第4章:科学者の良心という名の重荷
重厚なマホガニーの扉を前に、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
いや、正確には飲み込もうとして、乾いた喉ではそれが上手くいかなかった、というのが正しい。
扉の向こうには、この国の聖なる事柄を牛耳る聖浄省のナンバー2、バートランド侯爵閣下が鎮座しているのだ。
一介の、それも白衣が普段着の液体分析専門科学者である僕が、こんなVIPとお近づきになる日が来ようとは。
人生、何が起こるかわからない。
できれば、こういう面倒事は避けて通りたかったが。
「失礼いたします、レイン・ケイトです。お呼びにより参上いたしました」
執務室付きらしき、いかにも有能そうな秘書官に促され、僕はややこわばった足取りで室内へと進んだ。
そこは、豪華絢爛という言葉が生ぬるく感じるほどの空間だった。
壁一面の本棚には金装飾の施された分厚い書物が並び、床には異国情緒あふれる絨毯が敷かれ、窓からは王都を一望できる。
そして部屋の主であるバートランド次官は、巨大な執務机の後ろで、柔和としか言いようのない笑みを浮かべて僕を迎えた。
年は五十代後半だろうか。
恰幅が良く、その指にはこれみよがしに大きな宝石の指輪が光っている。
服装も、聖職者というよりは豪商か大貴族といった趣だ。
「君がレイン・ケイト君かね。噂はかねがね聞いておるよ。特に液体分析の分野においては、王立医科学院でも右に出る者はいない、と。若き天才の登場に、私も鼻が高い」
バートランド次官は、実に人好きのする笑顔でそう言った。
だが、その計算高そうな細い目だけは、全く笑っていない。
こういうタイプが一番信用ならない、と僕の危険察知センサーが警報を鳴らしている。
「あ、ありがとうございます、次官閣下。そ、それで……本日、僕にご用件と申しますのは……」
緊張のあまり、またしても吃音が出てしまった。
まったく、これだから権力者との面談は苦手なんだ。
試験管やビーカー相手なら、こんなことにはならないのに。
「うむ。単刀直入に言おう。ケイト君、君も承知の通り、昨日の聖水奉納の儀式で、由々しき事態が発生した」
次官の声のトーンが、わずかに低くなる。
笑顔は崩さないままだが、その奥に潜む冷徹さが垣間見えた気がした。
「聖女セイナ様が下賜された聖水が……その、遺憾ながら、通常とは異なる色を呈しておった。民衆の間では、あらぬ噂も流れているやに聞く」
あらぬ噂、ね。
具体的には「おしっこ」という単語が飛び交っているわけだが、さすがに次官閣下の御前でその単語を口にする勇気は僕にはない。
「あれは断じて、聖女様の御身に何か問題があったわけではない。これは断言できる。何らかの……そう、製造過程における偶発的な汚染、あるいは、もっと悪質な……外部の何者かによる、悪意ある妨害工作の可能性も捨てきれん」
次官は芝居がかった仕草でため息をついてみせた。
ふむ、これは「結論ありき」の捜査依頼というやつか。
厄介なことこの上ない。
「そこで君に頼みたいのだ、ケイト君。君の卓越した分析能力をもって、あの液体が『聖水としての清浄さを保っており、決して巷で噂されるような汚らわしいものではない』という科学的証拠を、迅速かつ明確に提示してもらいたい」
科学的証拠、ですか。
しかも「尿などではない」という結論をあらかじめ指定されるとは。
これはもう、科学というより政治だ。
僕の専門外だし、何より気が進まない。
僕は眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を選んだ。
「閣下。お任せいただけるのは光栄の至りです。もちろん、僕の持つ知識と技術の全てを注ぎ込み、全力を尽くす所存です。ですが……科学者として真実を明らかにするためには、いかなる予断も持たず、あらゆる可能性を客観的に検証する必要がございます。その結果が、必ずしもご期待に沿えるものになるとは……」
その瞬間、バートランド次官の笑顔が、ほんのわずかに、しかし確実に凍り付いた。
そして、次の言葉は、先ほどまでの柔和さが嘘のように、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。
「真実は一つだよ、ケイト君。聖女セイナ様は、常に清浄であらせられる。そして、聖水もまた然り。君の任務は、その自明の理を『証明』することだ。いいね? これは、このアクアティア王国の安寧と秩序、そして何より聖女様の御名誉がかかっているのだから。君のような聡明な若者なら、理解できるだろう?」
最後の「理解できるだろう?」という部分には、暗に「余計なことは考えるな」「逆らうな」というニュアンスが込められているのを、僕の乏しい対人スキルでも敏感に感じ取った。
これは脅迫に近い。
科学者としての良心が、この強引な要求に激しく抵抗している。
だが、ここで次官の意向に逆らえば、僕の研究生命はおろか、王立医科学院での立場すら危うくなるかもしれない。
それに、もし本当に外部からの妨害工作だとしたら、聖女様は被害者だ。
彼女の名誉を守りたいという気持ちも、嘘ではない。
僕の中で、天秤が激しく揺れ動いた。
真実の探求か、それとも組織の論理か。
ああ、頭が痛い。
こんな葛藤、フラスコの中の化学反応なら一瞬で結果が出るのに。
数秒間の、胃が締め付けられるような沈黙の後、僕は観念したように、そして不本意さを隠しきれない声で答えた。
「…………承知、いたしました。次官閣下。必ずや、科学の名において……聖水が清浄であることを、『証明』してみせます」
僕がそう言うと、バートランド次官は満足そうに深く頷き、再びあの胡散臭い、いや、人好きのする笑顔に戻った。
「さすがはケイト君、話が早くて助かる。期待しているよ、若き天才科学者殿。早速だが、聖水製造施設『天空の雫』への自由な立ち入りと、関連資料の閲覧許可を与えよう。必要な機材や人員も、可能な限り手配する。ただし……」
次官はそこで言葉を切り、僕の目をじっと見据えた。
「くれぐれも、余計な詮索はしないように。いいね?」
最後の釘の一刺し。
僕は無言で頷くしかなかった。
重い足取りで次官執務室を後にした僕の背中に、バートランド次官の満足げな視線が突き刺さっているのを感じた。
僕の肩には、いつの間にか「科学者の良心」という名の、ずっしりと重い荷物が乗っかっていた。
そしてその荷物は、どうやらそう簡単には下ろせそうにない。
まったく、ツイてないにも程がある。