稲の波
もう何十年もまえのことさ。
ぼくがまだ小学校に通っていたころの話だよ。
九月、新学期のはじめだった。
ある朝、通学路のとちゅうで、小さなほこらを見つけたんだ。
見つけたというか、気がついたんだね。
だって、ほこらは、ずいぶん古いもので……ぼくが目をとめるずっとまえから、そこにあったんだろうから。
小さなほこらだよ。
背もひくくてね。
土台といっても、平たい石をちょっと敷いたくらいで、地べたに直接おいてあるのと、たいしてかわらなかった。
そのなかに、お地蔵さまなのかな? それとも、またべつのなにか? 形もはっきりしない、ごろっとした石みたいのが、おさめてあるんだ。
それが、家と家とのすきまに、かくれんぼみたいに、はまりこんでるんだよ。
いったい、なんのほこらなんだろう?
なん人か、クラスメイトに、きいてみたりもしたのだけどね。
みんなきまって、
「しらない」
「さあ」
「そんなの、あったっけ」
っていうだけだったよ。
そしてすぐ、もとのあそびなり何なりに、もどっていってしまうんだ。
だれも、興味をしめしたりは、しなかったな。
でも、なんでだろうね。ぼくは……ぼくだけは……。
おかしいね。ぼくだって、それまでは、なんにも気づかず、すどおりしていたくせにね。
いちど気づいてしまうと、なんだか、しらんかお、できなくってね。
学校の行きかえりに、ちょっとしゃがみこんで、手をあわせるようになってしまったんだ。
べつに、たいした意味があるわけじゃない。
むかしのひとみたいに、信こう心なんてものが、あるわけでもない。
ただ、なんとなく……そう、なんとなくさ。
目があった、みたいな感じかな。
そうさ。
こっちがほこらを見つけるとどうじに、こっちもほこらに見つかっちゃった――そんな気がしてね。
いや、ほんとうに。あらためて考えてみると、むこうも、こっちを、見ていたのかもしれないなあ。
え? うん。だって、あんなことが、あったからさ……。
あれは、そう、ほこらに気づいて、何日目だっただろう、
「かんしん、かんしん」
いつもどおり、学校がえりに、手をあわせていると、うしろで、声がきこえたんだ。
ふりむくと、さんぽのとちゅうみたいな、つえをついたおじいさんが、ぼくのほうを見ていたよ。
白いひげをしごきながら、にこにこ、わらってるんだ。
ぼくは、へんなとこを見られて、ちょっとドギマギしちゃったよ。べつにわるいことをしていたわけでもないのにね。
そしたら、そのおじいさんは、
「はずかしがらんでええ。むかしは、おとなも、子どもも、野良の行きかえりに、そうして手を合わせたものじゃった」
そういって、ぼくの頭をなでてくれたんだ。
なぜだろう? なれなれしいって思ってもいいはずだったのに……逆に、ぼくはなんだか、急にあんしんしてね。
まるで、まえから知ってるひとみたいに、らくに話ができたんだ。
「野良って?」
「田んぼや、はたけのことじゃよ」
「田んぼ? はたけ?」
ぼくは目をしぱしぱさせて、あたりを見まわしたよ。
「そんなの、ないよ?」
そこは、ぼくの知ってるかぎり、ずっとまえから、住宅地でね。
どっちを向いても、たてものがびっしり。
街路樹や庭木で、みどりは多かったけど、そんな、田んぼだの、はたけだのがあるような、のどかな場所じゃなかったんだ。
でも、おじいさんは、ほっほっほ――おもしろそうに、わらってね、
「いまは、な。たしかに、いまはもう、ない。じゃが、むかしは、このあたりも、いちめん、見わたすほどの、田んぼやはたけが、ひろがっていたんじゃよ」
そういって、とおいどこかを見ているみたいに、かおをあげて、目をほそくしたんだ。
ぼくも、つられて、そっちのほうを見てみたよ。
でも、もちろん、白いかべや、茶色いかべ。黒いやねや、赤いやね、青いやね。ピアノの音がきこえたり、花が咲いていたり……そんないろんな家がたっているだけだったよ。
「このあたりでは、みな、何百年もまえから、ずっと、土をたがやしてくらしておった。じゃが、世の中がひらけてくると、だんだん、それでは食っていけんようになってのう。みな、百姓をやりたがらなくなって、また、やりたくてもできなくなって、ほかの仕事をさがすようになってなァ……土地もだんだん手ばなすようになっていったんじゃよ」
おじいさんは、とおいどこかを見たまま、しみじみ、話してくれたよ。
「田んぼもはたけもつぶされて、汽車がはしり、道がひらかれ、ビルや工場がたつようになってな。そこではたらく連中めあてに、店もできた。するとまた人があつまってくる。田んぼもはたけもまたつぶされて、池はうめられ、山はくずされ、どんどん家がたつようになった。いまでは、もう、見てのとおり。わしも、ひさしぶりにおりてきたが、変われば変わるものよ。
じゃが、なんでかのう、このほこらだけは、まだ、こうしてひっそりとじゃが、残っておる。だいじなほこらじゃ、残さねば、と、そのころは、まだ、思うてくれるだれかが、おったんかのう。ひにくなものよ。守る田んぼがなくなって、守り神さんだけがのこって、なァ……」
「守り神さん?」
「おうよ。イネにわるい虫がつかぬように、日照りや水の害がでぬように、いいコメがたんととれるように……守ってくれる神さんじゃよ。むかしは、野良の行き帰りに、みんな、手を合わせたものじゃった」
さっきのぼうやみたいにな、と、おじいさんは、また、ぼくの頭に手をおいたよ。
「水口、田植え、虫送り――おりおりには、祭りだって、やっておったんじゃがな。それもみな、とおいむかしよ」
「ふうん」
ぼくは、目のまえの住宅地が、いちめんの田んぼだったっていう、むかしの景色を、想像しようとしてみたよ。
でも、住宅地は、住宅地。
なんだか、ピンとこなかったよ。
「ぼうやは田んぼ、見たことがあるか?」
ややあって、おじいさんに、そうきかれたよ。
ぼくは、うなずいた。
「体育館のうらに、あるよ」
ぼくが思いうかべたのは、花壇のとなりにつくられた、たたみ二枚ぶんくらいのスペース。
なんにも植えてなくて、ひからびて、ちょっと雑草がはえてるだけだけど、あれ、田んぼなんだって。
社会科のたいけん授業で、むかしつかったことがあるって、先生がいってた。
でも、そんな小さい田んぼじゃ、たいしたたいけんはできないから、ここ何年かは、つかったことがないんだって。
さいきんは、視聴覚室で『日本の米づくり』かなにかいう映画をみるだけだってね。
ぼくがそういうと、おじいさんは「やれやれ」って、ため息をついたよ。
ぼくはちょっとくやしかった。
そりゃ、見わたすかぎりいちめんの――なんてのに、くらべたら、そうだろうけどさ。
だって、しかたないじゃないか。いまさら、そんなこと、いったって。
「そうさな――」
ぼくのふくれっつらを見ると、おじいさんは、そういって、また、とおくを見たよ。
「じゃが、きれいなものじゃぞ、ほんものは、映画とはちがう。とくに、いまごろは……。稲穂もまだ青くてな。日に日に重くなっていくが、茎はまだシャンとしておる。
それが、みわたすかぎり、整然とならんでなあ。風が吹くたび、そよそよ、さやさや、音をたてて、ゆれるんじゃよ。いっせいに、いや順ぐりに、頭をたれて、また上げてな。まるで、波うつみたいに、どこまでも、風がわたってゆくのが、見えるんじゃ。ときには、どーっとな、ざーっとな――風がつよくなると、波もおおきくなってなあ、波音も、腹にこたえるみたいに、ひびくんじゃよ。
月の明るい晩などは、なおさら、それがみごとでなあ。お月さんのひかりをあびて、キラキラしてのう。まるでほんものの波がしらみたいにみえるんじゃよ。どどーっとなあ、ざざーっとなあ。そよそよ、さやさや、ざわざわ、っとなあ……みわたすかぎり、いちめんに、銀に波立つ稲穂の海よ。きれいなもんじゃぞう」
みなが丹精こめたイネじゃと思えば、なおさらなあ……と、おじいさんは、しみじみ、そんなふうに、いったんだ。
ぼくは、なんだか、うっとりしてね。
さっきは、まるで想像できなかった、いちめんの田んぼってやつが、おじいさんのことばをきいているだけで、住宅地と二重写しの映像になって、ありありと見えてくる気がしたよ。
ちょうど吹いてきた風に、街路樹や庭木がゆれていてね。葉ずれの音が、イネの波音みたいにも思えるんだ。
そうして、まぶたをとじると、住宅地のほうがきえて、あとはいちめん、月にかがやく銀の波だけになったんだよ。
「すごい……」
ぼくは思わずつぶやいた。
そしたら、おじいさんが、ほっほって、わらってね。耳もとで、こう、ささやいたんだ。
「見てみたいか?」
「え?」
ぼくは、おどろいて、目をあけたよ。
でも、そのときには、もう、おじいさんは、どこにもいなかった。
ただ声だけが、耳のおくに、のこっていた。
『ちょうど、今夜は、満月じゃ。迎えにいくぞ。――今夜な』
それはただ風の音だったのかもしれない。
庭木が、また、ざわざわっと、ゆれてね。
ぼくは、急に、ぶるっと、ふるえがきた。
ちょっとのあいだ、ほこらのなかの石をみつめて……
それから、あとも見ずに、かけだしたんだ。
家まで、いちもくさんに、走ったよ。
行く先々で、あっちこっちの庭木や街路樹が、
――今夜な。
――今夜な。
そういって、ゆれつづけているみたいだった。
家に帰ったあと、夜までどうやって時間をつぶしたのか、よくおぼえていない。
宿題はしたのか、おやつは食べたのか。テレビは? マンガは?
なんだかそわそわして、ふわふわして、なんにも手につかなかった気もするよ。
ただ、夕方、パートから帰ってきた母さんに、あらためて、あのほこらについてきいてみたことだけは、ちょっと、おぼえている。
でも、タイミングがわるかったんだろう。シャワーをあびて、着がえて、晩ごはんのしたくしなきゃって――母さんは、バタバタいそがしそうで、あんまりかまってくれなかった。
「え? なに? ほこら? どこの? いたずらしちゃだめよ。ええ? だれかお世話してるんじゃないの。ああ、もう、こんな時間――」
そういえば、あのほこら、だれか、管理なんかしてたんだろうか?
まめにそうじされているようすもなかったし、花とか水とか、お供えみたいなものも、見たおぼえがない。
せいぜい、土台の平石のうえに、白く粉をふいた一円玉が、何枚かおいてあったくらいじゃなかったかな。
田んぼをなくした、田の神さま。
だれからもわすれられた、ほこらの神さま。
それって、どんな気がするんだろう? 神さまだってさみしいのかな? だれか、ひさしぶりに拝んでくれたら、やっぱり、うれしいんだろうか?
夏のなごりのセミの声をききながら、ぼくは、ぼんやり考えたんだ。
そうこうするうちに、日はくれていった。
ぼくは、たぶん、いつもどおり、ごはんを食べて、宿題をして、お風呂に入って……ふつうに、していたんだろう。
今夜っていったって、何時ってきいたわけじゃなかった。ほんとにきいたのかもわからなかった。
もしもほんとうに、玄関のチャイムをならして、どこかのおじいさんがたずねてきたら――?
まさかね。
ぼくは、いっしょうけんめい、ふつうにしていた。
昼間のことを話したりもしなかった。
そのうち、いつもどおり、夜になって、父さんが帰ってきて、ガチャンと、母さんが戸じまりして……
もう寝なさいって、ハミガキして、ベッドに追いやられたんだ。
ふつうの、いつもの、夜だった。
なあんだ、やっぱり、きやしなかったじゃないか。
そう思って、はんぶんは安心して、はんぶんはがっかりして、ぼくは寝についたんだ。
でも……。
そうして、眠ったあとの、真夜中だった。
ふっと、目がさめたんだ。
夜なのに、へんに、あかるくてね。
電気もけしてあるのに、カーテンだってしめてあるのに、ベッドも、つくえも、本だなも――へやのかたちが、ぜんぶ、よく見えるんだ。
カーテンがぼうっと白く光っていてね、すき間からもれる光はまぶしいくらいだった。
ぼくは、目をこすって、からだをおこしたよ。
そのときだった。
『ぼうや、ぼうや』
耳の底で、おじいさんの呼ぶ声が、きこえたんだ。
ぼくは、はじかれたみたいに、とびおきて、へやを横ぎると、さっとカーテンをあけたよ。
そして、息をのんだんだ。
窓のそとには、大きな満月がのぼっていた。
その光にまぶしいくらいに照らされているのは、銀色の草の海だった。
ただの草じゃない。
さきっぽに、ぎっしりつまった穂がはえていて、それがひときわあかるく、月光にかがやいているんだ。
銀色の草原は、見わたすかぎり、いちめんに、ひろがっていてね。
家も、道も、電柱も、見あたらない。
いつもの窓の景色はどこにもなかったよ。
夢だ。
ぼくは夢を見ているんだ。
そう思った。
でも、そのときだった。
風がふいたんだ。
どっ!
どどうっ――!!
それはリアルに重たい空気のかたまりだった。
窓はしまっているはずなのに、さっきまで、へやのなかにいたはずなのに……
いつのまにか、ぼくは、ねまきのまま、その銀の草原のなかに立って、正面からふいてくる重たい風に、まともにさらされていたんだよ。
いっしゅん、息がつまった。
腹にこたえる風の重さに、足をふんばった。
はだしの足がふむ地面は、ほのかにしめって、つめたかった。
そして、音がきこえたんだ。
ざざざざざざーっ!
ぞぞぞぞぞぞーっ!
向かい風の中で、ほそく目をあけて、ぼくは見た。
見わたすかぎりの草の海を、銀色の波がはしっていた。
まだわかい稲穂が風になびいて、それが月光にさえざえと光って、波がしらみたいに見えるんだ。
銀色にかがやきながら、いっせいに、地平線のむこうから、おしよせてくるんだ。
そうして、ぼくをとおりすぎて、またずっと遠くまで、はしりさっていくんだよ。
きれいだった。
あんまりきれいすぎて、こわいくらいだった。
おじいさんがいったとおり、いや、それ以上さ。
あとから、あとから、あとから――
波はつぎつぎに、おしよせ、かけさり、また、おしよせてきた。
ぼくは息をするのもわすれて、見とれていたよ。
そのあと、風はすこし弱くなった。
でも、やむことはなかった。
さっきよりやわらかい、おだやかなそよ風が、月夜の田んぼをわたっていった。
稲穂は風にあわせて、さやさやと、そよそよと、ゆれて……銀色のさざ波をたてていたよ。
ぼくは見とれながらあぜ道をあるいていった。
リーン
リーン
夜の虫が鳴いていた。
夏ももう終わりだ。
でも、寒くはなかった。
九月の風はまだあたたかくて、でも昼間みたいに暑くはなくて、ねまき一枚で、ちょうど心地いいくらいだった。
そして、なにより、いつのまにか、ぼくのとなりには、おじいさんがいた。
手をつないでいるだけで、なんだか、すごく安心して、胸のなかがあたたかくなったよ。
そのままどこまでもいっしょに、稲穂の海を歩きつづけていきたい気がしたんだ。
歩きながら、おじいさんは、田んぼをゆびさし、ゆびさし、いろんなことを教えてくれたよ。
何をおそわったのか、夢だから、おぼえていないけど……
でも、ひとつだけ、いまでもおぼえていることばがある。
『いまは銀色じゃが、いずれ熟せば、今度は、金色になる』
おじいさんは、そういったんだ。
きんいろ……。
ぼくは想像してみた。
稲穂が黄いろく熟して、重たくなって、こうべを垂れて――
そして、こんどは月じゃなくって、あかるく澄んだ、秋の朝日にてらされて、いちめん、金色のじゅうたんみたいにかがやくんだ。
ぼくはそれを、ありありと、目のあたりに見るここちがした。
いや、見ることができた。
だって、夢だから。それは、ぼくの夢だったから……。
まばたきする間に、時間はとんで――はっと気がついたときには、ぼくはもう、晩秋の朝の黄金の光のなかに、いたんだ。
いちめんの、稲穂だった。
いちめんの、金色だった。
風がわたり、光が波うち、どこまでも、見わたすかぎり、キラキラして……
あたりいちめん、こうばしいお米の香りが、たちこめているみたいだった。
「うわあ……!」
うれしくなって――わけもなく、ただうれしくて――ぼくは、わらって、かけだしたよ。
きれいだね、きれいだね。
そうくりかえし、はしゃぎながら、どこまでも、金色の波をかきわけて、はしったんだ。
ほっほっほ、と、おじいさんが、目をほそめて、わらっていたよ。
……。
…………。
もちろん、ぜんぶ、夢だった。
目がさめると、じぶんのへやのベッドの上で……。
カーテンのすきまから、まぶしい朝日がさしこんでいたよ。
でも、「なんだ、夢か」なんて、思わなかった。
いい夢だった。
胸のなかがまだあたたかくて、目をとじれば、さやさや、そよそよ、銀の波、金の波の音が、きこえる気がしたよ。
ふしぎと、みたされた気分で、ぼくはおきあがった。
そのときだった。
かさっと、枕もとで、なにかが音をたてたんだ。
夢のなかからもってきた、それは、一本の稲穂だった。
え? うそだァ、って?
ふふん。そうかもね。
でも、わからないよ。
なにしろ、あいては、神さまだからね。それくらい、できたって、ふしぎはないさ。
ぼくは、その稲穂を手にとって、朝日にかざしてみた。
そして、にっこり、わらったよ。
まだ九月もはじまったばかりだっていうのにね。
現実よりひとあしさきに、黄いろく熟れた稲穂は、ぼくの手のなかで、朝日をあびて、きんいろにかがやいていたよ。




