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新しいマンションの一室にいたはずだ。ドアに表札をつけ、部屋の中へと戻ったはずだ。
「なに……?」
未音は自分の目を疑わずにはいられなかった。
部屋に戻ったときに目眩がしたかと思うと、積み上げたダンボールや中途半端に開いた荷物が散乱していた部屋は視界から消えていた。その代わりに目の前には見知らぬ部屋が広がっている。ひんやりとした空気が石造りの室内を満たし、奇妙な服装をした集団がじっと未音を見つめている。
さまざまの色の髪や瞳から判断すると彼らは日本人ですらないようだ。
「誰? っていうか、ここどこ?」
「――――――――」
何とかして状況を把握しようと質問を重ねていると、彼らのうちの一人が何かを言った。見慣れない鮮やかな黄色の瞳に喜びをいっぱいにのせて、早口でなんかをまくしたてている。
彼が未音に話しかけようとしているのはわかったのだが、何を伝えたいのかはまるでわからない。
「……何語?」
聞こえてきた言葉は未音が18年間慣れ親しんできた日本語ではなかった。それどころか、いったい何語なのか見当もつかない。
未音が話すことができるのは日本語と、学校で六年間習った英語だけだが、テレビで発音を聞いたことがある言語ならたくさんある。
だが今聞いた発音は、その中のどの言語とも重ならなかった。
「――――――――」
「だから、なに? 日本語がわかる人はいないの!?」
非常識な事態に直面して泣き出す権利も彼女にはあった。その権利を行使しなかったのは、見知らぬ場所につれてこられた困惑が何よりも強かったことによる。
泣くのは状況を理解してからでいい。
今しなければならないのは、自分が置かれた状況をつかむことだ。
言葉が通じる人が一人でもいいからいないかと周りの人々を見回していると、その中で最も立派な杖を持った人物がおもむろに未音へと歩み寄った。ゲームや漫画でしか見たことのないような優美な杖には、黒と白の宝石が対を成すようにはめ込んである。
見慣れない杖に目を引かれていたが、持ち主の青年が杖を軽く傾けたことで視線が下へとずれた。青年は杖を持った手とは反対の手に、何かを乗せている。
それは、彼の杖にはまっているものを一回り大きくしたような漆黒の宝石だった。
「――――――――」
「……受け取れってこと?」
こんなに丁寧にものを差し出されたことがないので、未音の困惑の度合いはさらに増した。
だが、なんとか彼の行動の意図を理解すると、その手のひらに置かれた、吸い込まれるように深い黒をした宝石のようなものを受け取った。
否、受け取ろうとした。
宝石に未音の手が触れたか触れないかのうちに、あたりを暗闇が包んだのだ。
「なに!?」
今まで未音が体感したことのないような深い闇。恐れや畏怖の念などはすべて超越しているような。ただそこに在りすべてのものをその内に包み込む深淵。
パニックを起こして周りを見回した未音の瞳に、何かが引っかかった。
暗闇を引き裂いて、一筋の光が投げ込まれたような気がしたのだ。反射的にそちらを向くと、暖かで優しい光がゆっくりと闇を包み込んでいく。急激に明るくなっていく視界に耐えきれず、未音は反射的に目を閉じた。
「お前が女神か?」
気がつくと冷たい石の床に座り込んでいて、目の前には明るい光があった。
くらくらとする頭を振って意識をはっきりさせると、目の前に立っているのは光ではなく、見知らぬ男だということに気がついた。
他人の年齢を測ることはあまり得意ではないのだが、未音よりも年上なのは間違いないだろう。かといって、そこまで大きく離れているようにも見えない。同じキャンバスにいても違和感はなさそうなので、せいぜい未音よりもいくつか年上という程度だろう。端正な造りの顔を、未音にとっては珍しい金髪が縁取っていて、まるで職人に作られた彫像を連想させた。
未音を見据える瞳は、鮮やかな金。
「聞こえていないのか? 我の質問に答える気がないのか?」
唇の端をわずかに吊り上げて彼――――煌は笑う。
嘲笑するようなその言い方にたまらず怒りを爆発させようとして、ようやく先ほどまでとは大きな違いに気がついた。
「何言ってるかわかる……?」
「それこそ貴女が真の女神、燐さまであられる証拠にございます」
驚きのあまり呆然としている未音に、目の前の男のものとは異なる声がかけられた。
声を発したのは未音に黒い宝石を差し出した人物。
さっきまで理解できなかったはずの彼の言葉が理解できるようになっていて、未音の驚きは増す一方だった。
「先ほど貴女様に差し上げたのは女神様の宝玉。貴女さまの、この世界に残されていた魂の一部分にございます。そして……」
「ちょ……ちょっと待ってよ」
説明を聞くうちに膨らんだ嫌な考え。
それを少しでも早く拭い去りたくて、未音はさらに説明を重ねようとする彼の言葉を慌ててさえぎった。
「この世界……って、どういうことですか?」
このとき未音の中によぎった思いをなんと説明したらいいだろう。ありえないと理性が叫び、でもと反論をする感情が暴れている。
その狭間に、ひどく冷静に状況を見つめる未音がいた。
「ここは綺羅国。貴女様が今までお過ごしになっていた場所とは、まったく別次元の世界であると伝えられています」
予感はしていた。
していたが、絶句する以外のことはできなかった。