誘拐 2
「おいっ! あれは何だ!?」
見張りは驚きを隠せない様子で、屋根の上を指差して仲間を呼んだ。
(もう見つかった……!)
アシュレイは俄かに身体を強張らせたが、男のほうは不遜にも、にやり、と口元を吊り上げた。
にやりと不遜に笑った。かと思えば、再び窓から跳び出した時のような浮遊感に襲われる。
いつの間にか商店の外れに迫っていたようで、張り出した布張りの屋根の上を、つるりと滑って着地する。
すればそこに待っていたのは、一頭の裸馬だった。
鞍もない馬の上にアシュレイを放り上げると、男は見事な身体能力を発揮して、軽々と乗り上げる。
「行け!」
男が短く命じると、馬は従順に走り出した。
(ちょっ……とぉ!?)
逃亡を手引きするのに、ならず者を利用する。
王族を輿に乗せるように優雅に行かないのは解っていたが、馬がこんなに跳ねるとは!
「んん~~っ!!」
布の下から、くぐもった悲鳴が上がる。
「悲鳴が聞こえたぞ、あれは、何だ!?」
「蹄の音だ。馬に乗っているのか!?」
声に呼応するように、宿周辺にざわめきが広まった。
一角に灯りが増え、街路の一部がぼんやりと明るくなる。
「暴れるな。俺に身体を預けろ。スピードを上げるぞ」
男は馬の横腹を蹴り上げる。
蹄の音が響き渡るや、アシュレイの身体はぐい、と後方へ傾斜した。
腕を縛られているので、手で何かに縋ることもできない。
なす術なく、男の胸にべったりと背中をつける。
それでも馬の、後ろ脚の躍動で尻が浮かんだ。
そこへ男が、腹に回した腕を引きつけて、半ば男の膝に座るような体勢になる。
(ひぇ~、近い! でも、だいぶ楽、かも……)
走る馬には、べったり腰を下ろさないらしい。
男は膝立ちのような姿勢で巧みに馬を操る。
しかも、アシュレイを支えながら。
どんな運動神経をしてるんだろう。
「王女がいないらしい! 武器を持て!!」
「おい、こっちだ! 早くしろ!」
騒ぎは瞬く間に宿を取り囲むように広がった。
王女の不在は予想よりも早く露見した。
アシュレイは攫われる身だが、救出されたら困る。
「追ってきたわよ、振り切って!」
縛られている手首を使って、口元の布を引き下ろす。
男の拘束をすっかり信頼して、胸に背を張り付けたまま、真上に向かって叫んだ。
男の目が、一瞬だけ落とされた。
「急かさずとも、あんなのろま共になど捕まるものか」
男はふん、と鼻で笑う。
「街の外は土ぼこりが酷い。目と口を閉じろ」
ぐっと手綱を握り直すと、その直後に、馬が大きく嘶いて更に速度を増した。
甲高い蹄の音が、土を叩く音へと変化する。内臓がせり上がる感覚と風圧に、息を呑んだ。
輿に乗っている時には気付かなかった。漠漠とした砂地のなんと広いことか!
日本人の矢野千春だった頃には営内(駐屯地)でさえ広いと感じていたのに、その比ではない。
(うわぁ……)
だが次の瞬間、慌てて目と口を閉ざした。
舞った土ぼこりが、口に入ったからだ。
目に染みるし、喉はいがらっぽい。
「んんっ!」
咳払いをして、必死に耐える。
咳き込んでしまえば、振動で舌を噛みかねない。
言わんこっちゃない。と言わんばかりに、男はふ、と鼻で笑った。
こちらを見もしないで、感じが悪い……。
と思わないでもないが、先に忠告を受けていたのだから、笑われても仕方がない。
草地の少ない土原を通り抜けるまで、アシュレイはひたすらに耐えるしかなかった。