そして歯車は回りだす
翌朝、転校生はいつも通り中庭を歩いていた。昨日の出来事が頭をよぎる。
アレクサンドルの明るさと、レオンの冷静な忠告――そしてエリュシアの優雅さ。
(この学園……なんだか思った以上に複雑かも)
転校生は溜息をつきつつ、校舎へ向かう。だが、その道中で――
「おや、転校生さん。今日は一人かい?」
またしてもアレクサンドルが笑みを浮かべて近づいてきた。
「アレクサンドル様……おはようございます」
転校生は少し困ったように微笑んで返す。
「おはよう。そうだ、今日は君に少し楽しいことを教えてあげよう」
アレクサンドルは転校生の手を取り、強引に歩き出した。
「え、ええっ?」
戸惑う転校生を連れて向かったのは、学園内でも特に広い庭園だった。
「ここは学園の裏庭。普通の生徒はあまり来ない場所さ。……特に、あのエリュシアもね」
彼は意味深に笑う。
(エリュシア様のことを避けて……?)
転校生の胸に不安がよぎる。
「実はここ、僕が昔からよく使っている秘密の場所なんだ。君に特別に教えてあげるよ」
アレクサンドルは自信たっぷりに言いながら、ベンチに腰掛けた。
「わざわざ私に……どうしてですか?」
転校生は疑問を口にした。
「君は……なんだか他の生徒とは違う。気取らないし、貴族らしさを誇示しない。でも、だからこそ……興味が湧くんだよ」
アレクサンドルの赤い瞳が転校生を見つめ、その視線に思わず息を呑む。
(この人……もしかして私を……?)
だが、その瞬間、木陰から静かな声が響いた。
「アレクサンドル様、そろそろお時間です」
レオンが姿を現し、軽く一礼する。
「ふむ、また君か。君は本当に優秀だね、レオン」
アレクサンドルは軽くため息をつきつつ立ち上がった。
「申し訳ありません。ですが、エリュシア様が生徒会の仕事でお待ちです」
「……分かったよ。転校生さん、また後でね」
アレクサンドルは最後にウインクし、レオンと共に去っていった。
その背中を見送る転校生は、どこか胸の鼓動が速くなるのを感じた。
(アレクサンドル様……でも、エリュシア様は……)
その日の生徒会室では、エリュシアが厳しい表情で書類に目を通していた。
扉が開き、アレクサンドルが軽い足取りで入ってくる。
「よう、エリュシア。今日はご機嫌麗し……」
「アレクサンドル様」
鋭い声がアレクサンドルの言葉を遮る。
「……なんだい、その顔は」
「学園内での振る舞いについて、少しお話ししたいことがあります」
エリュシアは冷ややかな視線で彼を見つめた。
「あなたは私の婚約者であり、生徒会長である私の補佐を務める立場です。それにも関わらず……転校生にばかり関心を向けているのはどういうおつもりですか?」
「おや、君が嫉妬するなんて珍しい」
アレクサンドルは笑みを浮かべたが、その表情はどこか挑発的だ。
「嫉妬? いいえ、私は学園の秩序を守る立場として……」
「なら問題ないだろう? 君は生徒会をしっかり仕切ってくれればいい。僕は僕で楽しませてもらうよ」
「アレクサンドル様!」
思わず声を荒げたエリュシアに、アレクサンドルはふっと冷たい笑みを見せた。
「君には分からないだろうね、退屈な毎日から抜け出したいというこの気持ちが」
彼は肩をすくめ、踵を返した。
エリュシアは震える拳を握りしめ、彼の背中を睨んだ。
(どうして……どうして彼はあの転校生に……!)
その瞳には嫉妬と怒りが入り混じり、心の奥底で冷たい闇が芽生え始めていた。
****
次の日、転校生は教室でノートを開きながら、周囲の視線を感じていた。
ひそひそと囁かれる声、時折向けられる好奇の目。
落ち着かない気持ちでノートに視線を落とすが、内容が頭に入ってこない。
その時、背後から明るい声がかけられた。
「やあ、転校生さん!」
振り返ると、爽やかな笑みを浮かべた少年が立っていた。
茶色の髪に優しげな瞳、どこか親しみやすい雰囲気を纏っている。
「えっと……」
「ああ、自己紹介がまだだったね。僕はクラウス。君と同じクラスだよ」
「クラウスさん……よろしくお願いします!」
転校生が笑顔を返すと、クラウスも嬉しそうに頷いた。
「それにしても、君ってすごいね。転校してきたばかりなのに、もう学園の話題の中心だ」
「えっ?」
「ほら、アレクサンドル様とエリュシア様。君に関わってから二人の関係がどうも……」
クラウスは少し声を潜め、周囲を気にしながら言葉を続けた。
「まあ、僕は気にしないけどね。でも、君が困っているなら助けるよ」
クラウスの言葉の意味はあまり良くわからなかったけれど、自分を思いやってくれているようだ。転校生はその事実に胸が温かくなった。
「ありがとう、クラウスさん」
だがその時、教室の扉が勢いよく開かれた。
「転校生さんはいらっしゃる?」
現れたのはエリュシアだった。
普段の優雅さは変わらないが、その表情にはどこか焦燥が見えた。
「エリュシア様……?」
「少し、あなたとお話しがしたいの。いいかしら?」
エリュシアの視線は転校生を鋭く捉えている。
クラウスは少し驚いたように二人を見比べた。
「転校生さん……どうする?」
「え、えっと……」
戸惑いながらも、転校生はゆっくりと立ち上がった。
「大丈夫よ。ちょっと話したいことがあるだけだから」
エリュシアは優雅な微笑みを浮かべているが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
エリュシアに連れられ、転校生は学園の廊下を歩いていた。
重苦しい沈黙が続き、転校生はますます不安を感じる。
(私……何か悪いことをしたのかな?)
やがて二人は人気のない中庭へと辿り着いた。
エリュシアは振り返り、静かに口を開いた。
「……あなた、アレクサンドル様とどんな関係なの?」
「え? 私と……アレクサンドル様は、ただの……」
「ただの何? 友人? それとも、恋人?」
その言葉に転校生は驚き、思わず首を振った。
「そ、そんな……ただ親切にしていただいてるだけで……!」
「本当に?」
エリュシアの瞳は冷たく鋭く、まるで転校生の心の奥を見透かそうとするかのようだ。
「あなたがここに来てから、アレクサンドル様は変わった。生徒会の仕事も疎かにし、私との約束も守らなくなった」
「そ、それは……」
「あなたのせいよ」
その言葉は鋭い刃のように突き刺さった。
「違います! 私は……私はそんなつもりじゃ……!」
「そう。あなたは無自覚で、ただ人の心を惑わせている」
エリュシアは冷ややかな微笑みを浮かべ、転校生に背を向けた。
「……この学園で平穏に過ごしたいのなら、無闇に人と関わらないことね」
その言葉を最後に、エリュシアは静かに立ち去っていく。
転校生はその場に立ち尽くし、胸の中に広がる不安と孤独に身を震わせた。