まあるいせかい
朝起きると、辺りは暗闇に包まれていた。
珍しいことじゃない。ぼくの住む地方では、だいたいこの季節の朝は長い間毛を刈られずに放置された羊みたいな雲が空を覆っていることが多い。そんな日は、ただでさえ日当たりの悪いぼくの部屋は朝といえども真っ暗なのだ。
そんなわけで、ぼくは気にせずに起き上がると、少しでも光を取り入れようと眠い目を擦りながら窓際に向かった。目の前が暗かろうが関係ない。毎日繰り返した日課なのだから、窓の位置なんて手に取るようにわかる。
一歩、二歩と進んで、三歩目を踏み出しかけたところで、こおん、と小気味いい音が辺りに響いた。と同時に、ぼくのおでこに冷たい痛みが走る。いきなりのことに驚いて、無意識のうちに座り込んでおでこを抑えていた。
残っていた眠気を吹き飛ばすような衝撃に悶絶すること十数秒。それからなんとか回復すると、辺りを窺うように、ゆっくりと、慎重に腰を浮かし、頭上におかしな点がないか両手で充分に確認してから、ようやくさっきのように立ち上がった。
びくびくしながら前方に手を伸ばす。すると、手の平に冷たい感覚が生まれた。どうやら、目の前に何か壁のようなものがあるみたいだ。
ぼくは寝ぼけていたらしい。毎日の日課だなどと偉そうなことを言って、結局窓の位置を間違えて壁にぶつかってしまったようだ。
このままではどうしようもないので、壁に手を突いたまま壁伝いに移動する。暗い室内で歩き回るのは危険なので、これが一番賢い方法だろう。
しかし、歩き始めて十歩目に差し掛かったころ、おかしなことに気が付いた。
ぼくの部屋は決して広いものじゃない。どんなに小さな歩幅で歩いたって、十歩も歩けば絶対に部屋の隅にたどり着くはずだ。なのに、未だに前へ歩いていく余裕さえある。
それだけじゃない。ぼくがさっきから手を突いている壁は、なんだか少し曲がっているような気がする。言うなれば、四角ではなく丸い部屋の内側にでもいるような――――
その時、どこか遠くで聞きなれたような音がした。同時に、暗闇の間をかき分けるように、一筋の光が差し込んできた。
淡い光に照らされたその場所は、見慣れたぼくの部屋ではなかった。家具や窓、扉といったものがない、殺風景な景色だ。白い床は円を描き、その円をなぞるように壁が曲線を描いていた。ぼくがさっき気づいたように、この部屋は内側をくり抜いた円柱のような形をしているらしい。
円柱の半径はぼくの身長より少し短いくらいで、壁はぼくの身長の何倍もある。もしぼくが寝ている間にこの部屋に閉じ込められていて、閉じ込めた人間に外へ出す気がないのなら、ぼくはこの円柱の中で一生を終えなくてはならないのだろう。そう考えると、急に水を掛けられたような恐怖がぼくを襲った。
いや、違う。これは本物の水だ。髪からは水が滴り、着ていた服はぐしょぐしょに濡れている。どうやら、上の方から水を掛けられたらしい。
もしかしたら、このままずっと水を掛けられ続けて殺されるのかもしれない。何かの本で読んだことがある、水責めとかいう拷問方法を思い出した。
水は一定間隔で掛けられ続けていく。巨大なたらいで汲んだような量の水が一度に掛けられたかと思うと、数秒のうちにもう一度同じ量の水が降ってくる。
しかし、それも十回ほどが繰り返されるとぴたりと止んでしまった。水はぼくの膝くらいまで溜まっている。
水を掛けている方も疲れたのかと、ぼくも少し休もうと腰を下ろした途端、それはやってきた。
始めは、隕石でも落ちてきたのかと思った。座っていたぼくの目の前に何かとてつもなく大きなものが落ちてきたのだ。水なんかじゃ断じてない。その何倍もの質量を持ったものが落ちてきたのだ。
落ちてきたそれは、巨大な柱のように見えた。ぼく三人分くらいを一まとめにしたような太さのその柱は、緑色をしていて、見上げればその先端は円柱の外にまで届いているようだ。
もしや、助けが来たのだろうか。これを登って外へ出ろ、ということなのかもしれない。
善は急げと、その柱に飛びついた。しかし柱は、ぼくのことなどまるで相手にしていないかのようにつるつると滑って、少しも登れるようなものではなかった。
唯一の希望を打ち砕かれて、ぼくは落胆したまま膝を抱えて座り込んだ。体はすっかり水に浸かってしまうけれど、不思議なことに寒いとは感じなかった。
座り始めてどのくらい経っただろうか。いつの間にか寝てしまっていたぼくは、自分のお腹鳴る音で目が覚めた。
部屋の様子はさっぱり変わっていなかった。薄暗い部屋の中で、巨大な柱だけが静かにぼくを圧倒している。
再び、腹の虫が食べ物をくれと騒ぎ始めた。そんなこといったって、ぼくは食べ物なんて持ち歩いていない。それでも、何かないかとポケットをまさぐった。
ズボンの右ポケットに、何やら固い感触があった。それを取り出して見てみると、ぼくの右手には光を受けて銀色に輝くナイフが握られていた。
それは、ぼくがこの前の誕生日に買ってもらったナイフだった。まだ新しいもので、嬉しさのあまり寝る時もポケットに入れていたのがそのままになっていたらしい。
もしかしたら、これで壁を削れるかもしれない。そう思い、壁にナイフを軽く突き立てた。カツンという音が鳴っただけで手ごたえはない。そのままナイフを下に引くと、きぃきぃきぃという不快な音が円柱の内部に反響したので慌てて手を止めた。
壁を削るのは諦めて、今度は柱にナイフを向けてみた。すると、柱は思いのほかあっさりとナイフを銜え込み、がっちりと固定された。そのままナイフを利用して柱を登れないかと試してみたけれど、残念ながら上手くはいかなかった。せめてナイフが二本あれば登れるかもしれない。
そんなことをしていると、ますますお腹は減ってくる。とりあえず水を飲んでお腹を満たしたけれど、そんなもの何の足しにもなりはしなかった。
となると、頼みの綱は柱だった。柱にナイフを突き立て、牛の肉でも捌くように柱の一部を削り取った。
柱の外側は緑色だったけれど、内側は薄いピンク色をしていた。こうしてみると、切り分けた西瓜のようにも見える。
少し躊躇した後、意を決して柱の一部にかぶりついた。少しの甘さの後、間違って雑草を口に含んでしまったような青臭い苦味が口の中に広がった。決しておいしいものではないけれど、食べられるというのはとても助かる。なにせ、これで餓死する心配はなくなったのだから。あとは、お腹を壊さないよう祈るばかりだ。
ぼくが円柱に閉じ込められて、数日が経った。
いや、本当に数日が経ったかどうかは定かではないのだけれど、円柱の遥か高い位置から見える光が時々消え、いくらか時間が経つと再び光が戻ることから、この光の一サイクルを一日と勝手に決めたのだ。本当は数か月が経っているのかもしれないし、まだ数時間しか経っていないのかもしれない。
未だにぼくを閉じ込めたのが誰かもわからないし、その目的もわからない。わかるのは、ぼくは絶対にこの円柱から抜け出せないということだけだ。
そうして何も進展がないまま数日が過ぎ、この状況にも慣れたころ、ぼくに妹ができた。
血のつながった妹じゃない。そんなもの、ぼくがここに閉じ込められる前からいなかった。ぼくがふと目を覚ますと、目の前に見知らぬ女の子がいたのだ。自分の頭ほどの大きさの銀色の鈴を黄色い紐で首から下げた彼女は、どうやらぼくと同じように知らないうちにここへ閉じ込められたらしい。
ぼくはとりあえず、先に閉じ込められた人間として、わかっていることを彼女に教えた。ここからは今のところ出ることができないということ、なぜ閉じ込められているのかはわからないということ、部屋にある柱は食べられるということ。
全てを聞き終えた後、首の鈴を鳴らしながら女の子は言ったのだ。
わたしたち、運命を共にする兄妹みたいなものですね――――と。
そうして、ぼくと彼女は兄妹となった。少なくとも、ここから脱出するまでは。
妹といったのは、ただ単にぼくが彼女より年上で、彼女が僕より年下だったからだ。彼女がぼくより年上なら姉になっていただろうし、男の子なら弟になっていただろう。
念のためにナイフか何かを持っていないか聞いてみたけれど、残念ながら刃物の類は持っていなかった。着ている服以外にあるものといえば、首から下げた銀色の鈴だけだと。
女の子が来てからは、薄暗い円柱の中でも花が咲いたように明るく感じられた。朝起きては柱を少し削って食べ、それから彼女と取り留めのない話をする。彼女はぼくと目の色も髪の色も違ったけれど、幸いなことに言葉は問題なく通じていた。
以前住んでいた部屋に始まり、飼っているペットの話やここから出たら一番に食べたいものなど、時間がいくらあっても足りないほど毎日話しばかりしていた。
ぼくが下らないことを言うと、彼女が鈴を鳴らしながらころころと笑う。それが嬉しくてぼくも一緒になって笑っていた。そうしているうちに、いつの間にか閉じ込められているなんてこともすっかり気にならなくなっていた。
そんなある日、いつものように目を覚ますと、彼女が不思議そうな顔をして何かを観察していた。
それは、ぼくも今まで見たことがないものだった。ぼくと同じくらい大きな球体状のそれは、沈みかけた太陽のように紅い色をしている。彼女が言うには、今朝いきなり頭上から降ってきたらしい。
最大限に警戒して、出来る限り遠くからナイフでその球体をつついてみる。表面が裂け、中からどろりとした紅い液体が出ただけで、特に変わったことは起きなかった。彼女の前では気丈に振る舞っていたけれど、実は爆発でもしやしないかと気が気ではなかった。
とりあえず、その紅い液体の匂いを嗅いでみた。もう食べ慣れてしまった、柱と似た匂いが鼻の奥に広がる。心を決めて、その液体を少し舐めてみた。柱を食べた時に感じる微かな甘さを袋一杯に詰めたような味が、舌の上で踊った。
ほら、といって彼女にも勧めてみた。人差し指ですくってそれを舐めると、笑顔でぼくに向き直った。もっと切ってくれ、ということらしい。
ナイフをさらに入れていき、球体を一周させると、球体は半分に割れた。それを二人で分け、中にある液体をそれぞれ舐めた。
久しぶりに感じた満腹感だった。こうしてみると、あの柱がどれほどおいしくなかったのか思い知らされる。隣を見ると、彼女が幸せそうにうつらうつらしていた。お腹が膨れて、起きたばかりだというのに眠くなってきたようだ。それはぼくも同じで、瞼は次第に下がっていき、視界がだんだん狭くなっていく。
朝起きると、辺りは暗闇に包まれていた。
珍しいことじゃない。ぼくの住む地方では、だいたいこの季節の朝は、長い間毛を刈られずに放置された羊みたいな雲が空を覆っていることが多い。そんな日は、ただでさえ日当たりの悪いぼくの部屋は朝といえども真っ暗なのだ。
そんなわけで、ぼくは気にせずに起き上がると、少しでも光を取り入れようと眠い目を擦りながら窓際に向かった。目の前が暗かろうが関係ない。毎日繰り返した日課なのだから、窓の位置なんて手に取るようにわかる。
一歩、二歩と進んで、三歩目を踏み出しかけたところで、こおん、と小気味いい音が辺りに響いた。と同時に、つま先に冷たい痛みが走る。足元にある何かを蹴飛ばしてしまったようだ。
これ以上被害を拡大しないように慎重に歩を進め、何とか窓際にたどり着いた。手探りでカーテンを掴むと、そのまま思い切り左右に開く。
うっすらとした光に照らされたその場所は、見慣れたぼくの部屋だった。部屋は四角だし、天井もそれほど高くない。
その部屋の中で、白い陶器の花瓶が床の上に転がっていた。どうやら、さっき蹴飛ばしてしまったのはこれのようだ。綺麗だからと摘んできた、紅い実をつけた植物が飾られていたその花瓶からは、水がこぼれて歪んだ地図を描いていた。
部屋の隅から適当な布を引っ張ってきて、慌てて床を拭き始めた。水は早くも床に浸みだしていて、一刻も早く拭かないと痕に残ってしまう。
拭くのに邪魔なので、移動させようと花瓶を持ち上げると、何かころころ音がする。どうやら、花瓶の中かららしい。
花瓶の中を覗いても、暗くて何もわからない。ぼくは右手を広げて、その上で花瓶をひっくり返した。
中からころんと出てきたのは、黄色い紐が結ばれた銀色の鈴だった。




