第1章:黄金色の…えっと、聖水?
「まったく、これだから人混みというやつは……!」
僕、レイン・ケイトは、王都中央広場をぎっしりと埋め尽くす人いきれの中で、思わず眉をひそめた。
今日はお祭り騒ぎが許される聖水奉納の儀式だというのに、僕の気分はまるで飽和食塩水のようにどんよりと沈んでいる。
いや、正確には僕の科学者魂が、周囲の熱狂とは裏腹に冷静な観察モードに入ってしまっているだけなのだが。
今日は、我らがアクアティア王国の至宝、聖女セイナ様が、民衆に直接聖水を渡していただける、年に一度のありがたーい日。
当然、広場は「セイナ様を一目!」「聖水の奇跡を我が手にも!」と願う人々でごった返している。
色鮮やかな旗が風にはためき、楽団の奏でる音楽は高らかに鳴り響き、遠くに見える壮麗な王城は、まるでこの日のために建てられたかのように堂々としている。
そんな喧騒の中、僕はといえば、王立医科学院の研究員席という、若干場違いな場所にちょこんと座っている。
手元のメモ帳には「民衆の平均体温上昇率」や「聖女様登場時の音圧レベル」などと、どうでもいいデータを書き留めていた。
聖水研究室に所属する以上、聖水関連の行事は最重要観察対象だ。
たとえそれが、僕の苦手な社交の場であっても、だ。
それに、僕自身、かつて聖水によって命を拾った経験がある。
あの時の、得体の知れない、しかし確かに僕を癒した液体の正体を突き止めたいという欲求は、科学者としての僕を突き動かす大きな力なのだ。
やがて、割れんばかりの拍手と歓声が、僕の分析を中断させた。
「セイナ様ー!」
「聖女様、万歳!」
祭壇に、純白と水色の、清らかという言葉を具現化したような衣装をまとったセイナ様が姿を現す。
陽光を浴びてキラキラと輝くプラチナブロンドの髪、慈愛に満ちたアクアマリンの瞳。
彼女が軽く手を振るだけで、民衆はまるで条件反射のように熱狂の渦に巻き込まれる。
うーん、パブロフの犬もかくや、という感じだ。いや、不敬か。
儀式は厳かに進行し、セイナ様の清らかな祈りの声が広場に響き渡った。
そして、いよいよ聖水が配られる時が来た。
祭壇の下には、あらかじめ用意された無数の小さな白く輝く瓶が並べられている。
中には、もちろん、透明で神秘的な輝きを放つ「聖水」が満たされているはずだ。
セイナ様自らが、それを民衆一人一人に手渡していくのだ。
僕も、研究資料として一つ拝領すべく列に並んでいた。
順番が来て、セイナ様から直接、小さな瓶を手渡された。
その瞬間、彼女と目が合った。
ほんの一瞬だったが、その涼やかな瞳の奥に、何か言い知れぬ疲労のようなものが見えた気がしたのは、僕の気のせいだろうか。
「ありがたき幸せ……!」と、僕の次に瓶を受け取った老婆が感涙にむせんでいる。
僕も、とりあえず神妙な顔つきで自分の席に戻る。
後で研究室で精密な成分分析を……。
その時だった。
「なっ……なんだこれは!?」
最初に異変に気づいたのは、僕の数メートル先で、興奮気味に聖水の瓶の中を確認していた商人風の男だった。
彼の甲高い声に、周囲の視線が一斉に集まる。
男は、わなわなと震える指で、自分が持っている聖水の瓶を指さした。
「こ、この聖水……黄色いぞ!」
黄色い?
馬鹿な、聖水は常に寸分の濁りもない透明な液体のはずだ。
僕も慌てて自分の瓶を改めて確認する。
瓶の中身は、濁った黄色の液体で満たされていた。
そんな馬鹿な!
聖女様の聖水がこんなに黄色いわけがない!
これでは、まるで……。
商人風の男の叫びを皮切りに、広場のあちこちから、同様の悲鳴とどよめきが上がり始める。
「こっちの瓶もだ!」
「私のも!」
「なんだか濁ってる……?」
ある者は瓶を落とし、ある者は顔面蒼白になり、ある者は天を仰いで何かを叫んでいる。
僕のすぐ隣にいた、さっきまで感涙にむせんでいた老婆も、自分の瓶の中の液体を見て、今度は別の意味で腰を抜かしそうになっていた。
「こ、こんな……こんなの聖水じゃないわい! まるで……まるで……!」
老婆が言いかけた言葉を、僕は聞きたくなかった。
しかし、それは既に、広場全体の共通認識になりつつあった。
誰かが、恐怖と嫌悪に満ちた声で、その禁断の単語を口にした。
「…………もしかして…………これって……………………おしっこ、じゃねえの?」
その一言は、まるで乾いた草原に投げ込まれた松明のように、一瞬にして広場全体をパニックの炎で包み込んだ。
「おしっこだと!?」
「聖女様が我々におしっこを!?」
「そんな馬鹿な!」
祭壇上のセイナ様は、目の前で起こっている惨状に、ただ立ち尽くすしかなかった。
彼女の顔からは血の気が失せ、完璧な美貌は恐怖と絶望に歪んでいた。
神官たちは右往左往するばかりで、全く役に立っていない。
僕は、といえば、あまりの事態に思考がショート寸前だった。
聖女様の聖水がおしっこ?
そんな非科学的な! ありえない!
しかし、この目で見た黄色い液体は、確かに人々の心に最悪の連想を植え付けるには十分すぎる色と濁りを持っていた。
祝福と歓喜に満ちていたはずの広場は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図へと変わってしまった。
こうして、僕、レイン・ケイトの科学者としてのプライドと、過去の恩義と、そしてほんの少しの好奇心がない混ぜになった前途多難な調査が、幕を開けたのだった。