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第5章:開かずの資料室

 バートランド次官の執務室から解放された(というより、新たな鎖に繋がれたと言うべきか)僕は、文字通り飛ぶようにして王立医科学院の自分の研究室へと戻った。

 幸い、昨日の儀式で混乱の中、僕は個人的に「黄色い液体X」のサンプルを数本確保していたのだ。

 もちろん、純粋な科学的探究心と、将来的な研究資料のためであって、決してやましい気持ちからではない。


「『証明』か……」


 次官の言葉が、まるで呪いのように頭の中で反芻される。

 

 聖水が清浄であることを証明しろ、だと?

 

 馬鹿を言え。

 科学とは、客観的な事実を積み重ね、そこから導き出される結論を謙虚に受け入れる行為だ。

 最初から結論が決まっているのなら、それはもう科学ではなく、プロパガンダか、もっと悪質な詐術だ。


 だが、僕には選択肢がなかった。

 ここで次官の意に逆らえば、僕の研究生命は終わる。

 それだけは避けたい。

 

 それに、万が一、本当に何かの汚染や間違いだったとしたら?


 それを明らかにすることで、聖女様の名誉を守れるのなら……。


 僕は複雑な思いを胸に、白衣の袖をまくり上げた。

 目の前には、昨日持ち帰った問題のサンプルが試験管立てに並んでいる。

 その禍々しい黄金色は、何度見ても僕の神経を逆なでする。

 

「よし、やるか。僕の目と、この最新鋭の(自作だけど)分析装置群が、お前の正体を丸裸にしてやる」


 僕はまず、液体のpH、比重、浸透圧といった基本的な物理特性から測定を開始した。

 続いて、遠心分離機にかけて沈殿物を分離し、その成分を顕微鏡で観察。

 さらに、様々な試薬を用いて段階的な化学反応を試し、含有物質の特定を試みる。

 蒸留、滴定、比色分析……僕の知る限りのあらゆる分析手法を駆使し、フラスコやビーカーと無言の対話を続ける。


 ◇

 

「おーい、ケイ、まだやってたのか?  もう夜中だぞ。これ、差し入れ」

 

 いつの間にか研究室に入ってきていたレオが、呆れたような、しかしどこか心配そうな顔で、パンとミルクを差し出してきた。

 どうやら僕は、またしても時間を忘れて没頭していたらしい。

 レオの存在に気づいたのは、彼が僕の肩を叩くまでだった。


「……すまない、集中していて。ありがとう」


 僕はパンをひとかじりしながらも、視線は手元の滴定装置の目盛りから離さない。


「……で、どうなんだ?  例の『聖水』の正体は。やっぱり何かの間違いだったのか?」


 レオが、興味と不安が半々といった顔で尋ねてくる。


「まだだ。まだ結論を出すには早すぎる。だが……」


 僕は言葉を濁した。

 口に出すには、あまりにも不都合なデータが、既に出始めていたからだ。


 レオが帰った後も、僕は黙々と分析を続けた。

 窓の外が白み始め、朝日が研究室に差し込む頃、僕はついに、全ての分析結果を一枚の羊皮紙にまとめた。

 そして、その結果を前に、僕は文字通り愕然として固まった。


 羊皮紙には、僕の震える手で書かれた文字が並んでいた。

 

『サンプル:聖水(とされる黄色液体)』

『アンモニア検出:陽性(高濃度)』

『尿素様物質検出:陽性(極めて高濃度)』

『クレアチニン類似物質検出:陽性(微量ながら有意な値)』

『リン酸塩、塩化物イオン、カリウムイオン:尿の基準値と酷似』

『その他微量有機化合物:尿特有の代謝物と推定されるもの多数』


「…………そん……な……馬鹿な…………」


 声にならない声が漏れた。

 これは……どう見ても……人間の、あるいは何らかの動物の……尿の組成と、あまりにも、あまりにも酷似している。

 いや、酷似どころではない。

 ほぼ一致していると言っても過言ではない。


 何かの間違いだ。きっとそうだ。


 僕の分析手順にミスがあったか、試薬が劣化していたか、あるいは装置の不具合か……。


 そうだ、そうでなければ説明がつかない!


 僕の脳裏に、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。

 重い熱病にうなされ、死の淵をさまよっていた僕。

 そこに現れた当時の聖女様が、そっと僕の口に含ませてくれた、一滴の液体。


 それは温かく、清らかな花の香りがして、そして何より、僕の体を内側から癒す不思議な力に満ちていた。

 あれが……あれがこんな、こんな下劣な液体と同じもののはずがない!


「そうだ、製造記録だ!  聖水製造施設の品質管理データや、過去の成分データと比較すれば、今回の異常性が証明できるはずだ!」


 僕は半ばパニックになりながら、バートランド次官から与えられた「聖水製造施設『天空の雫』への立ち入り許可証」をひっつかむと、研究室を飛び出した。


 息を切らして辿り着いた「天空の雫」の資料管理室。

 しかし、そこで僕を待ち受けていたのは、更なる絶望だった。

 

「申し訳ありません、ケイト様。製造記録の大部分は現在『最高機密扱い』となっておりまして、閲覧には聖浄省の特別許可が別途必要となります」

「品質管理データについても、責任者のハンナ・ミューラー様が不在のため、現在どこに保管されているか不明でして……」

「過去の成分データですか?  さあ……そのようなものが存在したかどうかすら、私ども下級職員には……」


 にべもない、木で鼻を括ったような対応。

 まるで示し合わせたかのように、誰もが「知らない」「分からない」「権限がない」を繰り返すばかり。


 これが、バートランド次官の言っていた「可能な限りの協力」とやらの実態か!


 僕は、聖浄省という巨大な組織が、何かを隠蔽しようとしているのではないか、という強い疑念を抱かずにはいられなかった。

 これは単なる汚染事故などではない。

 もっと根深い、何か巨大な嘘が、この「聖水」というシステムの根幹に巣食っているのかもしれない。


 僕は固く拳を握りしめた。

 バートランド次官の命令は「聖水が尿ではない証拠を見つける」ことだった。

 だが、僕の科学者としての魂は、それとは正反対の結論を、冷徹なデータとして突き付けてきている。


 そして、僕の心は決まった。


 見つけ出すのは「尿ではない証拠」ではない。

 僕が見つけ出すべきは、ただ一つ。


 「真実」だ。


 たとえそれが、どんなに残酷で、僕自身の信じるものを根底から覆すようなものであったとしても。


 僕の目には、かつて自分を救ってくれた聖水への複雑な感謝と、それを汚す可能性のあるあらゆるものへの怒り、そして何よりも、真実を求める科学者としての執念の炎が、静かに、しかし激しく燃え始めていた。

 

 このままでは終わらせない。絶対に。


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