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「確かに……昴は私の大切な友人の名前です」
搾り出されるような言葉だった。いつも穏やかに話していた詠軌からは考えられないほど、苦しみに満ちた言葉。
それは偶然にも、先ほどの昴の話し方によく似ていた。悔やんでも悔やみきれない深い悔恨が、言葉の端々からにじみ出るような声。
「彼とはいつも一緒にいました。年頃も同じくらいだったということもあって、毎日一緒に遊んで。とても……とても楽しかった」
空色の瞳がゆっくりと細められる。遠い過去を見つめている詠軌は楽しそうでもあり、悲しそうでもあった。相反する二つの感情がせめぎあって揺れている。
思えばこの人の瞳は、煌について語るときはいつでも複雑な色をたたえていた。
煌として君臨するかつての友人を見るたびに、胸の内でどれだけの言葉を押し殺してきたのだろう。
未音には想像することしかできない。神となった昴も孤独を抱えることになったが、親友が神になってしまった詠軌もまた、孤独を感じていたのだろう。
神は人間とは違う存在。
彼の友人ではない、召喚士としての詠軌はそのことをよく知っているはずだから。
「彼はとても賢い人でしてね。かくれんぼの隠れ場所一つとっても、他の子供とは格が違いました。全体を見渡すことができると言うんでしょうかね。なのに少しもおごったところはない、優しい人でした」
おそらく彼のことを話しているであろう詠軌の話し方にはかすかな違和感があった。ざらつく違和感が、未音の心を執拗に逆なでする。不愉快を通り越して、いっそ不快感と言ってもいいような違和感の正体を探っているうちに、ようやく気がついた。
詠軌は昴について話すときに、過去形を使っていた。詠軌にとって昴は、もうここにはいない友人の名前になってしまっている。昴が煌として生まれ変わったときに、詠軌の中の昴は死んだのだ。
「奇遇……ですね」
「何がでしょう?」
首をかしげる詠軌に向けて微笑みながら、未音は慎重に距離を測っていた。目の前にいる詠軌との距離ではなく、頭上でこの会話を聞いているであろう昴との距離を。
今から未音が言おうとしている言葉は、昴に聞いてもらわないと意味がないのだから。
「私が知っている昴も、そういう人なんです」
「それは……」
「ただ、私が知っている昴は少し寂しがり屋なんですけどね」
「……っ!」
あえぐような声を漏らして黙り込んだ詠軌を、未音は静かに見つめていた。昴が煌から彼自身へと生まれ直した時と同じように、彼女は待っていたのだ。目の前の召喚士長と頭上に隠れているこの国の神が、かつての幼友達に戻るまで。
ただ以前と違うのは、未音が必死で祈っていることだった。
もしここで詠軌が拒絶の言葉を発したりしたら、木々の間にいる昴は修復不可能な傷を負わされてしまうような気がしたのだ。
「私の友人であった昴はもういないんです」
「なんでそんなふうに言うの!? 昴はここにいるのに!」
「もう……いないんですよ」
苦渋に満ちた表情が詠軌の本心は別のところにあると教えてくれたが、それだけでは意味がない。彼が今の昴をしっかりと見つめてくれなければ、昴の絶望は濃くなるばかりだ。木々の合間から詠軌の答えを聞いているはずの昴の気持ちを思うだけで、未音の胸はきりりと締め付けられるようだった。
何とかして説得しなければと焦るばかりで、思いが具体的な言葉にならない。口を閉ざしてうつむいた未音に、詠軌もまた何も言おうとはしなかった。
沈黙が満ちた中庭を、無情なまでに明るい太陽が照らす。
「勝手にいないことにしないでもらいたいな」
重苦しい空気を見かねた太陽が、空から落ちてきたのかと思った。まばゆいばかりの金の髪に、同じ色をした瞳。光の神は太陽の神にも通じるのだと、後になって未音はそう考えた。
しかし、今の未音にそんなことを考える余裕などない。
「昴!?」
「煌!?」
発せられた名前は二種類だったが、未音も詠軌も呼んでいたのはたった一人。二人に呼ばれた本人はわずらわしげに顔にかかった髪をかきあげた。きらきらと光る球がその動きを追うようにして浮かんでいる。
「さすがにあの高さから飛び降りるのは無茶だったか。少し足が痛いな」
「煌……」
ぱくぱくと詠軌が言葉にならないまま口を開閉させる。未音にはまるで詠軌が陸に打ち上げられた魚に見えた。急に陸に打ち上げられて、ありえないと思っていた事態に驚いている陸の魚。泳ぐための手段を失った魚は、次にどうするのだろう。
陸に順応しようとするか、海に戻ろうとするか。
すっかり第三者となった視線から、未音は二人を見つめていた。狼狽する詠軌とは対照的に、昴は涼しい顔で落ち着き払っている。
「久しぶりだな、詠軌。ざっと十数年ぶりか?」
「煌、何を仰っているのですか。俺は今朝も貴方に会っていますよ」
「今朝会ったのは煌としてだろう? 昴として会うのは久しぶりだろう? 違ったか?」
『昴』の名前が発せられた瞬間、完全に詠軌は言葉を失った。ぜんまいが切れた人形のように立ち尽くして、ただ昴を見つめている。
見つめているというよりは、瞳に映しているだけというほうが正しいのかもしれない。二人を見守っている未音のほうが驚いてしまうほど、詠軌は驚愕を顔に貼り付けていた。
「俺は今までずっと煌を演じてきたが、自分が煌だと思ったことは一度もなかった。自分はただの人間だということは、俺が一番よくわかってるからな」
「何を仰いますか!?」
「事実を述べただけだ」
他にも言い方があるだろう、と思わずフォローをしたくなってしまうほどに、昴の言い方には容赦がない。実際、未音は何度か口を挟むタイミングを探していたのだが、昴が視線でそれを拒んでいた。
「俺には特別な力は何もない。それは誰よりも側で俺を見ていたお前もよくわかってるんじゃないのか?」
「そんな……」
詠軌の瞳が揺れていた。必死になって隠そうとしているが、空色の瞳に浮かぶのは紛れもない迷い。
それこそが、詠軌が昴を人間だと思っている証だった。
「俺は子供の時から、お前とかくれんぼをしたときと何にも変わっちゃいないんだよ」
その言葉を境に中庭の空気が凍りついた。
昴はただまっすぐに詠軌を見つめ、詠軌は目を見開いて立ち尽くしている。
後になって未音は、この時ほど必死に祈ったことは無いと昴に話したことがあった。詠軌が昴を拒まないように、二人が元の友達に戻れるように。
自分の合格発表のときよりも真剣に祈ったのだ。
必死な祈りは――――通じた。
「俺は……、また失うのが怖くて目を背けていたんです」
「どういう意味だ?」
軽く首をかしげる昴に詠軌は笑って見せた。まだ少しこわばってはいたが、その笑みは今まで詠軌が浮かべていたそれとは明らかに異なっている。
今までは恭しさとともに一種の拒絶を表していたのに対して、この笑顔は親しい者に向ける心からの笑みだった。
「俺はかつて一度親友を失いました。それ以来、俺はつらかったんですよ。だから、お前が戻ってきたといっても、俺はすぐには信じたくなかった」
「信じなければ……裏切られることも無いから?」
いぶかしげな表情を崩さない昴に変わって、未音がその言葉の先を引き継いだ。詠軌はようやく未音の存在を思い出したようで、一瞬驚いた表情をしてから小さく頷いた。
「案外お前も馬鹿だな」
呆れたとでもいうように両手を広げて昴は笑う。
いつの間にか、中庭には優しい風が吹くようになっていた。
「それはお互い様です……昴」
最後の一言はまだ少しためらいがちに。それでも、詠軌ははっきりと幼友達の名を呼んだ。それに答えて昴は柔らかく笑う。
幼い頃に一緒にかくれんぼをして遊んでいた二人の姿が見えたような気がした。