親友に惚れ薬を盗まれて婚約破棄されましたが、それ、うちの規格外なお祖母様が作った薬です
公爵令嬢であるアリアの自室には、柔らかな陽光が差し込んでいるというのに、どこか冷え切った空気が張り詰めていた。
豪奢な絹のソファに対面で座る親友のミリアは、痛ましそうに眉をひそめ、アリアの震える両手をそっと包み込んでいる。
「……ねえ、ミリア。最近、婚約者のシード様の様子が本当におかしいの。学園でお会いしても、目が合った瞬間にフイと逸らされてしまうし、お話ししていてもどこか上の空で……。私、近いうちに婚約破棄されてしまうのかしら」
アリアの悲痛な吐露に、ミリアは「そんなことないわ」と優しく微笑んだ。
しかし、その長い睫毛の奥にある瞳は、冷酷な愉悦にギラリと歪んでいる。
「気にしすぎよ、アリア。シード様は生徒会長にしてこの国の次期王太子、お忙しいだけだわ。……でも、そういえば。最近、他の令嬢とずいぶん親しげに談笑されているところを見かけたっていう噂もあるの。殿方って、身近に完璧な婚約者がいると、つい外に刺激を求めてしまう生き物らしいから。……万が一のために、心の準備だけはしておいた方がいいかもしれないわね」
「心の準備……。そんな、嘘でしょう……?」
慰めるふりをして、着実に絶望の種を植え付けていくミリア。
アリアが顔を真っ青にして俯くのを確認すると、ミリアは満足そうに席を立った。「またいつでも相談に乗るわね」と、まるで聖女のような笑みを残して部屋を去っていく。
バタン、と重厚な扉が閉まった、まさにその直後のことだった。
ガタガタ、ゴトッ!
突如、アリアの部屋のクローゼットが内側から激しく揺れ、扉が勢いよく左右に跳ね開いた。ドレスの隙間から這い出てきたのは、高級なローブを羽織った小柄な老女である。
「ーーひょっひょっひょっ! 相変わらず、お前は男を見る目も、友を見る目もからっきしじゃのう、アリア!」
「お、お祖母様!? なんでそんなところから出てくるのよ!?」
現れたのは、アリアの祖母・マリアンヌだった。
王宮からも一目置かれる世界最高峰の薬剤師であり、同時に不法侵入もお手の物な大の「魔術おたく」としても知られる、我が公爵家の最大の変人である。
マリアンヌは不敵に笑いながら、アリアの鼻先に小さな硝子瓶を突き出した。中では怪しくも美しい、禍々しいピンク色の液体がトポトポと揺れている。
「あのミリアという小娘、絶対に信用するでないぞ。あれは優しげな狐の皮を被った、ただのドブネズミじゃ。それよりアリア、これを持っていけ。わし特製の超強力な惚れ薬じゃ! これをあの王太子に飲ませれば、お前に一生メロメロ、犬のように床を這い回るようになるぞ!」
「なっ……惚れ薬!? そんな卑怯なもの、絶対に使うわけないでしょう! それに、ミリアは私の大切な親友よ! いくらお祖母様でも、彼女を悪く言うのは許せません!」
「おや?」
「どうしたんですのお祖母様?」
マリアンヌは無言で窓に近づくとさっとカーテンを開け、外を見回した。
「気のせいか? 誰かが覗いておった気がしたんじゃがな。わしも耄碌したもんじゃ」
「もう、すぐそうやってごまかして!」
憤慨して頬を膨らませるアリアを気にする風でもなく、マリアンヌは「ひょっひょっひょっ、まあ見ておるがよいわ」と不気味に笑うと、気配遮断の魔術を使って煙のように部屋から消え去ってしまった。
一人残されたアリアは、手の中に残された怪しい薬瓶を見て大きなため息をつく。
「こんな怪しいお薬、使うはずがないわ……」
捨てるのも憚られ、アリアはそれを学習机の引き出しの奥深く、書類の裏へとしまい込んだ。それが、最大の悪手に繋がるとも知らずに。
その頃、王立学園の生徒会室で、王太子であり生徒会長を務めるシードは、一人頭を抱えていた。
彼が最近、最愛の婚約者であるアリアに対してよそよそしい態度をとってしまっていたのは、他でもない、アリアの親友であるミリアの存在が原因だった。
ここ数ヶ月、ミリアから執拗に、そして周囲に気取られないよう巧みに言い寄られていたのだ。王太子の権力で無碍に罰すれば、彼女を「無二の親友」と慕うアリアの心を酷く傷つけることになる。かといってアリアに直接相談すれば、二人の美しい友情を自分のせいで壊してしまうかもしれない。
生真面目で誠実なシードは一人で悩み抜き、結果として、アリアの前で心から笑う余裕を完全に失っていたのだ。
そんなシードの元へ、控えめなノックの音と共にミリアが姿を現した。シードは反射的に身構え、鋭い視線を向ける。
「シード様。……本日お伺いしたのは、今までの私の数々の不敬をお詫びするためです」
しかし、いつもなら艶然と距離を詰めてくるミリアの姿はそこにはなかった。彼女は痛々しいほどにうつむき、その綺麗な瞳からぽろぽろと大粒の涙を流し始めたのだ。
「私、アリアの親友でありながら、お二人の仲睦まじいお姿に酷い嫉妬をしてしまって……本当に浅はかでした。ですが、アリアを裏切るような真似はもう二度といたしません。あなたにつきまとうことも、今日限りで完全にやめます。ですから、どうか、どうかアリアには内密に……私をお許しください……」
しおらしく泣き崩れるミリアの姿を見て、シードはすっかり毒気を抜かれてしまった。根が真っ直ぐな彼は、彼女が心から改心したのだと信じ込み、胸の支えが取れたような安堵感を覚えたのだった。
「……そうか。君がそこまで反省してくれたのなら、私はもう何も言わない。これからはまた、アリアの良き友人でいてやってくれ」
「はい……! ありがとうございます、シード様……!」
これですべてが丸く収まる。シードはそう確信していた。
ミリアの伏せられた顔が、ドス黒い歓喜と嘲笑に歪んでいることなど、微塵も気づかずに。
数日後、王城の大夜会が華やかに開催された。
光り輝くシャンデリアの下、会場の壁際では、アリア、ミリア、シードの三人が親しげに談笑していた。シードの態度はすっかり元に戻り、ミリアも以前のような不穏さは見せない。アリアは「やっぱり私の思い過ごしだったんだわ」と、心から胸をなでおろしていた。
「ふふ、少しお化粧直しに席を外すわね。すぐ戻るわ」
アリアが軽くドレスを揺らし、その場を離れた。
二人きりになった瞬間、ミリアの行動は迅速だった。彼女は近くを通りかかった給仕のトレイからグラスを二つ取り、そのうちの一つの色を確かめ、シードに差し出した。
「シード様、改めて私たちの和解の乾杯を。これからもアリアを幸せにしてあげてくださいね」
すっかりミリアを信用していたシードは、「ああ、ありがとう」と微笑んでその果実酒を一気に飲み干した。ーーそれが、ミリアが昼間にアリアの部屋の引き出しから盗み出していた、あの『特製惚れ薬』であるとも知らずに。
直後、シードの全身に凄まじい衝撃が走った。
ドクン! と心臓が異常な早さで跳ね上がり、視界がぐにゃりとピンク色に染まっていく。頭が強烈に朦朧とし、思考が奪われていく。そして、目の前にいるミリアが、どうしようもないほどに愛おしく、逆らえないほど魅力的な絶対の存在に見えて仕方がなくなる。
「あ……ミリア……私は、君を……」
「ーーあら、お待たせ。二人とも、何を話していたの?」
そこへ、アリアが笑顔で戻ってきた。
しかし、目の前の光景にアリアは息を呑み、凍りついた。ミリアがシードの逞しい腕にぴったりと身体を密着させ、シードもそれを拒むどころか、とろけたような、恍惚とした表情でミリアを見つめていたのだ。
「お帰りなさい、アリア。もうシード様をあなたみたいな退屈な女に返すつもりはないわ。ーーシード様は私のもの。あなたとの婚約は、今この瞬間をもって破棄よ」
「な……ッ、何を言っているの、ミリア!? シード様も、そんな悪質な冗談はやめてください!」
アリアは悲鳴を上げ、縋るように婚約者を見た。しかし、魅了されたシードの口から出たのは、冷酷無比な宣告だった。
「冗談ではない、アリア。私は……ミリアを愛している。お前との婚約は破棄だ。私の隣に立つべきなのは、この愛らしいミリアだ」
「そんな……嘘……嘘よ……!」
確かな絶望がアリアを襲う。脳裏をよぎるのは、数日前のミリアの言葉。ーー『男性って刺激を求めてしまう生き物らしいから』。すべては、このために仕組まれていたのか。
勝ち誇ったミリアの、甲高い高笑いが会場に響き渡る。
「さあ、私の愛しい王子様。ここにいる泥棒猫に見せつけるように、誓いのキスをーー」
ミリアがシードの唇に顔を近づけた、まさにその時だった。
「が、はっ……!? あ、頭が……割れるように、痛い……っ!!」
突如、シードが自身の頭を掻きむしり、激しく苦しみながら床に膝をついた。
薬による強制的な偽りの恋心。しかし、シードの魂の最深部にある、アリアへの『真実の純愛』が、その強力な洗脳に対して牙を剥き、必死に抗おうとしていたのだ。二つの強大な感情の葛藤により、シードの精神は崩壊寸前の悲鳴を上げていた。
「キャッ!? シ、シード様、どうなさったの!? ……皆様、気にしないでちょうだい! シード様は連日の執務でお疲れなのよ。さあシード様、私の部屋で休みましょう!」
想定外の事態に焦ったミリアは、錯乱するシードをこのまま連れ去ろうと、その腕を強引に引く。
「待って! シード様から離れなさい、ミリア!」
アリアが思わず駆け出そうとした瞬間、ジャキ、と鈍い金属音が響いた。ミリアがあらかじめ手配していたのか、私兵崩れの近衛兵たちがアリアの前に立ち塞がったのだ。
「公爵令嬢、お下がりください。これ以上は王太子殿下への不敬とみなします」
「どいて! シード様が苦しんでいるのよ! お願い、通して!」
無情にも阻まれるアリア。遠ざかっていくシードの背中。親友の完全なる裏切り。
万策尽き、すべてを失ったアリアがその場に崩れ落ち、涙を流した、その時ーー。
「諦めたら、そこで試合終了じゃぞ、アリアや」
「え……?」
あまりにも場違いな、緊張感の欠片もない声が響いた。
声のした方ーーアリアの真横にある、床まで不自然に長い白クロスが掛けられた円卓の下から、ガサゴソとシルクのローブをまとった老女が這い出てきた。周囲の貴族たちが「ひえっ」「何事だ」と飛び退く。
「お、お祖母様!? なんで夜会の机の下に潜んでいるのよ!?」
「ひょっひょっひょっ! 面白い見世物があると小耳に挟んでな、特等席を陣取っておったのじゃ。それにしてもあの王太子小僧、わしが古代魔術を応用して作った特製惚れ薬に、気力と純愛だけで抗うとは……なかなかに骨のある男じゃて。合格じゃ!」
マリアンヌは不敵に笑うと、懐から今度は、夜の海のように深く青く澄んだ液体が入った小瓶を取り出した。
「ミリアの小娘め、わしの宝物庫ならいざ知らず、アリアの引き出しごときから薬を盗み出すとは、泥棒としても三流じゃな。アリア、あれはわしが作った薬。ならば当然ーー解毒剤もある!」
マリアンヌは老女とは思えぬ恐るべき神速のステップで近衛兵の股下をすり抜け、シードを連れ去ろうとしていたミリアの元へと肉薄した。そして、苦しむシードの顎を強引にこじ開けると、その青い液体を一気に流し込んだ!
「ごふっ……ぅ、あ、あああああっ!?」
一瞬の間を置いて、シードの瞳から濁ったピンク色の霧が完全に消え去り、凛烈たる王太子の輝きが戻る。
「……私は、一体何を……。そうだ、私はアリアを裏切り……。いや、ミリア、貴様、私に何を飲ませた……!」
「なっ、シード様……? 嘘でしょう、お薬の効果が切れるなんてあり得ないわ! 私を見て、私を愛して頂戴!」
完全に正気に戻ったシードは、縋り付こうとするミリアの手を、虫ケラでも払うかのように冷酷に振り払った。ドガッ、と無様な音を立てて床へ転がるミリア。
「本物の近衛兵、および騎士団! その狂婦を直ちに捕らえよ! 国家元首暗殺未遂、および禁忌薬物使用による王族魅了の罪だ!」
シードの怒号に近い号令に、本物の近衛騎士たちが一斉に動き、ミリアとその私兵たちを瞬時に取り押さえる。
「離しなさい! 私は王妃になる女よ! アリア、あんたのせいよ! あんたさえ、あんたさえいなければぁぁ!」
髪を振り乱し狂ったように叫ぶミリアだったが、彼女の執務室の家宅捜索、および薬物付着の証拠物件は、すでにマリアンヌの手によって完璧に王宮警察へ提出されていた。言い逃れなど、一ミリたりともできるはずがない。
ミリアはそのまま引きずられるようにして、二度と日の光を拝めぬ最下層の地下牢へと投獄されていった。
静まり返る会場の中、シードはまっすぐにアリアの元へと歩み寄り、その華奢な身体が壊れんばかりに強く抱きしめた。
「すまない、アリア……! 私の心の隙が、君をあれほど傷つけた。もう二度と、君の手を離さない。生涯をかけて君を愛し、償うことを誓う」
「シード様……っ、はい、はい……!」
涙を流して抱き合う二人を、少し離れた場所から見つめる影が一つ。
「ひょっひょっひょ。まあ、これで一件落着じゃな」
マリアンヌは満足そうに笑うと、今度こそ夜会の闇へと、煙のように気配を消して消え去っていったのだった。




