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詠軌に案内された中庭は、少し狭かったがとても綺麗な場所だった。
ゆっくりと流れていく風に、木々の隙間から差し込む木漏れ日。書庫から持ち出した本を広げていると、それを覗き込むように小鳥たちが未音の周りに集まってくる。背の高い木々に囲まれた空間に座っていると、それだけで幸せな気分になれた。
詠軌に案内されて以来すっかり中庭が気に入った未音は、書庫へ行ってから中庭に行くことを日課にし始めた。書庫で埃にまみれた本を取って、中庭で新鮮な空気を吸う。そして冴えた頭で本を読み進めていく。本を読むという作業自体は書庫にいたころと変わらないはずなのに、読むスピードはずいぶんと速くなっていた。
(やっぱり環境って大事よね)
じめじめとした地下書庫と、風が吹きぬける中庭でこれほどに能率が変わるとは思わなかった。書庫にこもっていたときには一冊読むのに丸二日かかったが、中庭に来てからは一日半で読み終わるようになった。微々たる違いだが、重なれば大きな差になる。
(本を変えたのもよかったのかなぁ?)
未音はひたすらに神話の本を読み進めるのではなく、いろいろな種類の本を読むようになっていた。伝説をモチーフにした小説や、綺羅国の地理について書いてある本。今膝に広げているのは、元の世界での新聞に近いもののようだ。国内の政治についてのことや、隣国との関係について書いてあった。
(煌って……すごい人なのね)
神として崇められている煌は、てっきり政治には関わっていないものと思っていた。ただの象徴としてこの国を守っている存在。未音が煌に対して漠然と持っていたのはそんなイメージだった。
だが、本を読み進めるうちに、それはとんでもない誤解だと思い知らされた。
国内の政治も、隣国との外交関係も、すべてを取り仕切っているのは煌だ。国民の生活が豊かになるように内政を整え、戦争にならないように隣国には条約を取り付ける。普通なら何人もの人々で分担して行うそれらの作業を、煌は彼自身のみで行っているのだ。
もちろん、彼を補助するために官僚や役人がいる。だが、すべての案に最終決定を下すのは煌であり、煌の裁可なしにはどんな法律も意味を成さない。
いっそ独裁君主とでもいえるような様子だったが、煌は立派に国を治めていた。
今読んでいる本も、煌を褒め称える内容がほとんどだった。
「我らの国は我らが神とともに平和を享受している。これに闇の女神が加われば、平和と繁栄は我が綺羅国のものである……か」
最後の一文を音に乗せて、未音は本を読み終えた。木々の隙間に言葉はすんなりと溶け込んでいくが、最後の文が未音の心にかすかに引っかかる。どうにも釈然としない気持ちだけが残った。
「寒っ」
風向きが変わった。
暖かだった風は突き刺すような冷たさを含み、未音の髪をもてあそぶ。慌てて髪を押さえて立ち上がると、いつの間にか夕方と呼べる時間になっていることに気がついた。まだ太陽は地平線から顔を出してはいるが、だんだんと闇の帳が落ちてきている。
「ヤバい、暗くなる前に帰んなきゃ」
「闇の女神様は闇を好むのではないのか?」
「えっ!?」
突然割り込んだ自分以外の声に、未音ははじかれたように顔を上げた。声の主を探して視線をさまよわせれば、頭上の木々の中でもひときわ立派な枝の上に、白い布が見えた。
二度しか見たことはないが、今の未音は白が光の神にのみ許された色であることを知っている。
「煌……」
「久しいな、燐」
燐、と呼ばれるだけで寒気がした。自分の名前以外で呼ばれることがこんなにも苦痛だとは夢にも思わなかった。
まるで、篠宮未音という存在そのものが否定されているような気がする。
「あまりあからさまに怯えるな。詠軌が余計な気を回す」
「どういうこと?」
未音には煌の言葉の意味がわからなかった。困惑を色濃く表して立ち尽くす未音に、煌は小さく笑って見せた。
「この中庭は我がよく休みに来る場所でな。もちろん、詠軌もそのことを知っている」
「…そんなぁ」
かつて未音は詠軌に向かって、煌には会いたくないと絶叫したことがあった。
だが、詠軌は煌と燐の伝説を信じる側の人間なのだ。あくまでも煌を避けようとする未音に対して、なんらかの策を講じてきたとしても不思議ではなかった。
「いい人だと思ったのに」
「詠軌は策士だ。覚えておくのだな」
言いながら木を下りた煌が未音の前に立つ。未音よりもだいぶ背が高い煌は、その存在で未音を威嚇していた。
来るな、近寄るな。そんな声が聞こえる気がする。
「どういうつもりだ」
押し殺された煌の声は低い。声の下には煮えたぎる怒りが隠されていて、我知らず未音は一歩下がりそうになった。
「何のこと……?」
「ストールを、我にかけていっただろう」
「ああ、そのこと」
一気に肩の力が抜けた。地下書庫での未音の行動は、褒められこそすれ怒りを向けられるようなことではない。ならば、今の未音が感じている煌の怒りは何か別の感情なのだろう。
そう思ったのだが、煌から向けられているのは紛れもない怒りの感情。
「余計なことをするな」
煌の言葉はあくまでも冷え切っていて、それでいて大きな怒りをはらんでいた。
あまりに予想外の反応に未音が言葉を返すことができずにいると、叩きつけるように煌の言葉が続いた。
「我に構うな。目障りだ」
はっきりとした拒絶の言葉とともに身を翻した煌の姿は、初めて会ったときによく似ていた。あの時煌は力任せにテーブルを殴りつけ、何も言えない未音を残して立ち去ったのだ。
あの時と同じように、煌が姿を消すまでじっとしていたほうがよかったのかもしれない。
だが、身の内で逆巻く感情を抑えることはできなかった。
「ふざけないでよ!」
静かな中庭を切り裂く絶叫に、さすがの煌も立ち止まった。まるで信じられないものを見るように、本を抱えて仁王立ちをしている未音を見つめる。
今の未音を動かしているのは強烈な怒りだった。
厚意を踏みにじられたことへの怒り。篠宮未音という存在を否定された怒り。
そして何より――――煌から自分へと一方的に向けられる嫌悪に対しての怒り。
本に書かれていることを信じるなら、煌はこの国を支える優秀な王だ。政治に対しても国民に対しても、平等な立場を貫き通している王。
それにもかかわらず、未音に対してだけはその顔は見せない。ただ、燐という存在を嫌悪し、未音の存在を否定する。
「風邪引くかなって心配だったからストールかけてあげたんじゃない! それなのに何様のつもりよ!?」
「光の神が風邪など引くはずがないだろう!」
「バッカじゃないの! あなた、ただの人でしょ!?」
煌の黄金の瞳が見開かれた。何かを言いかけて口を開き、戸惑ったように口を閉じる。あまりにも劇的な変化に、その原因となった未音もそのまま黙り込み、慌てて自分の言葉を脳裏で繰り返す。
(勢いに任せてバカとか言っちゃったから? そもそもバカって通じるの?)
いったいどの言葉が、煌にこれほどの変化をもたらしたのだろう。
もしかしたらとんでもないことを口走ったのかと未音が冷や汗をかき出したころには、あたりはすっかり闇に包まれていた。暗闇に阻まれて、煌の表情を見ることすらかなわない。
いっそ煌のことは放り出してこのまま逃げ出してしまおうかと本気で考えていると、呆然とした彼の声が耳に届いた。
「なんで……人間だと言い切れる?」
「なんでって、だって闇の女神って言われてるけど私は普通の人間だし。それに、あなたも普通の人間にしか見えないし……。ああ、光を出せるのはすごいなって思うけど、神様の力ってそんなもんじゃないと思うし」
煌の声は怖いくらいに真剣だったが、未音にはその真意がわからなかった。
煌の転生した姿が目の前に立つ人物であり、燐の転生した姿が別の世界にいた未音であるとこの国の人たちは信じきっている。
だが未音は、自分が女神だとは信じていなかった。女神らしい力など何もないのだから当然だ。
一方煌はどうかというと、こちらも何か特殊な力を持っているとは思えない。地下書庫では光球をまとわりつかせていたが、そのほかには特殊な力などないのではないか。
現に煌は普通に政治を行っていて、何か不思議な力で国を治めているわけではないことがわかっている。
それとも、この人は自分が神だと信じきっているのだろうか。
(たぶん、そうじゃない……)
根拠などない直感のようなもの。だが、未音は自分の直感を信じていた。
「俺は……今までずっと神として扱われてきて……でも本当は、俺は……」
「人間でしょう!? 違うの?」
煌は未音を見ていない。おそらく、未音の存在など忘れきっているのだと思う。今ならあれだけ恐れていた煌からも簡単に逃げられるだろう。
しかし、未音の中に逃げるという選択肢は存在しなかった。
今の彼を見捨てて逃げたら、人としての彼はきっと壊れてしまうから。
「俺は……神の転生した姿で……」
「でもあなた自身は神様じゃない」
「そうだとして、一体俺にどうしろと言うんだ。神として……煌として生きるより他にいったいどうしろと!?」
叫んだ煌の瞳には怒りにも似た光が浮かんでいた。そう、ちょうど初めて会ったときと同じような、未音が今まで感じたこともないような圧倒的な光。
それを持つにもかかわらず、煌がまるで小さな子供のように見えた。
助けてと、暗闇の中であがいている子供。
闇の女神と呼ばれている自分は、実は彼に光を与えるために召喚されたのではないかと、ふとそう思った。
「あなたは神様じゃない。本当は、自分が一番よくわかってるんでしょう?」
「そんな……ことは……」
否定の言葉をつむぐ煌の瞳は迷いに揺れていた。
「神様として生きていたら、あなた自身は死んじゃうのよ。わかってるの?」
「だけど、ここに俺の居場所はないんだ!」
あまりにも哀しい言葉だった。この国を支える者が発したとは思えないほどに、哀しみと孤独に満ちた言葉。
だが、同じように「神」の扱いを受けている未音には彼の言葉が掛け値なしの真実だということがよくわかる。
未音の話し相手は詠軌だけ。たとえ詠軌以外の人に話しかけようとしても、深く叩頭してしまい話をすることができない。何を尋ねても答えてもらえずに、泣きそうになったことも何度もある。
詠軌にしても、対等な話し相手とはとてもいえなかった。どう考えても未音のほうが年下なのに、丁寧な態度を崩そうとはしないのだから。そのため、召喚されて以来、未音は常に孤独を感じていた。
ましてや、煌はずっとこの世界にいるのだ。
彼がいつ神になったのかはわからないが、もしかしたら生まれたときから神として崇められていたのかもしれない。神でいる時間が長ければ長い分だけ、孤独感は増していったはずだ。
「居場所ならあるよ!」
「どこに!? 俺は煌なんだ! 父や母でさえ俺を煌としか見ようとしない!」
「私がいる!」
中庭の空気が止まった。すっかり暗くなった中庭に響いていた二人の声はぴたりと止まり、ゆっくりと流れていた風も完全に止まる。
耳に痛いほどの静寂が満ちた中庭で、未音はまっすぐに煌を見つめていた。
「私にはあなたはとても立派な王様に見えるよ。国を支えて、そこに住む人達のために頑張っている王様」
書庫から持ってきた本には煌を称える言葉が多く書かれていた。書いた人間は神としての煌の栄光を称えるつもりで記載していたのかもしれないが、未音の目にはそれはただ一人の王を称える言葉に見えた。
「王様の居場所が国にないわけないじゃない。あなたは国を立派に支える、偉大な王なんだから」
同じような言葉の繰り返しになってしまうのがもどかしい。この国のことはよくわからない未音が紡ぐ言葉は煌の心には届かないかもしれない。
だがそれでも、未音はゆっくりと言葉を紡いでいく。
「この国の人みんながあなたを神と呼んだとしても、私はあなたを王……、いいえ、ただの人間だと思い続ける事ができる」
「それはなぜだ……?」
「だって私もただの人だもの」
特別な力など何も持っていないことを示すかのように両手を広げて、困ったように微笑んで見せる。意表を突かれたかのように煌は目を大きく見開いて、そっとうつむいた。
未音は言葉を発するのをやめ、ただじっと待っていた。
神として生きていた青年が、人間へと生まれなおす瞬間を。