誘拐 1
アシュレイは首の代わりに目で頷いて見せた。
男は口端を吊り上げて笑い、アシュレイの首に白刃を突き付けると襤褸切れを口元に落とす。
「頭の後ろで縛れ」
(随分な念の入れようね……)
アシュレイの拘束に両手を使っては、その間に抵抗される想定なのか。
訝しむ気持ちで男をねめつけつつ、刃が皮膚に当たらぬようゆっくりと体を起こす。
男は刃を突き付けたまま、アシュレイに合わせて上体を上げる。
起き上がると被っていたフードがずれて、金色の光が夜闇に浮かんだ。
アシュレイは思わず、息を呑む。
黄金色は男の瞳の色だった。
落ちた影が瞳を縁取る睫毛の豊かさを物語っている。
その下には金色をした猫のように優美な瞳がある。
だが、瞳には獰猛な獣の光が宿っており、アシュレイは魅入られ、同時に慄いた。
(何て鋭い瞳。まるでライオンみたい……)
目を逸らせない。
ベッドについた指先が震え始め、ドキドキと心臓が動悸を早めた。胸が苦しくなるような沈黙だ。
「早くしろ」
男のほうが焦れて、目を襤褸切れに落とすと、やっと、アシュレイも呼吸を再開した。
息を呑んだついでに、止めてしまったらしい。
ふーっと息を吐き、覚悟を決めて自らの口を布で覆った。
自分の行動なので、それなりの加減が可能なのは有難い。
アシュレイが布を巻き終えるや否や、男は目にも止まらぬ手捌きで、アシュレイの手首を拘束した。
「……っ!」
そこまでしなくても。そう思っても、もう声が出せない。
流れる動作でアシュレイの胴を攫うと、窓の外へひらりと身を投げ出した。
全身を浮遊感が包む。
なのにほとんど恐怖を感じないのは、動作の全てが安定しているからだ。
胴に回された腕は筋骨隆々として、寸分も緩まない。
引き寄せられて、背が密着した胸板からも、鍛え上げられた体躯が伝わる。
男は侵入に使ったであろうロープをするすると伝い降り、直下に置いてあった樽の影に身を隠した。
宿の周囲には等間隔の見張りが立つはずだった。
だが、村長の振る舞い酒の影響か、その間隔はまばらになっている。
アシュレイから見える松明の灯りは2つ。
使用していたのが角部屋だったので、直ぐ背後の向こう側には、まだ複数いるかもしれない。
夜の闇は未だ深い。樽の影にいる限りは、見咎められることもあるまい。
しかし、ずっとここに留まっていればいずれは見つかる。
どうするつもりなのかと、アシュレイは気を揉んだ。
抵抗する気など、微塵もない。
アシュレイが自らの依頼で、アシュレイ自身を誘拐させている。
対価は母から譲り受けた金の櫛だった。
母が嫁入り道具として持参した貴重なものだと聞いている。
母セディナだけはアシュレイを宝玉のように愛し、慈しんでくれた。
だからアシュレイは前世も今世も含めて、たった一人の母を大切に想う気持ちが強かった。
大好きな母からもらった大切な宝だったから、アシュレイは全力で隠し通していた。
キューベルルに知られれば、何やかやと理由をつけて巻き上げられていただろう。
そんな形見だ。惜しくなかったわけではないが、アシュレイには他に対価として差し出せるものがなかった。
あんな形で非業の死を遂げた母だ。きっと逃亡に賛成してくれる。
アシュレイは今日限りで、王女の運めから逃げ出す。
ただし、最低限度、セレンティアに害のない形で。
だから「逃亡」ではなく「誘拐」を偽装する。
それも、国境を越えた相手の国内でなら、セレンティアが責任を追及される恐れもない。
――それが、アシュレイの描いた筋書きだった。
残念だったのは、その後の当てが全くの白紙となった点だ。
先ほどまでは手元にある装飾具を処分すれば当座の路銀になると考えていた。
が、予想を上回る本格的な誘拐に、持ち出せなくなった。
抱いていた懐剣もベッドの上に置き去りだ。
この身一つとなって、大変な痛手だが、商人と連絡を密に取れば事前に策が漏れていただろう。
事前の打ち合わせは不可能だった。
この場から逃れられるだけでも、良しとしなければ。
(きっとアラウァリアは必死になって、花嫁誘拐を隠そうとする。罪悪感からセレンティアにも下手に出るはず)
これで、王女としての最低限の責務は果たした。
身に受けた仕打ちを思えば、むしろお釣りがくるくらいだ。
多少癪ではあるが、ここで因果を清算して、アシュレイは新しい人生を歩み出す。
道すがらで職を求め、どうにかして食糧を得よう。
無謀ではあるが、幸いアシュレイには前世の記憶がある。
まるきりの丸腰ではない。
男はじっと見張りを注視する。
猫のような金色の目は、闇夜でも良く見えているのだろうか。
周囲の光景には何も変化がない。
その中で一つ、男は大きく息を吸うと、跳躍するように樽の影から飛び出した。
アシュレイを抱いているとは思えないほどの膂力だ。取り落とされるやもとの憂慮は一切抱かない。
「……っ」
振り回される重力には肝を冷やしたが、声を出さないだけの理性はあった。
男はもう目的地を定めて、脇目も振らず一直線に駆ける。
抱えられたアシュレイだけは、見張りの方向を向いていた。
男は助走をたっぷりつけると、向かいの家の壁を蹴り上げて、更に高く飛ぶ。
危なげなく着地すると、今度はその反動を利用して跳躍し、隣の屋根を前進した。
男にとっての障害物は障害にならないらしい。
しかし、影の動きか、物音か。
見張りの一人がアシュレイたちを振り仰ぎ、松明を掲げる。