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第7章:月夜の潜入作戦

 深夜。聖水製造施設「天空の雫」の裏口は、分厚い闇のベールに包まれていた。

 月明かりだけが、僕の心許ない足元をぼんやりと照らしている。

 

 まったく、科学者である僕が、こんな真似をする羽目になるとは。

 人生とは、かくも予測不可能な実験の連続らしい。


「くそっ、この錠前、思ったより厄介だぞ……!」


 僕は息を潜め、自作のピッキングツール――まあ、研究室に転がっていた針金と金属片を適当に曲げただけの代物だが――を、施設の裏口の古めかしい鍵穴に差し込み、悪戦苦闘していた。

 内部構造の調査と、あわよくば責任者ハンナ・ミューラー女史の研究資料の入手。

 それが、僕がこの危険な賭けに出た理由だ。

 バートランド次官の妨害を考えれば、もはや正攻法は通用しない。


 カチャカチャ……ギリリ……。

 額に汗が滲む。

 焦燥感と、万が一見つかった場合のことを考えると、心臓がドラムソロでも演奏しているかのように激しく脈打つ。

 普段、試験管を相手にしている僕の繊細な指先は、こんな荒事には向いていないのだ。

 ああ、早くも後悔の念が……。


 その時だった。


「――おい、今の物音はなんだ?」

「気のせいだろう。こんな真夜中に、物好きなネズミでも迷い込んだんじゃないのか?」


 まずい!  巡回中の警備兵の声だ!

 しかも、足音はどんどんこちらに近づいてくる!


 僕は顔面蒼白になり、ピッキングツールを握りしめたまま、壁に張り付くようにして身を固くした。

 進退窮まる。

 

 ここで捕まれば、スパイ容疑で地下牢行き間違いなしだ。

 僕の輝かしい(はずだった)科学者人生が、こんなところで終わってたまるか!


 万事休すか!  と、僕が文字通り観念しかけた瞬間だった。


 にゅっ、と背後から白い手が伸びてきて、僕の口を素早く、しかし驚くほど力強く塞いだのだ。

 同時に、もう片方の手が僕の体をぐいっと引き寄せ、近くの資材置き場の物陰へと引きずり込んだ。

 

 抵抗しようにも、相手の動きはあまりに素早く、そして何より、ふわりと漂ってきたどこかで嗅いだことのある清らかな、しかし今は場違いな花の香りに、僕の思考は一瞬フリーズした。


 ザッザッ……と警備兵の足音がすぐそばを通り過ぎ、やがて遠ざかっていく。

 心臓が口から飛び出しそうだ。


 足音が完全に消えたのを確認すると、僕の口を塞いでいた手はそっと離された。


「……ぷはっ! あ、あなたは……!?」


 振り返った僕の目に飛び込んできたのは、フード付きの濃紺のマントで顔を隠した小柄な人影。

 マントの人物がフードをそっと外す。

 月明かりに照らし出されたその顔を見て、僕は言葉を失った。


 白銀に輝くプラチナブロンドの髪、澄み切ったアクアマリンの瞳。

 間違いない。


 聖女、セイナ様、ご本人だった。


「(小声で)あなたも、この施設の秘密を探りにいらしたのですね、レイン・ケイト様」


 セイナ様は、悪戯っぽく片目を瞑りながら、僕の名前を呼んだ。

 

 なぜ僕の名前を?

 いや、それよりも、なぜ聖女様ご自身がこんな場所に?

 

 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。


「せ、聖女様!?  な、なぜあなたが……! それに、なぜ僕の名前をご存じで……?」

 

 僕の声は、驚きと警戒心と、そしてほんの少しの期待(何を期待しているんだ僕は)で上擦っていた。


「今は、あれこれ詮索している場合ではございませんわ。ケイト様。私も、あの忌まわしき黄色い聖水の真相を、どうしてもこの手で突き止めたいのです。そして……もしや、あなたのような方なら、その手助けをしてくださるのではないか、と」

 

 セイナ様の瞳は、いつもの民衆に向ける慈愛に満ちたそれとは違い、真実を渇望する強い光を宿していた。

 その切実な眼差しに、僕は一瞬言葉を失う。


 聖女様と協力して秘密調査だと?


 前代未聞だ。

 危険極まりない。

 僕の乏しい常識が、全力で警鐘を鳴らしている。


 だが、彼女もまた、真実を求めている。

 そして、僕一人では、この施設の分厚い扉をこじ開けることすら覚束ないのもまた、事実だ。


 僕の中で、科学者としての探究心と、保身という名の臆病さが、最後の戦いを繰り広げた。

 結果は……まあ、言うまでもないだろう。

 

「……わかりました、セイナ様。目的は、どうやら同じようです。一時的に……ええ、あくまで一時的ですが、協力いたしましょう。ただし、僕の科学的な調査の邪魔だけは、決してしないでいただきたい」


 我ながら、ずいぶんと上から目線な物言いになってしまった。

 だが、セイナ様は少しも気にした風はなく、むしろ楽しそうに微笑んだ。

 

「望むところですわ、ケイト様」

 

 と、彼女は悪戯っぽく舌をペロリと出した。

 ……い、今の、聖女様が……?

 僕の脳内メモリが、許容量を超えてショートしそうだ。


 二人の間には、まだ互いへの警戒心と疑念が渦巻いていた。

 だが、今は一つの共通の目標――「真実の究明」――に向かって、視線を交わす。


 さて、問題はあの忌々しい裏口の鍵だ。

 僕の自作ピッキングツールでは、夜が明けるまでに開けられるかどうか……。


 と、僕が再び悪戦苦闘を始めようとしたその時。


「あら、そのような原始的な道具で、いつまでかかっておいでですの?」


 セイナ様はそう言うと、自分の豊かな髪の中から、するりと一本の細長い金属製の髪飾りを引き抜いた。

 それは、ただの髪飾りではなかった。

 先端が複雑な形状をしており、一見して特殊な道具であることがわかる。


 セイナ様は、その髪飾りを鍵穴に差し込むと、慣れた手つきで数回ひねった。


 カチャリ。


 いとも簡単に、あの僕を散々苦しめた頑固な錠前が、あっけないほど軽い音を立てて開いたのだ。


 僕は、あんぐりと口を開けて、その光景をただ見つめていた。


 聖女様……恐るべし。


 その可憐な外見からは想像もつかない、意外なスキルをお持ちのようだ。


「さあ、参りましょう、ケイト様。私たちの知らない『真実』が、この暗い施設の奥で、きっと私たちを待っていますわ」


 セイナ様は、僕に悪戯っぽく微笑みかけると、ためらうことなく闇の中へと足を踏み入れた。

 僕は、まだ状況が飲み込めていない頭で、しかし確かに高鳴る胸の鼓動を感じながら、聖女様の後に続いた。


 こうして、僕と聖女様の、奇妙で、危険で、そして多分に下世話な疑惑に満ちた共同調査が、まさに闇の中で、その第一歩を踏み出したのだった。



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