項となり厳重に保管されますのでご安心下さい。ですからお話辛いことあっても、なるべく答え下さい」

「はい。わかりました。なんだか緊張しますね」

「どうか緊張なさらずにリラックスして、友達に話すくらいにフランクにいきましょう。

 今回お話を伺って、お見積りを作成し後日調査費用などを御提示しますが、折り合いがつかなかった場合は、あなたの目の前で全て破棄しますので、後は何も御面倒にはなりません。よろしいですね? 」

「はい、かまいません」

「それでは、まずあなたのお名前と御住所を公的に示すIDを提示して下さい。運転免許証とか保険証などがあれば助かるのですが…… 」

 駒木の真摯な態度での説明に、彼女は納得して運転免許証と名刺を提示した。彼は礼を言って受け取ると、スマートフォンをかざして撮影し、データをノートPCに取り込んだ。これで彼女の画像・氏名・年齢・住所・本籍地・免許証番号・勤務先・役職が依頼主のデータとして調書に入力された。

「それでは質問します。佐々木様は弊社に赴いて、どんなことを調べて欲しいのでしょうか? 」

 駒木は、彼女の瞳の奥を覗き込むような柔らかな表情で問うた。彼女はここに来てなお迷っている様子だったが、意を決めたように口を開いた。

「それは、今お付き合いをしている男性についてです。その方は、本当はどのような方で、あたしと結婚する考えがあるのかないのかというのを知りたいのです」

「なるほど、わかりました。その方とのお付き合いは、どのくらいなのでしょうか? 」

「大体二カ月くらいです」

 交際スタート二カ月で結婚というのは、いささか早い気がする。お相手の結婚の意志の有りや無しやを本人に直接聞いて欲しいのか? さすがにそれはできないよ。(笑) この方は交際相手についての調査を依頼している。ということは、相手に言っていることに何か疑念を持っているが、自分では本当のことが聞き出せないわけだ……。駒木は彼女の言ったことをカタカタ素早くブラインドタッチでノートPCに入力しながら考えた。

「次にそのお相手についての情報を教えて下さい」

「名前とか住所とかですか? 」

「そうですね。それもですが、運転免許証のコピーでもあればいいのですが、持ってないですよね」

 彼女はそれを聞いて、「彼のお名刺があります。裏に直筆の個人電話番号があります」と木下佐太郎の名刺を差し出した。駒木は、それは助かるとばかりにそれを受け取り、情報をノートPCに入力した。

「木下佐太郎様、会社経営者ですか。彼の住んでいる住所はわかりますか? 」

 彼女はそれに答えた。先週埼玉県S市の自宅に招かれたと言い、その住所を伝えた。今ではインターネットで航空画像地図を巡らせて特定できる。住所を入力するだけで家の様や周辺が具体的に見える。

 彼の会社と自宅は、埼玉県S駅を北東約十キロの山の中にあり、周辺に家は無く、緑の屋根が自宅で四角い建物がオフィス兼倉庫。そして焼却炉のようなものから意外と高い煙突をみることができた。この職業にとっては非常に便利になったものだ。

「そうですか。会社ホームページをお持ちですねぇ。今検索してみました。有限会社 三興 設立二十年ですか。ウチよりも長いじゃないですか。資本金は三千万円で従業員は二十人。主な業務はゴミ処理とリサイクルですか。道理で煙突があるわけだ。立派な有限会社ですね。どんな会社か見学させていただいたんじゃないですか? その、先週お招きを受けた時に」

「はい」

 彼女は彼の自宅に招かれて息子さんとも挨拶をし、楽しく出前のお寿司を食べた後に、歩いて会社を見せてもらったこと、そして会社といっても小さいから、社長といってもみんなと一緒に汗をかいて働いているそうだと伝えた。

 駒木は黒メガネを外して、あらためて彼女を見た。栗色に染めたボブカットの髪型に白く丸い顔、細く切れ長の目の左右の間隔が微妙に広い、高くないが上品な印象の小さい鼻、その横には薄いほうれい線が見える。唇は厚めだが口紅の工夫で薄く見せている。色は白くて真白いブラウスに新しい夏用のベージュのツービースを着ていた。まさかこの日のために新調したとは思えないが、ブランドのハンドバッグは年季が入っていた。中学の国語の先生に似た人がいたなと思った。一方彼女の方は、歳の離れた青年に見つめられている理由がわからないでいた。

 どうして彼女は、この木下佐太郎氏に疑念を持っているのだろう。もしも彼女を騙しているのなら、名前や住所や職業などを嘘で固めて、怪しまれないようにうまく言いくるめて信用させるのが常套手段だが、木下氏は堂々と自宅や会社を彼女に見せている。息子さんにも会ったというのなら、結婚はかなり脈があると思ってもいいのではないか。率直にそう思い彼女にそれを言ってみた。

 彼女は、自分でもそう思うと言った。そうくると、駒木は彼女が何故ここ〈興信所〉に来ているのかわからなくなった。しかしそんなことを尋ねては、こちらとしては顧客を逃がすことになるかもしれないので、質問を変えてみようと思った。

「この木下佐太郎氏は、どんな感じの方なのか教えて下さい。勿論あなたの印象ということで構いません」

「はい」

 彼女はアイスコーヒーをストローで飲んで喉を潤すと、木下氏の容姿や性格を語り始めた。好きな人を他人に話すときは、明るく饒舌になるものだが、彼女もその一人だった。少し太っているが健康的。社交的で話題が豊富。人は五分話せば大体わかるというが、自分は彼のその話術に魅了されてしまった。性格は優しくて思いやりに溢れ、いつも他人に気を使い、相手が喜ぶ様子を見て、それを喜ぶというタイプ。

 センスの良い服に身を包み、趣味はゴルフと海釣り、読書に音楽・映画鑑賞。そしてその造詣は深い。タバコは吸わずに酒を嗜み、料理は和洋を問わずに味と質を楽しむ。ギャンブルには手を出さず。会社経営は順調の様子で、借金の担保用に買った伊豆の別荘はまだ抵当に入れたことは無い。

「……なるほど。一言でいうとナイスガイですね」駒木は彼女が楽し気に木下氏のことを語る様子を見て、そう言った。

「正にその通り。むしろ欠点の方が見つからない」と嬉しそうにこぼす様に答えた。

 次に駒木は、そんなナイスガイとあなたとの馴れ初めを問うと、彼女は悪戯っぽい顔をして、時々街で見かけるTシャツにプリントされたベレー帽を被った男の人を知っているか?と尋ねてきた。急にそんな話をされてもなぁと思ったが、彼女が『キューバ革命』というヒントをくれたので、チェ・ゲバラですか? と答えたら、彼女は両手を口に当てる仕草を見せて。正解と笑った。

 彼女は楽しい思い出を語るように、レンタルビデオ店での一件を駒木に話した。彼が興味深そうに聞いているのを見て彼女は、他人にこの話をしたのは初めてだと、自分でも気づいたように言って再び笑った。

「なるほど、恋バナのきっかけとしては中々ですね。話しかけてきたのは彼ですね? 」

「そう、でも連絡先を訊いたのはあたしです。それでLINEを交換しました」

彼女は彼を幾分庇うかのように付け加えた。

「それで交際が始まったというわけですね。大体わかってきました。ドラマチックな出会いで交際が始まってみると、木下氏はナイスガイだと、で今順調に進行中なのですね。

 しかし佐々木様は、自分が知らない木下氏の姿を調べて欲しいというのですね?あなたに見せている姿が表だとすれば、裏の姿が知りたいと? 具体的にはどんなことの調査を望まれるのでしょうか? 」

 駒木がそう尋ねると、今度は彼女の方が困ったような顔をした。こ、この人は、何をして欲しいのか自分でもよくわからないのか? 駒木は一瞬そう思ったが、『失礼しました』と帰られては所長に怒られるので、例えば、木下氏の女性遍歴とか……と続けた。

「……そうですね。それと今お付き合いしている女性が他にもいるのかどうか。それとあたしが思っている彼の姿が、そのままなのか。或いは別の顔があるのかどうかを調べていただきたいと思います。それとあたしと結婚する気が…… 」

「あっと。それについては、出来かねます。これまでに前例がありません。だってそれは本人に直接伺うしかないじゃないですか。いきなり興信所の者がやってきて、あなたは佐々木様と御結婚を考えていらっしゃいますか? なんて聞かれては『なんだ君は!』と気分を害されるに決まってます。それで最悪彼の気持ちが変わるかもしれないんですよ」

 彼女は親子ほども歳の離れた駒木に窘められて、漸く気がついたようだ。

「そうですよね。あたし最近、色々考え過ぎておかしいんです」と頭をさげた。

「いえいえ、わかっていただければいいんです。では、あなたと御一緒でない時の木下氏の為人ひととなりと女性関係についてお調べしましょうか? 」

「はい。それでお願いします。それと」

「それと、他に何か」

「あたし、怖いんです」

「怖いって、木下氏がですか? 」

「……多分そうだと思います」

「どんなところがですか? 」

「……う~ん。……優しいところ? 」

「彼の…… 優しいところ…… 」

 駒木はこれを聞いて頭を垂れた。二十代なら、惚気かよ! と突っ込みを入れるところだったが、そこで気づいた。この方は男性とあまり交際したことがないのかもしれないと。

「あたし、彼とのお付き合いで、コンプレックスみたいなものを、感じているのかもしれません。彼は代々ちゃんとしたお家に生まれ、裕福に育ってちゃんとした大学を出て、自分でビジネスをして、自分で稼いだお金で本当に綺麗にお金を使う人なんです。

 デートの時は、ベンツかBMWに乗ってゴルフ。その後の食事は馴染みの一流レストラン。これまで行ったのは、フレンチ、イタリアン、中華、それにお寿司や懐石料理ね。どれも本当に美味しかったの。マナーもちゃんとしてて、逆にこっちが何か失礼があったかもしれないと思ってひやひやだったわ。

 伊豆の別荘で釣りに行くときは息子さんが運転で、クルーザーを操縦して沖に出て、おまじないの白い粉をまいてから祈りを捧げて釣りを楽しみ、釣った魚を上手に捌いて食べるんです。それもこれ見よがしというところが全然しなくて、自然というか当たり前のようにしているところが素晴らしいと思うんです。

 話題なんかも本当に豊富でいらして、世界情勢やら国内情勢を語り、そして彼なりの理論を持っていて、ちょっとした未来予想なんかで盛り上がるんです。物理や技術的なことになると、本当に止まらなくなって、あたしは何度か置いてけぼりにされるんです。

 その度に、同じ時代を生きて来たというのに、あたしには、彼に語って聞かせるようなことは、なんにもないことを思い知ったのです。だって仕事や部下の愚痴など、彼にとってはどうでもいいことじゃないですか。だから彼も仕事の話は全然しないんです。

 チェ・ゲバラには本当に申し訳ないけど、あたしはそういうのを何にも知らずにきたんです。でも彼は博識で、それを人にわかってもらえるような話術も持っているのです。

 あたしの周りの人たちなんか、博識と言えば、他人にひけらかすもので、私はこんなことを知っているんだ!と自慢げに披露するものでしかないんです。だから、その、あたしの周りとのギャップの大きさに気が滅入ることがあるんです。優しくて思いやりがあって、本当に素晴らしい方で、ある時なんか『人はみんな幸せになるべきだ』なんて言うんです。

 あたしは東京に住んでいるといっても、所詮は山形県の田舎の生まれで地元の短大を出て、単純に東京に出たいと思って、今の会社に就職して生きて来ただけです。彼に比べたら、ほんとに何もない空っぽな自分が嫌になるんです…… 」

 彼女は、これまで積もり溜まったものを吐き出すように一気に喋った。その余りの迫力に、駒木のキーボードを打つ両手は止まっていた。

「……でも、こんなことを言っては失礼なのかも知れませんけど、佐々木様は、誰もが知る大手証券会社の課長様なのですから、素晴らしいと僕は思いますよ。それに木下氏の様な恋人まで出来たんですから、いいじゃないですか」

「いいえ。あたしたちは恋人ではありません」

「ということは、まだ男女の仲ではないという…… 」

 彼女の恋人否定発言は意外で、駒木は言葉がうまく出なかった。

「ええ、まだ手もつないだことないです。お付き合いといっても、泊まりがけのデートの時は、寝室はいつも別です。それが当たり前といえばそうですけど、あくまでもお友達であって、そういう恋愛関係には程遠いのかもしれません…… 」

 駒木は、何を言ってよいものやらわからなくなった。非常にデリケートなところだと十分わかるだけに言葉が出ない。

「でも、交際してまだ二カ月ほどですし、木下氏は紳士なのでは」

「そうですね。彼は最初からずっと紳士です。でもね、あたしが男性からどのように思われるのかわかっています。不美人ですからね」

 彼女は力なく言った。駒木は「でも、声は綺麗ですよ」 と言おうとしたが、慌てて呑み込んだ。しかし、彼女はその気配をしっかりと察知している。

「あなた『プリティウーマン』ていう映画知ってる? 」

「いえ、知りません。すみません」

「面白い映画なのにね、まあいいわ。あたしは彼を愛しているの、結婚したいと真剣に思っているわ。でもこの歳だしね、余裕ないのよ。でも、結婚したらしたでさっき言ったみたいなことが、きっと心にストレスになるのかもしれないでしょうけどね。おかげでこの二カ月で体重が激減して、洋服も二サイズ小さくなっちゃった。

 ねぇ、これであなたに頓珍漢な依頼をしたかわかるでしょう? それに相談できる人がいないの。もしかしたら、あたしのことをオロオロさせて、それを見て楽しんでるんじゃないかしら」

「そのように感じる根拠みたいなものが、何かあるのでしょうか? 」

「いいえ、全然。今ふと思っただけ。彼はどこまでもナイスガイだわ。でもね、なんだかそれだけでは割り切れない怖さみたいなものを感じるの」

 興信所には、色んな人が色んな問題を抱えてやって来る。今回の案件は、問題になるような怪しい点は何一つ見当たらない。『それ考え過ぎですよ』と言ってしまえばお終いになるような程度だ。客観的にみて、彼女の強い思い込みと妄想とコンプレックスと結婚願望がごちゃ混ぜになっていて、その固くもつれた塊を解いてくれる相談相手がいれば案外簡単に解決なのかもしれないが、あいにくここは興信所なのだ。駒木は彼女をこんなに悩ませているナイスガイがどんな容姿なのか知りたくなった。

「すみませんが、木下氏の写真か画像データありますか? 」

「いいえ、持っていません」

「えっ? デートした時とかに何気にパシャって撮ったりしないんですか? 」

「あたしもそう思って一緒に撮りましょうって何度も言うんだけど、魂を抜かれるとか、自分の顔が好きじゃないとか言って嫌がるの。それでいつだったか、あたしが熱くなって泣いて頼んだら、一枚だけ彼のスマホで撮って後で送るって言ったけどまだもらってないわ。さすがにあの画像まだもらってないと言えなくなってフェードアウトね」

 これはさすがにおかしい。と駒木は初めて思った。

「でもウチで調査に行ったら、写真撮りますからいいですよ」と場を繕い、何とか調査見積もりのための調書を作成したところまでこぎつけた。

「最後になって恐縮なのですが確認です。佐々木様は、木下氏から何か、暴力や脅迫を受けたり、大金を要求されたりはなかったでしょうか? 」

「ありません。それどころか、身に余るほどの贅沢な経験をさせてもらってますわ」と少し誇らしげに言い切った。

「なるほど。わかりました。それではこれで、このお見積り調書を印刷して目を通していただいて、御納得の意味での御署名を頂いて、本日の御相談は終了となります。

 それから、明日月曜日にミーティングをして担当と日程を決めて、かかる御費用額を御連絡させていただき、御了承いただいた時点から調査を開始致します」

 駒木は事務的に説明をしながら、印刷された見積書を彼女に手渡した。彼女はバッグから眼鏡を取り出して、それをよく見た。初めての経験なので慎重に目を通すと、費用は大体幾らになるのか相場を尋ねた。

「これ位の調査ですと、諸経費込みで大体十万円ぐらいかと思います。他の同業他社さんにお見積りをとっても、同じか、諸経費は別ということもありえます」

「そうですか、わかりました。ここに署名すればいいのね? 但し、費用に関しては諸経費込みで十万以上なら、キャンセルして下さい。その連絡は電話で結構です」

「はい、かしこまりました」

 駒木が笑顔で応じると、彼女は金額の相場はわからないが、どこに行っても大差ないことを確信した。そんなに難しい調査とは思えないが、これ位の報酬がないと第三者が自分のために動いてはくれないということね。と内心で納得した。

「弊社としましては秘密厳守をモットーとしておりまして、ここでのお話は絶対に外部には漏らさないことをお誓い致します。なので、この御見積書はお持ちになって結構ですが他人様には絶対にお見せにならないよう、又大切に保管されるようにお願い致します。そして、調査に至りましては木下氏並び周辺の方々に絶対に不審に思われないように工作する独自のノウハウがございますので、どうかご安心下さい」

「そうね。これが木下さんにばれたら、あたしとしては大変なことだわ。そこはくれぐれも注意して下さい」

「かしこまりましてございます。それでは、本日は弊社尾道リサーチでのお見積り有難うございました。そしてお疲れ様でした」

 駒木は真摯な姿で長めに頭を下げると、彼女を出口までスマートにエスコートして、ほぼ恙なく、相談・見積もりが終了した。

 彼女はこの自分に溜まっていたものを誰かに聞いてもらって、本当にホッとした。これだけでも来て良かったと思った。そして自分には何でも話せる親しい友人が一人もおらず、両親はおろか親戚すらないことを思いしった。自分はこの世界で独りぼっちなのだ。


 尾道リサーチからの調査費用の連絡は、月曜日の昼に自分のスマホにメールで来た。諸経費込みで税別で十万円でどうかというもので、彼女はそれでお願いしますと返信した。夕方には契約成立の御礼と担当者は、あの駒木、今週の金曜日には御報告が可能の予定と連絡をメールで受けた。今週の金曜日といえば、翌日の土曜には木下氏と映画と食事のデートの約束があるのだが、その時は自分の知らない彼の姿を知った上でのデートとなる。一体何を知ることとなるのか楽しみでもあり、怖くもあった。鋭い彼のことだから、興信所の件がばれているかもしれない。そう思うと鳥肌がたったが、駒木の腕前を信じるしかない。でも期待外れの内容だったらどうしよう、その時はその時だわ。と腹を括った。


 そして金曜日の夕方、残業を部下に任せて『信頼の尾道リサーチ』の事務所を訪ねた。今度はスタッフがいて、バタバタと帰り支度などをしている様子が見えて、却って自然な感じがした。大柄で恰幅の良い所長が尾道徹おのみちとおるですと快活に挨拶と名刺を渡してくれて調査にあたった駒木に引き継いでくれた。彼とは既に面識があるので、少し親し気に前回と同じ相談室1に通された。

 隣の応接室2は誰かが使っている様子で、それなりに繁盛しているんだなと思った。覚えのあるシングルソファに落ち着くと、どうでした? と笑顔さえでた。

 駒木は実は調査業務は初めてで若干緊張の連続だったが、そんなことは彼女に知られるべきではない。あくまでも調査員らしく、冷静に淡々とした様子で調査報告書を渡して、話を始めた。

「これより御依頼の木下佐太郎に関する調査結果について、御報告致します。

 同氏は、一九六六年三月六日に埼玉県S市に木下家の長男として生まれています。実家は戦後から市からごみ処理業務を請け負って生計を立てているようです。彼は順調に問題なく育って、都内のA大学物理学科を卒業後、家業のごみ処理を受け継ぎ、更にリサイクル業に手を広げて業績を伸ばし、今ではプラズマ式焼却炉を独自開発に取り組み、更に事業を拡大しようとしています。

 怪しまれないように新聞記者に扮装して、木下氏の会社である三興の取材に来たと言ったら沢山の方から色々な話を聞くことができました。

 彼は地元でも評判が良くて、紳士どころか名士ですよ。県議会にでも立候補したら当選は確実だという人さえいました。それから木下氏は、一九八九年につまり二二歳で大学を卒業して家業を継いですぐに二三歳で恋愛結婚なさってすぐに現在の御長男秀一ひでかず氏が生まれています。彼は現在二八歳で独身、木下さんの部下として同じ会社で働いています。尚、御次男、御長女は、それぞれ既に独立されています。

 木下氏は学生時代から学業もスポーツも良くできて、性格も快活で温厚、しかも地元では安定した会社を継ぐ立場でしたから、大分女性からもてはやされたようです。結婚が早かったのも、そのせいもあるかと考えられます。仕事と家庭と子供に恵まれて幸せに暮らしていらっしゃったと思われるのですが、その間御両親が他界されて。奥様の千春様が乳癌で十一年前に他界されました。それ以来独身を通して、子供三人を育てながら事業を継続してこられたのですから、色々御苦労もあったと考えられます。社交的な性格でいらっしゃいますから、御友人は男女年齢を問わず本当に多くて、とても顔の広い方の様です。

 そして女性関係についてですが、おそらく地元の評判を気にされているのか、わかりませんが、地元の女性とは特別に親しく交際したことはないようです。その代わり休みの日によく出かけては、どなたかとデートを楽しんでいるようだと聞きました。馴染みの寿司屋の大将の話だと、握り寿司を出前で伺った時などはその彼女が家に来ている時で、車に女性を乗せて駅まで送っているのを何度か見かけたりするのですが、比較的地味な外見の女性で、それもどうやら違う女性の様なのです。

 これは木下氏の名誉に関わるかもしれないので、お断りしておきますが、複数の女性と同時に交際するという所謂二股三股というのでなく、どうも同じ女性とは長く続かないようなのです。何が問題であるかはわかりません。大将が言うには、きっと奥さんのことが忘れられずにいるのではないか? と言うのです。そんなだから、地元の女性だと別れてしまうと、後々しこりが残るのを嫌っているのではなかろうか? と言うのです」

 駒木は、ここまで身振り手振りを入れて丁寧に説明していたが、漸く一休みとばかりにアイスコーヒーを飲んで区切りをつけた。彼女はそれを黙って聞いていた。その姿はやり手の課長の威厳が存分に放射されていた。非常に興味深い情報だと思った。彼の好みは比較的地味な人が好みらしい。それに自分は当てはまるような気がした。確かに自分も自宅に招待されてお寿司の出前を御馳走になっている。地元の評判が良くて女性との複数同時交際は無いと聞いて、安心するとともに彼を見直した。彼との交際はとても優雅で楽しく、女性の方から別れを告げる要因は考えられない。それは当事者としての実感だった。自分などは、彼との結婚を熱望しているくらいなのだから、前の女性達というのはよくおとなしく引き下がったわね。自分が何かの理由で彼から別れを告げられたらと思うと、その後の自分はどうなるのかとても恐ろしくて想像できない。

「この報告書には、木下さんの亡くなった奥さんのことが書いてないけど、どんなひとだったのかわかる? 」

 そう尋ねた気の強い彼女の眉は吊り上っていて目には嫉妬が見えて、若い駒木は少々怖気づいてしまった。それは故人であるので、それ以上は調査義務はないのです。とはとても言い難い圧迫感があった。幸い話好きな大将がそこも話してくれたので、非情に助かった。駒木は上を向いて必死で記憶を手繰り寄せながら語り始めた。

「彼の奥さんの千春さんは、それは美人で評判でした。当時のさいたま信金の頭取の娘さんで、評判の名士のお嬢さんでしかも美人となれば、木下さんにお熱だった娘達も、千春ちゃんだったらと引いたそうですよ。まあその後の金融再編の大津波に飲まれて家は没落しましたが、千春さんは気丈にしておられたそうです」

 彼女はそれを聞いて、おやと思った。だから長男があんなにイケメンなのかと納得したが、彼の好みが急に変わっているではないか。それは何故? 口には出さないが、それには敏感に反応した。いくら優秀な調査員といえども、人の好みの変化の理由などわかるわけがない。彼女は意識を切り替えて、以前に彼と交際していた女性のことはわからないか? と尋ねたが、駒木は、わからないと応えた。それは彼の口から直接聞くほかないのだろう。そんなことがずけずけとできればどんなにいいだろう。彼女はその調査ができる興信所なら百万払ってもいいと思った。

「で、彼の写真撮ったの? 」

「はい、こちらになります」

「なに小出しにしてんのよ」

 駒木が出した写真を手から引き取ると、眼鏡をかけて食い入るように見た。待ちに待った木下佐太郎の写真は、遠目に後ろ姿の全身が映った横顔だった。しかもサングラスをかけている。

「なにこれ? 」

「ひぃぃ! これにつきましては、説明させて下さい。僕は新聞記者に扮装して、プラズマ焼却炉について取材させて欲しいと、木下氏の会社に取材に伺ったのです。その時にきちんと写真を撮るつもりでしたが、女性社員に、その件は非常にデリケートな時期ですので、取材は全てお断りしておりまして、社長とは御面会できませんと断られたのです。

 こうした場合、御本人の許諾無くして勝手に撮影したら大問題になってしまいますので、泣く泣く隠し撮りという形になって、これが一番まともな写真となります」

 駒木は額に脂汗を浮かべてそれを顎から滴らせながら説明した。それ程彼女の見た目が怖いのだ。ヌメヌメ、ギラギラした獰猛な目をした大きなガマガエルが睨み据えて、今にも飛びかかろうとしていたら、平成生まれの二十代の男なら大抵はこうなる。

 駒木がそれなりに苦労したのはわかる。自分だって一番近づける立場なのだが、いつも断られる。今後の関係を考えると、とても無理には撮影出来ない。せめて寝顔でもと思ってもそんな隙はないのだ。

 それでも彼女はキチンと謝礼を払って興信所を出た。報告書を受け取ったが、既に丸暗記してしまった。彼について新たに分かったことがあるが、それによって新たな疑問が生じたのは事実だ。あれこれと考えても答えは出ない。腹も空いてきて相当に怖い顔で歩き進んで自宅に帰った。しかし明日は彼とデートだと思うと、やはり夢を見るような顔になり、風呂に入りビールをひっかけてから、どたりと眠り込んだ。


 それから季節は師走。証券会社の定例朝会で、彼女は二百人を超える社員の前で、ある発表をした。

「わたくし佐々木は、この度、結婚退社することになりました」

 この発表にフロアにいた全員が驚いてどよめいた。それは波紋の様に広がり、一呼吸遅れて最高益を出した時と同じ位の拍手と歓声が湧きあがった。

「あの佐々木課長が? 」「ウソ」「本当に? 」「信じられない」「相手誰? 」

 様々な無遠慮な声と笑いがひそひそ漏れ出したところに、鹿野部長が大きな声で御静粛に願いますと叫んで制して話を始めた。

「えー、佐々木課長におかれましては、この六月に、ある会社社長に見初められ、交際がスタートし、以後順調に愛を育んで来られ、この末に御入籍されると同時に、退社される運びとなりました。我々としても佐々木課長が退社されることは、誠に大きな痛手でありますが、御本人の強い希望と堅い意志を尊重し、今日の御連絡となった次第でございます。

 尚、難しい諸事情がございまして、新郎の御名前、並びに経営なさっておられる会社名は発表を控え。重ねて結婚の式は御身内のみ、並びに披露宴につきましては、挙行しないとのことです。又、御本人からの強い要望により、社内有志による送別会や、宴席を固辞したいという旨ですので、せめてこの場においてみなさんの温かい拍手と、お祝いの寄せ書きで我々の祝福の意をお伝えしたいと思います。どうぞ皆様祝福と今後の御多幸を祈願して盛大な拍手を御願いします」

 鹿野部長の見事な挨拶と音頭によって、フロアは再び大きな祝福の拍手と温かい言葉が響いた。彼女が優秀な社員で直向きに働いてきたことは皆が認めるところで、恐れられてはいたが、嫌われるような人ではなかったのだ。それがこの鳴りやまない拍手と歓声が表していた。

 これには彼女自身が少々驚いていた。自分は嫌われているのではと感じていただけに最後にそれは誤解だったことが伝わり、感激して両手を口に当てた。部長が制して場が漸く静かになると、何か一言挨拶をするように促がされ、彼女はスピーチをした。

 上品でいてお洒落な黒と紫が合いまったビジネススーツに身を包んだ彼女の存在は、誰もが見違えるほどの彼女らしさという確立された魅力を放射していた。いきおい誰もが佐々木課長が何を語るのか注目が集まる。

 全てが非公開だし、披露宴も無し。宴席さえも固辞なんて嘘っぽい。と疑う社員が出る中で、彼女は自分の思うところをその磨きのかかった美しい声に乗せて語った。その内容は、会社や全ての社員への謝辞であった。貴重な時間を割いている以上、簡潔にまとめあげたスピーチは三分ほどだったが、懐疑派を十分に納得させ、社員達の心を清々しいものにした素晴らしいものだった。

 彼女がスピーチを終えて深く一礼をすると、三度みたびの温かい拍手と祝福の声が湧き上がった。彼女はこの時ほど、この会社で働いてきたことを誇らしいと思ったことはない。


 自分は五十を過ぎて、これまで数えきれないほどの人々の結婚を見送ってきて、自身の結婚は半ば諦めていた。そんな時に素晴らしい人と巡り合い、結婚するということが、こんなに嬉しいことだと初めて実感した。名前と会社名を公開しなかった理由は、彼からの依頼で、年末でビジネスの業績が今とても微妙なところにあって、株証券を扱う会社であるだけに、例え有限会社であっても何か差し障りがあるかもしれないという懸念を考慮したものであった。

 結婚披露宴をしない理由は、二人で決めたことであった。彼は再婚であり、互いの年齢を考えると今更感があって、とても照れ臭くて勘弁願いたいというものだった。勿論正装した結婚写真をキチンと撮影すると約束し、新婚旅行は海外どこでもよいということで、同意した。そして、そうすることが、今まで陰口を叩いていた者に対してどこか『してやったり』というような痛快な気分であった。


 彼女の唐突な結婚と寿退社発表は、本年度で一番衝撃的な出来事で、特に女性社員の間で暫く話題の的になり、皮肉ったり揶揄したりする者がいたが、当の本人が目に見えて格段に綺麗になり、何より本当に嬉しそうだし、色々なシガラミやプレッシャーから解放されてサバサバとしたその表情は、結局他人が何と言おうと関係ないのでは? 御相手は億万長者で、社長夫人として夢に見た幸せな暮らしができるなんて羨ましい。

 早く子供が欲しい。時間無いのよ~。などと近隣の者に漏らしていたと伝え聞けば、それは全部本当のことで、現代のシンデレラストーリーだと羨む者が多勢となった。

 彼女は有給休暇を全部使い切るために、翌日からは実質出社せずに年末ボーナスと給与、そして退職金を手にした。購入したお一人様用マンションを売り払い。スマートフォンを解約して家財道具と預貯金を持参して、最愛の木下佐太郎の元に嫁ぎ、幸せな家庭を築いて、子供に囲まれた皺の寄らない裕福な毎日を夢見て埼玉県S市に引っ越して、自分を知る全ての者の前から姿を消した。この話は年が明けても、社員の間で「きっと今頃幸せになっているでしょうよ」と語り草となった。


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