3:教室
机、がたがた音を立てて引きずられる。
皆移動を始めているのだ。僕は焦る胸を押さえ、机を向かい合うようにして並べ終えた。この世の地獄とはまさに、今のようなことを言うのだろう。僕の名が呼ばれた時の皆の目線、強く突き刺さった。僕は相いれない存在なのだ。世界と僕とでは、何もかもが違う。僕は人間だ、人間だけれども、皆のような普通の人間にはなれなかった。じゃあどうすればいいんだ。教えてくれよ、だれか。
ふらふらと歩き出す。自分の席を離れる。それは恐ろしい、とても恐ろしいことだ。ここにいさえすれば、危険な外界をシャットアウトできる。この机は僕を守ってくれる最後の砦。そこから出て行かなければならない。怖いけど、やるしかない。
椅子を引き、立ち上がった。ふらふらと人の波を抜ける。意識を捨てて、体に任せて動く。かなぐり捨てた。辿り着いた。並べられた4つの机。向かい合う二対に、くっつくようにして1つの机が配置されている。人、いる。4人が座っている。ほとんどの人は顔は見たことがあるが、名前がわからない。
「じゃどうする?」
「とりあえず貰ってこいよ資料。先生から。」
僕は俯きながら出っ張った机に座り込んだ。4人の視線。僕には向けられていない。ざわざわと話し声が響き渡る教室。ざわざわ、ぺちゃくちゃ。僕はさらに下を向いた。誰かの机、僕のものじゃない机。上にあるのは、僕の筆箱。A4ノート。ファイル。ファイルからはみ出るくしゃくしゃになったプリント。そこに印刷された文字、記号、枠線をぼんやりとしながら眺める。
「で何どうすんの、何か行きたい所は?」
そう言ったのは、確か野球部に所属しているらしいスポーツ刈りの男だった。濃い顔、太い眉毛。僕は人の名前を覚えるのは苦手だが、この男は顔の印象も相まって名前を憶えていた。吉川、吉川なんとかだ。
「東大行きてえんだけど俺。」
答える男。笑い声が僕の眼前からとんだ。答えた男_背の高い、鋭い目付きの男。名前は、何だっけ。確か……。
「飯田に、行けるんだったら俺もハーバード行けるわ、馬鹿。」
吉川がおどけた調子でそう言うやいなや、また笑い声。僕はどうすればいいのか分からなかったので、ただ目線を下に向けて押し黙っていた。それでも、あの背の高い男の名前は思い出せた。飯田だ。飯田慎也。
「人文科学系の、美術・デザインでしょ。いいよ、俺探しとくから。」
少し太った男。資料のパンフレットをぺらぺら捲りながらそう言った。
「おお、サンキュ。流石、有能。」
吉川と飯田がお喋りを始める。あの呑気そうな顔の男、顔は憶えている。しかし、いかんせん名前が思い出せない。飯田のように、吉川の言葉から知ることができなかった。僕は少し顔を上げた。胸の名札に印刷された文字、隅井、隅井_
下の名前を知ることはできなかったが、何とか姓を知ることができた。収穫だ。そしてもう一人。僕と同じく殆ど喋っていないが、さっきから時々吉川と飯田の話に加わったり、隅井の作業を手伝ったりしている辺り、3人とは顔見知りなのだろう。
僕。
僕は何もしていなかった。ただその場で、石像のように縮こまって時間が経つのを待ち続ける。仕方がない。これは宿命なのだ。人は生まれついた瞬間から、与えられた運命に従って成長していく。僕のような劣等遺伝子に生まれたものの宿命。それが、今の僕の置かれた状況なのだ。
「てかまずあれ、あいつら300点もいかないとかやばくね、俺余裕で620超えたんだが。」
「飯田すげーからな、普通に頭いいから。」
吉川と飯田の会話。
恐らく、つい最近実施された中間テストのことを言っているのだろう。700点満点、僕の点数はその半分にも満たなかった。最初の内は、堂々と点数を見せびらかす輩に嫉妬・怒りの感情を抱くこともあったが、最近は丸くなったのか、特に何も思わなくなった。
4人は、まるで本当に僕がそこにいないかのように振る舞っていた。僕としてはありがたいことだが、何だか胸の奥がむずむずするような、変な感じだった。時計の針は全く動いてくれない。あと50、55分。気が遠くなりかけた。
「小川くんはどっか行きたいとこあんの?」
唐突だった。
身じろぎ一つせずその場で硬直していた僕は、封印を解かれたかのようにびくりと体が波打つのを感じた。声が飛んだのは、僕の右前。隅井がこの言葉を発したんだ、と理解したのは一秒後だった。咄嗟に考えた言葉が口から飛び出す。
「い、いや。べ、別にどこ、でもいいけど。」
隅井の正面、名前を知らない男。それに吉川と飯田の視線が僅かに動いた。
「うん。あ、あぁ。」
隅井は曖昧に語尾をぼやかすと、作業に戻った。また平穏が戻って来た。吉川と飯田は現在放送中のTVアニメについて語りだし、名前を知らない男は隅井と手分けして何やらノートに書き込んでいる。
僕の名字。
小川、というのはかなり多い名字らしいが、僕はこの名字が嫌いだ。この小川という田舎臭い、ださい響きに僕の人生が凝縮されている気がする。ましてや小川くん、などと呼ばれるのは大嫌いだった。
僕などいなくてもこの班は動き続ける。僕などいなくても、世界は動き続ける。僕が死んだ後も、世界は顔色一つ変えずに平常運転を続けるのだ。
今になって、急に辛さがこみ上げてきた。目から零れ落ちかける涙を何とか抑え込み、窓の外の青空に視線を傾ける。嫌だ、大嫌いだ、こんな所。飛んでいきたい。自由な空へ、鳥のように飛びたい。あの青い空を、どこまでもどこまでも追って往きたい。
死んだって構わない。僕は飛びたいんだ。それで、それで_