表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

長編(完結)

バカ息子が勝手に婚約破棄したので、とりあえず連れてきた子を教育してみる

作者: 池田瑛

 バカ息子は何処をほっつき歩いているか……。王宮のエントランスで私は息子の帰りを今か今かと待ち続けて既に6時間。夫は、あんなバカ息子放っておけ、とさっさと寝所へと行ってしまった。

 まったく、家のバカ息子は、なんてことをしてくれたのだ……。


 話は、7時間前に遡る……。スフォルツァ侯爵が意気揚々と王宮までやって来て、言ったのだ。


「王家が娘との婚約を破棄した、との報告を娘より受けました。謹んで婚約破棄の旨、拝命致します。娘が王家の婚約者として相応しく無かったのは、父親である私の不徳の致すところ。謹んでお詫び申し上げます。娘には幸い、他に貰いてがあるので、そちらに嫁がせたいと思います」


 私は唖然とした。王妃として相応しくない態度であっただろうが、あまりにも青天の霹靂で、口をぽっかりと開けて驚いてしまった。夫を睨み付けたが、夫も首を軽く横に振って、『俺は何も知らない』と必死に意思表示をしていた。


「と、とりあえず、何かの間違いである可能性もあります。息子に事情を聞きますので、今日のところは」と、スフォルツァ侯爵を半場強引に下がらせた。


 そして、それから息子から話を聞くために急使を学園に送ったが、今日は学園には来ていないらしいということであった。しかも、その使者の話では、最近は学園をさぼりっぱなしで、王子の地位を利用して、授業に出席しているように学園に圧力をかけていたというのだ……。

 まったく、バカ息子は何をやっているのか……。夫に似たのだろうか……。



「母上、どうしてここに?」と息子が、いや、バカ息子が意気揚々と帰ってきた。


「あなたを待っておりましたの」と私は、扇子で口元を隠しながら言う。口元を隠さないと、鬼の形相をしていることを周囲に控えている者達に伝わってしまうからだ。今、何時だと思っているのか……。


「そうですか。いや、ちょうどよかった。母上にご報告があります」と、息子は、声を大にして言う。


「報告というのは?」と私は一応聞く。これでも、腹を痛めて産んだ子供だ。理性では愛想を尽かすことができても、母性がそれを許さない。


「カタリナとの婚約を破棄してやりました」

 息子は、偉業を成し遂げたかのように言う。


「ど、どういった経緯なのかしら?」と私は、一度深呼吸をしてから聞いた。周りに控えているものから、ため息が洩れているのが分かる。


「カタリナは、いつも、いつも、ことある毎に、王家の人間はこうあるべきだ、とか、そんなことをしてはなりません、だとか、四六時中、五月蠅いほど小言を言うけしからん女なのです。婚約破棄をして清々しました」


 あら? 「王家の人間はこうあるべき」「そんなことをしてはいけません」って、いつも私が夫に言っていることじゃない? この前だって、歳入の増加を目的として、塩の公定価格を引き上げようと夫がしていたのを、『民の生活を圧迫してはなりません』と諫めたばかりだ。

 息子の発言は、遠回しに私への批判だろうか? いや、息子はそんな皮肉が言えるほど、機知に富んだ人間じゃない……。

 カタリナ嬢の人柄を考えると、彼女は、息子の為を思って、忠言をしてくれていたのだろう。

 息子の悪行は、耳に幾度と無く入っているし……。カタリナ嬢は息子の悪行をなんとか諫めようとしていてくれていたのだろう。さすがは、私の見こんだ令嬢だ。


「それで、その、婚約破棄はどうやってしたのかしら?」と私は聞く。


「カタリナが駄々を捏ねるので大変でした」と息子は眉を上げて怒りを露わにする。


「ど、どんな風に大変だったのかしら?」


「まずですね、婚約破棄をするなら、私の名、クリストファーの名では無く、王家の名で宣言をして欲しいと駄々を捏ねたのです。まったく私の名を軽んじるとは不愉快です」


「そ、それで?」


「もちろん、誇り高きカスティリーヤの名で婚約破棄を宣言してやりましたよ」と息子は胸を張る。

 なるほど、と私はスフォルツァ侯爵の言葉を思い出す。彼は「王家が」婚約を破棄したと言っていた。「王子」がとは言っていない。もちろん、「王家」の名で宣言されたことは重い。法律と同等の重さがあると言って良い。しかし、「王家」の名で宣言を行って良いのは、カスティリーヤ家の家長にして、このカスティリーヤ王国の王である夫だけだ。息子は、王位第一継承者であるが、現時点では王ではない。最悪、「王家」の名を騙ったとして、不敬罪で吊し首だ。少なくとも、カタリナ・スフォルツァに対する詐欺罪が既に成立している。


 しかし、これだけなら、バカ息子の迷い言ということで、何かの間違いだった、揉み消すことは可能だが……。


「さらにですね、生意気なことに、婚約破棄をするか決闘で決めようというのです」


「決闘?」


「はい。剣での決闘です。もちろん、私が圧勝しました。カタリナは、剣を握ったこと無かったようで、決闘が始まるや否や、私が間合いを詰め、その剣を叩き落としてやりましたよ!」

 息子は、その決闘の再現をする動きをしながら、意気揚々と騙る。剣を握ったことがない女に、幼い頃から剣の訓練をしてきた男が勝って、どうしてそんなに誇らしげに出来るだろうか。


「まさか、カタリナ嬢に怪我などさせていないわよね?」と私は心配になる。このバカ息子なら、手加減とか出来そうにない。


「もちろんですよ。ご心配なら、決闘の証人に確認を取られても構いません」


「え? 決闘の証人も立てたの?」と私は驚く。


「そうなのです。カタリナが、決闘をするなら、証人を立てるべきだ、と強情を張るのです。まったく、我が侭な女でけしからん奴です」


「そう、事情は分かったわ」と私はため息を吐く。つまり、あれだ。息子は、カタリナ嬢からも愛想を尽かされたのだ。王家の名で婚約を破棄しただけならいざ知らず、証人を立てての決闘を行っている。完全に外堀を埋められている。そして、そのことに気付いていないのは、息子だけだ。

 貴族には、私闘権というものが認められている。貴族間のもめ事に関しては、決闘で決着を付けて構わない、という特権だ。決闘に関しては、我が国の裁判権が及ばない。つまり、決闘での決着は王であっても介入できない神聖なものとして扱われる。我が息子も、王族ではあるが、その前に、貴族でもある。もちろん、カタリナ嬢も貴族だ。

 カタリナ嬢とバカ息子だけの決闘なら、私と夫が謝り倒して、決闘自体が無かったことにできるが……。


「ちなみに、証人はどなた?」と私は聞く。


「たまたま通りかかった、アリストロン侯爵の長男とエドワード皇太子です」とバカ息子はこともなげに言う。

 なるほど、王家に非友好的なこの国の大貴族の息子と、我が国のライバルであるイグランディア帝国のご子息が証人ですか。これでは、証人に働きかけて揉み消すことも難しい。決闘の結果を偽称すると、証人も重い罪に問われるからだ。

 おそらく、この決闘を闇に葬る報酬として、アリストロン侯爵なら王家直轄領の5分の1くらい要求してくるでしょう。イグランディア帝国なら、我が国が独占している胡椒貿易事業への参入許可を要求してくるでしょうね……。

 さすがは、将来の王妃候補として私が認めたカタリナ嬢ね。容赦が無いほど効果的な証人だわ……。

 それにしても、バカ息子は、「たまたま通りかかった」なんて、本気でそう思っているのかしら? 剣で決闘するなんて、カタリナ嬢が勝つ気が無いということにまったく気づいていないの?


 もう、頭がくらくらして来たわ。


「はい。それと、婚約をしたい人がいるので、母上に明日、紹介してもよろしいでしょうか?」


「え?」

 私ももう年かしら。何か幻聴のようなものが聞こえたけれど……。


「ですから、婚約をしたい人がいるのです。明日とは言わず、今すぐに呼んで参りましょうか?」と息子は少し照れくさそうに言っているが、周囲に控えている召使い達の目は、冷え切っている。


「今から? いえ、もう夜も遅いですし……」と、私は何とか言葉を発する。


 明日の昼に、その婚約者とお茶を飲むという話になり、私は寝所に戻った。ベッドで暢気に寝ている夫の頬をとりあえず一発、叩いておいた。




 昨日、息子が婚約したい女性を連れてくると言って、約束した無双宮の中庭で私は待ちぼうけをしていた。昨日の今日で逢わせたいという無謀な息子の願いを聞いて、何とか時間を作っているのに、息子達はまだ来ない。


「母上、お待たせしました。彼女が私の恋人。アンジェリーナです」とバカ息子が女性を紹介する。約束の時間を30分過ぎてやっと息子達はやって来た。本来、こういう席では、先にあなた達が茶席に着いて、待っているのが礼儀でしょ?


「初めまして、イサベラ・カスティリーヤ王妃。私、アンジェリーナと申します」と、震えながら挨拶をしてくる。私の彼女の第一印象は、小動物。リスのようで、庇護欲をかき立てるものがある。

 カタリナ嬢とは見事に正反対のタイプね……と私は思う。昨日まで婚約者だったカタリナ嬢を喩えるなら、虎だ。気概と覇気の無い男などがカタリナ嬢に近寄れば、その美しさと瞳に宿った力で、たちまち萎縮してしまう。

 ちなみに、私は独身の時は、孤高の獅子の様だと、殿方から口説かれておりましたけれど。


「初めまして。私は、イザベラ・カスティリーヤ。クリストファーの母です。どうぞお座りになって。あと、クリストファー。貴方は、屋敷に戻っていなさい」と、私はアンジェリーナを席へと誘う。


「母上?」とクリストファーは首を傾げる。


「女同士の話、というものがあるのよ」と私は息子とアンジェリーナに優しく微笑む。


「おお、結婚式のドレスの寸法の話ですね? 確かに、それは私がいない方がよいでしょう。それでは」とバカ息子は、何か勝手に納得して屋敷へと戻っていった。

 まだ婚約も認めていないのに、何が結婚式でしょう。それに、ドレスの寸法? 寸法をこんな庭園の真ん中の人目に付く場所で測ったりするはずないでしょうに……。針子もこの場にいないじゃない……。

 この茶席の周りには、色とりどりの花が咲き乱れた花園となっている。屋敷へと向かっていく息子の背中を眺め、もしかしたら息子の頭の中も、お花畑なのかも知れないと、そっと私はため息をついた。


「それで、アンジェリーナ。貴方の家名を伺っても良いかしら?」と私はお茶を啜っているアンジェリーナに優しく微笑む。自己紹介で家名を名乗らないとか、貴族としてあり得ないのだけれど、王妃と対面して挨拶するなんて、よっぽどの大貴族じゃないと緊張してしくじるのは仕方が無いと言える。腹を痛めて生んだ息子が選んだ娘なのだから、ここは寛容になろうと自分に言い聞かせる。

 それに、社交会で彼女を見た記憶がない。彼女の年齢ほどであれば、幾度となく社交会に出ているはずだし、王妃である私に挨拶をしているはずだ。しかし、彼女に関する記憶はとんとなかった。

 私も、耄碌したかしら。記憶力が落ちているのかも知れない。


「家名ですか? 家名はありません」と、アンジェリーナは戸惑いながら口を開いた。


「は?」


 家名がない? どういうことかしら?


「私の家は、その……平民ですので」とアンジェリーナは言う。


 驚きのあまり、紅茶を少し溢してしまった。平民? 息子は、どこで知り合ったのだろうか?


「えっと……。貴方のお父様はどんなお仕事を?」


「食事処をしています」


「食事処? そっ。そうなのね。その……。息子と出会ったきっかけを伺っても良いかしら?」と私は聞く。


「その、クリストファー様が、食事にいらっしゃって……。私は店で仕事を手伝っているので……」とアンジェリーナは口を開く。彼女は緊張しているのか、紅茶を飲むペースが速い。


 身分が違う……と言うつもりはない。巷で流行っている身分差を乗り越えた愛。最近の貴族でも、何人かその、恋愛結婚? というのをしているということは噂で聞いた。もちろん、まだそのような者達は少数派で、王族が結婚式に参列することなどないのだけれど。それに、メイド達の間で流行っている、身分差を乗り越えた恋愛を題材にした小説も読んだことがある。非現実的だと思い、感情移入できなかったけれど……。


「私の息子のことをどう思っているの?」と私は聞いた。恋愛結婚というのであれば、二人の間に、愛があればよいのだろう。二人の愛で、困難を乗り切るというような話だった。下手に反対などして、他国に駆け落ちなどすれば、この国の恥を晒すだけだ。異国の地で、妻を養う甲斐性が息子にあるとも思えないし。

 それに、今更、政略結婚なんて望んでも、カタリナ嬢以上に良い政略結婚の先など無いし、無駄というもの。目星しい先は、既に嫁ぎ先が決まっている。割り込むなんてことは出来ない。


「クリストファー様のことは……。その、素敵だと思います」と、アンジェリーナは頬を赤く染め、下を向きながら小言で言う。


 どうやら、このアンジェリーナ嬢は、本当に息子のことを好いている様だった。王妃として培った観察眼で、嘘ではないと見抜く。

 良かったわぁ、と私は安堵する。カタリナ嬢との婚約を破棄した挙げ句、婚約したいという娘が、お金や地位目当てで息子に近づいていた、なんてことであれば、悲惨ですものね。


「どういう風に素敵なのかしら?」と私はアンジェリーナに話を促す。自分の息子を好いてくれているのだ。母親として、これ以上に嬉しいことはないだろう。


「ええっと。最初は、ビールをテーブルに運ぶ度に、隙あらば私のお尻を触ろうとする、嫌らしいお客さんだと思ってました……」と、アンジェリーナは、恋する乙女を絵に描いたような様子で語り出した。


 って、給仕をする時にお尻を触ろうとする? 何て品のないことを……。きっと、夫の真似をしたのね。そうね、きっと夫が悪いのね。


「ですがある日、柄の悪いお客さんに私が絡まれているところを助けてくださったんです」と恥ずかしそうにアンジェリーナは両手を頬に当てている。


「そうだったの! 弱きを助け、悪を挫け、と私はいつも息子に口を酸っぱくして教えているのよ」と私は上機嫌で答える。息子よ、なかなかやるじゃない。母は誇らしいわ。あれ程家庭教師が教えても、私が教えても、頭の中を右から左に抜けていくだけだと思っていたのに。


「ええ。格好良かったです。懐から、王家の紋章の入った短剣を出して、『控えよ。この紋章が目に入らぬか!』って、クリストファー様が言ったのです」


「そ、そうなのね……」


 息子は、体を張って守ったという訳ではないのね……。王家の紋章の入った短剣って……。単に、権力を振りかざしただけじゃない……。情けない気がするけれど。


「貴方のご両親は、クリストファーと結婚することに対して、どうお考えなのかしら? 反対? それとも賛成?」と私は聞く。


「店のお客が戻ってくるだろうって言って、喜んでいました」


「店のお客が戻る? どういうことかしら?」と私は首を傾げる。


「私を守ってくれた一件から、クリストファー様は毎日お店で食事をされるようになったのです。私に変な虫がよってこないようにって。それで……」


「それで?」


「私が他のお客さんと雑談などしていたら、クリストファー様はそのお客さんを睨んだりして……。他のお客さんも、クリストファー様がこの国の王子様だということは知っていらっしゃるので……。その、常連のお客様も、落ち着いて食事が出来ないとか、居心地が悪くなったとかで、お店から足が遠のいてしまって……。婚約をしたら、王宮で生活するとのことで、クリストファー様がお店に来ることが無くなるだろうって……。だから、お客さんの足も戻ってくると……」


 息子よ。人はそれを営業妨害だと言うのだよ。なるほど、それで最近、学園に行っていなかったというのね。アンジェリーナの護衛の騎士をしているつもりかも知れないけれど、実体はただの営業妨害だったという訳ね……。


「そ、それは申し訳ないことをしたわね」と、私は頭を下げる。王妃としてではなく、バカ息子の母親として。


「そんな! 頭をお上げください。クリストファー様が私を守ろうとしてくださっているお気持ちは分かりますし、私としては嬉しいのです」とアンジェリーナは言う。


「大体、事情は分かったわ。ではアンジェリーナ嬢。貴方に問います。私の息子と婚約し、やがては結婚するということは、将来貴方は、王妃になるということ。この国のまつりごとに関わることになるし、民の命を背負う重圧もあります。貴方にその覚悟はありますか?」


「はい。私、頑張ります」とアンジェリーナははっきりと意思表示をする。彼女の瞳には、強い意志の光が宿っている。

 私は、彼女の瞳に宿る力に圧倒されそうになる。

 そうなのね。私が見誤っていたわ。この子は、子リスのような小動物ではないわ。彼女は、伏竜ふくりょう。池の中にひそみ、昇天の時機を待っている竜だわ。王妃の器は充分にある。


「貴方のお気持ちは分かりました。では、明日から王宮で生活しなさい。この国の第一王位継承権を持つクリストファー・カスティリーヤの婚約者に相応しい者となれるように、私が直々に教育致します」


「よろしくお願いします」と、アンジェリーナは深々と頭を下げる。


 まずは、王子の婚約者として、簡単には頭を下げないように教育しなければ、と思った私だった。



 ・



 私を筆頭として、この国の優れた教育者を集めた特別なチームを結成し、アンジェリーナの教育に当たった。驚くべきは、アンジェリーナだ。乾いた砂が水を吸い込むように教えられたことを吸収していった。

 たった3ヶ月で、まだまだ張りぼてとは言えるが、社交会に出ることが出来る水準に達した。異例な事態が起こらなければ、ボロを出さずに、粗相無く社交会を過ごせるだろう。


 この3ヶ月、私が腐心したのは、愚息の手綱をどのように握るかだ。私が夫に対して行っているようなやり方では、バカ息子は反発をする。それは、カタリナ嬢との婚約を破棄したことで明らかだ。

 私が悩み抜いてだした結論は、豚もおだてれば木に登る、馬の前に人参をぶら下げれば、馬は走る、というものだ。とりあえず、息子をおだてて、木に登らせるのだ。




「アンジェリーナ。紅茶、とても美味しいわ」と、私はアンジェリーナの煎れた紅茶を褒める。私とアンジェリーナは、夕方のティータイムを楽しんでいた。

 紅茶を煎れる練習をした最初など、湯が温く、とても飲めたものではなかったが、今では香り豊かな紅茶を煎れられるようになった。


「いえ。まだまだですわ」とアンジェリーナは優雅にそして品良く、ティーポットを机に置く。見事な所作だ。


「おーい。アンジェリーナ」と、学園から帰って来た息子が、アンジェリーナと私の所へ駆け寄ってくる。


「お疲れ様でした、クリストファー様。紅茶です」とアンジェリーナは息子に紅茶を差し出す。


「今日は、何の授業でしたの?」と席に座った息子に私は尋ねる。


「イグランディア語の授業です。まったく、使う場面も限られているのにイグランディア語をわざわざ勉強するなど、時間の無駄ですな」と、帰って来て早々に愚痴を言い出す息子。


「え? イグランディア帝国の言葉ですか? 素敵ですね! クリストファー様は、イグランディア語でお話しすることができるのですか?」とアンジェリーナは目を輝かせながら言う。


「いや、まだ初歩しか習っていないからね。アンジェリーナは、イグランディア語に興味があるのかい?」と息子が聞く。


「いえ……。興味という訳ではないのですが、もしかなうなら、新婚旅行でイグランディア帝国にも行ってみたいなと思ったのです。もし、クリストファー様がイグランディア語を話せたら素敵だなと思ったのです」とアンジェリーナは残念そうに言う。


「新婚旅行! いいね! イグランディア帝国まで足を伸ばそう! でも、イグランディア語は、僕が喋れなくても、通訳を連れて行けばいいじゃないか」と紅茶を啜りながら息子は言った。


「えー。イグランディア帝国の街で、二人っきりで買い物とか、観光とかしたいです」とアンジェリーナは頬を膨らまして不満を表明する。


「二人っきりで。そうか、そうだよね。分かった! 新婚旅行までに、イグランディア語を習得しておこう!」


「ありがとう、大好きなクリストファー様」と、アンジェリーナは輝かしい笑みで息子を見つめる。

 そうそう。イグランディア語は、国際会議の標準言語として使われているから、王は流暢に話せなければならない。必須のスキルである。さすが私が手塩をかけて育てたアンジェリーナ。上手に息子を誘導している。

 ちなみに、アンジェリーナもイグランディア語の日常会話程度は既に習得している。聞くところによると、イグランディア帝国からの商人も、彼女の父の店の客としていたらしく、接客している内に憶えたとか。


「イグランディア帝国に行くの、楽しみですね。あ……でも?」とアンジェリーナは首を傾げる。


「どうしたんだい? 僕の愛しいアンジェリーナ?」


「イグランディア帝国に新婚旅行に行く際、何処に行けばよいのでしょう? 帝国にも、多くの都市があるのでしょ?」とアンジェリーナは息子に尋ねる。


「ああ。そうだね。たしか、ロンドニアにとか、マンチェッタとかかな?」と息子は自信なさげに答える。


「大きな帝国なので、もっと沢山あると思いますが……。そうだ、私の大好きなクリストファー様。1ヶ月後で構いませんので、イグランディア帝国について、いろいろ教えてくださらない? 人口や兵力ですとか、どんな都市があるのか、そしてそこに行くまでの交通手段など。いろいろ、知りたいのです。また、イグランディア帝国の歴史についても、教えて欲しいです」と、アンジェリーナは甘えた声で息子におねだりする。


「1ヶ月後だね。分かったよ。それまでにはしっかりと調べておくよ。僕の大好きなアンジェリーナ」と息子も答える。


 ふっふっふ。さすが、アンジェリーナ。さり気なく、イグランディア語だけでなく、国勢、地理、歴史をも学ぶように息子を誘導している。もちろん、バカ息子はそれに気付いていないし、俄然やる気を出している。


「あ、私ったら恥ずかしいわ!」と、突然アンジェリーナは両手で顔を隠す。


「え? どうしたんだい? アンジェリーナ?」と息子が心配そうに尋ねる。


「私ったら、クリストファー様との新婚旅行で楽しむことしか考えておりませんでした。旅行に行った際には、お義母様達にもお土産を買わなければなりませんですわ!」


「あ、あ。そうだね。僕の愛するアンジェリーナはなんて優しいんだ」と、息子は感動している様子だ。


「ですから、イグランディア帝国の特産品、農産物、産出する天然資源なども事前に調べておく必要があるわ。これは、調べるのが難しそうだから、3ヶ月後に教えてくださらない?」と、アンジェリーナは言う。


 さすが、アンジェリーナ。我がカスティリーヤ王国の貿易促進の為にも、それらは押さえておく必要があるわね。そこに気付くなんて、センスが良いわ。そして先ほどから、さり気なく、息子に対して、報告の期限を提示しているところも素晴らしい。


「もちろんだとも。僕の優しいアンジェリーナ!」と息子は大変満足しているようだ。


「新婚旅行、待ち遠しいですわね。それに、イグランディア帝国に旅行して帰って来た際には、クリストファー様は、イグランディア帝国の新技術や優れた制度を学び、このカスティリーヤ王国で取り込めるものがあれば、それを取り込むような政策を立案されるのでしょう? 素敵です!」とアンジェリーナは尊敬の眼差しで息子を見ている。


「もちろんだとも! 他国から学ぶところがあるならば、学ばなくてはね」と、息子も乗り気だ。


 そんなことをするならば、新婚旅行というより、視察になるのではと私は思ったが、それは言わないでおこう。


「さて、私はお邪魔なようだから、先に王宮に戻っているわ」と、私は席を立つ。

 私は王宮への帰り道、アンジェリーナに対する手応えを感じた。バカ息子が勝手に婚約破棄した時はどうなることかと思ったが、どうやら息子が連れてきた子に対しての教育に、私は成功したようだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] こっちの方が面白いですよhttps://ncode.syosetu.com/n0208ht/
[一言]  池田先生の書いた小説、凄いです! 応援しています!
[一言] そらまあ、小さいとは言え将来は一件店舗を切り盛りをする女将さんとして親は育てているはず そこに糸目を付けない教育したらこうなるわ これ、食事処で酔客を往なす様に将来の王を掌で転がしているだ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ