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第3章:疑惑は市場を駆け巡り

「緊急の要件、ねえ……」


 聖浄省の使者が研究室を去った後、僕はレオが差し出してくれた(そしてすっかり冷めてしまった)肉まんを片手に、重い足取りで王立医科学院の廊下を歩いていた。

 バートランド次官からの呼び出し。

 聖浄省のナンバー2が、僕のような一介の研究員に、一体何の用だというのか。

 まあ、十中八九、昨日の「黄金色の液体X」騒動に決まっているのだが。


 それにしても、だ。

 僕の専門はあくまで液体の成分分析と、それに基づく科学的考察だ。


 事件の捜査や民衆の不安解消なんてのは、本来、騎士団や神官様のお仕事だろうに。


 なぜ僕が?


 思考がぐるぐる空転する間に、僕はいつの間にか王都の中央市場の近くを通りかかっていた。

 聖浄省へは、この市場を抜けていくのが一番の近道なのだ。

 普段なら活気に満ちているはずの市場も、今日はどこか様子がおかしい。

 品物を広げる露天商たちの声も心なしか小さく、行き交う人々は皆、ひそひそと何かを囁き合い、不安げな表情を浮かべている。

 明らかに、昨日の事件が暗い影を落としている。


「聞いたかい?  聖女様の聖水、実は……あれは……」

「まるで熟成されたエール……いや、もっとこう、直接的な……ねえ?」


 ああ、もう、耳が腐りそうだ。

 科学的根拠の欠片もない噂話が、ウイルスのように人々の間に感染していく。

 これだから集団心理というのは厄介なんだ。

 伝染速度だけは一流だが、その中身は推測と妄想と、ほんの少しの悪意で構成されている。


 さらに市場の奥へ進むと、今度は別の意味で目立つ一団がいた。

 華やかなドレスに身を包んだ令嬢たち。

 その中心で、ひときわ甲高い声でまくし立てているのは……元聖女候補のカミラ・ヴァーミリオン嬢じゃないか。

 確か、セイナ様との最終選考で敗れた腹いせに、ことあるごとにセイナ様を貶める噂を流していると評判の、実に分かりやすい悪役令嬢だ。


「奥様方! セイナ様も、本当はわたくしたちと同じ、ただの女の子なんですのよ。緊張なされば、お手洗いだって近くなるのは当然のこと。あの黄金色は、きっと日頃の不摂生と、緊張がもたらした、まあ、そういう……自然現象ですわ! やはり真の聖女は、心身ともに常に清浄なわたくしこそが相応しかったのです!」


 取り巻きたちが「まあ、カミラ様!」「さすがですわ!」と追従の声を上げている。

 僕は思わず立ち止まり、そのあまりの言い草に眩暈を覚えた。

 これはもう、個人の名誉に関わる問題だ。

 証拠もなしに、よくもまあそこまで断言できるものだ。

 彼女の自信はどこから来るのだろうか。

 一度、彼女の脳内構造を精密に分析してみたいものだ。


 そんなこんなで、僕の精神的MPは聖浄省にたどり着く前にレッドゾーンに突入しかけていた。

 巨大で荘厳な聖浄省の建物は、まるでこれから始まるであろう面倒事を象徴するかのように、僕の眼前に威圧的にそびえ立っている。

 ああ、研究室の静寂が恋しい……。


 受付で名前を告げると、すぐに奥へと通された。

 長い廊下を歩きながら、すれ違う神官や役人たちの表情も一様に硬く、ひそひそと交わされる会話の端々から「聖水」「変色」「セイナ様」「民衆の不安」といった単語が漏れ聞こえてくる。

 セイナ様ご自身は、今、どうされているのだろうか。

 あの気丈そうに見えた彼女も、さすがにこの状況では……まあ、僕が心配することでもないか。

 僕の仕事は、あくまで科学的な見地から、あの黄色い液体の正体を突き止めることだけだ。


 やがて、重厚な扉の前にたどり着いた。

 「次官執務室」と記されたプレートが、やけに冷たく光っている。


 僕は一つ深呼吸をし、肉まんの油で少し汚れた白衣の襟を正した。

 ここから先は、僕の知らない世界だ。


 扉の向こうで、一体何が待ち受けているのだろうか。

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