彼女と僕のさよならに
朝、目が覚めたら彼女はそこには居なかった。
寝惚けた頭のまま、僕は鉛のように重いからだをベッドから起こす。
「コーヒーくらいは淹れて欲しかったかな」
僕は小さく笑う。
隙間から淡い光の差し込む緑色のカーテンを開くと、水色の中に星がぽつぽつと浮かんでいた。
僕は焼いていない、何も付けていない白いままの食パンにかじりつきながら自分で淹れた薄いコーヒーを一つしかないコーヒーカップに注いだ。
家賃四万二千円のワンルームの部屋を見渡す。
部屋の片隅にはいつ洗ったかもわからない服がうず高く積まれている。
床は去年までの講義のレジュメやらが散らばっていて見えない。
僕はそれらに構わず踏みつけながら部屋を横断してパソコンデスクに向かう。
旧式の白いノートパソコンの電源ボタンを押す。
音もなく電源ランプがオレンジ色に光る。
起動までの時間に服を着る。
無地の紺色のTシャツに袖を通し、カーキ色のズボンに足を通しベルトを締め、ワイシャツを羽織る。
服を着終わったころ、パスワードの入力画面が表示されたので入力する。
起動が終わって絵本のようにデフォルメされたイラストのデスクトップ画面が表示される。
どうやらメールが一通届いているようだ。
「誰だろう?」
メールを開くとどうやらゼミの友人の菊井さんのようだ。
――そういえば今日は遊ぶんだっけか。
すっかり忘れていた。
「でさ、彼女さんってどんな子? うまくやってるの?」
菊井さんは大学の学食に併設されているカフェテリアのアイスココアを飲みながら問いかけてくる。
――今朝起きたらいなくなっていたことは黙っておこう。
「明るくて元気な子だよ、まあ……ぼちぼちといったところかな」
「ぼちぼちって……そんなんじゃ長続きしなさそうだなあ。見た目はどんな感じなの? 髪型とか」
そう聞く菊井さんのおかっぱ頭が揺れる。
髪の隙間から覗く耳にはシンプルなデザインのピアスが見える。
「髪型ねえ……あれはなんて言うんだ? おかっぱ?」
それを聞いた彼女はけらけらと笑いだす。
「おかっぱって。そこはボブでしょう」
「なるほどボブか。覚えておこう」
目の前のおかっぱではないボブヘアーの彼女はため息をつく。
「いやあ、わかっていたけど君は色恋に必要ないろいろ関して疎いねえ、そもそも愛想も悪いし」
「失礼な。疎いのはまあ認めるが」
おかっぱとボブがわからないのはきっと疎いに入るのだろう。
そんな事を考えていたら彼女はニヤニヤと笑い出した。
「まあそんな君にも惚れる物好きが他にいたんだ、世の中はおもしろいね」
「他にって誰が――」
僕の言葉を遮るようにアイスココアを飲み終えた彼女は席を立つ。
「次はどこいこっか?」
二人分の会計を済ませた僕に彼女は問いかけた。
「次?」
「だって遊ぶんでしょ? 学校のカフェで話しただけじゃ遊んだうちに入らないって!」
やれやれ、元気だなあ、と僕はため息をついた。
結局、僕と菊井さんはDVDを借りて僕の部屋で映画を観ることになった。
菊井さんは家が遠くて面倒だったとのこと。
僕の部屋は大学から歩いて十分くらいに対して彼女は電車を乗り継いで三十分といったところのようだ、なるほど合理的。
そんなわけで、僕らはレンタルショップに向かった。
「彼女さんを部屋に招き入れたりとかはしているの?」
映画を選びながら菊井さんは聞いてくる。
「そりゃあちょくちょく。昨日もいたし」
――今朝消えていたけど。
「ふうん。あ、これ面白そう、どう?」
答えた割には彼女は興味なさげだった。
代わりに彼女が持っていた映画は昔気になっていたものだった。
夢が妄想と混ざり合って現実との境が無くなっていくというアニメ作品だった。
「これ、観ようよ!」
彼女はにっこりと笑った。
「うわっ、汚いなあ、足の踏み場もないじゃない」
「すまんね」
僕の部屋に入った菊井さんの歩みは地雷原を歩くかのようだった。
「本当に彼女さん連れ込んでるの? 愛想尽かされるよこれ……!」
――愛想尽かされたのかな、僕は。
そんなことを考えていると彼女はいつの間にか自分のスペースを確保していた。
「さあ、観ようか」
彼女はDVDプレイヤーにディスクを差し込んだ。
映画は終盤に差し掛かり、夢の中の出来事が現実を飲み込みだしていた。
ねえ神崎君、と菊井さんはつぶやいた
「なんだい」
「神崎君もいまこんな感じなの?」
彼女は画面を見つめながら話す。
「どういうことだい」
「彼女さんなんていないんでしょ、違う?」
彼女は僕の方を向く。
「彼女だなんて言って何もかも神崎君の妄想なんでしょ」
「どうしてそんな事言うの」
「神崎君くらい女慣れしてない人が彼女差し置いて私と遊ぶ?」
「遊ぶさ、多分」
「じゃあこの部屋は? コーヒーカップは一つしかないし、なによりこんな部屋を放っとくかな普通」
僕は彼女の視線に耐えられなくなって目を逸らす。
「一緒に過ごすなら普通は揃えるよね、きみならそうすると思う」
昨夜の記憶が蘇る。
僕はベッドに寝転びながら彼女と話していた。
「明日菊井さんと会うんだ、だから別れよう」
彼女はなんでと言う。
僕は答える。
「僕の中の君はどんどん彼女に似てくるんだ。きっと僕は君とお別れするべきなんだ」
彼女はそう、それなら仕方ないね、と寂し気に笑った、おかっぱ頭がかすかに揺れた。
髪から覗く耳にはシンプルなピアスが付けられていた。
さようなら、楽しかったわ。彼女はそう言い残し消えていった。
「そうか、そうだったのか」
僕は声に漏らす。
「え? 何?」
「菊井さん、君なんだよ」
「どういうこと」
「僕の中の彼女は君なんだ、君に成り代わっていたんだ」
「つまり神崎君の彼女さんは妄想だったと認めるんだね?」
「ああ、認めよう。だけど確かに昨日まではこの部屋に息づいていた」
「そう、で?」
言いたいことあるんじゃないの?と菊井さんは不敵に笑う。
「付き合ってくれ。君も物好きなんだろう?」
「物好きって」
「こんな僕とお茶をして部屋にまで上がり込むんだ、それに」
「それに?」
「他にもいる物好きって君なんだろう?」
彼女は一瞬固まって「あっ」といった顔になった。
「今度コーヒーカップ買っておくよ」
僕は小さく笑った。