表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/7

第4章:科学者の良心という名の重荷

 重厚なマホガニーの扉を前に、僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

 いや、正確には飲み込もうとして、乾いた喉ではそれが上手くいかなかった、というのが正しい。


 扉の向こうには、この国の聖なる事柄を牛耳る聖浄省のナンバー2、バートランド侯爵閣下が鎮座しているのだ。

 一介の、それも白衣が普段着の液体分析専門科学者である僕が、こんなVIPとお近づきになる日が来ようとは。


 人生、何が起こるかわからない。

 できれば、こういう面倒事は避けて通りたかったが。


「失礼いたします、レイン・ケイトです。お呼びにより参上いたしました」


 執務室付きらしき、いかにも有能そうな秘書官に促され、僕はややこわばった足取りで室内へと進んだ。


 そこは、豪華絢爛という言葉が生ぬるく感じるほどの空間だった。

 壁一面の本棚には金装飾の施された分厚い書物が並び、床には異国情緒あふれる絨毯が敷かれ、窓からは王都を一望できる。


 そして部屋の主であるバートランド次官は、巨大な執務机の後ろで、柔和としか言いようのない笑みを浮かべて僕を迎えた。

 年は五十代後半だろうか。

 恰幅が良く、その指にはこれみよがしに大きな宝石の指輪が光っている。

 服装も、聖職者というよりは豪商か大貴族といった趣だ。


「君がレイン・ケイト君かね。噂はかねがね聞いておるよ。特に液体分析の分野においては、王立医科学院でも右に出る者はいない、と。若き天才の登場に、私も鼻が高い」


 バートランド次官は、実に人好きのする笑顔でそう言った。

 だが、その計算高そうな細い目だけは、全く笑っていない。

 こういうタイプが一番信用ならない、と僕の危険察知センサーが警報を鳴らしている。


「あ、ありがとうございます、次官閣下。そ、それで……本日、僕にご用件と申しますのは……」

 

 緊張のあまり、またしても吃音が出てしまった。

 まったく、これだから権力者との面談は苦手なんだ。

 試験管やビーカー相手なら、こんなことにはならないのに。


「うむ。単刀直入に言おう。ケイト君、君も承知の通り、昨日の聖水奉納の儀式で、由々しき事態が発生した」

 

 次官の声のトーンが、わずかに低くなる。

 笑顔は崩さないままだが、その奥に潜む冷徹さが垣間見えた気がした。

 

「聖女セイナ様が下賜された聖水が……その、遺憾ながら、通常とは異なる色を呈しておった。民衆の間では、あらぬ噂も流れているやに聞く」


 あらぬ噂、ね。

 具体的には「おしっこ」という単語が飛び交っているわけだが、さすがに次官閣下の御前でその単語を口にする勇気は僕にはない。


「あれは断じて、聖女様の御身に何か問題があったわけではない。これは断言できる。何らかの……そう、製造過程における偶発的な汚染、あるいは、もっと悪質な……外部の何者かによる、悪意ある妨害工作の可能性も捨てきれん」

 

 次官は芝居がかった仕草でため息をついてみせた。

 ふむ、これは「結論ありき」の捜査依頼というやつか。

 厄介なことこの上ない。


「そこで君に頼みたいのだ、ケイト君。君の卓越した分析能力をもって、あの液体が『聖水としての清浄さを保っており、決して巷で噂されるような汚らわしいものではない』という科学的証拠を、迅速かつ明確に提示してもらいたい」


 科学的証拠、ですか。

 しかも「尿などではない」という結論をあらかじめ指定されるとは。

 これはもう、科学というより政治だ。

 僕の専門外だし、何より気が進まない。


 僕は眼鏡を押し上げ、慎重に言葉を選んだ。


「閣下。お任せいただけるのは光栄の至りです。もちろん、僕の持つ知識と技術の全てを注ぎ込み、全力を尽くす所存です。ですが……科学者として真実を明らかにするためには、いかなる予断も持たず、あらゆる可能性を客観的に検証する必要がございます。その結果が、必ずしもご期待に沿えるものになるとは……」


 その瞬間、バートランド次官の笑顔が、ほんのわずかに、しかし確実に凍り付いた。

 そして、次の言葉は、先ほどまでの柔和さが嘘のように、有無を言わせぬ圧力を伴っていた。


「真実は一つだよ、ケイト君。聖女セイナ様は、常に清浄であらせられる。そして、聖水もまた然り。君の任務は、その自明の理を『証明』することだ。いいね? これは、このアクアティア王国の安寧と秩序、そして何より聖女様の御名誉がかかっているのだから。君のような聡明な若者なら、理解できるだろう?」


 最後の「理解できるだろう?」という部分には、暗に「余計なことは考えるな」「逆らうな」というニュアンスが込められているのを、僕の乏しい対人スキルでも敏感に感じ取った。

 これは脅迫に近い。

 科学者としての良心が、この強引な要求に激しく抵抗している。


 だが、ここで次官の意向に逆らえば、僕の研究生命はおろか、王立医科学院での立場すら危うくなるかもしれない。

 それに、もし本当に外部からの妨害工作だとしたら、聖女様は被害者だ。

 彼女の名誉を守りたいという気持ちも、嘘ではない。


 僕の中で、天秤が激しく揺れ動いた。

 真実の探求か、それとも組織の論理か。


 ああ、頭が痛い。


 こんな葛藤、フラスコの中の化学反応なら一瞬で結果が出るのに。

 数秒間の、胃が締め付けられるような沈黙の後、僕は観念したように、そして不本意さを隠しきれない声で答えた。

 

「…………承知、いたしました。次官閣下。必ずや、科学の名において……聖水が清浄であることを、『証明』してみせます」


 僕がそう言うと、バートランド次官は満足そうに深く頷き、再びあの胡散臭い、いや、人好きのする笑顔に戻った。

 

「さすがはケイト君、話が早くて助かる。期待しているよ、若き天才科学者殿。早速だが、聖水製造施設『天空の雫』への自由な立ち入りと、関連資料の閲覧許可を与えよう。必要な機材や人員も、可能な限り手配する。ただし……」

 

 次官はそこで言葉を切り、僕の目をじっと見据えた。

 

「くれぐれも、余計な詮索はしないように。いいね?」


 最後の釘の一刺し。

 僕は無言で頷くしかなかった。


 重い足取りで次官執務室を後にした僕の背中に、バートランド次官の満足げな視線が突き刺さっているのを感じた。


 僕の肩には、いつの間にか「科学者の良心」という名の、ずっしりと重い荷物が乗っかっていた。

 そしてその荷物は、どうやらそう簡単には下ろせそうにない。

 まったく、ツイてないにも程がある。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ