第2章:研究室の朝
昨日の大混乱が嘘のように、王立医科学院の僕の研究室は、いつも通りの静寂と、僕にとっては心地よい試薬の匂いに満ちていた。
雑然としながらも機能的に配置された試験管やフラスコ、そこかしこに散らばる数式が殴り書きされた羊皮紙の山。
うん、これぞ僕の城、僕の聖域。
「ふむ……この粘性と沈殿物は、やはり興味深い……」
僕は分厚い眼鏡の奥の目を輝かせ、愛用の顕微鏡を覗き込んでいた。
レンズの向こうには、先日採取してきた「奇跡の泉」の水のサンプルが、神秘的な微粒子をきらめかせている。
「おーい、ケイ! いるかー?」
背後から、やけに陽気な声が響いた。
振り返るまでもない、同僚のレオ・シュトラウスだ。
僕とは対照的に、社交的で朝からテンションが高い男。
手にはほかほかの肉まんが二つ。
一つは僕のだろう。
こういう気遣いだけは、本当にありがたい。
「おはよう。それより、この前の『奇跡の泉』の水だけどね、どうも既知の鉱物とは異なる、非常に特異な結晶構造を持つ有機化合物が含まれている可能性が高い。これがもし、聖水の微量成分と関連性を見出し、その作用機序を解明できれば……もっと多くの人を……いや、今はまだ仮説の段階だ。更なる精密な分析が必要だな」
僕は顕微鏡から顔を上げずに早口でまくし立てる。
レオは大きなため息をつくと、僕の実験机の数少ない空きスペースに肉まんを置き、大げさに肩をすくめた。
「はいはい、液体博士のいつもの発作ね。それも大事だろうけど、今はもっと国家的な一大事が起きてるんだぞ! あのセイナ様の聖水が、昨日、とんでもないことになったって、もっぱらの噂だ!」
レオが興奮気味に語る昨日の儀式の惨状は、僕もその場にいたので(不本意ながら)よく知っている。
黄金色、いや、もっと下品な黄色い液体。
あの光景は、僕の科学者としての倫理観と美的感覚を著しく刺激した。
刺激というか、冒涜だ。
「ああ、あの『液体X』のことなら知っている。原因はまだ不明だが、憶測で騒ぎ立てるのは感心しないな。必要なのは冷静な分析と客観的なデータだ」
「お前なあ……そんな冷静ぶってられるの、この国広しといえど、お前くらいのもんだぞ? これを見ろよ!」
レオが僕の目の前に、バンッと絵入り記事の紙片を叩きつけるように広げた。
発行元は、ゴシップ専門で悪名高い『真実の泉』。
そこには、昨日の中央広場の様子が、これでもかと誇張された筆致で描かれていた。
黄金色の液体を前に呆然と立ち尽くすセイナ様の姿(かなり悪意のあるデフォルメが加えられている)、そして、おどろおどろしい文字で書かれた見出し。
『聖女失格!? 聖水、黄金の尿と化す!? 国民騒然、王国の危機!』
僕は、その「尿」という、およそ科学的とは言い難い、そして何より下品極まりない単語を見て、思わず顔をしかめ、分厚い眼鏡をぐいっと押し上げた。
「…………低俗だ。科学的根拠も提示せずに、このような扇情的な憶測を垂れ流すとは。聖女様に対する冒涜であり、何より真実の探求を妨げる愚行だ。許しがたい」
僕の声には、自分でも驚くほど冷たい怒りがこもっていた。
僕の机の隅には、亡き母の小さな肖像画と、古びた小瓶がそっと置かれている。
かつて、幼い僕の命を繋ぎとめた、透明で清らかな聖水が入っていたとされる小瓶だ。
あの時の記憶と、目の前の記事は、あまりにもかけ離れていた。
レオは僕の剣幕に少し驚いたようだったが、すぐにいつもの調子を取り戻した。
「まあまあ、落ち着けって。でも、民衆はこういうのが好きなんだよ。で、だ。この記事によるとだな、既に聖浄省内部でも大騒ぎで、原因究明のために極秘の調査チームが結成されるとかされないとか……」
その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が研究室の扉に響いた。
僕とレオが顔を見合わせる。
こんな早朝に誰だろうか。
「失礼いたします」
入ってきたのは、聖浄省の正式な紋章をつけた、いかにもお堅そうな使者だった。
彼は僕を一瞥すると、感情の読めない声で告げた。
「レイン・ケイト様でいらっしゃいますね。緊急の要件です。聖浄省次官、バートランド侯爵がお呼びです。直ちにご足労願いたい、とのこと」
バートランド次官……?
あの聖浄省のナンバー2が、僕に何の用だ?
僕の背筋に、嫌な汗が一筋流れた。黄金色の液体の悪夢が、どうやら僕の平穏な研究生活を、否応なく侵食し始めたらしい。
肉まんの湯気だけが、やけにのんびりと立ち上っていた。