第6章:閉ざされた扉
聖水製造施設「天空の雫」の資料管理室で、僕は事実上の門前払いを食らった。
いや、門前払いというよりは、巨大な綿壁に全力で頭突きをかましたような、そんな手応えのない徒労感と鈍い頭痛だけが残った。
これみよがしに提示されたバートランド次官の「立ち入り許可証」も、どうやら「資料閲覧し放題フリーパス」ではなかったらしい。
ケチだ。実にケチ臭い。
「『最高機密扱い』ねえ……。一体何をそんなに隠す必要があるんだか」
自室の研究室に戻った僕は、怒りと諦めと、そしてほんの少しの恐怖がごちゃ混ぜになったため息をついた。
机の上には、昨夜から僕を散々苦しめている「黄色い液体X」の分析結果が記された羊皮紙が、まるで僕の無能さを嘲笑うかのように鎮座している。
『アンモニア:陽性(高濃度)』
『尿素様物質:陽性(極めて高濃度)』
何度見直しても、データは冷酷なまでに同じ結論を指し示していた。
これは、限りなく「アレ」に近い。
いや、ほぼ「アレ」そのものだ。
しかし、僕の脳裏には、幼い頃に僕を救った聖水の、あの清らかで温かい記憶がこびりついている。
このデータと、あの記憶。
どちらかが間違っている。
そして僕は、それがデータの方であってほしいと、心のどこかで必死に願っている自分に気づいていた。
科学者失格かもしれないな、こんなことでは。
「よう、ケイ。顔色が土気色だぞ」
ひょっこり顔を出したのはレオだった。
手にはまたしても差し入れのパン。
こいつの友情だけが、今の僕の唯一の癒しかもしれない。
「聞いてくれ。聖浄省は、まともに調査する気がないらしい。資料はことごとく閲覧拒否、関係者は口を揃えて『知らない、分からない』だ。まるで巨大な隠蔽工作だよ、これは」
僕はヤケクソ気味に、事の経緯をレオにぶちまけた。
レオは最初こそ面白半分に聞いていたが、僕の剣幕と話の深刻さに、次第に顔色を変えていった。
「……つまり、ケイ。お前は、あの黄色い液体が『例のアレ』である可能性が極めて高い、というデータを握ってしまった。だが、お偉いさん方はそれを『聖水は清浄である』と強引に『証明』しろ、と。そして、そのための追加調査も妨害されている、と。そういうことか?」
レオの的確な要約に、僕は力なく頷いた。
「ああ、そういうことだ。八方塞がりだよ」
「おいおい、洒落になってないぞ、それ。下手に逆らったら、お前、秘密の地下牢で液体肥料にされちまうかもしれないじゃないか!」
「縁起でもないことを言うな。だが、このままじゃ僕の科学者としてのプライドが、それこそ液体化して蒸発してしまいそうだ」
僕は窓の外に目をやった。
王都の街は、相変わらず喧騒に包まれている。
しかし、その喧騒の質が、数日前とは明らかに異なっていた。
このままでは、聖女セイナ様の名誉が失墜するだけでは済まない。
王国の秩序が乱れ、民衆の心が離れていく。
僕が信じた「聖水の奇跡」も、単なる集団ヒステリーか、巧妙な詐欺だったということになってしまう。
それは、嫌だ。
だが、どうすればいい?
公式なルートは、ほぼ絶望的だ。
バートランド次官が裏で糸を引いている限り、まともな調査などできはしない。
「……こうなったら、最後の手段だ」
僕は呟いた。
レオが「おい、まさか……」と不安そうな顔をする。
「聖水製造施設『天空の雫』……。あそこに直接忍び込んで、この目で製造プロセスを確認し、そして何より、責任者であるハンナ・ミューラー女史の研究資料を探し出す。それしか、真実に辿り着く道は残されていない」
我ながら無謀極まりない計画だとは思う。
警備は厳重だろうし、見つかればただでは済まない。
だが、この胸に渦巻く疑念と、真実への渇望は、僕を臆病な研究室の住人から、危険を顧みない(かもしれない)探求者へと変えつつあった。
「無茶だ、ケイ! お前、そんな特殊工作員みたいなスキル、持ってないだろ!」
「ああ、持っていない。だが、僕にはこれがある」
僕は、白衣のポケットから、あり合わせの金属片や針金を組み合わせて作った、粗末なピッキングツールを取り出して見せた。
まあ、研究室の古びた薬品棚の鍵を開けるのに、昔ちょっと練習した程度の代物だが、ないよりはマシだろう。たぶん。
「科学者としての僕の最後の実験だ。仮説は立てた。あとは、それを検証するのみ」
僕の目には、かつてないほど強い光が宿っていた。
……と、自分では思っている。
レオは相変わらず「やめとけって、絶対ろくなことにならないぞ」と頭を抱えていたが、もう僕の決意は揺るがない。
今夜、決行だ。
閉ざされた扉の向こうにある「真実」を、この手でこじ開けてやる。
たとえその先に、僕が知りたくなかった残酷な現実が待ち受けていようとも。
それが、僕、レイン・ケイトの、科学者としてのけじめのつけ方だ。
……ちょっと格好つけすぎかもしれないけど。