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夜の蝉

作者: 上村香

 今年は遠縁の親戚がくるというので、明美はいつになく張り切って料理を作っていた。塾から帰ってきた息子の秀が「ただいま」と声をかけても、振り向かなかったほどである。

「秀ちゃん、お帰り。お味噌汁温め直すから、もうちょっと待ってね」

「うん」

「明日ね、親戚の人がたくさんくるから。秀ちゃん、成績表出しといてね」

「うん、わかった」

 鶏肉の挽肉をこねまわしていた手を洗い、明美はガスコンロに火を点けた。台所は、二ヵ月後にリフォームする予定だ。念願の対面式キッチンとIHコンロが今から待ち遠しい。炊事をしながら、夫と子どもの談笑や食事風景を眺めるというのが、明美のささやかな夢だったのだ。

 もちろん、息子の成長が最も楽しみである。それだけに心配事も多いのだが、中学一年生の秀は、優しい気性で、礼儀正しく、勉強もよくできるので、親としては満点をあげたいほどだった。

 手早く雪平鍋の中身をかき混ぜ、漆塗りの吸い物椀によそって、ダイニングテーブルに置く。身を屈めて秀の肩を抱くと、手のひらからハンドソープの匂いがした。

「秀ちゃん、ハンドソープの匂いがする。よくすすがなきゃだめよ。もう一度水で洗っておいで」

 秀は手のひらを上に向けて少し鼻を近付け、ほんとだ、と恥ずかしそうに笑った。

 毎年十二月末になると、広瀬家の本家には十人近い親戚が集まって忘年会を開くことになっている。夫の直人は本家の次男で、親類縁者に何かと頼りにされており、義父が家を譲ったのも直人だった。長男は、豪という五十がらみの日焼けした男だ。息子が一人いる。

 豪は若い頃から問題ばかり起こしていて、ろくな職にも就かず、ぶらぶらしていたが、今は長距離トラックの運転手をしている。それも直人が知り合いに頭を下げて雇ってもらったというのだから、迷惑甚だしい。明美の義兄にあたる豪は、一族の鼻つまみ者だった。仕事柄か本人の意思なのか親族と顔を合わせることも滅多にないので、まるでいないもののように扱われていた。

 手を洗った秀が戻ってきたので、明美はそういえば、と声をかける。

「明匡くんがくるって。お正月ぶりよねえ」

「アキにいが?」

「バイトの都合がついたんだって。叔母さんの手料理が楽しみだって、喜んでたわ」

「伯父さんは?」

「伯父さんは、こないでしょう。お仕事があるからね」

 豪のことは、あまり秀の耳に入れたくない。最後に顔を合わせたのは数年前になるが、この先一生会わせなくてもかまわないとさえ明美は思っていた。

 ただ、豪の息子の明匡は不憫でならなかった。父親はああだし、母親も明匡が幼い頃に蒸発している。いっそ引き取ろうかと何度も話し合ったのだが、豪が突っぱねるのでそれもできなかった。中学生までは長期休みの度に家に呼んでいたし、大学の入学祝いに中古車を買い与えたりもした。他の親戚からは、人が良すぎると呆れられるのだが、周囲に恵まれている実の息子と比べるとあまりに可哀そうなので、ついかまいつけるのだった。

 茶碗にご飯をよそい、皿にかけてあったラップを外して、秀の向かい側に座る。

「いただきます」

 秀はきちんと手を合わせてから食事に手をつける。もう、九時を過ぎていた。

「秀ちゃん、前髪伸びたねえ」

「そうかな?」

「年明けには、切りに行こうね」

「うん」

 秀の涼やかな目もとは、直人によく似ている。顎は、明美に似て細かった。まだ、声変わりはしていない。可愛い息子だ。

「お母さん、これ、美味しいね」

「そう?おかわりあるからね」

 秀は、ごま油で風味を付けた春雨のサラダが気に行ったらしい。そういえばつるつるしたものが好きな子だった。離乳食の時期はよく、柔らかく煮たうどんを「ほら、つるつるだよ」と言って食べさせたものである。

 あと何年、こうして家にいてくれるのだろう。結婚してから子どもを授かるまでに七年かかった。もはや二人目は望めないだろう。できるだけ長く、こうして手料理を食べているところを見ていたい。

「秀ちゃん、明日お父さんお休みだから。お買い物に付き合ってあげてね」

「うん」

「お酒とかジュースとか、たくさん買うから、少し持ってあげてね。あと、食べたいものがあったらお父さんに買ってもらうのよ」

「うん、わかった」

 秀がきれいに夕飯を食べ終えると、明美は満足して食器を片付けた。もう少し、明日の仕込みをしてから寝よう。きっと盛大な忘年会になるはずだ。



 風呂から上がった秀は、台所で水を一杯飲むと、すぐ自分の部屋に戻った。整頓された棚からA4サイズの平べったいケースを取り出して、三学期の成績表があるのを確認する。成績表の下には、これまでに受賞したコンクールの賞状や漢字検定の認定書が重なっていた。一枚一枚飾ろうとする明美を、何とか説得して自室に置くことに成功したのである。たいした賞でもないのに額縁に入れて飾られるのは、嫌だった。

 成績表を机の上に置いて、ケースを元の場所に戻し、ベッドに倒れ込む。冬休みの宿題よりも、塾のほうが疲れる。塾に通いだしたのは中学校に入ってからだが、その中でも上位をキープするのは大変だった。

 小学生の頃は家庭教師を雇っていた。そのもっと前は、幼児用の学習教材で勉強していた。アルファベットも漢字もかなり早くに覚えたし、学校の授業についていけないということはなかった。英会話教室は、もう五年続いている。優等生だと、自分でも思う。

 つまらない。僕はつまらない人間だ。

 怒りとともに、秀はそう強く感じるのだ。脂っこいものを食べたせいで、胸がむかむかしていた。特に美味しくはなかったが、何か一品褒めてやらないと、明美はあからさまに落胆する。明日の忘年会のためにたくさんの料理を作っている最中だから、褒めて気分をよくさせるのは必要なことだった。明日は父の買い物に付き合い、仕事について質問し、ほどよくジュースや菓子類をねだらなくてはならないだろう。

 つまらない人生だ。嘘ばっかりだ。

 枕に顔を押し付け、わあっと叫ぶ。分厚い綿に遮られて声はどこにも届かない。それくらいしか、できることはなかった。涙が滲みそうになる。

 どうしてあんなくだらない親のために。汚い大人たちのために。

 忘年会なんか出たくない。だれにも会いたくない。一日中、自分の部屋に引きこもっていたい。

 それでも朝になれば明美が起こしにくるし、ひどいときには、タンスを開けて服さえ出していくのだ。秀ちゃん、今日はこれがいいんじゃない、この前買ったズボンはどう、秀ちゃん、秀ちゃん――。

 もう、うんざりだ。一人になりたい。早くこの家を出たい。

 でも今はまだ、無理だ。十三歳は、あまりに無力だった。

「アキにい」

 明匡なら、分かってくれるだろうか。それとも、贅沢だといって頭を小突かれるだろうか。明匡はまともに親の愛情を受けないで育った、そう聞いている。家計が苦しいので、高校生からはバイトをして、大学には奨学金で入った。苦学生、だ。

 けれど、明匡も二十歳になってしまった。もうお酒が飲める歳なんだと思うと、遠く感じる。大人たちの仲間入りをしてしまったような気がする。

 昔のままのアキにいでいてほしい。小さい頃、いっしょにバッタをつかまえた、どんぐりを拾い集めた、手持ち花火をしたアキにいでいてほしい……。

 すうっと眠気が差してきた。秀は毛布の下にもぐりこんで、目を閉じた。





 翌朝、秀は明美が起こしにくる前に目を覚ました。十二月の寒い空気にも躊躇わず、パジャマを脱ぎ捨て、歯をカチカチ鳴らしながらネルシャツとセーターとツイードのズボンを身に着ける。厚手の靴下を履いて、パジャマを畳み、部屋を出た。

 鬱陶しいことに、明美はもう起きていた。階段を下りる足音で気付いたのか、リビングから顔を出して待ち構えていた――まるで獲物が巣に引っかかるのを待っている蜘蛛のように。

「おはよう、お母さん」

「あら秀ちゃん、早かったのね。朝ごはん、もうちょっと待ってくれる?」

「うん」

 リビングを素通りして、洗面所に向かい、服を濡らさないように慎重に顔を洗う。タオルで水気を拭って鏡を見ると、そこには広瀬秀がいた。両親の惜しみない愛情を受けて育った、大人しくて勉強のできる子。学校でも友達とうまく付き合い、二、三のグループチャットに入っている。いじめられた経験はない。十三年間の人生、順風満帆といえた。

 いや、うまくやっているだけだ。ほんとうに楽しんでいるわけじゃない。生きていることの面白味なんて、微塵も感じなかった。こんな中学一年生はめずらしいのだろうか。

 そうとも思えない。人生に見切りを付けたのか、早々に自殺する子どもだっている。世間やニュースは騒ぎ立てるが、秀は同情も共感もしない。ああ、そうかと認識するだけだ。それから、そういったニュースを見る度に神経質になる明美をどうにかして落ち着かせる、それだけだ。

 少し濡れてしまった前髪を撫でつけながらリビングに行く。朝食のあとはニュースを見ながらリビングで勉強して、明美のおしゃべりに付き合い、父が起きてくるのを待つことになるだろう。

 二時間ほどして、父の直人が起きてきた。

「秀ちゃん、早起きだなあ。えらい、えらい」

 ややぎこちなく秀の横に腰かけ、体を捻って、顔をのぞきこむようにする。いつものごとく息子の顔を窺うさまに、秀は苛立った。父はいつも、完璧でありたいのだ。息子を深く理解し、優しく、時には厳しく愛情をもって育てる、理想的な父親であろうとしている。自己実現に付き合わされるこっちとしては堪ったもんじゃない、と秀はいつもげんなりしている。

「お父さん、おはよう。昨日は何時に帰ってきたの?」

「十二時くらいかなあ。会社の忘年会だったんだよ。ハンドルキーパーだから、お酒は飲まなかったけどね」

「ハンドルキーパーって、なに?」

 意味は知っていたが、わざと聞いてみる。ときどきこうやって子どもらしい質問をしてやらないと、大人はすぐにこの子は可愛げがないと言い出す。

「運転するためにお酒を飲まない人のことだよ。お父さんも、昨日は二人同僚を送ってから帰ってきたんだ」

「お父さんも、えらいね」

「えらいかあ。そうかあ」

 父は破顔して、秀の頭を撫でた。明美がテキパキと用意した朝食を食べて、しばらくテレビを見る。その間に秀は塾の課題を進めて、一度部屋に引き返した。

 リビングにはきっと今頃、重い沈黙が満ちていることだろう。父と明美の間にもはや夫婦としての愛情がないことは、何年も前から理解していた。息子を介してでないと、ろくに会話もできないのだ。世間体を気にして円満な家庭を演じているが、お互い離婚したいのは山々だろう。

 僕がいなければこの家庭は成り立たない。

だからきっと、父も明美もあんなに必死なのだ。息子に執着して、肩書を保とうとしている。そうしないと自分に自信を持てないのだ。息子を愛するふりをして、自分を愛している。自己中心的な大人。気持ち悪い、とノートに書き殴りたくなる。明美がいつも部屋の隅々までチェックするので、そんなことはできないのだが。ノートをのぞかれるのなんて、慣れてしまってもうなんとも思わない。

 コートを持って居間に戻ると、父がソファから腰を上げた。

「秀ちゃん、もう行く?」

「僕はいつでもいいよ」

「じゃあ、行こうか。年末で混んでるかもしれないしね」

「そうだね」

「ついでに映画も観ようか。少し遅くなるけど、いいよね、お母さん」

「いいわよ。みんなが集まるのは夕方からでしょうから」

「四時くらいに帰ればいいよね。秀ちゃん、ちょっと待っててね。車の暖房いれてくるから」

 そう言うと、父はリビングを出て行った。

「秀ちゃん、よかったねえ。お父さんとお出かけできて」

 明美が猫なで声で話しかけてくる。

「うん。久しぶりだから楽しみだな」

「たくさん遊んでもらいなさい。お父さん、冬のボーナスがよかったからなんでも買ってくれるわよ」

 こういうときは、子どもらしく欲しいものを口に出さなければならない。秀は少し考えて、二つ見つけた。

「じゃあ、スニーカーとパズル」

「秀ちゃんはほんとにパズル好きねえ」

 何を嬉しそうにしているんだろう。知育だといって、小学生の僕に無理やりパズルを押し付けたのはあんたじゃないか。

「今度は少し大きめがいいな。B4くらいの、風景画」

「いいわね。完成したら、リビングに飾ろうか」

「恥ずかしいから、いいよ。僕の部屋に置いておく」

「恥ずかしがらなくていいのに」

 あんたが人に自慢しないなら、別に恥ずかしくないんだよ。

「いいんだ」

 気持ちとは正反対の言葉がすらすらと出てくる。こんな自分も、秀は嫌いだった。

「お待たせ、秀ちゃん」

 玄関から父の声が聞こえてくる。車内が暖まったのだろう。

「じゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」

 コートを羽織ると、秀はドアを閉めて、寒空の下で白い息を吐いた。


 コメディー映画を観てからレストランで昼食をとり、大量の買い物をして家に帰ったのは四時を少し過ぎた頃だった。秀は予定していた通り、新しいモデルのスニーカーと草原を描いた風景画のパズルを買ってもらったので、明美にさも嬉しそうに報告してから、自分の部屋に戻った。

 パズルは冬休みの間に完成させてしまいたい。それも、できるだけ早いほうがいい――あまり時間をかけると、明美が煩い。明美は、息子はパズルを完成させるのが早いと、そんなことまで人に自慢するのだ。

 秀はさっそく包装を開けてパズルに取り組んだ。客がくるまでの時間潰しにはちょうどいいだろう。

 青い空を背景に美しい草原が広がり、野花が点々と咲いた、生命力を感じさせる風景画のイラストを見ながら、ピースを少しずつ繋げていく。風景画のなかには、きっと澄んだ風が吹いていることだろう。そして、足もとの瑞々しい草花を揺らすのだ。そこには誰もいない。親も、先生も、クラスメイトも――僕さえ、いないかもしれない……。

 一時間も経っただろうか、明美の声が秀を呼んだ。

「秀ちゃん、開けるわよ」

 返事も待たずにドアを開ける明美の無神経さが気に障ったが、秀は顔に出さずに振り向いた。

「あら、もうパズルしてたの。あのね、芳子さんがもう着くって。お出迎えするから秀ちゃんも下りておいで」

「アキにいは?」

「もうすぐじゃないかしら。遅れるなら連絡してくるでしょうし」

「ちゃんと、くるんだよね?」

「くるわよ。今日を楽しみにしてたもの」

 明美はにっこりと笑って階段を下りていった。


 息子の運転する車から降りるなり秀を抱きしめた芳子は、秀の大叔母である。夫の兼吉はもう亡くなっていて、息子の兼芳と嫁の美智子と二世帯で高根沢に住んでいた。

「ああ、秀ちゃん。いい子にしてた?」

「はい。お久しぶりです、芳子おばさん」

「いやあね、もうおばあちゃんよ」

 けらけらと笑う芳子の後ろで、兼芳とその妻が微笑んでいる。円満な家庭なのか、それとも明美たちのように仮面を被っているのか、秀には判じかねた。

「さ、お寒いでしょうから」

 明美が促し、一行は家に上がった。

 しばらくすると、次々と親族が到着した。リビングではなく、卓袱台を並べた十二畳ほどの座敷に通される。二台のガスストーブがすでに座敷を暖め、卓上には小皿や箸が並んでいた。秀はコートを預かってハンガーにかけたり、客の話し相手をしたりして時間が過ぎるのを待った。

「こんばんは」

 明匡が煙草の煙で茶けた襖を開けて座敷に入ってきたのは、六時少し前だった。

「明匡くんだ」

「明匡くん、久しぶりだねえ」

 ビールを飲んでいた兼芳がおいでおいでと明匡を手招く。明匡は頭を下げながら兼芳と芳子の間に収まり、また頭を下げながら、美智子からグラスを受け取った。瓶ビールをつごうとする兼芳にすみません、と謝る。

「今日、車なんで。ウーロン茶でいいです」

「なんだあ、飲まないのお? 明匡くんとお酒飲むの楽しみにしてたのに」

「ほんと、すみません。またの機会に、ぜひ」

「今度、うちおいでよ。秀ちゃんも、ねえ?」

 赤くなった顔を秀に向ける兼芳は、すっかり酔っ払っている。だらしない、と嫌悪しながら秀は曖昧に頷いてみせた。

「おいでよ。おじちゃんがなーんでも買ってあげる。あ、車は買えないけどね」

「ちょっと、秀ちゃんいやがってるでしょ」

 美智子に肘で突っつかれても、兼芳は喋るのをやめない。

「そんなことないよ。ないよね? あるかなあー。あはは」

 何がおかしいのか、一座がどっと沸いた。客は、すでに十人以上集まっている。視線が自分に向いていることを自覚しながら、秀は慎重に言葉を選んだ。

「……お父さんと、お母さんがいいっていったら」

「あは、そりゃあそうだ。お父さんとお母さんがいいっていったら、うちの子になってもいいんだよ」

 それには、わざと子どもっぽく首を振った。また、全員が笑う。

「そうだよなあ、お父さんとお母さんがいいよな。うん、負けた。直人さんは稼ぎがいいし、明美さんは美人だし」

「ちょっと、どういう意味?」

 美智子がまた肘で突っつく。

「いやいや、でもね、ほんとにおいで。待ってるからね」

「はい」

 丁寧に返事をすると、兼芳は満面の笑みになった。兼芳夫妻には子どもがいないから、秀のことが可愛くてしかたないのだろう。

 明美が次々料理を持ってくる。父がビールをついでまわる。宴会の席で、秀はオレンジジュースを飲みながら、理想的な十三歳としてふるまった。やがて、だれかが成績のことを持ち出し、待ってましたとばかりに明美は成績表を持ってくるよう秀に命じた。

「どれどれ」

「おお、オール5だ。すごいねえ、秀ちゃん」

 三学期の成績表が客たちの手をひとめぐりする。口ぐちに褒められた秀は、恥ずかしそうにありがとうございます、と礼を言った。事実、恥ずかしくて堪らない。明美が自慢げなのが、嫌なのだ。私の息子はすごいでしょう、私たちは完璧な家族でしょう、羨ましいかしら――そんな声が聞こえてきそうだ。

「すごいなあ、秀は」

 明匡がグラスを手にしながらにこやかな笑顔を向ける。グラスの中身は、ウーロン茶だ。明匡が酒を飲まないことが、秀はかなり嬉しかった。

「アキにいは大学に行きながら働いてるんだから、もっとすごいよ」

「そんなやつ、大勢いるよ。俺はねー、頭よくないから。単位取るのに、もう必死」

「いやでも、明匡くんはえらいよ。ちゃんと家にお金、入れてるんだもんね。普通の大学生は自分の小遣いにしか使わないでしょう。だからね、えらい。一級品」

「一級品ですか。嬉しいな」

「一級、一級。秀ちゃんもね。いい子ばかりだね」

「ねえ、ほんとにねえ。自慢の息子だわね」

「広瀬家は、出来がいいんだよ」

「その通りっ」

 客たちは満足げに笑い合っている。酒を飲み、煙草を吸いながら、おいしいおいしいと料理を褒める。

 うそつき。

 うそつき、うそつき。

 だれも、伯父さんのことを口にしない。アキにいのお母さんのことを、話題にしない。ほんとうは、恥ずかしいと思ってるくせに。ただ、見ないふりをしているだけだ。

 親戚に出来損ないがいるのが我慢ならず、まるでいないもののように扱っているのだ。一族の恥部と向き合えない、情けない大人たちこそ恥ずかしいと秀は憤った。


 九時を過ぎた頃、明美がもう寝なさいといいはじめた。

「お風呂は沸かしてあるからね。髪を乾かしたら、すぐ寝なさい」

「あら、まだ早いんじゃないの」

「明日も塾があるものですから」

「へえ、いまどきの塾は年末までやってんの」

「そうなんです。先生たちも一生懸命なんですよ」

 塾があるというのは建て前で、明美は煙草の煙が充満する空間に秀を置いておきたくないのだ。

「ほら、挨拶しなさい」

 明美に促されて、秀はきっちりと正座をした。

「お先に失礼します。おやすみなさい」

「おやすみ、秀ちゃん」

「おやすみ」

 秀はこっそり明匡のほうを窺う。明匡は、少し笑っただけだった。

 いつになくゆっくりと風呂に浸かり、べたべたとした気持ちの悪さを洗い流した頃には、十時を回っていた。大人たちはまだ宴会を続けているのだろう。座敷から部屋までは離れているので騒音は聞こえないが、家に酔っ払いがいるというだけで嫌な気持ちになった。

 すぐに眠る気にもなれず、パズルを再開する。同じような絵柄のピースが多く、なかなか難しい。それでも、時間をかければ徐々に完成に近づいていく。これなら、十分に明美を喜ばせることができそうだ。

 小さなノックの音に集中が途切れる。明美だろうか?

 無視をしても勝手に入ってこられるだけなので、秀はすぐにドアを開けた。

「よっ」

「……アキにい」

「起きてたか」

「宴会は?」

「抜け出してきた。ちょっと外の空気、吸いたくてさ。お前もくるか?」

 秀はパッと顔を輝かせた。

「いいの?」

「ああ、ちょっとドライブしようぜ」

「車で? お母さんにとめられるよ」

「内緒でいくんだよ。すぐ戻ればバレないだろ」

 大丈夫だろうか。自分が夜中に連れ出されたと知ったら、きっと明美は怒って明匡を責めたてるだろう。

「ほんとに、いいの?」

「いいんだ」

 にやりとしてみせる明匡の顔は、どこか疲れていた。

「じゃあ、行く。すぐ着替えるから」

 秀は急いでパジャマを脱ぎ、綿のシャツとセーターと、ジーンズを身に着け、ダッフルコートをハンガーから下ろした。

「マフラーも持ってこい。寒いぞ」

「うん」

 首にマフラーを巻き付け、携帯電話と財布と、家の鍵をコートのポケットに入れて、足音を立てないようにこっそりと階段を下りる。廊下はしんとして人気がなかった。手早くドアを開けて外に出ると、十二月の冷気が頬を刺した。

 ゆっくりと鍵をかけ、明匡と連れ立って近くのコインパーキングまで歩く。ふわふわと足もとが定まらないくらいに嬉しかった。見上げれば、夜空には月が白く光っている。前を行く明匡の背中が頼もしい。最高の夜だ。

 明匡は精算を済ませると、白いライトバンのドアを開けてシートに座った。

 いいのだろうか。ほんとうに?明美に知られて、とんでもないことになりはしないか。

「ほら、乗りな」

 それでもいい。ばれて、しばらく家から出してもらえなくなってもいい。今、遠くに行きたい。

 助手席のドアを開けてシートに座る。芳香剤が甘く香った。

「シートベルトしろよ」

「アキにい」

「うん?」

「どこに行くの?」

 車はすでに発進していた。コインパーキングを出て、静かな住宅街を滑るように走る。

「北だよ」

 それきり、明匡は無言になった。

 新4号線バイパスから119号に。宇都宮インターから高速に入ったときには、さすがにドキッとした。明匡は、どこまで行くつもりなのだろうか。

 東北自動車道を北へ、北へ。メーターを見ると、百二十キロをゆうに超えていた。

「お前さあ」

 前後に車はいない。ヘッドライトに照らされるアスファルトに見入ったまま、秀は返事をした。

「なに?」

「叔母さんのこと、嫌いだろ」

「うん」

「正直だな」

 ははっと明匡は笑う。妙に乾いた笑いだった。

「なんで? いい人じゃん」

 秀は少し考えた。何と言い表していいのか分からない。

「不貞、をはたらく。合ってる?」

「そんな単語知ってんのか」

「合ってる?」

「合ってるよ」

 秀はつい口もとを緩めた。途端に気分が軽くなる。そう、明美は不貞をはたらいたのだ。

「あの人さ、家庭教師と寝てたんだ」

「へえ」

 思い出す。小学四年生のときだった。授業がおわってしばらく経ったあと、トイレに行こうとして廊下に出た秀は、見てはいけないものを見てしまった。

「もうとっくに帰ったはずの先生が、寝室から出てきたんだ。前、開けっ放しで」

「間抜け」

「だよね。すごく気まずそうな顔してたよ」

「で、その先生はどうしたんだ?」

「それっきりこなくなった」

「まあ、そうだよな。でも意外だな」

「僕のこと、信じてくれる?」

「信じるよ」

 明匡の横顔は真剣だった。秀は安心して、背もたれに背中を預ける。

「嫌なもん見ちまったな」

「うん……」

 でも、もっと嫌なもの見たことあるよ。内心で付け加える。

「あの人、それだけじゃないから」

「そうか」

「お父さんも、借金あるし」

「ああ、それは聞いたことあるな。株で損したんだっけ」

「馬鹿だよね」

「大人はみんな、馬鹿だよ」

「知ってる。子どもはみんな、知ってるよ。でも、大人になると忘れちゃうんだ」

「お前、賢いなあ」

 等間隔に並ぶライトが流星のように窓の外を流れていく。もう、どこをどう走っているのか分からなかった。夢見心地で秀はつぶやく。

「よかった」

「ん?」

「アキにいは、つまらない大人とは違うね」

「つまらない大人、か」

 青い看板の文字は読み取れなかったが、高速を下りたようだ。

「秀、これからちょっとやばいとこに行くから。ビビんなよ」

「……どこ行くの?」

「そんで、俺から離れるな」

「ねえ、どこ行くの。アキにい」

「アキマサ」

「え?」

「俺は、明匡っつうんだよ。アキにいっての、もうやめろ」

 少なからずショックを受けて、秀は黙り込んだ。何だか、突き放されたような気がする。

「言っとくけど、お前のこと嫌いになったわけじゃねえぞ」

「じゃあ、なんで」

「もう対等だってことだよ」

「七歳も違うのに?」

「関係ねえよ」

 動揺が胸を叩く。

「明匡さん、って呼べばいいわけ?」

「さん付けしなくていいよ。俺と二人のときは」

「わかった」

 車は山道を分け入っていく。感覚的には上り続けているようだ。道幅は離合できるかできないかといったところで、対向車がくれば立ち往生しそうだった。ガードレールの向こうは、崖だろう。

「明匡」

「おう」

「どこ行くの?」

「知り合いんとこ」

「ふうん」

 秀は内心、かなり不安になっていた。いったいどこに行くというのだろう。夜はただひたすらに黒く、すべてを呑み込んでしまいそうだ。こんな中古車なんか、あっという間だ。きっと跡形もなく……。

「ほら、あそこ」

 細い急斜面を上りきると、ぽつぽつと民家が見えた。こんな山の中にも人が住んでいるのだと驚く。

「どこ?」

「シャッターが下りてるだろ。手前にいくつか車が停まってる」

 斜面のさらに斜め上に、コンクリートのガレージのようなものが見えた。手前に車高の低い車が何台か停められている。

「ビビんなよ」

 明匡はもう一度、そう言った。

 ガレージの一番手前に車を停めると、明匡はさっさと車を降りた。秀も冷たい匂いのするコンクリートに降り立って、少し深呼吸してみる。月がさっきまでよりずっとくっきりとして見える。白く灼かれた金属のようだ。

 シャッターの下に手をかけると、明匡は一気に腰の位置あたりまで持ち上げた。途端に、ガレージ内の明るさと熱風が目を刺激した。人の笑い声が聞こえる。男が何人か、集まっているようだ。

 腰を屈めてシャッターの下をくぐった明匡は、秀が入るのを待ってからシャッターを下ろした。

 ガレージの奥の壁際にもたれかかって、男たちが煙草を吸っている。手もとにはビールの缶と、煙草のパッケージ。隅には灯油ストーブと空き缶や空き瓶の山、壁にはスプレーの落書き。塗料の匂いが鼻を突いた。

「よお。集まってたか」

「ああ、アキさぁん」

 一人の男が壁際から立ってよろよろと明匡に近付いてきた。派手な金髪が目を引くが、よく見ればひどく髪が傷んでいるのが分かる。顔は青白く、目の下には隈ができていた。強い香水の匂いに思わず顔を背けたくなったが、秀はぐっと我慢した。

「久しぶりッスねえ。あれえ、カノジョ?」

「んなわけあるか。親戚の中坊だよ」

「あ、ほんとだぁ。ボクぅ、こんばんはー」

「……こんばんは」

「いい子ぉ!」

 男は喉をのけ反らせてひいひいと笑った。足もとがふらついているところを見ると、酔っているのだろうか。

「アキさん、最近こないから。寂しいッスよぉ」

「忙しいんだよ。引退したし」

「そう、それ。アキさんいなくなってからマジでパチモン増えてぇ、最悪」

「コメ屋から?」

「そうそう。安いんだけどねー」

 よろよろと、男は壁際に戻っていく。明匡も秀もそのあとについていった。

 打ちっぱなしのコンクリートの壁際に近付くと、いっそう塗料が匂った。それに、胸が悪くなるような臭さがある。香料と、癖のある煙草の匂いと、塗料の刺激臭。

「吸う?」

 男に声をかけられていることに、しばらくしてから気付いた。秀は固まってしまって声が出なかった。

「俺がもらうよ」

 男が差し出したアルミ製の粗末なケースから一本取り出して、明匡は当然のように口に咥える。男が安っぽいライターで火を点けた。しゃがみこんで火を分け合う二人が、やけに親密に見えた。

「紙もあるよ」

「やめとく。すぐ帰んなきゃなんだ」

「へえ」

 男はポケットをまさぐると、透明な袋に入れられた切手のシートのようなものを取り出した。一枚ちぎって、口の中に入れる。秀を見上げてべ、と出して見せた黄色い舌の上に、紙が貼り付いていた。

 明匡が一本を吸い終えるまでの間に、秀は彼らが何をしているのかそれとなく観察した。口から涎を垂らして小刻みに痙攣している男。ライターでアルミホイルを炙っている男。膝を抱えて、唸りながら身体を前後に揺らしている男。

 だれひとり、まともじゃない。正気を失っている。

 ここにいてはだめだ。

「ごちそーさん」

 コンクリートの床で吸殻を押し潰すと、明匡はさっと立ち上がった。

「えー、帰んの?」

「おう」

「さみしー。あ、じゃあおみやげ」

 そう言うと、男はガレージの隅から透明なポリ袋を二枚持ってきた。そして、手もとにあった缶から茶味がかった液体をそそぐ。袋の口を縛る手が、細かく震えていた。

「はい、これ」

「どうもな」

「またきてよ」

「おう」

「じゃあね」

 バイバイ、と手を振る男にニッと笑顔を見せて、明匡はシャッターを持ち上げた。先に秀を通して、ガレージから出ると、元に戻す。

 車に乗り込んでエンジンをかける明匡に、聞きたいことがたくさんあった。秀が口を開いたのは、車が斜面を下りて山道に入り、明匡が車の窓を開けたときだった。

「これ、シンナー?」

「そうだよ。窓から捨てろ」

 言って、明匡は勢いをつけてガードレールの向こうの茂みにポリ袋を放り投げる。秀も真似してシンナーの入った袋を捨てた。

 あの刺激臭は、塗料じゃない。シンナーそのものだったのだ。

「あの紙みたいなやつな、LSDっていうんだ。鼻から吸ってたのはコカイン」

 窓を閉めた明匡が、ダッシュボードを開けて煙草のパッケージを取り出す。一本口に咥えて火を点けると、秀はびくっと身を引いた。

「これはただの煙草だよ。さっき吸ってたのは、ハッパだけどな。大麻」

「……運転、大丈夫なの」

「心配すんなって」

 片手でステアリングをまわしながら、明匡がアクセルを踏んだ。車内に煙草の煙が充満する。

「ドラッグ、やってたんだ」

「俺はどっちかっつうとプッシャー。売るほうな。高校生んとき、ちょっとだけ」

「警察に捕まらなかったの?」

「捕まんねえよ。ハッパなんか、都心に行けばその辺のハーブショップで売ってるぜ。あのな、Sとは別モンだから」

「Sって、覚醒剤?」

「そうそう。俺も、Sはやったことねえよ」

 頭の中身がぐちゃぐちゃになって、何を考えたらいいのか分からない。この目で見ても、まだ信じられなかった。

 ドラッグと煙草。

 裏切られた。また、おとなに裏切られたんだ。

 身勝手な感情だということは分かっている。明匡には明匡の人生があって、やりたいことがあって、事情があったのだ。

 でも僕、いやだ。いやだよ、アキにい……。

「とめて」

「ん?」

「車、停めて。気持ち悪い」

「酔ったのか?」

「たぶん、そう」

「大丈夫か」

「吐きそう」

 嘘じゃなかった。煙草の匂いと、甘ったるい芳香剤がねっとりと絡み合って、とても気持ち悪い。飲みすぎたオレンジジュースが胃から出てきそうだ。

「待ってな、今窓開けるから――」

「はやく停めて」

 明匡は路肩に車を停めると、窓を全開にしてエンジンを切った。

「秀、大丈夫か」

「だめ、かも」

「秀……」

「出して」

「吐くのか?」

「うん」

 助手席のドアを開けて、暗い山道のアスファルトを踏みしめる。そのまま前方に歩いていこうとする秀を、明匡が慌てて呼び止めた。

「おい、どこ行くんだよ」

「吐けそうなとこ」

「その辺でいいだろ」

「いやだよ。吐いてるとこなんか見られたくない」

「そんなの俺は気にしねえよ」

「僕がいやなんだ」

 振り向かずに、まっすぐ前へ進む。今は少しでもあの車から遠ざかりたかった。

「あんまり遠くに行くなよ!」

 明匡の声が冷気を震わせる。早足で歩いて、車が完全に見えなくなると、秀は全力で走り出した。

 坂道を下へ、下へ。山道はほぼ、一本道だ。どこまで行けるか分からないが、とにかく逃げたかった。逃げる。逃げてどうなるというのだろう。このまま明匡とはぐれれば、凍死するだけだ。

 そうなったら、明匡は後悔するだろうか。明美は恥じ入るだろうか。僕は、自由になれるだろうか。

 自由に――。

 冷たい空気に肺が痛くなる。汗ばんだシャツはたちまち体温を奪い、寒さが増していった。走って、走って、たどりついた丁字路で秀はようやく立ち止まった。

 右、左。どっちからきたんだっけ。……どっちでもいい。どうせ、帰れない。帰りたくもない。

 右に折れて歩き出す。雲が出てきたのか、辺りを照らすものは何もなかった。道に沿って、ガードレールが延々と続いている。どこまでも、どこまでも……コートのポケットで携帯電話が震えている。きっと、明匡からの着信だろう。コールがあまりにも長いので、秀はポケットから携帯電話を取り出して道に投げ捨てた。もういい。もう、たくさんだ。このままどこまでも逃げよう。

 吐いた息は、きっと白いのだろう。目を閉じてもたいして変わらないほどに、辺りは暗かった。秀は左手でガードレールをさわりながら進んだ。いや、進んでいるのか戻っているのかさえ分からなかった。急速に現実感が薄らいでいく。

 ああ、死んだのかな。

 そう感じたのは、目の前が急に真っ白になったからだ。

 体から力が抜ける。秀はその場に膝を突いて、項垂れた。

「しっかりしろ」

 ハッと意識が引き戻される。力強い手で肩を揺さぶられていた。見上げると男が一人、目の前に立っていた。

「こんなところで、どうしたんだ」

 秀は何も言わなかった。

「とにかく、車においで。寒いだろ」

 腕を引かれて立ち上がると、白いライトバンが目に入った。あの強烈な光は、ハイビームのヘッドライトだったのだ。

 促されるままに助手席に乗り込み、あらためて男の顔を見る。茶髪で、二十代とも三十代ともいえない顔つきだった。どこか、疲れているように見える。

 車の中は暖かかった。寒さに硬直していた指がじんじんと痺れている。

「この辺に住んでるのか?」

 秀は首を横に振る。

「じゃ、家出?」

 家出だろうか。少し考えて、また首を振る。

「帰りたくないのか」

 これには首肯した。

「そっか。俺もだよ」

 男は車をするりと発進させた。少し進んで道幅が広くなったところで、Uターンする。

 そして、暗い山道に車を滑らせた。アスファルトを照らすヘッドライト。遅効性のドラッグのように全身を麻痺させる非現実感。

 何十分か経ったように感じた頃、車は緑のネオンサインがきらめく建物の駐車場に入っていった。カーテンで区切られた奇妙な駐車スペースに車を停めて、男が降りる。なぜかそうしなければならないような気がして、秀も車を降りた。すぐ近くにあったドアを男が開く。

「入って」

 促されて、秀は建物の中へと入った。しばらく細長い廊下が続き、行き着いた先はエレベーターが二基ある四角いスペースだった。

 壁際に、ベッドのある部屋の写真がディスプレイされていて、それぞれの写真の下に番号と緑のボタンが付いていた。男が203のボタンを押すと、ボタンは緑から赤に色を変えた。

 エレベーターに乗って部屋に入るまで二分とかからなかっただろう。気付けば、秀は大きなベッドのある部屋の入り口に突っ立っていた。背後で、がちゃんとドアが閉まった。

「俺、シャワー浴びてくるから」

 男はそう言い残すと、さっさと浴室に入ってしまった。すぐにシャワーを流す音が聞こえてくる。

 秀はベッドに近寄ると、ストンと腰を下ろして男を待った。

 怖いとも、気持ち悪いとも感じなかった。逃げたいという気持ちまで失くしてしまった。ただ、ほんのりピンク色をした電灯に照らされながら待っていることしかできなかった。

 相変わらずシャワーが流れている。

 部屋の暖房が効きすぎて、暑いくらいだった。ベッドと対面する壁に、テレビが埋め込まれていた。ベッドとテレビの他には、電話くらいしかない。あとは浴室と、トイレだろうか。

 シャワーは流れっぱなしだ。

 いくら待っても、男は戻ってこなかった。秀はふらっと立ち上がって浴室のドアに近付いた。

 シャワーが流れている。

 ドアを開けると、さらに擦りガラスのドアがあった。足もとに財布と腕時計が転がっている。

 擦りガラスのドアを開けてみる。途端に、ひやりとした空気を感じた。

 水。流れているのは、水だ。

 そして、浴室の壁にもたれかかっているのは、さっきの男だ。

 右手に剃刀を握って。

 白いタイルに点々とピンク色のしぶきが散っている。

 男は絶命していた。

 シャワーが流れている。

 秀は浴室を出て、部屋のドアを開けようとした。だが、ドアノブはびくともしない。黒いパネルに表示された3800というデジタル数字が赤く光っている。

 きっと、これが支払い金額なのだろう。財布の中身を見てみるが、到底足りなかった。

 秀は引き返して、浴室の前に転がっていた男物の財布からクレジットカードを抜き取った。部屋のドアの前に戻り、カードリーダーにクレジットカードを滑らせる。

 ピッと電子音がして、ドアノブが動いた。クレジットカードを下に落とす。秀は落ち着いた足取りで部屋を出て、エレベーターに乗り、一階へと下りた。

 外に出ると、秀はさっきの丁字路の方向に足を進めた。

 ネオンサインが遠ざかり、寒さで指先が凍りそうになった頃、一台の車が向ってくるのが見えた。見覚えのある、白いライトバンだ。

 何メートルか手前で停まった車から、明匡が降りてきた。

「秀!」

 走り寄ると、明匡は秀の腕を引き寄せて強く抱きしめた。

「秀、よかった」

 明匡は震えていた。それが寒さのためではないことに、秀も気付いていた。

「よかった……」

 縋り付かれている。涙が滲んだ。いつの間に雲が流れたのか、辺りは薄らと月に照らされていた。

 顔を上げれば、明匡の表情がはっきりと見える。そこに見たものは、一人の、男だった。

「ごめん」

 秀は目を閉じてつぶやいた。

「ごめんね、明匡」

 明匡の服からは、少し煙草の匂いがした。


 捨てたはずの携帯電話は、明匡の手から戻ってきた。一旦は丁字路を左に曲がったが、しばらく車を走らせても見つからないので、引き返したのだという。そして道路に落ちていた秀の携帯電話を拾って、道なりにまっすぐ走ってきた。

 どれくらいの時間が経過したのか聞いてみると、三十分程度だという。

「でも、何時間にも感じた」

 それは、秀も同じだった。計算が合わないのだ。どう考えても、二時間程度は経っているはずだった。

「ホテル? さあ、聞いたことないな」

 では、あのホテルは何だったのだろう。

「それより、早く帰んなきゃな。今頃、叔母さんが卒倒してるかも」

「着信ないから、大丈夫だよ」

「それもそうか」

 とはいえ油断はできないので、秀はできる限り静かに玄関のドアを開けた。明匡とは、そこで別れた。

 翌日から、秀はできるだけ仔細にローカル新聞をチェックした。しかし、男の不審死も、ホテルの記事も、見つけることはできなかった。

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