表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
101/110

第101話 助けてと言った扉に、何を返すべきか

扉の声が「助けて」と書いた翌朝、相談室には妙な緊張があった。


 敵が攻めてきたわけではない。

 黒い紙片が燃え上がったわけでもない。

 誰かの名前が消えたわけでもない。


 それなのに、空気は重い。


 理由は分かっている。


 助けて。


 その三文字を受け取ってしまったからだ。


 昨日まで、扉の声は俺たちを試す存在だった。


 名を捨てろと言い、無名こそ自由だと言い、名前で傷ついた記憶をこちらへ突きつけてきた。


 けれど昨日、扉の声は相談票に書いた。


 ――助けて。


 その瞬間から、こちらの立場も変わった。


 相手は危険な存在だ。

 第四の系統に関わる、不明な干渉源だ。

 油断すれば、名前も才能名も揺らされる。


 でも同時に、相談者になった。


 保護印、扉。


 本人名、非開示。


 呼称、発話不可。


 状態、不要ではなく未定。


 そして、助けを求めた。


 俺たちはそれを受け取った。


 だからこそ、次に何を返すのかを間違えてはいけない。


「まず確認します」


 ユリアナ先輩が、机の中央に昨日の相談記録を置いた。


 文字は丁寧に整理されている。


 保護印:扉。

 筆談相談継続。

 基本応答語確認。

 相談者、「助けて」と記入。

 相談窓口、「届きました」と返答。


 ユリアナ先輩はその最後の一行を指で示した。


「私たちは“届きました”と返しました。これは、助けると約束したことではありますが、すべてを即座に解決するという意味ではありません」


 セリカさんが腕を組む。


「でも、助けてって言われたら、助けるんでしょ」


「はい。助けます。ただし、何を助けるのかを本人の代わりに決めてはいけません」


「そこか」


「はい」


 リリアが静かに頷いた。


「助けてと言われたからといって、すぐ本当の名前を探すのは違うと思います」


「俺もそう思います」


 俺は胸元の確認票に触れた。


 レン・クロフォード。

 才能名、未定。


 自分の名前を確認してから、続ける。


「扉の声は、まだ本当の名前を聞かれたくない。『問うな』と何度も言っています。助けてと書いたからって、その境界線を越えていい理由にはならない」


 アイリスが窓際で小さく頷いた。


「助けてと言った人に、さらに耐えられないことをさせるのは助けではありません」


 その言葉は静かだったが、重かった。


 氷のように冷たいのではない。

 触れると、自分の熱が分かるような静けさだった。


 ノエルは記録板を開き、昨日からの反応推移を示した。


「第四の系統反応、変化あり。以前は侵食型、置換型、欠落型が強かった。今は一部、相談型に近い」


「相談型?」


 セリカさんが眉を上げる。


「分類名は仮」


 ノエルは小さく補足した。


「でも、攻撃より問い。置換より筆談。奪うより確認。そういう反応が増えてる」


「それは、危険が減ったってこと?」


「まだ違う。危険の種類が変わった」


 ノエルは記録板を指で叩いた。


「攻撃してくる相手なら、防ぐ。相談してくる相手なら、聞く。でも、相談の形をした干渉もあり得る。だから警戒は必要」


 ユリアナ先輩が頷く。


「その通りです。今後の対応では、扉の声を敵性対象だけとして扱わず、しかし完全な安全対象としても扱わない。支援対象、かつ要観測対象として記録します」


「硬いけど、正しいですね」


 俺が言うと、ユリアナ先輩は少しだけ目を伏せた。


「硬い言葉にしなければ、守れない場面もありますので」


 リリアがそっと微笑んだ。


「でも、言葉の中身は優しいです」


「……ありがとうございます」


 ユリアナ先輩の耳がほんの少し赤くなった。


 ミュレアの通信水晶が光る。


『ふむ。助けてと言われた後、即座に救済を押しつけぬ。悪くない判断じゃ』


「ミュレアは、今日は茶化さないんですね」


『茶化すにも時と場合がある。助けを求めた者の前で、最初から菓子の話をするほど妾は無粋ではない』


 そこで一拍置いて。


『相談が終わった後なら菓子二品じゃが』


「一品です」


 リリアが即答した。


『待て、今のはかなり我慢した方じゃろう!』


「我慢できたので一品です」


『報酬が増えぬ!?』


 相談室に少し笑いが戻る。


 でも、すぐに机の上の相談票へ視線が戻った。


 助けて。


 その言葉は、まだそこに残っている。


     ◇


 ユリアナ先輩は新しい紙を用意した。


「では、支援計画を作ります」


「支援計画」


 俺が繰り返すと、ユリアナ先輩は頷いた。


「はい。扉の声に対して、私たちが何をするのか、何をしないのかを整理します」


「何をしないのかも?」


「重要です」


 リリアがすぐに言った。


「今の扉の声には、しないことの約束が必要だと思います。本当の名前を聞かない。嫌だと言ったら止まる。不要とは呼ばない。助けてと言ったことを、取引にしない」


 セリカさんが強く頷く。


「それ。助けてって言わせたなら、こっちも途中で投げない。でも、だからって従えとは絶対に言わない」


「はい」


 俺は紙の余白を見つめた。


「助けてと言われた後に、こちらが勝手に動きすぎるのも危険ですね」


「はい」


 ユリアナ先輩はペンを走らせた。


 支援対象:保護印・扉。

 支援目的:呼称選択権の回復、存在否定呼称からの保護、基本応答語の再学習、相談継続の安全確保。

 禁止事項:本人名の強制確認、保護印の発話呼称、拒否後の追及、助けを取引化すること、不要・機能・危険等の存在否定的分類での呼称。

 支援形式:筆談相談を基本。夢接触は安全確認後、短時間。

 緊急対応:名前欠落・無名化干渉が強まった場合、王宮結界および守護氷結で遮断。


 ノエルが横から追加する。


「反応分類も入れる」


「お願いします」


「攻撃型、問い型、相談型、自己否定型。まだ仮分類」


 ユリアナ先輩が記録に加える。


 リリアは、支援目的の欄を見つめてから、静かに言った。


「もう一つ、入れてほしいです」


「何でしょう」


「安心して続けられる場所を作ること」


 ユリアナ先輩が顔を上げる。


「安心して続けられる場所」


「はい。扉の声は、助けてと書きました。でも、助けてと言った後に何が起きるかを知らない。もしかすると、助けを求めた瞬間に命令されたり、利用されたり、捨てられたりしてきたのかもしれません」


 リリアの声は柔らかい。


 けれど、言葉は深く刺さる。


「だから、最初に必要なのは解決ではなく、ここに戻ってきても大丈夫だと知ることだと思います」


 セリカさんが少しだけ目を細めた。


「リリアらしいわね」


「そうでしょうか」


「うん。でも、それがたぶん一番大事」


 アイリスも頷いた。


「助けてと言った後、すぐ強くならなくていい場所。必要です」


 ノエルが記録板に書く。


「支援目的追加。継続可能な安全な場」


 ミュレアが低く言う。


『よい。扉という保護印を選んだ者に、こちらも戸口を閉めぬと示すわけじゃな』


「また上手いことを」


『妾は常に上手い』


「甘味は」


「一品です」


 俺が言うより早く、リリアが答えた。


『なぜ先回りする!』


「安心して続けられる場所にも、体調管理は必要です」


『妾の甘味管理は扉の声と関係なかろう!』


「あります。相談室全体の健康管理です」


『くっ、制度化されておる……』


 ミュレアが悔しそうに唸る。


 このやり取りも、ある意味で相談室の安全な場を作っているのかもしれない。


 重い話ばかりでは、人は立っていられない。


     ◇


 昼前、受付箱が静かに光った。


 全員が会話を止める。


 箱の中には、また相談票が入っていた。


 保護印、扉。


 呼称不可。


 相談内容欄には、新しい文字が浮かんでいる。


 ――助けてと言った後、何をすればいい。


 リリアが、ほんの少し息を呑んだ。


「来ましたね」


 ユリアナ先輩が頷く。


「はい。予想より早いです」


 ノエルが測定具をかざす。


「反応、相談型。攻撃性低い。自己否定反応は薄いけど、不安定」


「不安なんでしょうね」


 俺は相談票を見つめた。


 助けてと言った後、何をすればいい。


 その問いは、あまりにも切実だった。


 助けてと書いた。

 ありがとうも書いた。

 それで次は何を差し出せばいいのか。

 何を命じられるのか。

 何を返さなければならないのか。


 扉の声は、まだ助けを取引として見ているのかもしれない。


 俺はペンを持とうとした。


 だが、リリアが先にそっと手を出した。


「私が書いてもいいですか」


「もちろんです」


 リリアはゆっくりと文字を書いた。


 ――助けてと言った後、すぐに何かをしなくても構いません。

 ――命令を待つ必要もありません。

 ――何かを差し出さなければならないわけでもありません。

 ――まず、助けてと言えたこと自体が大事です。

 ――今日は、少し休んでも構いません。


 紙が灰色に光る。


 返答はすぐに来なかった。


 長い沈黙。


 セリカさんが小さく言った。


「今の、かなり効いてそう」


「効いている?」


「何もしなくていいって言われるの、慣れてない人ほど固まるから」


 それは分かる。


 俺にも覚えがある。


 休んでいいと言われても、何をしていいか分からない。


 助けを受け取っていいと言われても、どう返せばいいか分からない。


 何もしないでいること自体が怖い。


 やがて、相談票に文字が浮かんだ。


 ――何もしなければ、不要になる。


 やはり、そこに戻る。


 不要。


 存在否定呼称。


 リリアの目が少し揺れる。


 けれど、彼女は落ち着いていた。


「次は、セリカさんがいいと思います」


「私?」


「はい。今の言葉には、セリカさんの方が届く気がします」


 セリカさんは一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、少し乱暴にペンを取る。


 ――何もしない時間があっても、不要にはならない。

 ――ずっと働いていないと存在してはいけないなんて、そんな決まりはない。

 ――助けてと言った直後に働けと言う方がおかしい。

 ――まず止まれ。息をしろ。


 文字が強い。


 でも、今の扉の声にはこのくらい強い言葉も必要かもしれない。


 紙が光る。


 しばらくして。


 ――止まる。


 ――息。


 その二語が浮かんだ。


 ノエルがすぐに記録する。


「反応、安定方向。セリカの強い指示、今回は有効」


「今回はって何」


「毎回ではない」


「正直ね」


 少し笑いが生まれる。


 その笑いのあと、相談票にまた文字が出た。


 ――息をすることは、仕事か。


 セリカさんが固まった。


 リリアが目を伏せる。


 アイリスの氷結界が淡く光る。


 俺は、胸の奥が重くなった。


 息をすることすら、仕事かどうかで測る。


 扉の声は、どれほど機能として扱われてきたのだろう。


 ノエルがペンを取った。


 ――息をすることは、仕事ではありません。

 ――生きている状態です。

 ――役に立つために息をするのではありません。

 ――息をしているから、あとで何かを選べます。


 紙が光る。


 返答。


 ――生きている状態。


 その文字は、少し不器用だった。


 でも、確かに紙の上に残った。


     ◇


 ユリアナ先輩が、支援計画の紙を見ながら言った。


「今日の対応方針は明確です。助けての後に、義務を増やさない。命令を与えない。返済を求めない」


「では、何をするんですか?」


 俺が聞くと、ユリアナ先輩は静かに答えた。


「休む許可を出します」


「許可……」


「はい。ただし、これも命令にならないように注意します」


 リリアが頷いた。


「休みなさい、と命じるのではなく、休んでも構いません、と伝える」


「難しいですね」


「はい。でも大切です」


 アリシア様の通信が入る。


『王宮でも、休めと言われることが命令になる場合があります。休息すら評価対象になると、人は休めなくなります』


「王宮、大変ですね」


『はい。ですが、学園も似たところがあるでしょう』


 ユリアナ先輩が少しだけ苦笑した。


「耳が痛いです」


 セリカさんがすかさず言う。


「だからユリアナも休憩ね」


「……はい」


 ノエルも小さく頷いた。


「私も一時間休む予定」


「予定じゃなくて確定です」


 リリアが言うと、ノエルは素直に頷いた。


「確定」


 ミュレアが通信越しに笑う。


『扉に休めと教える前に、相談窓口が休めておらぬではないか』


「本当にそれですね」


 俺が言うと、全員が少しだけ気まずそうになった。


 自分たちができていないことを、扉の声に伝えようとしている。


 それは確かに矛盾だ。


 でも、その矛盾に気づけるだけ、前よりましなのかもしれない。


 ユリアナ先輩が即座に書類を追加した。


「相談窓口運用規則に、対応者の休憩義務を入れます」


「本気で制度化した」


 セリカさんが呆れる。


「必要です」


「まあ、そうね」


 リリアが嬉しそうに頷く。


「とても必要です」


 ノエルが小さく言う。


「逃げ道がない」


「休むための逃げ道は必要ですが、休まない逃げ道は塞ぎます」


 リリア、強い。


 そのやり取りをしていると、相談票に新しい文字が浮かんだ。


 ――休む者も、相談者か。


 俺たちは顔を見合わせた。


 リリアがペンを取る。


 ――はい。

 ――休んでいる間も、相談者です。

 ――何かを書いていない時間も、相談は終わっていません。

 ――続けるかどうかも、あなたが選べます。


 紙が光る。


 返答。


 ――続ける。


 少し間を置いて。


 ――今は、止まる。


 相談室の空気が、ふっと緩んだ。


 止まる。


 それは、終わるではない。


 捨てられるでもない。


 休む、に近い。


 セリカさんが小さく笑った。


「いいじゃない。止まる」


「はい」


 リリアも微笑む。


「今日は、そこでいいと思います」


 ユリアナ先輩が記録する。


 保護印:扉。

 第三回筆談相談。

 主題:助けを求めた後の行動。

 確認事項:助けての後に即時返済・命令待機・労働義務は不要。休止中も相談者として継続。

 相談者、「今は、止まる」と記入。


 ノエルが測定具を見る。


「反応、安定。自己否定低下。攻撃反応なし」


 アイリスの氷結界も静かに収まっていく。


「外部干渉はありません。相談票も安定しています」


 ミュレアが低く言う。


『よい。助けての次に、止まるを覚えたか』


 アリシア様も穏やかに続けた。


『大きな前進です』


     ◇


 相談票を封印箱に収めたあと、相談室には奇妙な疲労感が残っていた。


 戦ったわけではない。


 魔物を倒したわけでもない。


 ただ、紙に言葉を書き、返事を待ち、また書いただけだ。


 それなのに、体の芯が重い。


 言葉を扱うというのは、こんなにも体力を使うことなのか。


 リリアが俺を見た。


「レン、今日は休みましょう」


「はい」


 反射で答えると、セリカさんが笑った。


「本当に素直になったわね」


「扉の声に休んでもいいって言った手前、俺が休まないわけには」


「いい傾向」


 ノエルが頷く。


「実践」


 ユリアナ先輩も書類を閉じた。


「本日の相談窓口は、緊急対応を除いて早めに閉めましょう」


「ユリアナ先輩がそれを言うとは」


「制度化しましたので」


 強い。


 制度化された休憩は強い。


 アイリスが窓際の氷結界を片付けながら言った。


「止まることは、終わることではない。今日、私も覚えておきます」


 その言葉に、みんなが静かに頷いた。


 俺は封印箱を見つめる。


 扉の声は、助けてと言った後に、何をすればいいのか分からなかった。


 今日は、それに対して答えた。


 何もしなくてもいい。

 命令を待たなくてもいい。

 返済しなくてもいい。

 まず止まっていい。


 次はきっと、休むことそのものを問われる。


 休むとは何か。

 止まることと、捨てられることは違うのか。

 機能しない時間にも、存在していていいのか。


 重い問いになるだろう。


 でも、今日の扉の声は最後に書いた。


 今は、止まる。


 それなら俺たちも、いったん止まろう。


 続けるために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ